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博士論文要旨

論文題目:教師の生活誌と近代教育―東ドイツ地域における転換期のライフヒストリー―
著者:木下 江美 (KINOSHITA, Emi)
博士号取得年月日:2010年11月30日

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 本論文は、1970年代半ば以降今日までつづく、長期にわたる東ドイツ地域の転換期を舞台に、教師や教育研究者のライフヒストリーを検討し、これを事例として近代教育批判について考察したものである。
 近代にはいってひろく成立した近代教育は、世界各地のさまざまな人間形成の営みを平準化し、ある人間観のもとに教育空間と関係を制度化していった。けれども、近代教育は、制度化がはじまった当初から、つねに改革と批判にさらされつづけ、今日にいたっている。これは、近代教育の萌芽期を論じた研究や、制度化の過程でこぼれおちる教育実践や集団への関心、比較研究によってさまざまに指摘されてきた。
 近代教育制度は、今日では教育の国際標準化の流れのもとにさらなる拡大をみせるが、そこには依然として抵抗やほころびがみられる。これは、ある時代のヨーロッパの一地域に生まれた近代教育とその制度が、社会-史的に限定的な思想や構造をもっていることに起因する。そのため、この状況を理解するには、近代教育をささえる論理である教育思想とその展開を、社会-史的に独自の課題を反映したものとして検討することが求められる。このとき、近代教育を制度化し展開させようとする人びとではなく、実践者としてそこにかかわる人びとに接近することにより、近代教育の抱える問題にせまることができる。そのため、本論文では、制度化された近代教育を職業として担う教師や教育研究者の思想を検討する。
 教育思想を人の育ちにかんする構想とそれを実現するための実践ととらえると、教師も著名な思想家と同様、教育思想史研究の対象となる。いわば「小文字」の教育思想をもつ教師を思想史研究の中心にすえると、社会-史的に支配的であり、制度を席巻する「大文字」の教育思想はとらえかえされる。本論文では、「小文字」と「大文字」の教育思想のかかわりあいを読みとき、そこに立ちあらわれる「生きられた教育思想」を動的に描くことにより、近代教育による避けがたい要請を示す。
 教師たちは思想家のように著述を多く残してきてはいないため、本論文においては教育思想史研究の史資料と舞台設定を再考した。このときに注目されるのが、転換期という舞台であり、そこを生きる教師の生活誌をもちいたライフヒストリー研究である。
 転換期とは、それまでの生きかたや育てかたという、人間形成、ひいては教育にかかわるイメージと算段が無用のものとなってしまう時期である。そのため教師たちは、試行錯誤のもとに、それまでの生きかた・育てかたのイメージを組みかえることを必至とされる。生活誌には、その試行錯誤のプロセスが、語る時点での生きかたに照らされて描かれる。この生活誌を個人史と社会史との関係のなかで理解しようとするのが、ライフヒストリー研究である。教師の生活史を、教師による人生の解釈枠組みに照らされた生活誌として取りだすことができるのは、ドイツで展開してきたナラティヴ・インタビューの方法である。語り手の発話に介入することを極限まで減らすインタビューの手法によって、語り手の生活誌が語り手自身の解釈枠組みのもとに示される。この解釈枠組みに教師の教育思想が形成される鍵をみいだす。
 こうした転換期の事例として、本論文ではドイツ民主共和国(DDR)と統一後ドイツにおける新連邦州に着目した。この国家・地域は、1945年以降に、異なる原理にもとづくふたつの近代教育制度を体験してきた。機会均等を基盤にすえた統一学校を擁するDDRの学校制度から、ギムナジウムをはじめ人文主義的で分岐型の中等教育制度を擁する近代ドイツ教育史に典型的な連邦共和国(BRD)の学校制度へという変化のもとで、この地域を生きる教師たちはどのような生きかたや育てかたを模索したのだろうか。先行研究では、DDR教育史ないし1989・90年の「転換」以降の教育改革に関心が寄せられ、「転換」の前後に明確な時期区分をほどこした制度研究・理論研究がおこなわれてきた。本論文ではこれにたいし、「転換」という一回性の変化としてではなく、とりわけ1970年代半ば以降、体制批判勢力の登場やBRDメディア視聴によってゆるやかにはじまり、今日なおつづく長期にわたる転換期としてこの地域の変化をとらえる。この転換期においては、いくども繰りかえされる生きかたや育ちをめぐる試行錯誤のありようが問われる。また、生活誌をもちいた先行研究では、教師の専門職性の獲得過程に関心が寄せられ、そのため「転換」以後の変化のもとで、ある目標をめざすすがたが描かれるにとどまった。本論文では、教師たちの生活や教育実践への取りくみをDDR時代からつづく長期にわたる転換期のもとで理解し、具体的な体験や克服のありように関心を寄せた。このことによって、教師たちの「転換」への予感や今日までつづく克服のプロセスが、統一ドイツの教育改革にたいするオルタナティヴをもちえたこと、近代教育のありかたへの再考をうながすものであったことを示すこととした。
 
 こうした課題にせまるため、本論文の前半を構成する第1章から第3章では、DDR・東ドイツ地域の教育学および教育制度、教員制度の展開を検討した。これは、「大文字」の教育思想の展開を、「生きられた教育思想」の源泉として描いてゆくものである。
 第1章ではまず、「DDR教育」とよばれたものが19世紀初頭以降1945年までのドイツ近代教育史にみられた思想から知的陶冶の概念を受容していたこと、1945年以降は個人と国家との関係を社会主義国家としてのDDRにかなったかたちで構想していたことを指摘した。そのため、第2次世界大戦後の非ナチ化の過程では、改革教育運動ではなく、ソヴィェト連邦で展開する教育学に、新しい教育理論が求められた。とはいっても、とりわけ改革教育運動の掲げた教育理念や実践は、DDRにおける教育政策にとって好ましくないものとされたいっぽうで、教育研究や日常の教育実践においては、さまざまなかたちで参照されていた。
 つづく第2章では、敗戦から1970年代前半までの教育政策・制度の変容を概観し、そのうえで、先行研究の検討が弱い1970年代半ばから「転換」にいたる時期の教育政策・制度の展開を、社会史的な展開とのかかわりのうえに考察した。ここから、さらに、「転換」にともなう教育改革とその今日的展開を論じた。これによって、統一学校制度と総合技術教育という観点から理解されてきたDDRの教育制度が、学校と学校外の諸組織とのかかわりのもと、陶冶と訓育を総合的に追求していたことを示した。このとき、学校内外の教育活動が、DDRという国家とのかかわりで組織されることとなるが、DDR社会にあった政治的な閉鎖性と大きくかかわっていたため、1970年代後半以降、一方では体制批判勢力が支持を集め、他方では政治的な無関心が生まれることとなったのである。このうえに1989年秋からの民主化要求運動が隆盛するが、「転換」を契機とする教育改革では、運動の要求が結実したわけではない。1990年代をつうじて東ドイツ地域には独自の教育をめぐる問題や要求があり、これは今日まで大きくは省みられてはいない。
 第3章では、DDRの教員養成制度や教師継続教育制度の展開を検討し、つづけて、教育研究者や教師をとりまく職業と生活の状況を検討した。当然のごとく、DDRにおける教師は、先にみてきたような「DDR教育」の制度的な担い手として養成され、職能を高める機会もあたえられたが、これらにたいしては「転換」後、大幅な組みかえや再教育が求められることとなったのである。
 
 後半の作業では、「小文字」の教育思想の歴史として、個別のライフヒストリーを検討したうえで、いくつかの観点に照らしてDDR・東ドイツ地域の転換期の「生きられた教育思想」浮かびあげた。この作業をつうじて、論文の前半で検討した「大文字」の歴史たる「DDR教育」が問いなおされる。
 まず、第4章でふたりの教育研究者と3人の教師へのナラティヴ・インタビュー、あるいは自分史作品を読みとき、必要に応じて同時代的セルフ・ドキュメントを検討した。ここからそれぞれの語り手がもつ人生への解釈枠組みを取りだし、転換期を生きる教師の生きかたや教育実践にかかわる試行錯誤のありようを描いた。5人の語り手は、筆者がインタビューをおこなった16人の教師・教育研究者のなかでも、DDRにおける教師継続教育の機会をふんだんに活用していたことに特徴がある。そのため、転換期に無用のものとなってしまう技能や価値観をどのように組みかえてゆくのかが、近代教育制度とのかかわりのうえでもっとも鮮明に現れる人物であるといえる。
 第5章では、教育研究者や教師のライフヒストリーを横断的に検討し、DDR・東ドイツ地域における「転換」への予感と、そこにあった期待が裏切られ、頓挫してゆく状況を考察した。
 「転換」を牽引することとなる変化への予感は、さまざまな契機をもって、とりわけ1930年代生まれの教師たちによって語られている。社会主義の、あるいは社会主義統一党(SED)レジームのイデオロギー伝達という拘束性によってDDRの教育制度が「ゆきづまっている」、「本来あるべきようには機能していない」ことに教育研究者や教師たちが気づいたのは、早ければ1960年代末、決定的となるのは1980年代半ばのことであった。そして、これらの違和感は、語り手自らのライフコースや日々の実践をつうじて生まれてきたものであった。生徒たちの変化、教育政策担当者からの要求と、自分の実践・学校の状況とがかみあわないことが明確になったのである。
 この時期、語り手たちは、同僚や友人とともに、DDR社会や学校を民主的な方向へと打開するため、さまざまに議論していたと回想する。ここでは、ドイツ統一やBRD型の教育制度、また旅行の自由化などが望まれていたわけではない。「より民主的な社会主義」、「DDRをよくする」といった目標のもと、彼ら・彼女らは、日常的に話しあいと試行錯誤をつづけたという。
 「転換」がおこり、突如ドイツ統一を希求する動きが盛りあがった。これは、筆者がインタビューをした教師たちにとって、変化への「予感」が、まったく予期していなかった方向に転回した時期となった。統一ドイツのもとでは、「DDRをよくする」ことは当然のこと、「より民主的な社会主義」も実現されえないのである。教育制度には、なじみのない分岐型の中等学校が導入され、クラブ活動や青少年組織はなくなった。このとき、1980年代半ばから構想してきた新しい教育は、破綻し、頓挫した。けれども、教師たちは、DDR時代に身につけた職能や実践のイメージを組みかえながら、やはり変化する生徒や社会にむきあいつづけたのである。学校での職を失った教師は、これを外側から眺めることとなったが、新たな職業にかかわる際にも、DDR時代につくりあげてきた考えかたや社会へのまなざしは、連続性のもとに理解されている。学校に残ることのできた教師は、思うような実践ができなくなることに苦悩する。制度化された教育へのかかわりの連続性と、ある教育観のもとにおこなわれる実践の連続性とは、別のものである。
 本論文で取りあげた教師たちは、今日の学校や教育問題をDDR時代の学校との対比でとらえ、批判している。これは、今日の学校改革の論議において、DDRの学校制度が参照先として省みられないことへの不満でもある。
 
 このようにライフヒストリーをとらえると、1980年代の教師たちが共有していた「転換」への予感が戦後BRDや統一ドイツの教育改革へのヒントをたずさえていたことに気づく。そして、「転換」が教師たちの予感をこえ、BRDとの関係から突如もたらされた大規模で唐突なものであったことが、ありえたかもしれないオルタナティヴをなきものにした。
 今日まで転換期がつづいているからこそ、回顧的な方法としてのナラティヴ・インタビューそして転換期のライフヒストリーにより、今日までつづく混迷の起点・源泉としての1980年代の私的な試みを浮かびあげることが可能になった。さまざまな時点に立脚するインタビューや同時代的史料から、教師たちが直面する生きかたや教育の課題にたいする克服のプロセス、試行錯誤のプロセスが示されるのである。
 近代教育という観点に照らしてライフヒストリーによる「生きられた教育思想」をもういちど検討するならば、教師たちが具体的な実践や教育政策・制度を批判的にとらえてはいたものの、その存在を疑うことはせず、あくまで制度内部の変革を求めていたことを指摘できる。ここには、DDRの教育制度がもっていた機会均等という原則が、語り手自身の人生にとっても重要なものであったという理由がある。DDRの教育制度も、みてきたように近代教育制度であった。ここで求められていた知的陶冶にもとづく「よい」人間像は、「よりよさ」、そして高みをめざす努力によって獲得されるべきものであった。とくに、これは訓育の領域においても同様に求められていた態度であった。DDRの教育制度においては、「よさ」を追求する前提に、機会均等の理念がつよく位置づけられていたが、統一後ドイツの教育制度においてはその原則は限定的にしか保障されていなかった。教育研究者や教師たちは、機会均等や平等といった価値や原則が保障されたうえで「よりよさ」をめざしていたのである。
 こうした検討をさらに深めてゆくには、教育思想と社会思想とのかかわりを考察すること、そして教育思想が息づくさまざまな教育空間を重層的・横断的にとらえる比較研究が求められているといえる。

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