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博士論文要旨

論文題目:自然の探究から自己の探究へ:  環境倫理学の役割とリベラルな環境保護
著者:熊坂 元大 (KUMASAKA, Motohiro)
博士号取得年月日:2011年3月23日

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1. 本論文の目的と意義

 本論文はその副題が示すように,大きく二つに分けられる。第1部に相当する1章と2章は,環境倫理学の位置付けと課題を明らかにすることを目的として執筆された。

 環境倫理学は,哲学史のなかでは新興の分野であるが,それでもすでに30年以上の歴史を持つ。それにも関わらず,環境倫理学はその定義すら論者によって異なり,その課題が何であるかについては,一致を見ていない。これは環境倫理学の発展にとって,決して好ましいことではない。学派ごとの立場や基本的な主張に相違があるのは当然だが,議論の土台となる枠組みが定まらないままでは,議論が生産的なものになることは難しい。環境プラグマティズムを中心に,従来の環境倫理学が自然の内在的価値のような形而上学的テーマに専念してきたことを,環境倫理学の非生産性の原因とする考えがあるが,しかし本論文はこの考えに同調しない。というのもこの見解はあまりにプラグマティックであり,環境倫理学諸派を全てプラグマティズムへと包摂しようとするのでなければ,中立性を欠くためである。環境倫理学が現状から抜け出し議論全体の底上げを行うためには,この学問領域の中立的な定義が必要とされる。同様の理由から,環境倫理学の中心的論点の一つである人間中心主義と非人間中心主義の論争に言及しつつもそれを判定するのではなく,両者の議論をあくまでも分析的に検討することに努めた。

 環境問題のような現実の問題の道徳的側面を議論するにあたり,環境倫理学を定義するという形式的作業はさほど重要なものではないように思われるかもしれない。しかし実際に環境倫理学に関する誤解は,理論的にも実践的にも,私たちの環境問題に対する取り組みを考えるうえで妨げとなっており,二つの章を割いて検討するに値する論点となる。また2章では3章以降の議論を明晰なものとするために,環境倫理学の基本的な概念のうち,自然,環境,そして人間中心主義の概念を検討した。こうした基礎的な概念整理は,環境倫理学の文献のなかでは比較的疎かにされてきたものである。幾つかの文献は,こうした作業に取り組んでいるが,環境倫理学の定義などは,自らの主張に惹きつけたものが多い。たとえば環境倫理学を「人間の自然との道徳的関わりを検討する学問」とする定義を目に
することがあるが,これは明らかに非人間中心主義を前提としており,中立的なものとは言い難い。それゆえ,本論文における概念整理は,単に後の章の議論の準備作業に留まるものではなく,環境倫理学研究にとって意義あるものだと信じる。

 第2部に相当する3章以降では,環境倫理学の議論が自然の性質の探究ばかりではなく,自己の内面にも目を向けることの可能性と必要性を論じる。ここでの議論は,自然の多様な価値の分析を経て,リベラリズムの枠内で環境保護に取り組むことの困難を明らかにし,コミュニタリアン的な自己理解と世界観が環境倫理学と環境保護運動に寄与するものであることを示すものである。

 自然の価値の分析には多くの先行研究があるが,その多くはこれを道具的価値と内在的価値とに分け,前者を人間中心主義に,後者を非人間中心主義に結びつけて論じるものである。しかしこの道具的価値も内在的価値も更なる分析が可能である。とりわけ内在的価値は,固有の価値と客観的価値という異質な,あるいは議論のレベルの異なる価値概念と混同されている。価値概念にまつわる混乱を整理することで,自然が私たちにもたらす恩恵の多様性が明らかにされ,同時にまた自然と人間の関係も単純な人間中心主義と非人間中心主義の区分では捉えがたいことが明らかになる。その際に鍵となるのが,固有の価値概念である。次に問題となるのは,私たちの自己理解および社会についての表象が,そうした多様な価値を私たちの道徳的地図において適切に位置付けることが可能であるかということである。私たちは,未だ多くの問題点を抱えているとはいえ,ひとまずはリベラルと形容してよい社会に暮らしており,またそうでない国や地域もリベラルな社会を営むべきであるという考えを共有している。極端な復古主義者や宗教的原理主義者でない限り,この考えに同意しないことは考えにくい。なぜならリベラルな社会とは,私たちの多様な価値観を許容し,個人が自由に充実した生を営むことが可能な社会だからである。この多様性は,「正の善に対する優越」という言葉に表されるように,他者に危害を加えない限り,各人は自らが望む善の追求を許される

 この点を明らかにしていくなかで,私たちは自然の固有の価値が私たちの自己理解とも深く結びついていること,そしてそのような自然の価値は,私たちの良き生に資するものであり,かつ他の価値と交換不可能であることから,特殊な道具的価値と呼ぶべきものであることに気がつく。しかしこうした価値を,私たちの道徳的地図のなかに適切に位置付けるうえで,コミュニタリアンが批判するようなリベラリズム,すなわち個人を原子のような存在と見なし,社会はそうした個人が利益を得るために任意に構成しまた離脱できると
考えるようなリベラリズムでは,克服しがたい困難を抱えていることが議論を通じて明らかになる。リベラリズムは極めて幅の広い概念であり,一口にリベラリズムといっても,その立場にはさまざまなものがあるが,そのなかでもとりわけ原理的な一派であるリバタリアニズムを論じることで,問題点を浮き彫りにする。リベラリズムでは,権利論的枠組みでも功利主義的枠組みでも,多様な価値や善を位置付けたり順序づけたりすることに理論上の問題を抱えており,この問題の修正が求められる。この修正とは,自己の存在に対する私たちの理解の変化を通じて達成されるが,私たちの自己理解は一度の修正によって定められる揺らぎのないものではなく,繰り返し修正されるものである。こうした不安定さの存在を前提とした議論が,環境倫理学において今後求められる。また自己理解との関連から,自然の目的論を取り上げ,目的論に対する批判と再批判を検討した。

2. 各章の要約

1章:環境倫理学の課題と限界

 環境問題に関する倫理学の研究は,倫理学外部から大きな期待を寄せられる一方で,現実的解決能力の乏しさが批判されもする。しかしこの批判は,倫理学が人びとを道徳化することで現実の問題解決に寄与するべきであるのに,それを成し遂げていないということを前提としている。この前提の後半部分はその通りであるが,前半は倫理学に対する謝った認識に由来している。倫理学は,道徳に関する概念と理論を探究する学問であり,人びとを道徳的実践へと導く道徳教育の役割を担うものではない。道徳教育は教育および教育学の課題の一つであり,倫理学はこの課題にはあくまで間接的に関与するのである。本来であれば,これは倫理学に携わる者にとって自明の事柄であるはずだが,環境問題は応用倫理学が対象とする他の問題と比べて特殊な性質を持つがゆえに,倫理学研究者達自身の間にも混乱が見られる。このことは,医療倫理学との対比のなかではっきりする。たとえば人工中絶のような問題は,その是非を巡って議論が成立するが,環境問題の場合,環境保護の是非を巡って同様の議論が行われることはない。実践の上で様々な問題に行き当たるにせよ,環境保護それ自体に道徳的に反対する陣営は損じ亜しないのである。こうした環境問題の性質と倫理学の役割を明らかにし,環境倫理学が何を引き受け,何を引き受けないのかを,他の学問領域と応用倫理学一般の関係,そして自然を対象とする他の応用倫理学の諸分野との役割分担を論じるなかで,明らかにすることが本章の狙いである。

2章:環境倫理学の位置づけと基本概念

 環境問題は学際的取り組みの対象であり,人文科学と社会科学,自然科学といった従来の枠組みではとらえきれない問題として認識されている。環境問題に関連する諸分野の総称を環境学とした場合,倫理学がそのなかでどのような役割を担うのかを,筆者の問題意識を明らかにしながら規定していく。日本の近年の研究のなかでは,松野弘がこの問題について積極的に取り組んでいるが,彼の環境倫理学の規定には,倫理学研究者からすると腑に落ちない点もある。松野の学問体系の整理は,社会科学の分野を専門とする彼の問題意識から成されたものであり,倫理学研究者の問題意識とズレがあるのはやむを得ない。しかし環境倫理学を価値論としてのみ認識する姿勢は,松野に限らず多くの研究者にも見られる点であり,この点は批判的に検討される必要がある。本論文のなかでも,環境倫理学を価値論としてばかりではなく,存在論として論じることの意義が,後の章で改めて浮かび上がることになるだろう。ただし,環境倫理学の本格的な議論に入る前に,私たちは幾つかの重要な概念について,立場を明確にしておくことが必要である。そこで本章では,自然と環境という概念についての検討を行った。というのも自然や環境とう概念は極めて多義的であり,その中からどの意味を用いるのかについて自覚的でなければ,たやすくすれ違いや繰り返しを生んでしまうからである。また環境倫理学の分野では,人間中心主義と非人間中心主義という区分は根本的なものであり,たとえこの区分に批判的であっても,言及することは避けて通れない性質のものである。しかし人間中心主義という場合にも,実は三つの軸が交差しており,どの軸にそって人間中心主義または非人間中心主義をとるのかについて整理しておくことが,生産的な議論のためには望ましい。軸の一つは,存在論的なものであり,本論文はこれに関して非人間中心主義の立場をとる。二つ目は,道徳共同体に関するものであり,これについては,本論文は立場を保留し,人間中心主義と非人間中心主義の論争には深く立ち入らない。三つ目の軸は,価値評価の主体に関するものであり,本論文は人間中心主義を採用する。

3章:道具的価値,内在的価値,固有の価値

 自然の価値は大きく道具的価値と内在的価値に分類される。本章では,両者をさらに分類していく。道具的価値に関して,とりわけ重要なのはニーズ的価値と感性的価値および文化的価値である。あらゆる生物は,環境に働きかけるなかでニーズを満たし,生存および種の存続のために格闘する。人間も例外ではなく,ニーズ的価値の存在は異論の余地がない。しかし過去の歴史を振り返れば,自然の持つニーズ的価値が明白であるにも関わらず,
人びとは自然を破壊し,自らの社会を危機に陥れてきた。すなわちニーズ的価値に人びとの関心を向けるだけでは,社会が環境と調和したものとなることが約束されるわけではない。また自然は私たちの生存基盤となるだけではなく,さまざまな悦びをもたらす源泉でもある。これを自然の感性的価値として本論では位置付けたが,こうした価値を高く評価する自然愛好家達の姿勢は,非人間中心主義に親和的であると見なされることが多い。しかしそうした人びとの著作を検討してみると,そこでは自然は陶冶のための道具として扱われていることに気がつく。私たちが自然に深く没入することは,同時に自然を通して自らと向き合うことでもある。この時,自然の価値は,普遍的なものとして位置付けることは湖南であるが,しかし私たちのアイデンティティに関わるものとして極めて重要な役割を果たすことがある。また自然は国家や民族の美点や理想の象徴とされることもある。この時,自然は私たちの集団的アイデンティティに関わるものとなる。

 道具的価値の分類が,多様な価値をその性質に応じて分類したのに対し,内在的価値の整理は,むしろ価値概念の階層性の違いに応じたものと言える。内在的価値はしばしば三つの異なる水準の価値概念を混ぜ合わせたものとして扱われる。その一つ目は,(本来の)内在的価値であり,これは「対象が外部の評価者の個人的経験に依拠せずに,それ自身で持っている非道具的な道徳的価値」であり,カントの「君自身の人格ならびに他のすべての人の人格に例外なく存するところの人間性を,いつでもまたいかなる場合にも同時に目的として使用し決して単なる手段として使用してはならない」という記述に,その本質が集約されている。それに対して固有の価値は,「外部の評価者が自らの経験または観察にもとづき,対象をその有用性からというよりも,それ自身のために価値が与えられるがゆえに持っている特殊な道具的価値」であり,美の享受や他者との交際がその代表例である。自然の美,そして自然との交わりは固有の価値を持ち,友人との交際が他の楽しみと置き換えられるものではないように,自然との交わりも,他の娯楽や利便性によって置き換えることのできないものである。三つ目は,客観的価値であり,これはさらに強い客観的価値と弱い客観的価値とに分類できる。自然に主体による評価から独立した価値があるならば,それは環境保護の強力な根拠となるだろうが,しかし本論文の立場かはらこのような価値を認めることはできない。

4章:環境倫理学とリベラリズム

 3章で見たように,自然の価値には様々なものがある。しかし多様な価値は,どのようにして道徳の体系において位置づけられるのだろうか。実のところ,環境倫理学の議論の多
くは,自然保護の道徳的根拠づけに取り組むものであり,自然保護という善が他の諸善との関係で,どのように位置づけるのかという問題は,中心的なテーマではなかった。しかし1章の議論で示したように,環境保護が善であることは基本的に認められている。問題は,環境保護と他の善とが衝突した時に,それを調停するための土台なのである。そしてリベラルな社会において,この土台を固めることは理論上の困難を抱えている。多様な善に対する中立性を基本原理とするリベラリズムが,環境保護のように社会的な,そしてその構成員に半ば強制的に参加を求める活動は,どのように正当されるのか。この問題を論じるために,本章ではリベラリズムの問題点を明らかにするために,権利論の観点からはリバタリアニズムを,そして経済合理性の観点からは費用便益分析の手法をそれぞれ批判的に検討する。リバタリアニズムはその過激な主張ゆえに,社会民主主義的ないわゆる「リベラル」な立場と対立することが多い。しかしリバタリアニズムはリベラリズムの個人主義や「善に対する正の優越」という原理を共有しており,むしろ社会民主主義的な立場よりも,基本原理に忠実であるとも言える。また社会を利益追求のために組織されたアソシエーションとして捉える点も,両者には共通しており,リバタリアニズムはやはりリベラリズムの一派であり,前者に見られる問題点をリベラリズムの理論は含んでいる。そして善に対する中立性とアソシエーションとしての社会という二つの想定に,私たちが環境問題という,累積的な環境負荷によって生じる環境問題という現象に対応することを困難にしている。
また善に対する中立という姿勢は,費用便益分析のような経済的手法と親和性が高いが,しかし私たちが環境保護のような公共政策に関わる判断を下すとき,その都度の行為や判断がどのような目的のもとに行われているのかということが問われ,その際の判断基準は伝統や文化,思想・信条などによって構成される。費用便益分析はこの種の基準を引き受けることはできない。しかし環境保護のためには,中立性を踏み越えた目標設定が求められるのであり,事実,人びとの間で人気の高い環境保護に関連する法律は,経済的合理性によってではなく,その道徳性によって支持されているのである。

5章:自然の探究から内面の探究へ

 4章でリベラリズムの問題点を指摘したが,私たちはリベラリズムを捨てることはできない。コミュニタリアニズムはリベラリズムを批判するが,コミュニタリアンもまた前近代への回帰を求めているわけではなく,あくまでもリベラリズムの修正を試みているのである。リベラリズムを原理的に解釈すれば,手続き的正義が他のあらゆる善に優越すること
になるが,その場合,経済活動の自由の制限は困難であり,また現実の社会はそのようには運営されていない。それゆえに手続き的正義以外の環境保護のような諸善を,個人の趣味の問題としてではなく,共同体にとっての共通善として位置付けることが求められる。その際に有効な議論の枠組みを,チャールズ・テイラーの存在論は提示している。彼の存在論において重要なのは,私たちの自己認識が対話へと開かれており,環境保護のような問題への同意や反対を,主観的なもので私的領域に属するものとしてではなく,公的な領域に含めるための枠組みを提供している点であり,これは哲学的議論としてのみならず,社会理論としても,現実社会のあり方をより的確に捉えている。環境倫理学は,自然の性質の探究に専念する傾向にあったが,自然の探究を通じて主体の内面へと探究を深めていくことによってこそ,私たちにとって自然の持つ意味と自然保護を社会哲学的に議論する基礎を据えることができる。

また自然保護を考えるうえで,自然の目的論は有力な議論の一つと見なされている。私たちは自然を目的論的に捉えることが自然科学の成果と一致しないことを知りながら,それでもなお自然を目的論的に捉えることを止めずにいる。これは自然の目的論が,私たちの自己理解と分かちがたく結びついているためである。私たちが環境保護を論じる上で,自己の存在論を考慮することの必要性を,本章の前半は論じたが,後半部分では,ドイツにおける自然の目的論に対する批判と再批判を検討し,目的論が持つ意味を論じた。

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