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博士論文要旨

論文題目:抗戦前中国におけるジャーナリズムの研究 ―新聞論調分析から見る政治意識の変遷と世論―
著者:齋藤 俊博 (SAITO, Toshihiro)
博士号取得年月日:2011年7月29日

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研究課題
 本論文は「抗戦前中国におけるジャーナリズムの研究――新聞論調分析から見る政治意識の変遷と世論」と題し、1930年代初期の中国を対象に、主要新聞の論調分析を通じて政治と世論との関係について考察したものである。
 中国における新聞メディアは1920年代以後、ニュース報道への意識の高まりや商業的展開の必要から大衆性を高めていった。それとともに政府と対立的な論調を展開することも多くなり、各新聞は当局から停刊や閉鎖などの処分を受けることも増えていった。従来、政治運動の一翼を直接的に担う存在であった新聞メディアは、政治や社会への視点を多様化させ、大衆と政治をつなぐ存在としての役割を担うようになっていった。本論文では、新たなメディア環境が出現しつつあった北平、天津、上海、南京などの都市で、一定の部数をあげていた主要新聞(『世界日報』、『北平晨報』、『華北日報』、『大公報』、『益世報』、『申報』、『中央日報』)を史料とし、満洲事変(九一八)後の約1年半の期間における政治と世論の動向について分析している。
 具体的な検討内容として、1932年4月の国難会議、同年5月以後に展開された内戦廃止運動、そして同年12月の国民党四期三中全会をとりあげる。これまで国難会議と内戦廃止運動とは、いずれも「失敗」とみなされることで歴史的な評価も低くとらえられてきた。総じて九一八直後の中国政治の動向や抗日運動の展開は、これまで大きな意義を見出されておらず、結果として抗日に端を発した憲政運動も軽視されてきたと言わざるを得ない。一方で四期三中全会の決議による憲政施行へ至るロードマップの提示は、憲政運動による結果であったとも語られており、やや矛盾した形で説明されてきたと言える。そして1933年以後、中央集権体制が強化され、九一八後の民主化要求とは反対の方向に政治が進むこととなっても、知識人などの多くが賛同していったことに対しては、知識人個人の思想変遷に関心が向けられる一方で、世論との関係は問われてこなかった。本論文はこうした着眼のもと、国難会議や内戦廃止運動が「失敗」に至る過程とそれに付随した議論、また四期三中全会にまつわる世論の動向などを論じ、九一八後の憲政運動の過程とその帰結、政治改革と「国難」との関連、加えて世論からの政治への眼差しの変化などについての解明を試みた。
 1920年代以後の中国における新聞メディアの特徴は、それ以前にように一部の知識人を主対象にした発行物にとどまらず、社会一般に開かれ、受け手との相互作用によって世論形成に資することを自らに課していた点にある。世論という概念の重要性は、中国において新聞学の体系化がなされた1920年頃以後、新聞経営の論理から社会運動の成否に至るまで幅広く認識されていった。特に民間紙においては世論との結合に使命を見出し、その上で社会的な事象を論じるという姿勢が体得されつつあった。他方で国難会議や内戦廃止運動の過程においては、いかに世論を喚起するかも盛んに論じられた。政治に相対し、社会運動を展開する上で、世論を味方につけることの重要性を語る観点は、政治運営が何に基づいておこなわれるべきかという問題意識を掘り起こすこととなり、一党専制体制に対する疑念として表面化することは避けられなかった。こうした論調の高まりと衰退の両方が、九一八時期の世論の特徴となったと考えられる。

各章の概要
 本論文は3部構成をとっている。第Ⅰ部は「北平『世界日報』に見る抗日意識の諸相」と題し、第1章から第3章まで北平『世界日報』に焦点を絞った分析をおこなっている。『世界日報』に注目するのは、この時代の新聞のうち大衆性の獲得に最も積極的なものの1つであったことによる。第Ⅱ部は「新聞論調から見る九一八時期の政治の展開」と題し、第4章から第7章まで、主要都市で発行されていた複数の新聞を材料に、国難会議、内戦廃止運動、国民党四期三中全会という1932年の3つのトピックを取り上げている。第Ⅲ部は「1930年代初期の新聞学と世論」と題し、第8章において1920年代から1930年代初期の新聞学における世論をめぐる議論を通して、新聞と世論とがいかなる関係にあると論じられてきたのかについて考察している。各章の概要は以下の通りである。
 第1章では『世界日報』紙上にあらわれた社会認識の諸相を分析し、九一八直後における抗日を求める諸運動が、どのような課題を抱えながら進行したのかについて論じている。『世界日報』掲載の抗日論は、政策においては外交、経済、教育に大別され、それらは自国の近代性の遅れを認識し、抗戦勝利のための国力増進を求める点で一致していた。しかし一方で抗日運動をめぐる諸状況の報告には、地域間、社会階層間、また国家観の違いなどに起因する大衆内の溝が如実に反映されていたことも看過できない。それらは統一的で持続的な抗日運動の遂行に対して阻害要因として機能するものであった。この時期の『世界日報』は、読者本位の紙面構成を目指す一環として投稿掲載という手段を積極的に採用し、抗日に関する様々な意見を掲載して、世論形成への大衆参加を盛んに呼びかけていた。紙面には自らを大衆の一員と自任する投稿者たちによる大衆批判も多く存在し、社会に潜む多様な分断的諸相が俎上にあげられていた。
 第2章では『世界日報』に掲載された抗日論の内実について論じている。抗日論と一口に言ってもその内容は多様であり、抗日体制確立への課題の多さが反映されていた。抗日論は内容によって、抗日行動の発動を優先するものと国内統一を優先するものに大別され、前者はさらに即時抗戦論と非戦闘的闘争論に、後者は和平統一後抗戦論と安内攘外論とに分けられた。しかし、いずれの抗日論も明確な勝算や見通しには乏しく、決定的な影響力を持ち得ない中で、比較的鮮明な対立軸を作り出したのは共産党の認否というテーマであった。それは抗日運動がやや沈静化したあとに起こった内戦廃止運動の過程で浮かび上がり、剿共(共産党討伐)への支持の広がりをてこにして、安内攘外論への共感に結びつくこととなった。
 第3章では日貨ボイコットに関する意見やレポートから、日貨ボイコット運動が抱えた課題がいかに認識されていたかについて考察している。日貨ボイコットは大衆の感情の発露として、唯一自主的におこない得る運動であった。これは過去にも幾度となく経験済みであり、いわば馴染みの方法であったが、効果が実感し難く、運動の意義を社会に広く認知させることが容易ではないという困難もあった。また教育の未普及や大衆生活の困窮状態など、運動の障害となる複数の要因も指摘された。実際に日貨ボイコットをおこなう上では、日貨と国貨を区別することの難しさや、商人の協力が必ずしも得られないこと、また港湾で輸入貨物をチェックしても品物が闇に流れてしまうことなどの問題点もあげられた。さらに日貨を排除し得たとしても、脆弱な国産体制によって十分な商品を賄うことは困難であり、その場合は物価が高騰し、生活が立ち行かなくなるとも言われ、国内の工業力不足も盛んに論じられた。『世界日報』紙上には、具体的な問題点を指摘した投稿が数多くあり、少なくとも新聞読者の間では、日貨ボイコット運動の積極的な意義が認識されていた様子がうかがわれた。しかし運動が新聞読者以外の層に広がりを持つことは容易ではなく、結果的に社会全体における世論形成の困難が浮かび上がってくることとなった。
 第4章では国難会議の成立過程を整理し、国難会議の意義について考察している。国難会議は九一八の勃発を受けた政治対応の1つであったが、1931年末から1932年初頭になされた国民党内の勢力争いの影響を受け、紆余曲折を経たあとにようやく準備がおこなわれた。孫科政権時に召集され、内政改革を強く主張した会員会と、実際の運営を担った汪蒋合作政権との対立により、結果的に会員会が出席拒否という選択をしたことで、会議の実効性は大きく削がれることとなった。しかし一方で、その過程では政治制度改革に対する党外知識人らの要求が顕在化するという側面もあった。政権側はあくまで政治制度改革要求そのものが党派性に基づくものであると位置付けようとしたが、会員会の出席拒否という結論には、国難に直面した強い危機意識が存在した。また内政改革を志向しながらも、あえて出席することを選んだ一部の会員には、政治的な立場を越えた議論を志向し、何らかの積極的な解決策を見出そうとする努力も見られた。その1人が陶希聖であり、国難会議での国民代表会開催という決議には陶の功績が大きかったと言える。
 ただ、政治的に無力な国民代表会設置構想は、内実としては訓政短縮要求に対する明確な拒否表明であったと言わざるを得なかった。そのことにより政治改革要求の熱は一気に失われていった。加えて国難会議そのものに法的強制力がなく、国民代表会の実現に疑問符が投げかけられたことも、政府への期待をしぼませる結果を招いた。そうした懸念の通り国民代表会の1932年10月までの開催は実現せず、継続審議扱いとなって、12月の四期三中全会における国民参政会決議につながっていった。しかし、国民参政会の開催にも強い期待感が生じることはなく、現実的に訓政短縮の実現が遠のく中で、即時憲政施行を主張していた知識人などの多くが、一党専制の同意に傾いていく流れが作られていった。九一八時期の憲政要求の目的は抗日体制の確立にあり、憲政はあくまで手段として構想されたものであったが、訓政短縮が実現しなかったことにより、逆に訓政強化による抗日体制確立が現実味を帯びる結果となったのである。
 第5章では、国難会議開催に際してたたかわされた各新聞の議論について分析している。国難会議そのものは結局、体制を変革するものとはならなかったが、一方でその過程では新聞各紙が多様な論点を提示し、互いの論調を批評し合うなどして、1930年代初期のメディア環境の充実を示すこととなった。民間紙は総じて会員会の主張に同意的で、即時憲政施行に一定の意義を見出すものが主流であった。それに対し、国民党機関紙の主張は対立していたが、それでも紙面を通じて議論しあう土壌は形成されており、一定の言論の自由も享受されていた。中国の新聞事業は1920年代以後、商業的な展開を不可避なものとして課されており、読者の嗜好をくみ取ったり紙面を工夫したり、報道を充実させるなどの変化を見せていた。その延長線上に政治批評の充実も位置付けられ、政権との距離感も各紙の性格をあらわす指標として機能していった。しかし、かかる言論活動の影響力は、新聞読者という、社会全体から見れば小さなコミュニティを越えて広がるまでには至らず、識字率の低迷という現実の前で、メディアの影響力の限界も露呈されていくこととなった。
 第6章では国難会議後に展開した内戦廃止運動について検討している。抗日という命題を前にしながら内戦が勃発するという状況は、一般大衆から見ても矛盾したものであった。内戦廃止運動は上海の経済人が中心となって始められたが、その展開過程においては大衆への世論喚起が最重要であると論じられていた。しかし民間紙の論調は共産党討伐に対する賛否で二分され、地方軍閥間の抗争には大義を認めることがなくても、国策として提示された剿共戦に対しては一定の支持が集まっていった。訓政短縮の拒否に加え、共産党討伐の強い意思が示されたことで、世論の訓政信任の流れはより加速されることとなった。一方で政治制度改革の進展を果たせなかった民間紙は、結果として内戦の廃止も実現できずに失望感を深め、言論活動の限界や知識人の認識不足、また大衆への不満などが語られるようになった。
 第7章では1932年末に開催された国民党四期三中全会に至る過程と、会議をめぐる各紙の議論について考察している。内戦廃止運動後の各紙の紙面は、約1年前の九一八直後における抗日気運の盛り上がりからは想像もつかないほど静かなものとなり、政治改革への熱は失われていった。かかる環境の中で政府は剿共戦に躍起となり、剿共の完遂を理由に四期三中全会の開催は延期をくり返した。抗日体制を整備し得るのは国民党しかないという現実的な判断は、剿共の決着を願い、その後の国家建設が早期に開始されることを望む心理につながっていった。大衆の政治参加という熱は冷め、国民党政治に対する依頼心が増幅したタイミングで開催されたのが四期三中全会であった。
 四期三中全会は剿共勝利を掲げて開催に至り、議事は混乱もなく進行した。もはや新聞論調は性急な制度改革を求めず、過去の抗日対策決議の履行や、党内の結束を重視するものが中心となっていた。その結果、四期三中全会は総じて一定の評価を受けることとなり、この会議で決議された国民参政会や国民大会開催案に厳しい目を向けた『益世報』だけが、全体から突出する構図が生み出されていった。国民参政会構想も政治的には無力なものであり、国民大会開催も当初から定められていた訓政計画の予定通りであった。つまり、2年以上あとのスケジュールが示されたに過ぎなかったが、その内実を厳しく指弾し、反発を見せたのは『益世報』だけであった。そこには羅隆基の思想が大きく影響していたと言える。国難会議前に熱を帯びた政治改革の議論が再び喚起されることはなく、世論の大勢は国民党の政策を淡々と受容すると同時に、訓政の強化を志向するように変化していった。
 1932年という1年は、政治改革への世論の高まりとその沈静化という点で、前半期と後半期では対照的な展開を見せている。九一八直後の抗日運動は国難会議を契機とした憲政運動を経て、最終的に訓政強化による中央集権体制確立への期待に収束していった。こうした経過の底流には国力不足の認識に端を発する抗日体制の整備を急ぐ要求があり、憲政から訓政への回帰はそのための現実的判断という側面があった。一方で、国民党統治の基本方針として謳われていた訓政から憲政へ至るロードマップは、当面の蒋介石独裁を受容する保障としての役割を果たすこととなった。国民代表会(国民参政会)という民意機関構想は、憲政施行への段階的な方策という外形を保ちつつ、内実としては所定の訓政期間を短縮せずに貫徹するための手段であった。憲政運動の「成果」と理解されてきた「過渡的な民意機関」構想は、訓政短縮の可能性を消滅させ、過渡的な訓政体制への同意を誘発していったのである。
 第8章では「真正の世論」という言説をキーワードに、新聞紙上の議論と新聞学の論考を材料にして、この時期の世論観と「真正」という価値を問う論理について考察している。1920年頃から体系化された中国の新聞学は、当初から世論の「代表」や「創造」という役目を新聞の主要任務ととらえ、世論と新聞を切り離せない関係にあるものと位置付けてきた。新聞学においては、新聞の公共性と商業性の相関関係が論じられ、そのバランスの上に「真正の世論」が存在し得ると考えられていた。一方で党機関紙が訴える「真正の世論」は、国民政府への協力が目的化され、国難の逼迫状況によって論理を正当化していた。また「真正」という語彙に着目すれば、「真正の憲政」という理屈を喧伝することで、訓政を貫徹することの重要性が強調されており、国民政府の統治論理においても「真正」と「非」真正を識別する発想は見られた。民間紙も総じて、すべての世論を承認していたわけではなく、公共性の高い意見を「真正の世論」と論じる傾向があり、内容は異なるものの、世論を識別する発想において官民は共通していたと言える。これらはメディア側のエリート性が露出されたものと言え、大衆世論との連携を困難なものにしていった。

結論
 本論文は九一八後のメディアと政治との連関を論じることで、1930年代初期の憲政運動の帰結と、蒋介石独裁が承認されていく世論の展開について考察するものであった。ここから見えてきたものは国難と訓政体制とが二重に立ちはだかる中で民主化を進めることの困難と、憲政移行に向かうロードマップの提示により、「過渡的な蒋支配」がかえって受容されていった経過である。この背景には新聞メディアの世論形成の困難と、訓政施行の統治論理が備えていた一定の説得力があった。1932年の政治過程にはそれらが明瞭に反映されており、訓政短縮の可能性が徐々に減少していく中で、体制改革よりも政策の地道な実現に期待が高まる趨勢となってあらわれた。政策遂行への期待は国難状況とも密接につながり、抗日体制の理想像は、党機関紙が進める「健全な世論」としての国家と社会の一体化に求められていくこととなった。
 低迷する識字率の克服には教育の整備が欠かせず、国家体制の安定と発展は抗日準備に資するだけでなく、新聞事業の拡大にも不可欠な条件であった。しかし九一八後に選択された訓政の強化は、1933年以後の言論活動が統制されていく要因ともなり、新聞事業を制限させる負の影響もともなった。大衆性の獲得を課されていた新聞が、大衆性に依拠しない訓政体制を承認していったことにその原因があったが、迅速な抗日体制確立を優先する判断を前に、時限的な体制と位置付けられた訓政の機能に期待が集まるのは避けられなかった。
 本論文は、これまで必ずしも十分に検討されてこなかった国民党政治と世論、またメディアとの結びつきを論じ、九一八後の中国で憲政運動が起こされる一方で、訓政強化と言える集権体制の確立論に同意が集まっていく過程を明らかにした。また国難会議や内戦廃止運動、国民党四期三中全会といった、九一八後の政治過程に大きな影響を与えた事象を掘り起こした。九一八を契機にした国難の逼迫状況は、1930年代初期の中国におけるメディアと政治の課題を浮き彫りにし、早急な国民国家形成を強いた。その中で即時憲政移行という世論にうねりを作り出せなかった新聞メディアは、政治に統制される地位へと自らを送り込む結果を招いていった。1933年以後は国家体制が整備されるとともに言論への弾圧は格段に増し、政策への反論は命を賭しておこなわれなければならなくなっていくのである。

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