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博士論文要旨

論文題目:イギリスのニューライト―新自由主義と新保守主義―
著者:二宮 元 (NINOMIYA, Gen)
博士号取得年月日:2010年11月30日

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 本論文では、ニューライトと呼ばれる思想と運動に焦点を当てながら、第二次大戦後のイギリス保守政治の展開を歴史的に検討した。多くのニューライト研究が指摘するように、ニューライトは必ずしも単一的な勢力ではなく、新自由主義と新保守主義というやや性格を異にする潮流からなるものとしてとらえられなければならない。新自由主義の中心的理念が、自由市場、個人の選択、制限された政府であるとすれば、新保守主義のそれは、共同体、権威、規律である。こうした二つの潮流から強い影響を受けて展開されたのが、1980年代のサッチャー政権の政治にほかならなかった。新自由主義と新保守主義の潮流が、戦後のイギリスでいかにして形成され、またサッチャー政権の政治に流れ込むことによってイギリス政治にどのようなインパクトを与えることになったのか、これらの点を明らかにすることが本論文の課題である。

問題関心の所在
 こうした課題設定は、つぎのような二つの問題関心にもとづいている。第一の問題は、新自由主義改革のなかで現代国家はどのような変容を遂げたのかという問題である。80年代にイギリス、アメリカで開始された新自由主義改革は、その後途上国や旧社会主義諸国にまで広がり、世界的な規模での資本主義の性格転換をもたらす大きな流れとなった。先進諸国では、20世紀前半の二つの大戦をへて、19世紀に確立した自由主義的な近代国家とは違った構造をもつ介入主義的な現代国家が形成されたが、新自由主義改革のなかで改革の対象とされたのは、そうした現代国家の構造そのものであった。むろん、新自由主義改革が現代国家をどう変えたのかという問題に関しては、評価が分かれている。福祉国家研究者を中心に、改革は福祉国家の基本構造をそれほど大きく変えなかったという評価がある一方で、ワークフェア国家、支援国家、競争国家といった概念を用いながら従来とは違う新しい国家が形成されているとする議論もある。本論文では、こうした議論状況を念頭に置きながら、サッチャーの新自由主義改革のもとで、イギリスの現代国家がどのように再編されたのかを検討した。
 第二の問題は、なぜ新自由主義と並んで新保守主義が登場するのかという問題である。サッチャー政権は、80年代当時は「ニューライトの政権」と呼ばれることが多かった。これは、サッチャーが自由市場を主張する新自由主義者であると同時に、家族や道徳を重視する新保守主義者でもあるという二つの顔をもっていたからである。アメリカのレーガンも同様である。しかし、彼らがそうした二面性をもったのはなぜなのかという点については、あまり十分な説明がなされてこなかったと思われる。最近では、渡辺治やデヴィッド・ハーヴェイらによって、新保守主義は、新自由主義改革によってもたらされる社会の分裂・解体にたいする一つの対応である、という把握がなされている。これは、新自由主義改革のなかで新保守主義が台頭するという状況を説明するうえでは非常に説得的な議論である。しかしながら、イギリスでは、新保守主義の潮流は、明らかに新自由主義改革が開始されるよりも以前の60年代に登場しており、渡辺やハーヴェイの議論もこの点を説明するには決して十分であるとは言えないのである。

各章の内容
 第一章では、第二次大戦後から70年代までのイギリス政治の展開を規定することになったコンセンサス政治について検討した。この章の目的は、戦後コンセンサス政治のもとで形成されたイギリスの現代国家の構造を明らかにすることである。
 戦後のイギリスでは、保守・労働の二大政党のあいだで広範な政治課題についてのコンセンサスが成立した。筆者が特に注目したのは、コンセンサス政治のなかで二つの改革が実行されたことである。一つは、戦後初期に実行された福祉国家的な諸改革である。42年のベバリッジ報告や44年の『雇用政策』白書など、戦後福祉国家の骨格となる構想は、第二次大戦中の戦時連立政権のもとで準備されたものであったが、いずれも、総力戦体制にたいして国民的な同意を調達する必要性に駆られたものであった。こうした改革構想は、45年に国民的な期待を背負って誕生した労働党政権のもとで次つぎと実行されていった。保守党は、当初福祉国家建設にたいして曖昧で消極的な姿勢をとっていたが、野党に転落するなかで、福祉国家の基本的枠組みを国民統合の実現にとって不可欠の前提として受け入れるようになった。こうして成立したのが福祉国家的コンセンサスであり、本章では、これが、①広範な社会保障制度の整備、②ケインズ主義的な完全雇用政策、③混合経済、④労働組合への宥和策という四つの柱からなっていたことを明らかにした。
 こうした福祉国家的な諸改革が行なわれるなかで、経済活動全般にたいする国家の介入主義は大幅に強化・拡大されることになった。すなわち、国民の社会経済生活の安定と向上がはかられるなかで、自由市場の諸活動にたいする国家の規制が強化されることになったのである。
 筆者が注目したもう一つの改革は、50年代後半から60年代までの時期に実行された、社会の寛容化を目的とした諸改革である。たとえば、わいせつ出版物規制の緩和や同性愛の合法化、中絶規制の緩和、死刑廃止といった改革がこれにあたる。これらの改革は、上述の福祉国家的諸改革とは対照的に、市民社会の諸活動にたいする国家の道徳的・社会的規制を緩和・縮小する方向性をもっていた。戦後福祉国家によって安定した国民統合が実現したことを受けて、市民の自由と私的自治の拡大がはかられたのである。こうした改革の後押しを受けて、60年代のイギリスでは寛容な社会が現出することになった。
 また本章では、以上のような二つの改革の担い手についても検討した。二つの改革が実行されるに当たって、中心的な役割を果たしたのが労働党内の修正主義社民派と保守党内の進歩的保守派であった。本論文の主題との関係で特に重要なのは、戦後の保守党に進歩的保守主義とでも呼べる潮流が形成され、しかも党内の主流的勢力となるに至ったことである。進歩的保守派は、ディズレイリ以来の「一つの国民」的保守主義に立脚して、国民統合のための社会改良策が保守主義の理念と何ら矛盾するものではないことを強調し、保守党を戦後福祉国家に順応させることに成功したのである。彼らは、寛容化の諸改革についても概ね積極的な姿勢で臨んだ。
 第二章では、60年代に登場してきた新自由主義と新保守主義の二つの潮流を検討した。新自由主義と新保守主義は、戦後コンセンサス政治のもとで形成された現代国家の統治構造にたいする批判であるという点で共通した性格をもっていた。ただし、それぞれの批判の内容は異なっていた。新自由主義が現代国家の介入主義的側面を批判したのにたいして、新保守主義が批判の対象としたのは、戦後社会の寛容化であった。
 まず、新自由主義の潮流を登場させる直接の契機となったのは、60年代に押し進められたコーポラティズム化であった。60年代に入る頃からイギリスでは、他の先進諸国と比べた経済成長の遅れが指摘されるようになっていた。このいわゆる経済の相対的衰退の問題にたいする打開策として、60年代に追求されたのがコーポラティズムにもとづく経済計画化戦略であった。これは、国家主導の経済計画化によってイギリス経済の近代化と効率化を達成しようとする試みであり、明らかに現代国家の介入主義をより強化するものであった。しかも、注目すべきことに、進歩的保守派に率いられた保守党政権が率先してそうした介入主義の強化を提唱し実行したのである。
 そうした進歩的保守派の路線を批判して、新自由主義的な議論を展開したのがイノック・パウエルであった。パウエルは、もともと進歩的保守派に属する政治家であったが、60年代に入って転向し、現代国家の介入主義をほぼ全面的に否定するようになったのである。そこで彼が展開した議論は、自由経済と社会主義の二律背反性を強調し、経済計画化の不可能性を主張するハイエク流の議論であり、国家介入にたいする自由市場の優位性を主張するものであった。しかし、後の議論との関係で言えば、パウエルの新自由主義には、明らかに早熟的とも言える側面があった。彼は、インフレの原因を公共支出の拡大に求めて、その削減を主張したが、他方では、福祉国家的支出の削減には消極的であった。福祉国家が国民統合に果たす役割を一定程度評価していたからである。また、歴史的な文脈から言えば、60年代にはイギリスの経済衰退問題はまだそれほど深刻化してはおらず、パウエルの新自由主義は必ずしも切迫した経済的危機感に裏打ちされたものではなかった。
 他方、ニューライトのもう一つの潮流である新保守主義を台頭させたのは、戦後の社会秩序の解体にたいする強い危機感があった。寛容な社会として括られる60年代の社会変化は、進歩的保守派にとっては概ね肯定され歓迎されるべき変化であったが、新保守派にとっては伝統的な社会秩序の危機を意味するものに他ならなかった。とりわけ、新保守派は、60年代に入って表面化し始めた犯罪の増加や若者の反抗、移民の増加といった問題を社会崩壊の兆候として受け止めて、危機感をつのらせたのである。この時期に台頭したいくつかの宗教的な道徳改革運動は、明らかにそうした新保守派の危機感の高まりを示すものであった。そこでは、キリスト教的道徳の復興を求める立場から、若者のあいだでの性道徳の乱れが特に問題視され、メディアにおけるわいせつ表現や進歩的な性教育を糾弾する運動が活発に展開された。
 さらに移民問題も、新保守派が重視した問題であった。戦後のイギリスでは、保守党と労働党のコンセンサスのもとで比較的に寛大な移民政策が採用され、英連邦諸国からの移民には自由な入国の権利が認められていた。その結果、黒人移民が着実に増加していた。新保守派は、そうした移民の流入をイギリス社会の文化的一体性を脅かす撹乱要因ととらえて問題視したのである。そうした新保守派の反移民感情を代弁したのも、上述のパウエルであった。パウエルは、イギリス社会の秩序の解体を食い止めるためには新しいナショナリズムが必要であると考え、その観点から移民排斥的な主張を展開して圧倒的とも言える人気を博したのである。
 パウエルは、新自由主義者と新保守主義者の二つの顔をあわせもった最初の政治家であった。パウエルは、保守党内に確かな基盤をもっておらず、そのため政治的な成功をおさめることはできなかったが、それにもかかわらず、彼の主張は保守党内で着実に影響力を増していった。とりわけ、労働党政権のコーポラティズム戦略の行きづまりが明らかになるなかで、保守党の進歩的保守派の指導部は、それにかわる独自の政策構想として新自由主義的な諸政策を多く取り入れるようになっていった。しかし、この段階での新自由主義の採用には大きな限界があった。当時の保守党の指導部は、依然として進歩的保守派によって占められていたからである。
 第三章では、70年代前半の保守党ヒース政権が、当初は新自由主義的な方向性をもった諸政策の実行を企図しながらも、中途で挫折と後退を余儀なくされた経緯について考察し、そのなかからサッチャー主義が台頭してきたことを明らかにした。70年に誕生したヒース政権は、競争主義路線を掲げて60年代のコーポラティズム戦略から決別する方針を打ち出した。これは、国家の経済介入ではなく自由市場の競争圧力に依拠することで、産業の近代化と効率化を押し進めようとするものであり、明らかに新自由主義的な性格をもった政策路線であった。
 しかし、結論的に言えば、ヒース政権は、イギリスにおける新自由主義改革の本格的な開始を告げるものとはならなかった。重要な点は、ヒースをはじめとする当時の進歩的保守派の指導部が、コンセンサス政治のもとで形成された戦後の国民統合構造を大きく崩すような改革をめざしてはいなかったことである。そのため、改革が、大量失業をもたらし、労働組合からの強い反発を呼び起こすことが明らかになるや否や、ヒース政権は改革を断念し、従来のコーポラティズム的な介入路線へと「Uターン」することになったのである。結局、ヒース政権は、73年のオイル・ショックの余波を受けたエネルギー不足のなかで、炭鉱労働者と衝突して倒壊することになった。
 ヒース政権の崩壊後、野に下った保守党のなかで台頭したのが、サッチャー派の勢力であった。従来の進歩的保守主義の潮流を継承するウェット派が、国民統合の重要性を再確認して、戦後コンセンサス政治の基本的枠組みをあらためて擁護する姿勢を示したのにたいして、サッチャー派は、コンセンサス政治を大胆に批判する主張を展開した。サッチャー派が最も激しい批判を向けたのは、現代国家の介入主義的諸活動であった。彼らによれば、国家活動の肥大化とその結果としての公共支出の膨張こそが、イギリス経済の衰退を引き起こしている最大の元凶にほかならなかった。公共支出の膨張は、まず企業や個人に過重な税負担を強いるとともに、通貨供給量を増大させてインフレを引き起こし、経済環境の全般的な悪化と不安定化をもたらしているというのである。そうした観点から、サッチャー派は、国家介入を縮小し、公共支出を削減する大胆な改革の必要性を訴えた。また、サッチャー派は、福祉国家の手厚い保障が人びとから自立心と責任感を失わせることによって、社会の道徳的退廃をもたらしている、という新保守主義的な言説を展開して、福祉国家の社会保障にまでその批判の矛先を向けた。まさに、サッチャー派の主張は、戦後コンセンサス政治とそのもとで形成された現代国家の構造をほぼ全面的に批判するものであった。
 第四章では、80年代のサッチャー政権による新自由主義改革を検討した。サッチャー改革は、60年代以来のイギリスの経済衰退にたいする打開策であると同時に、オイル・ショックを契機に顕在化した世界的なフォード主義経済の成長力の枯渇にたいする対応の試みでもあった。
 サッチャー改革の最も大きな特徴は、資本の蓄積力を回復しイギリス経済の衰退を逆転させるための手段として、コンセンサス政治のもとで展開されてきた介入主義的な諸政策を大胆に放棄したことである。しかも、上述のヒースとは違い、サッチャーはそうした改革が戦後の社会統合を大きく切り崩すものであることを十分に認識したうえでなお、それを断行したのである。その意味において、サッチャーの改革は、現代国家の構造そのものを大きく再編することを射程に入れた改革であった。
 本章では、サッチャー改革の展開を、79~83年の第一段階と83~90年の第二段階に分けて考察した。第一段階で追求されたのは、マネタリズムによる財政・金融の厳しい引き締め策であった。これは、インフレを抑制し、イギリス経済に残存していた不効率な資本と労働力を整理縮小するためにとられた政策であったが、その過程で完全雇用目標は完全に放棄され、300万を超える大量失業が生み出されることになった。また、大量失業と労使関係改革が相まって、従来労働者統合の支柱をなしてきた労働組合運動も大きく弱体化することになった。こうして、戦後コンセンサス政治のもとで形成された社会統合は大きな打撃を受けることになったのである。
 第二段階になると、当初重視されたマネタリズムは後景に退き、減税と規制緩和によって資本の負担を軽減しその蓄積力の向上をはかることが重視されるようになった。その結果として、金融資本と海外資本を二つの駆動力とする新しい蓄積体制が徐々に形成されてくることになったが、しかし、こうした蓄積体制の構築は、かつての安定した社会統合の再建につながるものでは決してなかった。それは、労働組合運動の弱体化を前提とし、国内製造業の衰退のうえに成り立った蓄積体制であり、失業、貧困、格差といった問題を修復するどころかむしろ強化し固定化することになったのである。
 本論文の問題関心から注目されるのは、サッチャー政権が、既存の社会統合を切り崩す一方で、それにかわる新たな統合構想を打ち出すようになったことである。本章では、それを「二つの国民」型統合として定式化しておいた。「二つの国民」型統合は、社会の分裂状況を前提とした統合様式であった。そこで重視されたのは、公共住宅の売却や株式所有の拡大策といった中・上層への優遇策であり、改革による犠牲をまともにこうむる下層にたいしては治安的対処が強化された。戦後コンセンサス政治のもとで展開された統合は、階層間・地域間の格差を是正することによって社会を「一つの国民」として統合することをめざしたものであり、それと比べて、国家の統合様式は大きく変容したと言えよう。
  また、こうした変化の一環として、社会的再分配を担ってきた福祉国家的諸制度も改変されることになった。サッチャー改革の中心目標は、資本の負担を軽減することで蓄積力の向上をはかることであったが、当然ながら、これは福祉国家的な財政支出の削減を必要とする。むろん、財源を法人税・所得税から付加価値税に切り替えることによって、資本負担を軽減しつつ福祉国家財政を維持することは一定程度可能ではあるが、これには自ずと限界がある。そのため、政権終盤期になって、年金、医療などの福祉国家的諸制度の改革が本格的に取り組まれることになったのである。そこでは、公的年金保障の限定化、医療・教育などの社会サービスへの市場的競争原理の導入といった改革が行なわれるなかで、国民の生活保障にたいする国家の公的責任は軽視されていくことになった。
 終章では、近代以降の国家の発展史というより広い歴史的視野から、本論文での議論をあらためて俯瞰し、サッチャー改革とそのもとでの現代国家の変容の歴史的な意味について考察を加えた。
 
 以上のような検討を通じて、本論文では、特につぎの三つの点を明らかにしえたと考えている。第一は、戦後イギリスの現代国家の統治構造が、福祉国家と寛容な社会という二つの特徴をもっていたことである。戦後コンセンサス政治のなかで取り組まれた福祉国家的諸改革と寛容化の諸改革はともに、安定した国民統合の実現に不可欠の改革として押し進められたものであった。第二は、ニューライトの二潮流である新自由主義と新保守主義は、そうした現代国家の構造そのものにたいする批判としてとらえられることである。新自由主義は福祉国家の介入主義を批判する潮流であり、新保守主義は社会の寛容化による社会秩序の弛緩を批判する潮流であった。第三は、サッチャー改革のなかで現代国家の構造が大きく変容したことである。まずサッチャー改革は、資本の蓄積力の回復のために、現代国家が福祉国家として展開してきた介入主義的諸政策を縮小・撤廃した。その結果、現代国家のもとで実現していた安定した社会統合は大きく切り崩されることになったが、サッチャーは、これにたいして「二つの国民」型統合を追求することで対応した。これは、国家の統合基盤を中・上層にシフトさせるものであり、そこからこぼれ落ちる下層にたいしては、治安的な対処がはかられることになる。そのため、国家の抑圧性は増大することになり、現代国家が許容してきた寛容な社会も一定の修正を迫られることになったのである。

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