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博士論文要旨

論文題目:社会規範はどのように迷惑行為に影響を及ぼすのか ―記述的規範と命令的規範の相違と注目からのアプローチ―
著者:高木 彩 (TAKAGI, Aya)
博士号取得年月日:2010年7月14日

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 迷惑行為の増加が問題とされる時,その原因として行為者の規範意識の低下や社会規範の軽視に言及することが多い.規範意識の低下や社会規範の軽視によって,人々が規範的行動を行わない結果,迷惑が増加したという考え方である.そのため,人々の規範意識や社会規範への理解が向上すれば迷惑行為は減少するはずだが,それが実現していないがゆえに,社会問題化しているという見方である.
 本論文では,社会規範が実際に迷惑行為の生起にどのような影響を及ぼしているのか実証的に検討を行っている.その結果から,社会規範が迷惑行為の生起に及ぼす影響は,社会規範の種類や様々な要因に左右されるため,状況によって大きく異なることを明示する.そしてそれゆえに,単に規範意識の向上や社会規範への理解の促進だけで,迷惑行為が抑止できるとする見解に本論文は異論を唱えるものとなっている.
 対象とする迷惑行為の一つ一つは,いずれも犯罪行動のような悪質性の高い行動ではなく,社会に及ぼす影響は小さい.しかし,多くの人々が迷惑行為を行うことによって,別の迷惑行為を連鎖的に引き起こしたり,悪質性の高い行動を誘発したりする恐れがある.そのため,社会全体への潜在的悪影響は小さくない.そこで本論文では,迷惑行為における社会規範の影響を解明するだけでなく,いかにしたら社会規範の影響力を活用して迷惑行為を低減させられるのかを検討した.それを踏まえて,未解決のまま現在残されている課題,すなわち迷惑行為の蔓延が誰の目からも明白な状況における迷惑行為の低減方略の提案を行った.
 
 本論文の検討内容とその意義は次の6つに集約できる.
 第1には,社会的迷惑の議論において,社会規範と規範意識の概念整理を行ったことにある.まず,社会規範と規範意識(個人的規範)は,異なる動機づけに基づいて行動に影響を及ぼすため,社会的迷惑への影響を議論する際には両者を分けて扱う必要性を述べた.また,社会規範に関しては,命令的規範(人々がその場でどう行動すべきかを意味する社会規範)と記述的規範(実際にその場で人々がどう行動しているかを意味する社会規範)に分類した議論が必要なことを示した.
 第2には,迷惑行為を行う状況を実験的に作り出し,命令的規範が迷惑行為の生起に与える影響を検証したことにある.従来の考えに基づくと,社会においてどう行動すべきか,という命令的規範に行為者の意識を向けることさえできれば,迷惑行為は抑止されることになる.それに対して本論文では,行為者が命令的規範を理解し十分に意識している場合でも,その命令的規範に一致した行動をとらずに,迷惑行為を行う可能性があることを指摘した.このことを実証的に検討するため,命令的規範が迷惑行為に及ぼす影響に焦点を当てた実験室実験を行った.実験では,プライミングの手法を用いた実験操作により,行為者が迷惑行為の抑止を奨励する命令的規範に注目する状況を設定した.しかし,命令的規範への注目によって,迷惑行為の生起は抑制されなかった.すなわち,命令的規範が顕現的となる状態を作り出しても,迷惑行為は低減しない可能性を示した(研究2,3).このことは従来の考えの再考を意味する.
 第3に,社会的迷惑は,行為者と認知者の注目する規範の差異から生起している場合があることを示したことにある.社会規範といっても,社会規範の内容(奨励する行動)も異なれば,その源泉にある動機づけも異なるなど,様々である.そのため,ある行為を行う者と,それを認知する者が必ず同じ規範に基づいて行為を評価するとは限らない.規範の中には,同じ行動を奨励する規範もあれば,それを支持しない規範も存在する.よって,ある社会規範に即した行動は,別の社会規範に反した行動にもなりうる.そこで,実験室実験にて,認知者の注目する規範を操作し,行為者と認知者の注目する規範の一致・不一致が,迷惑認知の評価に及ぼす影響を検証した.その結果,同じ行動であっても,認知者が行為者と異なる規範に注目していた時に比べ,同じ規範に注目した場合には迷惑認知が低減することを明らかにした(研究1).この結果が示すように,迷惑行為の一部が,行為者と認知者が注目する命令的規範の相違から生じることを実証的に検討した点に意義がある.それは,行為者の規範意識の高さに関係なく,認知者と行為者の注目する規範に相違があれば,社会的迷惑が生起しうることの証左となるからである.
 第4に,迷惑行為の生起に記述的規範が密接に関連をしていることを示し,それゆえに記述的規範の方が,命令的規範より迷惑行為の低減を導くのに有効な可能性を提示したことにある.従来の社会規範と迷惑行為の議論では,命令的規範とその命令的規範が内在化された規範意識に主眼が置かれていた.だが,社会規範を命令的規範と記述的規範に分けた議論が必要と考える本論文の立場からは,命令的規範のみに焦点を当てる前に命令的規範と記述的規範を比較する必要がある.そのため,命令的規範と記述的規範のどちらがより迷惑行為の生起に影響力をもち,抑止を図る上での効率性が優れているのかを検証した.その結果,記述的規範は命令的規範よりも多くの迷惑行為と密接な関連をもつことを明らかにした.記述的規範は研究4で扱った全ての迷惑行為に関連していた.つまり,周囲の人々が頻繁に行っていると知覚した迷惑行為ほど,行為者自身も頻繁にその迷惑行為を行う傾向が認められたのである.それに対して命令的規範は,一部の迷惑行為のみに関連が確認された.すなわち,迷惑行為の低減には,命令的規範より記述的規範の影響に焦点を当てた方が効率的なことが明らかになった.そして,迷惑行為を奨励しない記述的規範を形成する取り組みが,迷惑行為の低減に有効なことを述べている.なお,社会規範と迷惑行為の生起頻度の間の因果関係については,縦断調査の実施によって検討されている.その結果,社会規範の知覚が迷惑行為の生起頻度に影響を与える因果関係を想定することの妥当性を確認し,迷惑行為の生起頻度が社会規範の知覚に影響を与える因果関係だけから両者の関係性が成立しているという代替説明を排除した(研究5).
 第5に,本論文の中核をなす部分であるが,迷惑行為が蔓延していることが明白な状況での迷惑行為の低減方略を提案したことにある.迷惑行為が蔓延した状況とは,迷惑行為を支持しない命令的規範があるにも関わらず,迷惑行為を奨励する記述的規範が形成されている状況を意味する.このように相反する行動を奨励する社会規範が並存する状況では,行為者は命令的規範と記述的規範の情報を総合的に考慮し,命令的規範を遵守すべき状況だと判断した場合に迷惑行為を抑制する可能性を指摘した.そのため,その不一致の状況を「この状況では命令的規範はまだ行動レベルでは浸透していないが,今後行動レベルでも受容されるだろう」と行為者に解釈させる取り組みによって,迷惑行為を低減させる方略を提案した.本論文の低減方略は,行為者が記述的規範と命令的規範の両方の情報を考慮している場合を指摘した上で提案する点で,記述的規範と命令的規範のどちらか一方のみにより行動を予測する従来の研究と異なる(e.g., Cialdin & Trost, 1998).
 第6に,記述的規範と命令的規範の不一致状況の解釈を,迷惑行為の抑制に向うよう解釈を方向づける要因として,対象行動の重要度の役割を実証的に明らかにしていることにある.この点もまた,前述の第5の点と同様に本論文の中核部分にあたる.行為者が対象行動の重要度を高く評価する場合には,記述的規範と命令的規範が一致しない状況を「まだ行動レベルでは浸透していないが,これから当該場面においても命令的規範は受容されていく社会規範であり,遵守すべきである」と解釈し,迷惑行為を抑制するという仮説を検討した(研究6~研究8).実証研究では,後部座席のシートベルトの着用問題を取り上げ,後部座席のシートベルトの非着用を迷惑行為とし,着用頻度の向上を迷惑行為の低減とみなし検証した.その結果,着用を奨励しない記述的規範が知覚された場合,行為者が考えるシートベルト着用の重要度によって,行為者の着用頻度に違いがみられた.着用を重要だと考える人だけが,着用を奨励する命令的規範を知覚した場合に着用頻度を高めていたのである.すなわち,周囲の人々のシートベルト着用頻度が低いという望ましくない記述的規範が形成されている状況でも,行為者が命令的規範を遵守すべき状況と解釈されるよう導ければ,迷惑行為は減少(シートベルト着用頻度が増加)するという仮説を支持する結果であった.この結果は,重要度の調整効果における限定条件を明らかにした意義をもつ(e.g., Schultz, Tabanico, & Rendon, 2008).先行研究では,対象行動の重要度を高く評価する行為者は,迷惑行為が蔓延しているという記述的規範の情報がありさえすれば,反発して迷惑行為の抑止する動機づけを高めると予測していた.本論文で取り上げたシートベルトの着用の場合には,シートベルトの着用を重要だと考える人は,低い着用率の情報を提示された時ほど着用頻度を高める傾向を予測する.しかしながら先行研究では理論的考察に留まり,重要度の要因について直接的にその効果を実証した研究はほとんどない(e.g., Schultz, Tabanico, & Rendon, 2008).そのため本論文ではまず,実証的知見を提供したという意味を持つ.そして,実証的検討の結果から,対象行動の重要度を高く評価する人であっても,迷惑行為が蔓延しているという記述的規範に常に反発を示すわけではなく,迷惑行為の抑制を奨励する命令的規範の知覚がある場合にのみ,記述的規範に反発を示し,迷惑行為を抑制することを明らかにしたという意義がある.
 
 本論文の一連の検討結果からの迷惑行為の低減方略への示唆は以下の通りである.
 迷惑行為を抑制させるためには,まずは記述的規範に注意を払うべきだということである.本論文が対象とした迷惑行為は全て記述的規範と密接な関わりを持っていた(研究4).さらに,後部座席のシートベルトの着用問題を検証した研究6~研究8においても,記述的規範が規定する部分は大きく,シートベルトの着用が普及していると行為者に知覚させることが出来れば,重要度や命令的規範の要因に関係なく,効率的に着用頻度を高められるという示唆を得た.また,着用を奨励する記述的規範が知覚されることには,シートベルトの着用を重要と考えない行為者の着用頻度も増加させるという利点をもつ.ただし,反対に着用を奨励しない記述的規範を知覚された場合には,シートベルトの着用を重要だと考える人であっても着用頻度を減少させてしまうことを意味する.
 次に,迷惑行為を奨励する記述的規範が形成されてしまい,その記述的規範の知覚を望ましい方向に修正することが困難な場合には,迷惑行為を禁止する命令的規範の知覚を促すことと,行為者自身が迷惑行為を抑制することの重要度を高く評価するような働きかけの両方が必要だということである.それはシートベルトの着用が普及していないと記述的規範が知覚された状況では,重要度を高く評価する人が,シートベルトの着用を奨励する命令的規範を知覚した場合にのみ,着用頻度を高めていたためである.すなわち,望ましくない行動を奨励する記述的規範から逸脱した行動を促すには重要度と,望ましい行動を奨励する命令的規範の知覚のどちらも欠かせないということである.
 したがって,まずは可能な限り記述的規範が望ましい行動を奨励するような環境を整備することが必要である.同時に,人々が望ましくない行動を奨励する記述的規範があると誤って知覚することのないように努めるべきである.もし望ましい記述的規範の情報(例えば,多くの人々がシートベルトを着用している)が存在する場合には,積極的に人々へ知らせる取り組みが有効であると言えよう.それと同時に,命令的規範への理解を求めることが必要である.その際には,なぜ社会においてルール化され遵守が求められているのか,その論拠も省かずに情報を提供するなどして,重要度の評価を高めるような啓発活動が必要なことを示している.
 以 上

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