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博士論文要旨

論文題目:島崎藤村論:『家』を中心に
著者:趙 昕 (ZHAO, Xin)
博士号取得年月日:1999年7月27日

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 本論文の目的は、島崎藤村の『家』の真の意味を把握し、藤村文学の原点がどのようにこの小説に現れているかを検証することにある。

 論文の進め方上では、まず『家』研究とりわけその主題に関する研究の状況を概観してそこに存在する問題点を指摘し、次に藤村の文学的方法と発想法並びに藤村文学に対処する際の然るべき研究方法を提示した上で本論文における『家』主題に対する認識を示す。それから『家』を中心にした具体的な作品分析を行い、本論文の立論の適切性及び『家』における藤村文学の原点を確認する。

第一章  『家』研究状況の概観

 この章は五節からなる。第一節では、簡単ながら『家』発表当時の曲折及びこの小説の方法に触れている。現『家』上巻の新聞連載完了直後に小説中の二人の重要人物である橋本正太(モデルは高瀬親夫、藤村の甥)とお雪(モデルは秦冬子、藤村の前妻)が相次いで亡くなり、それにより藤村は、現下巻にあたる部分の作品構成の調整また変更を強いられた上、「橋本家の養子幸作、小泉三吉等が思ひ思ひに新しい家を造って行く経路を示したい」(藤村「『家』奧書」)という第三巻の執筆を断念したという。これが小説発表時の曲折であるが、小説の方法については、それを書くにあたって、藤村が「屋外で起った事を一切ぬきにして、すべてを屋内の光景にのみ限らうとした」(「折にふれて」)という方法を定めたことを紹介し、小説の実際でもその方法が基本的に忠実に貫かれていることを指摘している。そしてまた、その方法は、批評家側からすると、単に描写空間や表現方法上の問題のみならず、小説の意味に対する解釈や評価、作者の文学的姿勢ないしは小説の善し悪しなどを論ずる際の大きなポイントにもなっており、『家』批評全般に重大な意味をもっていることに特に注意されたいと述べている。

 第二節では、『家』の主題解釈が、大別して普遍的意味をもつ封建的な家族制度批判と、特定の旧家に伝わる頽廃した体質の危機との二点に定着していることを指摘しているが、その際、一般教養書、作品指南、文学辞典などがこの二側面のいずれについても偏らない評価を行う傾向が強いのに対し、専門研究分野では、作品主題に対する一般的概括として二側面を同時に取り上げる論文が多数見られるものの、用いられる言葉や表現、とくに具体論に及ぶと必ずしも二側面を対等に扱うものとは限らないことにも言及している。

 第三と第四節では、上記二つの主題解釈を代表的な例を通じて詳しく見ることにしている。前者では、小泉家(原型は島崎家)と橋本家(原型は藤村の姉園が嫁いだ高瀬家)に温存する家父長制など封建遺制や旧い倫理道徳が個々の家族構成員を拘束していることが小説の中で解剖されていると見、そこから家族制度批判という問題の普遍性を見出そうとする。それに対して後者は、小説の意味を藤村及びその家や家族、親族に起きた事実をもとに把握し、旧家の種々の陋習、とりわけ淫蕩の<血>の伝承が家また家の人々を破滅の運命に追い込むことが主に書かれていると考えている。

 上記のような概観を行った後、第五節では、『家』批評における四つの問題点を指摘している。第一の問題点は、家族制度批判の側面を重く見る研究者においてであるが、その観点のあり得た主な理由は、文学が歴史社会一般を反映すべきという既存の文学史観や先入観が多分に『家』解釈に導入されていることにあると見られる。しかしながら、『家』が「すべてを屋内の光景にのみ限」るという方法が用いられて当時の歴史と社会背景があまり描かれていないという事実のため、それらの研究者は、『家』における家族制度批判の普遍的価値を認める一方で時代背景が小説から欠如しているとも批判し、その上、時代背景の欠如は、藤村が歴史社会的視野に立って家族制度批判を行ったのではなく、旧家の内部における種々の因襲や生物的・生理的な遺伝要素の解剖に作品表現の重点を置いたからであって、それが『家』の本質につながると結論づける。つまりその結論は、普遍的な意味と価値をもつ家族制度批判という研究者自らの主題認識と合い矛盾する結果になってしまうのである。

 第二の問題点は、旧家の頽廃した<血>の伝承と宿命の問題を重視する研究者にある。文学が歴史社会一般を反映すべきという文学観に拘らないために特定の旧家における遺伝と宿命の角度での解釈が可能になったわけだが、しかし『家』の主題が一体どこにあるかという敏感の問題にかかってくると、第二節で触れたように、普遍性のある家族制度批判と、特定の旧家の遺伝と宿命という、いわば二側面統合の<主題説>を打ち出す現象はこれらの研究者には珍しくない。即ち、本音では遺伝と宿命の問題を重く見たく、そのために具体論でもその問題を中心に論述を展開させてはいるものの、<家>という歴史社会的、文化的に含みの大きい言葉の前に完全に自由にはならず、それゆえ、具体論あるいは本質論と二側面統合の主題説とのあいだにずれが生じるのである。

 第三の問題点は、小説の中に書かれている事象と実生活中の事実との関係をどう把握するかに現れている。藤村の大多数の小説が自伝的小説で、その中に書かれていることの多くが事実であったため、藤村及びその周辺に起きた事実を考証しそれを作品解釈に結び付けて小説の意味を考える作業は不可欠である。しかしそうとはいえ、藤村の自伝的小説には限度がありながらも多くの虚構が施されているのが事実であり、しかもその虚構には藤村なりの文学的意図が託されているはずで、それにより、小説中の事象を実生活中の事実と同一視することは場合によっては慎重を要する。つまりこの第三の問題点は、小説中の個々の事象や表現、あるいは用語に囚われすぎて、小説全般に託されている作者の文学的意図を看過してしまうということである。

 以上三つの問題点は個別問題といえようが、それらを総合したところで四つ目の問題点が見えてくる。つまり、『家』の主題解釈において研究者の主張が真っ二つに分かれているため(そのうちどちらが主流であるかはともかく)、小説が公平に扱われない事態が自然に生じてくる。例えば、小説の中に書かれているさまざまの問題、事件、人物、場面描写などが、論文の中でそれを取り上げる余裕などがあるか否かでなく、評者それぞれの文学観やそれに基づく批評方法と観点のもとで必要以上に取り扱われるか、それとも不当に捨象されるかという奇妙な現象は多く見られる。

 以上の問題点は今日に至って未解決のところが多い。それは、根本的には『家』の主題に対する評価の分裂がなお分裂したままというところに帰因すると思われるが、その分裂は、評者自身の文学観やそれに基づく批評方法の違いのほか、藤村の文学的方法や発想法に対する理解のしかたもそこに大きく絡んでいると見られる。

第二章  家の中の人生

     ―『家』主題の認識とそれを提出するための方法―

 前章最後の指摘を受け継いで、この章では、主に藤村の文学的方法や発想法並びに藤村文学に対する然るべき研究方法について意見を述べている。

 第一節は、主に「すべてを屋内の光景にのみ限らう」という藤村の『家』に用いた方法について考えている。その方法によって、歴史と社会背景が欠如しているとの指摘があることは前章に紹介したが、ほかにも、小説中の複数の人物の経歴や諸事情の原因と経緯が不明確であるという意見も多くなされている。小説の実際からいうとそれらの意見はもっともであるが、しかし考えすべきは、藤村はなぜ一部の事件や事情の原因及び経緯を伏せたかという点である。藤村が意図的に「屋外で起った事を一切ぬきにして」としたため、「屋外」で発生した事件や事実が明確に書かれなかったのは当然である。それはそれとして、注意を要するのは、そうした明確に書かれていない事件や事実の結果を受けて、「屋内」つまり<家の中>にいる人がどうなる、どうする、どう考える、どのような運命を辿っていくかが具体的、かつ生動に描かれていることである。例えば、小泉実の不幸な経歴について「不図した身の蹉跌」くらいの表現しかなされていないが、「蹉跌」そのことが<家の中>の人々のふだんの生活様態や親戚の相互関係のありようを詳細に描けた前提となっている。また、橋本達夫の家業失敗及びその後の家出の経緯も不明確だが、とりわけその家出により、妻お種が夫の帰来を空しく待ち続けて肉体と精神がすり減らされていくことが精細に描かれている。こう見てみると、「すべてを屋内の光景にのみ限らうとした」というのは、単に場面描写をどこかに限定するとの問題でなく、「屋内の光景」を通じて「屋内」における人々の人生を描こうという藤村の文学的意図がそこに託されているものと思われてくる。そこには、素材=「屋内」という空間と、作意=<家の中の人生>という表現という二つの要素が認められ、そのうちの後者は小説の主題につながっている。

 上の観点の適切性を証明するために、第二節では『破戒』を例にして藤村の文学的方法と発想法を検証している。『破戒』を例にしたのは、その主題について小説発表当初から今日まで激しい議論が交わされ、しかもその議論の焦点は、小説の中に取り扱われている部落民という素材をどう理解するかにあるからである。

 『破戒』検証を、小説執筆当時藤村の部落民問題に対する社会的姿勢と、その姿勢がどう小説に反映されているかとの二段階で行っている。第一段階では藤村の二つの回想文を取り上げ、藤村が、教育を受け、<個>に目覚めた少数の部落出身者の内面の悲しみにのみ心を動かし、大多数の<無知>な部落民の差別される状況や部落民全般の社会的地位の向上についてはほとんど興味を示さなかったことに注目している。第二段階では、そうした部落民に対する社会的姿勢が『破戒』に反映されたとき、主人公瀬川丑松が身分告白までの長い道のりにおいて、人に言い難い秘密を抱えて、不安や葛藤と恐怖とに囚われつつ、それらとの必死の戦いを自己の内面で繰り返すことが作品表現の中心になっていることを論述している。

 丑松は身分告白を決意した際、「恋も捨てた、名も捨てた」と諦念し、「熱い涙は若々しい頬を絶間も無く流れ落ちる」のである。しかし堂々と身分を公言して不合理な社会と戦う猪木蓮太郎が著書の出版もできるし、妻があって地方代議士を友人に持ち、講演する際には多くの人が集まってくる。そうした「人にも用ゐられ、萬許されて居た」という、社会的に見た蓮太郎の実際に照らして見ると、丑松はたとえ早く身分を告白しても、また不合理な社会と戦っても、蓮太郎同様それなりに社会に受け入れられることは完全に可能である。身分を隠すかどうか、またそれを知られるか否かは蓮太郎にとって「生死の問題」にならないのであれば、丑松にだけ「生死の問題」になるはずはない。

 全二十三章からなる『破戒』では、第二十一章になってようやく丑松は身分告白の行動に踏み切って「熱い涙」を流すのである。しかしながら、それまでの長い間も彼は「熱い涙」を流し続けていたことは現に小説の中に書かれているし、しかもその涙は、身分を知られて社会に迫害されたためでなく、彼の「精神の内部の革命」、つまり<個>に目覚めたからである。その点から言えば、身分告白時の彼はその前の彼とは何の変わりもない。

 上記のように分析した後、藤村が部落民に対する根強い社会的蔑視を作品環境として設定していながら、丑松が身分を告白した途端、多くの人が彼に温かい同情を寄せ援助の手を差し伸べるという作品処理を行っていることを取り上げている。そうした作品処理により、部落民蔑視の環境設定が丑松の告白によって一遍に崩れることになるが、そうした作品構成上の非整合性と、さきに述べた、身分や身分告白とはかかわりなく丑松がずっと「熱い涙」を流していることと考え合わせると、『破戒』執筆にあたっての藤村の真意は、部落民問題を主に表現するのでなく、それを素材また条件として「目醒めたものの悲しみ」という主人公丑松の内的世界を描こうというところにあったことは明らかである(もちろん部落民の素材が取り扱われていること自体は客観的、社会的意義があるが、それは作者の意図とは別次元のものと考えられる)。

 上記の論述を引き継いで、第三節では、『家』でも、いわゆる「屋内」があくまでも作品表現の環境または素材であって、藤村がその屋内の生活風景を通じて<家の中>の人生を描こうとしたことを改めて指摘している。即ち、『家』における<家>が封建的な家族制度としての<家>であれ、また旧家の頽廃した遺風を表す<家>であれ、それらは作品の中核にはならず、<家の中の人生>は藤村のもっとも書き表したかったものであり、それこそがその小説の主題である。

 そういう認識のもとで、本章の最後においては、小説の素材や環境などを一概に小説の主題とは混同せず、素材や個別事象、及び一部の表現や用語など<表面的>なものに囚われすぎないで、その深層に託される作者の真の意図を見極めようとする研究方法が藤村研究者には必要であることを強調している。

第三章  小泉家―─実の人物像解釈を中心に

 この章では、いわゆる小泉家の<家長>小泉実という人物に対する分析を通じて、小泉家には封建的な家族制度や頽廃した旧家の体質が基本的に存在しないことを論じている。

 第一節では、実に関する従来の解釈をまとめている。それは、一には祖先崇拝と家名尊重を旨としている、二には家族や親族に権威を持つ封建的な家長、三には旧家固有の陋習が身に染みついている、という三点である。そういう解釈にはもちろんそれなりの作品表現上の依拠があるが、本論文の中で引用したそうした作品表現はここで紹介しないことにする。

 その後の第二、三、四節では、上に挙げた三つの人物評を逐次考えることにしているが、要約すると次の通りである。

 明治維新前後から日清、日露戦争にかけての時代変貌は、木曽馬籠における島崎家の世襲的な経済的、社会的地位に終止符を打った。『家』の実が小泉家の長男並びに家の後継ぎでありながら多くの一般民衆同様家族を連れて上京し、新しい環境の中で新しい生涯を開こうとした。それは、彼と故郷また先祖とのあいだに断絶が生じはじめ、土着の祖先信仰や家名尊重それに家系伝承の伝統観念が彼にとってその拘束力と現実味が徐々に薄まり、その上、市民社会(たとえ明治期のそれが不健全であっても)と商業社会固有の価値観を彼が尊重しなければならない、などを意味する。また、小泉兄弟たちがそれぞれ夫婦中心の核家族を東京に持つようになり相互の独立性が確立し、それと絡み合って、実は、度重なる事業失敗や負債それに二度の入獄を経験し家や家族及び親類に多大な災難を招き入れたために、それ相応の責任を負わなければならず、それにより、彼は<家長>としての地位を名実ともに喪失した。さらに、実の物的欲望や士族的商法及び事業失敗などが虚勢を張るという旧家の陋習や頽廃した体質によるものとされているが、しかしそうした旧家の因襲などが『家』の中に裏づけられていない。むしろ兄弟達の父、すでに故人となった忠寛の平田派国学者としての精神的世界豊かなイメージが明確に提示されている。そうした作品世界を踏まえると、実の物的欲望は彼自身の問題であり、彼の代においてはじめて生じたものと考えられる。そう考えると、その欲望には明治という時代の影響があったことは見逃してはならず、従って実の各種事業参与や失敗などについても、主に投機性(あるいは冒険性)、競争性、それに偶然性という資本主義発展過程における商業社会固有の原理と特徴にその理由を求めるべきである。

 以上の論述を終えて、第五節では、作品表現上の矛盾点解明と実という人物の意味検証を行っている。

 藤村は、近代作家と近代知識人の自覚によるか、封建的な家族制度批判を『家』に試みた。そのために彼は実を封建的な家長に仕上げる必要があった。しかしそういう藤村の自覚や試みとは裏腹に、当時の島崎家や実のモデルである秀雄においてすでに封建的な家族制度や家父長制を表す材料はなかったのである。それは、『家』が取り扱う明治三十一年から同四十三年のあいだ及びその前後の島崎家の人々の書簡などからも認められる。いかに藤村が自分の小説に虚構を施していようと、自伝的小説であるだけに、実生活にあったことを書こうとした以上、事実関係の基本的様態や実在した人の基本的性格と経歴などを歪曲するまでの自由が彼にはあるまい。そのために、封建的な家長としての実のイメージが『家』ではほとんど観念的な表現や言葉を通じてしか現れず、その半面、その不遇の生涯による惨めな姿が作品中に具体的に描かれ、より鮮明な、実感を伴った印象を読者に与えている。そこには、実の性格描写における作品表現上の矛盾が見られるわけであるが、しかしながら、もし家族制度批判が藤村の主な意図であったならば、その意図の成功を阻む実の惨めな姿に関する具体的な描写は藤村にとってはもともと避けるべきであった。しかし彼はそれを避けなかった。その点からいうと、家族制度や家父長批判でなく、<家の中の人生>を描くという藤村の主題意識が実という人物にも現れているものと考えられる。

第四章  橋本家及びお種の人間像

 この章では、前半は前章と照応する形で橋本家における封建的な家族制度や家共同体が虚像にすぎないことを論じ、後半はお種という人物について考えている。

 封建的な家族制度及び家共同体は、その基本的な特徴の一つは家族構成員個人の自由と人格を認めないことにあるといえようが、『家』の上巻第一、二章では、自由のないことを苦にする橋本家の一人息子正太が描かれている。その正太は、将来家を継ぐことになっていて山の中の生活を余儀なくされ、ふだんからは父母ばかりでなく、家の奉公人や周囲の人々にも目をつけられて、それゆえ彼は「一々自分のすることを監視するやうな重苦しい空気には堪へられなかった」とされている。

  しかしながら、そうした「重苦しい空気」は果たして具体的な描写を通じて現れるものかは疑問に思われる。橋本家の当主達夫はもともと<家>を大事にするタイプではない。それは、彼のそれまでの経歴や後の家出、そして、「自分は何もかも捨てたものだ――妻があるとも思はんし、子があるとも思はん――後は奈何成っても関はない」という彼の話によっても端的に説明されている。そういう父親であるため、彼は<家>のために息子を拘束することはあり得ない。

 一方の主婦お種も、橋本家のよい後継者であるようにと正太に心配をかけるのだが、しかし一方、彼女は、小泉三吉の書いたもの(藤村の書いた『若菜集』などと考えられる)を正太に読ませ、正太の心が開けるようにともいう。『若菜集』に歌われている感情解放などを考えると、そうしたお種の姿勢は、明らかに正太を家また山の中に拘束しようとする封建的な家観念とは合い矛盾する。それは、作品表現上の矛盾であることはいうまでもないが、小説の中でも、達夫夫婦が日頃正太に何かの不自由を強いたり、親としての権力を振る舞ったりするという作品描写また提示は一箇所たりとも見当たらない。むしろ正太は家業に全く手をつけず、毎日のように町で遊び、最後にいとも簡単に故郷を後にして東京に生活の場を移し、<自由>を手にしたのである。その際、お種はじめ、誰一人として彼の行動を阻もうとするものはなかった。こういう小説の筋から見ると、「一々自分のすることを監視するやうな重苦しい空気」、つまり橋本家における家族制度や家共同体が一つの虚像にすぎないことは明らかである。

 そうした虚像や作品表現上の矛盾についても、前第三章最終節で説明した同様、藤村の近代知識人、近代作家としての自覚や家族制度批判の試みと、一人一人の<生>を描くという、日本自然主義作家の資質により必然的に抱える究極の作品意図という二律背反にその理由があることを改めて指摘している。

 本章の後半はお種の性格分析を行うものであるが、それにあたってはまずお種に対する一般的評価を紹介している。概括するとその評価は、彼女は、封建的・儒教的な倫理道徳をかたくなに守り、夫や家に尽くし、そのため不遇な人生を送らなければならない、というものである。そういう評価には筆者も幾分首肯するが、しかし『家』には、実の妻お倉、三吉の妻お雪、正太の妻豊世なども人妻として旧い倫理道徳に縛られて苦しむ面が簡単に読み取れるものの、それについては作者はあまり強調せず、お種にのみ目立った表現や言葉遣いを使いその封建的な女性のイメージを強めようとしていることは印象的である。

 そういうお種と他の女性人物に対する作品処理の違いを詮索して一つの考えが浮かび上がる。これはつまり、封建的な倫理道徳に縛られて苦しむというお種に関する強いイメージ提示は、逆に彼女の抑圧された女としての人間本能と生活の願望を浮き彫りにし、その人間本能と生活の願望が実らないために彼女が不遇な人生を辿らなければならないことを藤村が主に描こうとした、ということである。

 達夫が家出した後、種はずっと彼の帰来を待ち続ける。また正太が東京での事業に失敗し、母親を東京に迎えることができない。そのためお種は、一家の団欒や過去の楽しい家庭生活の再来を夢見続けながらも精神障害者の娘お仙と依存しあって荒廃する故郷の暗い<家の中>で喘ぐしかない。即ち、彼女は女としての人間本能や生活感情に燃えれば燃えるほど、それが叶えられないため身心ともにすり減らされてゆく。下巻第九章の「萎びた乳房は両方にブラリと垂下って居た。三吉は、そこに姉の一生を見た」との一句に現れる彼女の姿は、貞操や献身という封建的な倫理道徳を信奉することの必然性から生じたというよりも、一女性の精神と肉体が、その本能と生活の欲望が厳しい時間と空間の現実によって容赦なく打ち砕かれたゆえ衰えてゆくという悲劇的な運命を物語っているものといえよう。それこそが、『家』におけるお種の本当の姿である。

第五章  性の頽廃に見る遺伝と宿命の問題

 この章は五節から構成する。第一節では遺伝と宿命説の諸相を紹介しているが、それは大別して二種類がある。一つは、性の頽廃、放縦な性格、暗い内攻する情熱、名門意識やそれによる名誉欲と虚栄心、そして物的欲望や士族商法など、かなり広範囲に視野を持った解釈である。もう一つは、主に性の頽廃のみを遺伝と宿命として捉える傾向である。但し、この二つ目の傾向の中にはまた異なった着眼点がある。それは主に、小泉・橋本両家の複数の人物に目を注ぐか、それとも小泉三吉=藤村に視点を絞るかとの違いである。その違いは、『家』に書かれる諸事象、諸人物が作者の主観から離れて<主体的>、あるいは<多元的>に描かれているか、それとも作者の主観のもとに<一元的>に捉えられているかという小説の表現方法に対する見方の相違によるものと考えられる。

 ともあれ、上記の見方のいずれにも遺伝や宿命として性の頽廃の問題が議論のテーマになっているのは事実である。しかも、その問題は『家』批評に重みがあるばかりでなく、藤村文学全般に対する認識や評価にも影響を及ぼしているように見られる。

 第二節では、やや『家』から離れて『新生』を中心に藤村文学における藤村の精神、父の精神について論じている。それは、家系的な淫蕩の<血>の伝承を描く意図が藤村になかったことを明らかにするためである。

 『新生』は、岸本=藤村が姪を妊娠させたという<不倫事件>が作品の中心背景である。また、岸本の父にも<同族>との<不徳な過去>があったことが書かれている。それらを、『家』に書かれている、小泉三吉が性的衝動により姪お俊の手を握ったいわば<お俊>事件と関連づけて、家系的な淫蕩の血の伝承を示す藤村の意図が『家』にも『新生』にも託されているとの認識が多くの研究者に生まれたのである。

 『新生』には、異国での孤独な生活の中で、「岸本の心はよく父親の方へ帰って」、「斯の世に居ない父の前へ自分を持って行き、父を呼び、そのたましひに祈らうとさへして見た」などの記述がある。このような記述があるためか、例えば「放縦な血をさかしまにたぐって、父の肖像をまざと呼びだしている」という三好行雄氏の評がなされている(「『家』について」、『日本文学』1956年3月)。しかしながら、岸本の回想する父の生涯は、学問に熱心し、平田派国学者としての「慨世憂国」の情に燃えつつも理解が得られず、理想が叶えられないという不遇の生涯であった。またその父の前に持っていった岸本自身の姿も、決して姪との不徳な事件を引き起こしたそれではない。具体的にいうと、その不徳事件に限って生じた岸本の懊悩と恐怖や罪悪感、それに事件の起きた理由と経緯などがその際の描写から悉く捨象され、むしろ「岸本の半生の悩ましかったやうに、父もまた悩ましい生涯を送った人であったから」という、ともに<生>に悩むという思いによってこそ、岸本=藤村は父への想念を自分の胸中に引き込め、自分のこれまでの人生への想念を父に訴えようとしている。ここには、<現象>としての個々の事件や事実、また人生の個々の時期でなしに、姪との背徳な事件も含めて、性と愛の目覚め、人生進路の選択、恋愛、信仰、結婚と家庭、文学者の道など、生涯の道程におけるさまざまの側面や問題また時期が総合された上での一個の人間存在そのものを直視し、そういう人間の<内的姿>――不安、苦悩、憂鬱、恐怖、孤独感など精神的な面を見つめようという藤村の人生探求があった(これを論ずる際、『破戒』から『夜明け前』に至る藤村の他の諸小説も論究の対象にしている)。そういう文学的、また人間的な姿勢は、『新生』における父への想念につながった後『夜明け前』の青山半蔵の人間像を生み、そこに藤村は、自分と父との接点また共通点を最終的に確認しようとしたのである。

 藤村の小説を読んでみると、その中には、<父>をして自分の<事業>を子=藤村に継がせたいと言わせることが絶えず書かれていることに気がつく。『桜の実の熟する時』をはじめ、『春』、『家』、『新生』、『夜明け前』、さらに虚構の小説『破戒』においてさえ、「捨吉(藤村――筆者注)ばかりは俺の子だ。彼には俺の学問を継がせたい」(『桜の実の熟する時』)というような文言が延々と書き続けられている。

 実際、藤村の選んだ道は、父の親しんだ国学や神道のそれではなかった。また自然主義文学者としての<生>やそこに生じる不安と苦悩と孤独なども、激しく揺れる明治維新前後の時代を背景にした「慨世憂国」の父のそれとは異なる。さらに、キリスト教精神や西洋文明を摂取した藤村の自己肯定は、国家や社会に己を捧げる父の献身主義とは本質的な違いがあるとさえいえる。しかしそうとはいえ、「学問」(藤村の場合は<芸術>といえるだろう)の世界に没頭し、物質的なものを追求するのではなくて<知>や<精神>に満ちた理想の達成を「事業」とし、また世襲的・世俗的な生き方でなしに、自ら規定した道とそれへの努力で持って身を立てようとし、それゆえ、一部の肉親を含めた他の人々と違った人生の苦しみと悲しみを味わわねばならない、というところには藤村は父の<志>を継承し、父の精神を再現しようとしたのである。

 しかも、藤村は文学を持って立身出世し、文壇における不動の地位を築き上げ、<島崎藤村>の名を世間に知らせ広めたのである。換言すれば、父の理想が中味を変えながらも藤村の文学上の成功によって実現したわけである。それが、藤村をして「捨吉ばかりは俺の子だ。彼には俺の学問を継がせたい」と書き続けさせた所以であろう。こういう、自分の精神と父の精神とを結び付けた藤村の資本は、彼の、自分自身の意志により自分自身が切り開いた<精神的>活動に属する文学の道と、その道における成功と以外にない。反対から言えば、文学の道とその成功によって彼は自分の精神に父の精神を結び付けたともいえる。そうした精神であるために、藤村の分身である作品中の人物やその父には旧い家系や伝統と対立するイメージが要請されるのは当然である。この視点からすると、代々木曽馬籠の本陣、庄屋を兼ねていた旧家たる遺風や頽廃した性の遺伝が依然父また自分にしつこく絡みついていることを小説の中心意図として藤村が抱えていたことはそもそもあり得ない。それはとりもなおさず、その面から『家』や『新生』の意味を捉えることが本来無理が大きいことを意味する。

 第三節では、小泉家の人々とくに宗蔵を論議の中心にしている。宗蔵は若いときの女性関係のため性病を患い、不自由な体を持って長兄の家に転び込み、<厄介者>と見なされてみんなから死を望まれている。しかしそれでも彼は生きようとし、そのために不安と憂鬱と孤独に堪え続ける。そうした、宗蔵における生きる願望と生きるための不安は、藤村自身の文学的・人間的態度によったものとこの節で指摘している。 さきに触れたように、『家』では、小泉三吉が、妻お雪留守のある晩、散歩に出た雑木林の中で姪お俊の手を握ったいわば<お俊>事件が書かれている。従来、この事件を旧家の性の頽廃また近親相姦という血の伝承の現れとして捉える傾向が強いが、本章第四節では、作品表現の特徴を踏まえてその事件の『家』における意味と位置を再考している。その事件は、書かれた事実として「不思議な力は、不図、姪の手を執らせた」との一句に尽きている。しかも、当のお俊は、手を執られたときに、「叔父さんのことですもの」というように、何の不自然も感じていない。にもかかわらず、事件前の三吉の心の動揺と自己抑制、事件後の自己呵責と<事件>暴露への恐怖が一方的にクローズアップされ、残酷なほど描かれている。野口武彦氏は、古典文学は「近親相姦の情念を論ずることのみ可能であって、心の葛藤は問題にならない」と述べる一方、近代文学に於いては、「侵犯の罪障感、背徳の戦慄、自己制御の緊張」などを「自己の存在の問題性を培養基として」「人間内心の深い葛藤を引き出してくる」(「近親相姦と文学的想像力」、『現代思想』1978年5月臨時増刊号「総特集・近親相姦」)と、古典文学と近代文学の本質のな違いを指摘している。『家』の<お俊>事件における描写と表現上の特徴は、まさに「自己の存在の問題性」を自分の内的世界への凝視を通じて捉え、「人間内心の深い葛藤を引き出してくる」という、近代文学の一側面を表している。その点からすると、<お俊>事件については、性の頽廃や近親相姦の問題としてそれを認める余地はなく、他の事件や問題とともに、<己>を凝視し、<生>を見つめようという、『家』また他の作品に貫流する藤村文学の基調を支える一要素また手段として書かれていることにその意味と位置を考えるべきである。

 第五節は二項からなっている。すでに第四章では橋本家における封建的な家族制度や家共同体の問題に触れ、この節の第一項では家系的遺伝と宿命というもう一つの側面について意見を述べている。そもそも、小説の中に橋本父子の女性問題に関する記述が多いため、性の頽廃といえば、小泉家よりも橋本家の方が一本槍で論じられる傾向が強い。こんな状況の中で、笹淵友一氏は、橋本家の体質は、単に<女に弱い>というだけでなく、それを含む「都会人的」な「狭斜趣味」にあるという見方を示している。そういう笹淵氏の見解を参考に、「浪華趣味」や、「冒険の気風」、「物に溺れる」など、生活態度に堅実さが欠けていることが橋本家の家系の問題として描かれていることを指摘し、性の頽廃のみを遺伝と宿命として捉える批評傾向が作者の意図を逸脱しているとの認識を示している。

 第二項は、正太の女性関係に対して三吉が他の人々と違った考えをもつことと、その考えのあり得た理由について考察している。正太が小金という芸者と関係を持つことを知って、その妻豊世はもとより、森彦、お種、お雪などはいずれもいい気はしない。それに対して、三吉だけが正太に同情と理解を寄せ、二人の関係について正太と遠慮のない話を交わし、その交際に<手助け>さえしている。愛欲や性欲が人間の本能つまり<自然性>によるものであることは、例えば<お俊>事件を通じても三吉は十分に認知しているはずである。ただ、三吉はそうした人間本能を社会倫理や人間関係など外部の規約に結び付けて考え、それゆえ自己抑止したり自己呵責したりするのに対して、正太は「浪華趣味」という性格のためそういう二律背反の問題にはあまり意識せず、あるいは苦にしない。ここには三吉と正太の違いがあるが、しかし、愛欲と性欲が人間の<自然>であると認知した以上、三吉に映った正太の<女遊び>は、単に一方的に批判されるべきものでなく、人間性また自然性という誠実の一側面も帯びている。それはつまり、正太の女性関係に対する三吉の理解ないし<手助け>は、正太の人間性を尊重するためでもあって、大胆に断じれば、藤村は、自分にとって社会的に実現できないでいる<自然尊重>と<本能肯定>の願望を、三吉の正太に対する姿勢を通じて伝えようとしていたのではないかと思われる。

第六章  三吉とお雪

 この章は三節によって構成されている。第一節では夫婦間の没理解、とりわけ三吉のもつ男中心という歪んだ認識が不幸な夫婦関係の根源をなしていることを論じている。新婚時の三吉は、「一縷の望は新しい家にあった。そこで自分は自分だけの生涯を開かうと思った」のであって、妻お雪のこれからの生涯がどのようであればよいかは彼は考えていない。それは、近代的な「新しい家」の実現が家庭の中核をなす夫婦間の相互理解と人格上の相互尊重の上にしか成り立たないことに三吉は自覚心も心構えも持たないことを意味する。そのため、夫婦間のふだんの感情と心の交流の欠如、家庭における地位の差別が避けられず、その結果、お雪が「恋しき勉様へ・・・・・・絶望の雪子より」と認めた手紙を書いた<手紙>事件や、お雪の嫉妬心を激しく燃やさせる<曽根>(三吉の女友達)事件、ないしは離婚話などの危機が早くも夫婦に訪れたのである。

 第二節は、主に藤村の反省と新しい家の萌芽の問題を検証している。藤村は元来、三巻仕立てで『家』を書くつもりだったが、甥橋本親夫と妻冬子の死によって現下巻にあたる部分の構想の調整や変更を強いられた上、「新しい家を造って行く経路を示したい」という第三巻の執筆を断念した。それは、本論第一章に述べた通りである。しかしながら、現『家』下巻では、橋本親夫=正太の死が書かれているのに対し、冬子=お雪の死は、「ひょっとすると今度のお産では、正太さんの後を追ふかも知れない」というお雪自らの死の予言にとどまっている。そうした取り扱い上の違いは、正太がそもそも新しい家作りの担い手ではなかったためその死が小説の現実となり、それに対して、お雪が新しい家作りの担い手として最初から想定され続けていたゆえ、藤村が彼女を死なせないことを通じて新しい家建設の希望を残そうとしたところに理由があったと考えられる。

 下巻第七章から、三吉はなおお雪とその過去の恋人勉とのことで嫉妬心に燃え疑心暗鬼の念を抱きながらも、日常生活の面から積極的に妻に接近してゆく。それまでの三吉は、「お雪の前に長く坐って居られなかった。すこし長く妻と話して居ると、もう彼は退屈して了った」のであるが、しかしいまは、「三吉は黙って考へてばかり居る人でもなかった。『随分、父さんはコワい眼付をする』と名倉の母(お雪の母――筆者注)はよく言ったが、左様いふ眼付で膳に対って、飯を食へば直に二階へ行って了ふやうな――最早そんな人でもなかった。/時には、楼梯を踏む音をさせて、用もないのに三吉は二階から降りて来た」と姿勢を変えている。そしてまた、『家』にしてははじめて、三吉はお雪を連れて買い物に出かけて外食もし、自分を閉じこめて考え込むという彼独自の領域である二階の書斎にお雪を迎え入れて一緒に葡萄酒を飲む。そうした新しい夫婦の生活風景は、「真に心の底から出たやうな調子で」、「夫婦は子供等のごろごろ寝て居る側で、話しつゞけた。正太のことを語り合った。勉やお福(勉の妻――筆者注)の噂もした。終には、自分等の過去ったことの話までも、それからそれと引出された」という小説の結尾にしめくくられるのである。

 第三節は、『家』解釈における<性の諦念>説への質疑を兼ねて「夫は夫、妻は妻」などの作品表現の本当の意味を考えている。<性の諦念>説の理由は、小説の中に、お雪と勉のことに対する嫉妬心や疑心暗鬼の精神状態から脱するため三吉が「このまゝ家を寺院精舎と観」、「自分の妹としてお雪のことを考へ」、「夫は夫、妻は妻、夫が妻を奈何することも出来ないし、妻も夫を奈何することも出来ない」、「お雪は彼の奴隷で、彼はお雪の奴隷であった」等々の表現が施されているからである。しかし、そういう<諦念>は、他方から言えば、三吉が自分をよりよく生きていこうとする努力によるものとも考えられ、そしてまた、夫婦であるだけにその<諦念>が不可能であることを三吉が悟り、それにより彼は他の手段を講じてさらなる努力をしなければならない。そのさらなる努力は、さきに述べたように、日常生活的に妻に接近し、それを通じて夫婦の心の交流を図り、新しい夫婦関係の構築を模索しようという彼の実際の行動に見られる。その点に基づくと、「夫は夫、妻は妻、夫が妻を奈何することも出来ないし、妻も夫を奈何することも出来ない」などの表現は、夫婦関係及び家庭という現実において、夫婦それぞれの権利や人格が尊重されるべきと同時にそれぞれのエゴイズムや一方的な自由も制限されることを意味し、相互の譲歩や調和を通じた夫婦関係や家庭建設という現実的課題を示したものと思われる。

第七章  <家の中>における人生の二律背反

       ―『家』論の結びとして―

 この章では、さらに<家の中>、藤村の言葉でいえば「屋内」というものに視点を絞り、いくつかの事例を分析した上で『家』論を結ぶことにしている。

 第一節ではまず三吉の娘の死が「屋内」という空間と、そこにいる人々の状態を通じて描かれていることについて考えている。三女と次女の死が作品の正面描写から取り除かれているが、しかし、その死によって生じた悲哀や死んだ娘への限りない想念が<家の中>にいる三吉夫婦の姿を通じて入念に描かれ、運命の過酷さを「屋内」という空間の中で感じさせられている。長女についても、彼女が病院で治療を受け、病院で亡くなったものの、作者の筆は一度も病院に移ったことがない。むしろ、死を免れられるかどうか、死を知らせる電報がくるかいつくるのかという、運命への不安と恐怖に引き締められる三吉の心理活動が重点的に描かれ、運命の無慈悲に泣く人間の内面の姿を、その姿を描き表すに適切な<家の中>という<静的>環境を通して最大限にクローズアップされている。

 この節の後半は、家を持つ人の宿命の問題を取り上げている。家庭や親の立場からいうと、子供を失うほどの悲しみはないだろう。厳しい生活条件の中で育て上げた三人の娘が一年のあいだに相次いで亡くなったことは三吉夫婦にどれほどの打撃と失望ないしは絶望感を与えるかは想像に難しくない。しかし、そんな中においても三吉夫婦の家がなお営まれていき、亡くなった三人の娘を含めて都合七人もの子供がその家に生まれている。ある日、「俺とお前と何方が先に死ぬと思ふ」と三吉に聞かれて、お雪は「どうせ私の方が後へ残るでせう」と答える。結婚以来の悲惨な経歴を振り返って見ると、妻また母として絶えず苦労し、苦悩することが結婚後のお雪の人生そのものである。この点を踏まえて考えると、「どうせ私の方が後へ残る」というお雪の話は、女という人間の<生>に課せられる妻や母としての責務と運命ないしは宿命に自覚し、その責務と運命と宿命を背負っていくという彼女の生活態度を窺わせる。あるいは、作者藤村がお雪にこう答えさせることを通じて、自分のそうした生活態度や人生に対する認識をさりげなく伝えようとしたともいえる。

 第二節では、お種、そして三吉夫婦に関する作品構成上の二つの首尾照応を論題にしている。これにあたっては、作品内容の再点検を基本的に行わず、二つの首尾照応におけるそれぞれの両端、つまり四つの場面描写がいずれも「屋内」に限定されていることに注目している。お種は、上巻第一章で家の台所で食事の支度をすることで初登場し、下巻第九章では、「『一つ斯の身体を見て呉れよ。俺は斯ういふものに成ったよ――』/と言って、着物の襟をひろげて、苦み衰へた胸のあたりを弟に出して見せた。骨と皮ばかりと言っても可かった。萎びた乳房は両方にブラリと垂下って居た。三吉は、そこに姉の一生を見た」というように、その一生が総括されている。一方の三吉夫婦は、その「新しい家」の建設は、お雪が三吉の案内で家の中を見回ることろから書きはじめられ、そして、夫婦が<家の中>で徹夜して話し合うことに象徴される新しい夫婦関係の一応の結晶が小説の掉尾に用意されている。十二年間辿ってきたお種の<家の中>での人生、同じく十二年間辿ってきた三吉夫婦と新しい家建設の歩みがこのような首尾照応の構成によって集約されるわけであるが、これは、「すべてを屋内の光景にのみ限らうとした」という藤村の方法が典型的に現れているものといえる。

 第三節では、<家の中の人生>という本論における『家』の主題認識を最終的に確認することにしている。これにおいて主に以下の二点に触れている。

 1、『家』は、藤村とその前妻冬子の分身である三吉とお雪の徹夜した話し合いをもって完結している。自己及び自己身辺のことを書くのがもっとも自分の真の姿を表すことができ、もっとも<真実>を反映し得るという文学理念と方法を日本の自然主義文学者藤村が持っていたことを念頭に置けば、三吉夫婦の<家の中>での話し合いで『家』が結ばれていることには、もっとも<真実>であると確信する自分と妻の身を通じて、夫婦関係や家庭ないし人生に対する自らの体験や認識及び姿勢をしめくくろうという藤村の意図が窺える。しかも、すでに考察したように、三吉の夫婦関係やその家庭建設の歩みが、家を営んでいく過程中に人間が個人としての願望と、その願望に制限を与える家という現実の板挟みの中で悩み続けながらも前へ進もうという人生の探求にその意味があった。その点から考えると、三吉夫婦の話し合いの中で、自分や親類に関する話が「それからそれと引出された」というのは、『家』のそれまでに書かれている、<家の中>における小泉家と橋本家の人々の姿が「それからそれと」夫婦の眼前に浮かび上がり、しめくくられるものとも考えられる。さらにいえば、三吉夫婦の「屋内」での徹夜した話し合いの場面描写が小説の最後の最後に配置されたのは、「すべてを屋内の光景にのみ限らうとした」という作者の定めた小説表現の方法と、<家の中の人生>という小説の主題意識との両方を最終的に明示しようという藤村の確たる意図によったものといえる。

 2、日本自然主義文学においては、自己や自己身辺とりわけ身内の人にあったことを小説の中に再現しようとしたこと自体は、<家の中>の現象が描かれ勝ちで<家の外>の現象が捨象され勝ちという事態を自然かつ必然的に生み出す。その点においては藤村の『家』も他の自然主義文学者の小説とは大差がない。しかし、もしも他の自然主義文学者がその点について半ば無意識だったとすれば、藤村が「屋外で起った事を一切ぬきにして、すべてを屋内の光景にのみ限らうとした」という、<大げさ>、あるいは<勿体ぶる>とも思われかねない表白をあえてしなければならなかったというのは、彼はそういう点に十分に意識し、自覚した上で場面描写を「屋内」に限定しようとしたことを逆に証明している。それはいうまでもなく、<家の中の人生>を表現するという主題意識が彼にあったことを裏づけている。

第八章  近代の不安、生きるための不安

         ―藤村文学の原点―

 この章では、藤村の文学的態度と人間的態度との両面から藤村文学の原点を確認している。

 藤村は<内攻的>性格の持ち主で、その性格は、人物の心理描写に長じ、人間内面の不安と苦悩を主に描くという彼の文学の特徴をもたらす一面があった。しかし、彼は単に無自覚に人間の内面を描くのでなく、むしろ自分の資質をよく知り、それを最大限に文学創作に生かして自分独自の文学を作り出そうとした。そこには、彼の近代文学に対する真の理解があった。中村光夫氏の話でいえば、藤村は、「近代文学の根底をなす個性の想念を、真に自分の感性を生してこれを血肉化する努力を拂った」(『風俗小説論』)のである。

 また、藤村の人間的、あるいは生活的態度は、彼自身が語る、「前途は暗く胸の塞がる時、幾度となく私は迷ったり、蹉いたりした。私の歩いた道がどんなに寂しい時でも、しかしその窮極に於いて、何時でも私は自分の出発した時と同じやうに、生を肯定しようとする心に帰って行った」(『春を待ちつゝ』)に現れている。

 そうした文学的態度と人間的・生活的態度が互いに溶け合ったときに、<藤村文学>が生まれたのである。つまり、彼の筆下は、一人一人の<生>が描かれ、その<生>は多くは内面の不安と苦悩を伴う。しかも、もしも彼の前期代表作『若菜集』や『破戒』及び『春』における生の不安が<個我>に目覚めた近代の不安であったとすれば、『家』以後の諸作品は、近代の不安を含めたより現実的、より生活的な不安へと含みが増大してゆく。

 不安は、人間のつきものであり人生の根源的な問題である。たとえ藤村の筆下の諸人物がほとんど彼及びその身内の人の分身であるにせよ、藤村の実生活から目を離れて小説そのものを対象にして読む場合、それらの諸人物は、まさに一人一人の<生>が現れ、かつ、「不安は人間のつきものであり人生の根源的問題である」というところに共通性を持っている。こうした共通性を持った藤村小説中の一人一人の姿を眺めてはじめて、近代の不安、生きるための不安を描くという藤村文学の原点、言葉を換えれば、そうした人間内面の不安を描くことを通じた自己凝視と人生探求という藤村文学の原点を確認することができるのである。

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