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博士論文要旨

論文題目:ニュージーランド、チャタム諸島における民族の生成 ―原住民土地法廷と、ワイタンギ審判所をめぐる先住民モリオリとンガティ・ムトゥンガ族の紛争を手がかりに―
著者:前田 建一郎 (MAEDA, Kenichiro)
博士号取得年月日:2010年7月30日

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はじめに
第一章 伝統は創られる
第一節 資料と方法
第二節 チャタム諸島の概要
第三節 人類学における伝統理論
第四節 ネイティブからの批判
第二章 モリオリ神話
第一節 ニュージーランド人類学におけるモリオリ研究の位置づけ
第二節 『Lore』の出自
第三章 原住民土地法廷
第一節 原住民土地法廷の概要
第二節 1870年の原住民土地法廷
第三節 民族の境界
第四章 ワイタンギ審判所
第一節 漁業権問題
第二節 先住民の分裂
第三節 「文化」の復興
第四節 ワイタンギ審判所と人類学
終章
第一節 ワイタンギ審判所レポート
第二節 結語


 本論が扱う現象は、ニュージーランドのチャタム諸島の先住民の部族集団間での、土地権利と漁業権をめぐる民族紛争である。この土地と水産物という有限の自然資源の所有権を争点とした、資源ナショナリズムを通じて、民族という自意識や区別が希薄だったチャタム諸島の先住民が、モリオリとンガティ・ムトゥンガというマオリの部族に真っ二つに分かれて、民族を創りあげていった過程を描くことが、本論の目的である。
 チャタム諸島における民族の構築過程を捉える際に目をひくのは、1870年代の原住民土地法廷、そして1990年代のワイタンギ審判所への権利要求と、司法機関を舞台にして部族間の紛争が繰り広げられている点である。民族を構築していく際に、敵対関係にある部族が競合相手として存在している、ということは特に重要である。ここでは身近な隣人、あるいは時には身内からの異議申し立てがあることで、民族を道具であるかのように、自由に操作することは容易ではなくなっている。本論は資源をめぐる紛争が、司法機関を舞台にした、慣習や文化をめぐる論争として表象されている点に着目し、チャタム諸島における民族の生成の過程を明らかにしていく。
 本論で先行研究の検討にあたる第一章と第二章は、人類学・歴史学などの学術論文のみをソースにして、議論を構成する。民族誌的記述にあたる第三章と第四章は、ワイタンギ審判所へのクレームの審議に際して、モリオリとンガティ・ムトゥンガの両部族団体が提出した、証拠資料集に依拠している。

 まず第一章では、主にニコラス・トーマスの「伝統の反転」という概念を手がかりに、人類学における伝統に関する理論とその問題点を明らかにし、ニュージーランドにおいて人類学者が現地人との対話を回避するという、今日の状況がいかにして生成してきたかをみてきた。
 トーマスは支配者と被支配者のインタラクションを通して大胆に展開してきた、オセアニアにおける伝統の客体化の弁証法的な対抗過程について論じている。伝統の「客体化」の過程は、内的なプロセスとして議論されるだけでは不十分だとトーマスは言う。オセアニアでは、人の移動や相互交流が活発になった19世紀後半に現地の人々は、支配者である西欧人が持ち込んだ論理を逆手にとって、新たな意味を付け加えることで、自分たちの伝統を表象するという試みが盛んに行われるようになったのだと、トーマスは主張した。
 1980年代以降人類学では、「構築」、「創造」あるいは「客体化」など、様々な概念を駆使して、近代のプロジェクトを通じて伝統が創られる過程を議論してきたのだが、先住民の文化的ナショナリズムに対して構築主義的な伝統理論をあてはめた事で、人類学者は研究の対象とする現地社会の人々、いわゆる「ネイティブ」からの異議申し立てにあうという、思いがけない結果を招くことになった。これは米国の人類学者アラン・ハンソンがアメリカン・アンソロポロジスト誌上の論文で、カヌーの大船団による移住の伝承や、至高神イオというマオリの宗教観念をとりあげて、これらがまさしく白人の人類学者によって「創造」された伝統であると指摘した所、マオリからの怒りの抗議にあうことになったというスキャンダラスな出来事だった。
 このような事態は、人類学の研究がアカデミズムの外部、より具体的には人類学にとっての研究対象の人々からの解釈にさらされているということに、これまで人類学者があまりにも無頓着だったことを露わにした。もはや人類学はネイティブを一方的に解釈する超越的な立場にはなく、同時に研究の対象だったはずのネイティブからの解釈にさらされる客体でもあることが歴然となった。ハンソンの論文をめぐる騒動は、参与観察という人類学の知の実践を可能にしてきた、人類学者と研究対象との距離の取り方を、かつてと同じままに守ることが難しくなっていることを白日の下にさらけだした。

 第二章は、第一章で取り上げたハンソンの論文についての検証を行う。ハンソンの論文については、政治的な正しさという点ではともかく、歴史的な事実としては正しかったという認識が定着している。だが第二章では、白人人類学者が大船団と至高神イオの伝承を創造した、とハンソンが指摘する際に論拠とした、歴史学者デイビッド・シモンズの研究を精査することで、ハンソンの理解が事実関係のうえでも誤っていた、ということの論証を試みた。
 20世紀初頭までにニュージーランドの各地域から集められた、口承伝統の説明は時として一貫したものではなかったが、ポリネシアからのマオリの移住についての統一見解をまとめあげたのが、白人の人類学者パーシー・スミス(Percy Smith:1840-1922)だった。19世紀後半にンガティ・カフングヌ族の賢者たちが語り、書記ファタホロが書き留めた、祖先の移住の伝承を記録した秘蔵の文書を手に入れると、スミスはこの証拠資料「ファタホロ文書」を用いて、『Lore of the Whare Wananga』というスクープ論文を発表した。ハンソンによれば、ニュージーランドへの西欧人の入植を正当化するために、スミスはこの「ファタホロ文書」の証拠を捏造することで、950年のクペによるニュージーランドの発見と、1150年のトイの移住と、1350年の大船団の移住という、マオリの移住の伝承を創り出したのだという。
 だがシモンズは、スミスが言及した証拠資料のマオリ語の原文を丹念に調べあげ、ニュージーランド各地の図書館に現存しているファタホロ文書の諸原稿の複写と、ひとつひとつ照合することで、ファタホロ文書の出自を徹底的に洗い出した。このシモンズによる検証作業の結果、スミスの『Lore』に書かれている移住の口承伝統は、ンガティ・カフングヌ族の部族委員会によって承認を受けた証拠に由来しているのではなく、実際には様々なソースからファタホロが後に編集したものであることが判明した。
 ハンソンは、「およそ1350年頃の大船団による組織的な遠征という概念は、本質的に異なるマオリの伝承を単一の歴史的説明に融合しようとする試みの中で、スミスのような西欧人学者によって構築された。」と述べているが、ハンソンはシモンズの研究の最も重要な論点を誤読している。シモンズの研究を精読することでわかるのは、スミスは英語の注釈で過剰な解釈を加えることはあっても、口承伝統についてはファタホロが記述した文書の内容を忠実に受け入れていたということだった。つまり半世紀前にンガティ・カフングヌ族の賢者たちが語った言葉は、ファタホロによる度重なる転写と編集の過程において失われてしまったのである。ハンソン問題が起きた後の、1994年にJPSに発表された論文の結論部でシモンズは、賢者マトロハンガが実際に話した言葉を、語り直して書き直すということが、ファタホロの主な活動だったと評価している。
 したがってハンソンがシモンズの研究成果を認める以上は、『Lore』の事実上の著者がファタホロだったと断定するまではできないとしても、少なくともファタホロとスミスによる協同作業によって創り出された書物だった、と言うことが十分可能なのである。シモンズの研究を大胆に解読するならば、カヌーの大船団によるポリネシアからのマオリの民族大移住という大きな物語を考案し、その枠組みの中に、内容の面で複雑に入り組んだファタホロ文書の諸原稿を割り当てる仕事をしたのはスミスだった。だがその編集の際の拠り所となった伝承のソースというレベルでは、証拠の資料を生産していたのはファタホロであり、スミスはマオリ語のオリジナルの証拠そのものを改ざんしていたわけではなかったのである。
 ハンソンが言うように、ニュージーランドへの西欧人の入植を正当化するために白人人類学者が創り出した大船団の物語をマオリに押しつけた、というほど事は単純ではなかった。ハンソンは、担い手が誰かということに応じて、「創造」の性格は異なるのだという。現地の人々が自分自身の伝統を発明する場合は、現在の現実や願望を正当化したものだとされる一方で、支配者が従属者の伝統を「創造」する場合には、非対照的な権力関係を維持する文化帝国主義になるのだという。だが大船団の伝承が白人人類学者によって「創造」された、というハンソンの主張は誤っていた。シモンズの研究が見事に明らかにしたように、むしろ大船団の伝承は、白人人類学者とマオリの書記との「協同作業」によって創造された、と言うべきなのである。

 次に第三章では、1870年にチャタム島で開かれた原住民土地法廷の裁判記録を用いて、土地に対する所有者を確定するという手続きを通じて、法的な主体として部族が立ち現れていった過程を記述する。原住民土地法廷とは、マオリの慣習に基づいて、土地の適切な所有者が誰なのか特定するために、1865年に設けられた法的機関である。いまだかつて、個人所有という概念も土地の境界線も存在せず、部族による共同所有が原則だった所に、土地の個人所有という未聞の権利のあり方がふってわいたことで、チャタム諸島では「原住民」であることが新たな意味を帯びるようになり、1870年に原住民土地法廷が開廷した頃には、土地の権益をめぐって先住民モリオリと、1830年代にニュージーランド本島から移住してきたンガティ・ムトゥンガ族との間に、激しい対立が生じていた。この原住民土地法廷での両者の対立の最大の争点は、ンガティ・ムトゥンガ族によるモリオリの「征服」に関する慣習の違いだった。
 1835年に、ニュージーランド北島のタラナキ地方で部族間抗争に敗れて土地を追われた、およそ900人のマオリが新天地を求めて、一斉にチャタム諸島に移住してきた。このンガティ・ムトゥンガという部族を中心とするマオリの新しい移住者と、元々の住民であるモリオリとの間にはまもなく争いが起こり、戦う術を知らなかったモリオリは、ンガティ・ムトゥンガによって無抵抗のままに征服され、当時1600人居たとされるモリオリの人口のうち300人が虐殺された。生き残ったモリオリは、ンガティ・ムトゥンガの奴隷として数十年にわたって従属させられ、ようやく奴隷解放が達成された1862年頃にはモリオリの人口はわずか101人にまで激減したという。
 だがマオリの近代の歴史を見れば、武力を伴う征服は正当な行為であり、土地を支配する際に最も強力な方法だった。ンガティ・ムトゥンガは適切な慣習的手続きを経て、モリオリを征服したことによって、チャタム島の土地を手に入れたということを、原住民土地法廷で主張したのである。
 一方の被征服者であるモリオリの主張によれば、マオリの慣習が武力を肯定していたの対して、モリオリの祖先ヌヌクが定めた慣習では戦い、特に死に至らしめる戦いが禁止されていたという。意外にも1870年の土地法廷でモリオリは、征服に際して「無抵抗」だった事実を強調したのだった。
 モリオリは自分たちから攻撃をしかけることはなかったし、ンガティ・ムトゥンガが武力を用いて仲間を殺害した時にもなお無抵抗を貫いた。征服に際してモリオリが一切抵抗しなかった以上、ンガティ・ムトゥンガにはモリオリを殺す理由など本来なかったはずである。それにも関わらず、ンガティ・ムトゥンガはモリオリを容赦なく殺戮した。モリオリの慣習の観点からすれば、復讐の必要もないのに血が流されたことで、ンガティ・ムトゥンガの土地に対する権利を申し立てる資格は失われたことになる。被征服者であったモリオリは、征服に際して必要の無い血が流されたという、ンガティ・ムトゥンガの落ち度を突く戦略をとったのである。
 ところがモリオリは無抵抗を貫くということで、祖先の慣習を守ったという論理は、法廷では受け入れられることはなかった。判決では、ンガティ・ムトゥンガに対してチャタム諸島の土地のうち97%の所有権が認められ、モリオリにはわずか3%の土地しか与えられないという、モリオリに対して圧倒的に不利な裁定が下されたのである。征服を試みたンガティ・ムトゥンガに対して、モリオリが一切抵抗しなかったという証言は、むしろ征服を受け入れたことの何よりの証拠だと、法廷の判事に見なされた。さらにモリオリが長期間奴隷におとしめられたという供述は、ンガティ・ムトゥンガが誰にも邪魔されることなく占有を継続し、1840年以降に引き続き征服時の状況を維持してきた、ということの絶好の証拠になったのである。
 つまりモリオリは皮肉にも、敵対しているはずのンガティ・ムトゥンガの主張を裏付けるような証言をしてしまったことになる。もちろん土地法廷で、モリオリの証人たちが実際に意図していたのは、ンガティ・ムトゥンガによる大量殺戮や十数年におよぶ奴隷化などの、モリオリが被ってきた数々の不正義がいかに根深いかを示すことにあった。だが判事の目には、そうした供述はンガティ・ムトゥンガによる征服が、強固に持続していることを示す証言としかうつらなかった。
 ここにモリオリが無力な犠牲者であることを主張すればするほど、ンガティ・ムトゥンガによる征服の確からしさをますます強化するという、奇妙な論理の一致が成立してしまった。両者は土地の所有権をめぐる利害関係では真っ向から反目しながらも、表象の上では、ンガティ・ムトゥンガはいかに残虐にモリオリを征服したかを主張し、モリオリは哀れな迫害を受けてきたかを主張することで、マオリによるモリオリの征服という整合性のとれたひとつの物語を、一体となってつむぎあげたのだった。

 第四章では、1990年代にモリオリとンガティ・ムトゥンガ族の双方が、ワイタンギ審判所に提出した証言、資料集に依拠して、過去の土地法廷でモリオリの敗北を決定づけた「無抵抗の慣習」が、今度は現代のワイタンギ審判所での権利要求において、モリオリがマオリとは異なる民族集団であることを立証するために、モリオリの「文化」のユニークな特徴として再び脚光を浴びるようになるまでの過程を明らかにした。
 ワイタンギ審判所への権利要求で、モリオリとンガティ・ムトゥンガが争っていたのが土地権利だったら、事態がここまで荒れることはなかっただろう。1870年以降の原住民土地法廷の判決という、ガイドラインがすでにあるわけだから。「マオリの漁業権」という、今までは存在しなかった新しい権利をめぐる争いだったからこそ、審判所での聴聞は紛糾を極めた。19世紀後半にチャタム諸島で、土地が部族による共同所有から個人所有へと移行する過程で生じた混乱と、状況はよく似ている。
 本州と九州を足した面積の国土に、わずか400万人だけが住むニュージーランドは、その希薄な人口密度に対して水産資源は、1970年代まではほとんど手つかずの状態に等しかった。1980年代の後半にアジア向けの輸出市場がひらけるようになったことで、漁業権の経済的価値は一挙にして高まった。チャタム諸島の人々は、それまであまり関心のなかった水産資源に莫大な富が眠っていることに気づいたのである。
 ところがクオータ・マネージメント・システムという新しい漁業権割り当て制度が1986年に導入されると、限られた漁業権はチャタム島外の水産企業によって買い占められ、先住民が参入する余地は残されていなかった。チャタム諸島の先住民にとっては、農業はマージナルで、漁業こそが経済的かつ文化的な生き残りにとっての中核である。本来先住民に帰属するべきはずの漁業資源が、営利目的の部外者の人々によって搾取されているという事態を見過ごすことは、主権をクラウン(英国王室)に移譲する代わりに、クラウンはマオリの財産を保護するという、ワイタンギ条約の約束に対する重大な違反だと、彼らは言う。こうして失われた漁業権を取り戻し、先住民のための特別な漁業権の枠を獲得すべく、チャタム諸島の先住民モリオリと、ンガティ・ムトゥンガは、1988年は別々にワイタンギ審判所にクレームを申し立てた。
 百二十年の時を越えて両者が再び相まみえることになったワイタンギ審判所では、「文化」についていかなる語りがなされたのか。第四章では「文化」という言葉の使われ方に注目しながら、主にモリオリの側の主張を検討した。1870年の原住民土地法廷の時代と、現代のワイタンギ審判所とで大きく変わったのは、「慣習」に変わって「文化」というキーワードが、民族集団間の差異を語る際に頻繁に参照されるようになった点である。ここでは政治経済的利害に基づく差異を超えた、根源的な差異の発生源として、「文化」という言葉が使われるようになった。そうなることでワイタンギ審判所においては、先住民の党派の間の漁業権の利害調停ということを越えて、自明に尊重し、保全しなければいけない差異を指し示す概念として「文化」が問題とされるようになったのである。
 数十年にわたる永い眠りから突如として覚醒し、モリオリが独自の民族集団として新たに生成したのは、血統でも、身体的差異でも、言語でもない、「文化」という人類学にとって馴染み深い論理が、チャタム諸島の住民を束ねる結節点となることで、はじめて可能になったことだった。モリオリがマオリとほとんど同じ「文化」しか持たないのだったならば、ンガティ・ムトゥンガとの分裂を引き起こしてまで、あえてモリオリの「文化」を回復する必要があると主張することの根拠は弱くなる。モリオリは「文化」という武器があったからこそ、ワイタンギ審判所で闘えたのである。

 こうしてチャタム諸島では、人類学者が広めようとしてきた論理は、単にアカデミズムの世界だけに留まらず、現地の人々にとっての現実の一部を構成するようになってきた。今日では、過去に発表された人類学の研究について学習することは、現地の人々がワイタンギ審判所で「文化」について語る際の必要条件にさえなっている。自分自身の周りの状況を把握して、能動的に応答するというのは人類学者に限ったことではない。現地の人々は、植民地主義によって持ち込まれた論理を逆手にとって、自己の文化を「創造」するようになっている。
 私たちが立ち止まって考えなければならない問題は、「文化」について語るときの言説だけを見た時に、もはや現地の人々と、人類学者という区別はあまり意味のないものになっているということである。現地の人々が、私たちとほとんど同じような論理で動くようになっている以上、人類学者だけが状況から距離をとって、批判的なものの見方をすることはもうできそうにない。このような状況において、人類学がいかに現地の人々による構築実践を記述しうるのか、ということはこれから問い続けていかなければならない課題である。

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