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博士論文要旨

論文題目:米国における「人身取引」問題-「実態」をめぐる語りの変遷-
著者:佐々木 綾子 (SASAKI, Ayako)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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論文要旨

 本稿は、米国において「人身取引Trafficking in Persons」問題が構築された背景とその様相とを明らかにすることを目的としている。
 「現代奴隷制Modern-Day Slavery」という別称を持つ「人身取引」という社会問題に対し、米国は2000年人身取引被害者保護法Trafficking Victims Protection Act of 2000(以下TVPA)(P.L. 106-386)を制定し、「加害者」訴追と「被害者」の保護支援を実施するための包括的な枠組みを整備した。以来、米国は政府が取り組むべき様々な政策課題のなかでも「人身取引」問題を優先的に取り組むべき課題とし、世界で初めて各国の「人身取引」に関する取組みを評価するなど、日本を含むあらゆる国々の法制度に大きな影響を与えてきた。
 筆者は、TVPAが成立する直前に当たる2000年、米国で実際の「被害者」支援に携わっていたが、当時の米国には「人身取引被害」を判断する明確な基準は存在しておらず、社会における問題の認知度も低かった。従って、現場の「支援者」たちは他の先進諸国の状況を参照し、「支援者」同士の情報交換によって「人身取引被害」の判断基準を作り上げていた。そして、「人身取引」の「実態」を語り、問題の解決と「被害者」支援に関する公的対応の必要性を米国議会や社会に働きかけていったのである。
 直接支援か間接支援かを問わず、「人身取引」問題を根絶しようとする人々は、統計や事例、経験や見聞、他国や過去の対応、常識や倫理等に照らし合わせつつ主観的にそう思われた「実態」を語り、解決方法を考え、成文化を行おうとする。しかし、人々が説得材料として用いる統計や事例に表される「実態」は、ある基準に沿って解釈を行い、他の解釈を退けてこそ成り立つ。つまり、「人身取引」の「実態」をめぐる語りは、語る側と聞く側との相互行為によって、双方がある解釈を共有したときのみ「実態」として成り立っているのであり、解釈を共有しなければ、統計や事例も説得材料としての役割を果たし得ない。
 「実態」は一つではない、多様である、という説明はいくらでも可能であるが、多様にあり得る「実態」を、すべてカバーできる法制度を整備していくことは不可能に近い。であるならば、どの「実態」を選び取り、その法制度が保障すべき「被害者」が経験する「実態」とするのか。典型的パターンとその対処法を、誰が決めるのか。現在でも「人身取引」の定義や原因をめぐっては様々な解釈があり、「被害者」認定の難しさについても議論がある。そうしたなかで、ある特定の解釈が「人身取引」の「実態」として受け入れられ、その「実態」に即した法制度が整備され、ある基準に沿って「被害者」と見做された人々への支援が実施されている。そこでは、どのような力が働き、誰の声がどのように聞かれていて、何が成し遂げられているのか。こうした問いの上に、本稿は構成されている。
 
 本稿において筆者が考察を行っている「人身取引」とは、「若い女性たちが、先進諸国で良い仕事があると騙されて売られ、売春を強要される」あるいは「貧しい家庭の親が、仲介人を通して子どもを働きに出し、働き先となる売春宿で子どもたちが売春を強要される」などといった言説によって成り立ってきた社会問題である。
 米国司法省の報告書によれば、米国には毎年14,500人から17,500人の人々が「人身取引」されてきている。世界では毎年60万人から80万人の「被害者」が国境を越えて取引されており、国境を越えない国内における取引を加えると、その数は200万人から400万人に達するという。また、国際労働機関(ILO)は、世界中で1,230万人が強制労働の被害を受けていると見積もっており、そのなかで240万人が「人身取引」された結果であると推定している。国境を越える「被害者」のおおよそ80%は女性と少女で、50%は未成年であり、その大部分は性的搾取の犠牲となっているとも言われている。
 このような問題状況とそれへの対応について、先行研究の多くは現状の問題点を指摘し、「現状の改善」のための提言を行っている。例えば、ジェンダーや格差などの社会構造との関係のなかで問題を分析したり、売春と「人身取引」とに共通する問題点やメカニズムを分析しつつ、改善の方向性を提示するもの、売春根絶と「人身取引」根絶という2つの異なった目標が同時に語られることによる「被害者」への影響を説き、現状の認識改変を促そうとするものや、支援現場の「支援者」が、自らの経験をもとに成果や課題を分析し、提言を行っていくものなどが主要な研究成果として蓄積されている。
 これらの先行研究に対して、本稿は「人身取引」の現状や問題点がどのように人々に認識され、言語化され、記述されていくのか、それらがどのような社会背景のもとで、他のいかなる社会問題とセットで語られ、対処されようとしているのかに焦点を当てた考察を行った。
 研究を遂行するに当たり、筆者は構築主義的なアプローチを使用し、言説分析の手法を用いた分析を行った。しかし、筆者は構築主義のなかでも客観的現実についてある程度の想定をおこない、クレイム申し立て活動を社会歴史的なコンテクストのなかに位置付けるコンテクスト派の立場に立っている。米国における「人身取引被害者」を自ら支援した経験や、その後も交流を持つ「支援者」たちとのやりとりから、米国で現在公式に認定された「人身取引」の語りは非常に部分的なものでしかないこと、また、ブッシュ政権下で構築されてきた「人身取引との戦い」の物語の背景には、「人身取引」を根絶するという目的以外に達成すべき事項が設定されており、「人身取引」をめぐる語りが、より大きな物語を作り上げる、いわばパズルの一片のような機能を持たされているのではないかと考えているためだ。
 また、分析と考察に際しては、「被害者」「加害者」「支援者」「救済者」という大きく4つの主体を「人身取引」の語りを成立させている登場人物として想定した。「救済者」には、政策立案者と政府機関関係者という2つの大きな集合体を含んでいるのだが、それは、2つの集合体が最終的には意見の相違を超えて、米国国家としての「人身取引」問題への対処法を米国内外に発信しており、また国益や公益を追求していくことを最大の任務としているためである。
 これらを前提とし、本稿ではまず、1900年代の初頭に「(白人)女性や少女が騙されて売られ、売春を強要される」ことを問題化した「白人奴隷制White Slavery」と「人身取引」の語りとの類似点を見出し、「人身取引」の語りが現在のような形で成立し得た歴史的背景を考察した。一方で、「人身取引」というクレイムが初めて米国議会において申し立てられてからTVPAをもって公的な対応を得ることになるまでの過程において、「人身取引」の「実態」をめぐる語りがどのように移り変わったのか、その変遷を追った。
 TVPA施行後に関しては、その内容を踏まえた上で、2001年から2008年の約8年にわたるブッシュ政権下においてどのような言説や証拠データを伴って「人身取引」問題が取り扱われ、どのような「成果」を出してきたのかを考察し、また、それによって構築されてきた「加害者」像や「被害者」像と背景にあった社会情勢とを総合的に分析した。そして、現在の米国における「人身取引」の語りの在り様と、米国が国家として積極的に「人身取引」問題に取り組む必要性がどのように正当化されているのかを明らかにした。

 本稿は、序章と終章を含め、7章から成り立つ。
 序章では、研究の背景、先行研究と本研究の位置付け、分析枠組みとなる構築主義アプローチと筆者の立場、「人身取引」の語りにおける登場人物について、そして分析資料と分析方法等について述べた。
 第1章では、まず、「人身取引」問題とはどのような問題であると認識されているのかを概観した上で、「(白人)女性や少女が騙されて売られ、売春を強要される」ことを問題とした「白人奴隷制」をめぐって生み出された言説や、その言説が利用した様々な資源、背景にあった社会情勢をみた。そして、「人身取引」と「白人奴隷制」の語りにおける類似点を考察し、「人身取引」という社会問題が現在認識されているような形で成立し得た歴史的背景を明らかにした。
 第2章では、米国の「人身取引」に対する取組みの要となっているTVPAの成立過程を分析した。とりわけ、米国議会を舞台としてTVPAの成立に至るまでに繰り広げられた「人身取引」と「被害者」をめぐる数々の言説の変遷をみることによって、どのように「人身取引」問題が米国社会を脅かす「現代奴隷制」として認識されていったのか、またその問題に対して、米国議会の人々はどのような対処が適切であると考えたのかを明らかにした。
 第3章では、TVPAと取り組みの内容を踏まえながら米国における「人身取引」問題の現状を把握し、約8年にわたるブッシュ政権下においてどのような言説や証拠データを伴って「人身取引」問題が取り扱われてきたのかを考察した。
 続く第4章では、米国の「救済者」言説に言及しながら、「人身取引」をめぐる語りとテロ以降の米国が取った様々な行いとが、相互に支えあうような関係にあったこと、それが国外では米国流の「民主主義」や「文明化」を推し進めることの正当性を支え、米国内では内部に潜む「敵」を排除し、新たな「味方」に米国流の「自由」を保障しようとする試みの一材料となっていたことを明らかにした。
 第5章では、これまでみてきたような、公式に認定された「人身取引」の語りとは異なる形で「実態」を捉える人々の声を取り上げた。具体的には、「支援者」として位置付けられる支援団体とアドボカシーグループの語りに注目し、彼らが現在公式に認定されている「人身取引」の語りをどのように語りなおそうとしているのかをみた。
 第6章では、「人身取引」の「被害者」「支援者」「救済者」として位置付けられる人々の関係性や、それぞれが発言する際のポジショナリティについて、クレイム申し立て主体と内容の連続性という観点からの考察、及び宮地が提唱する「環状島」モデルを用いた考察を行い、多様な「実態」が語られるなかで特定の「実態」が受け入れられていく場で、何が起きているのかについて改めて考える作業を実施した。
 そして終章においては、第1章から第6章を通して分析してきた事柄を振り返りながら、「人身取引」が米国の「奴隷制」の歴史に組み込まれていくことによって、あるいは、「北米大陸を文明化していくのは『われわれ』に与えられた天命である」という、マニフェストデスティニーの論理の下で取り組まれていくことによって認識されにくくなる「実態」について改めて考察した。そして、本研究の成果及び限界を踏まえた上で、日本の「人身取引」問題について今後考察していくための準備を整え、本稿の帰結とした。
 
 各章における考察と分析の結果、米国の「人身取引」問題の背景とその様相は、以下のように整理し、解釈することができる。
 タイにおける「ミャンマー人女性と少女の強制売春」に対する懸念を米国政府として表明するか否か、そこから米国の、国家としての「人身取引」問題の構築作業は始まった。問題は「対外問題」から「女性問題」へと再分類され、そしてやがて「奴隷問題」として理解されて、米国の「奴隷制」の歴史のなかに位置付けられることになった。
 「人身取引との戦い」が正式に始まった2001年、米国では同時多発テロが起きた。テロ後の米国においては、「人身取引との戦い」が「テロとの戦い」と足並みをそろえ、相互に呼応し合っていくことになった。「テロ」が「文明に対する戦争」であるなどと言われたなかで、「奴隷制」を容認し、またそれを積極的に維持しようとする「野蛮な」国々は「文明化」していかなければならないという、米国流のマニフェストデスティニーの論理に支えられながら、2つの戦いは共に推進されていった。
 戦いの正当性は、「敵」である「野蛮人」がいかに危険で「最低の人間たち」であるかを証明していくことによって示された。アフガニスタンへの報復戦争の正当化に、女性に対する抑圧の度合いを利用し、「保護すべき人々」としてアフガン女性たちが利用されたように、「人身取引との戦い」においても、女性に対する抑圧の度合いが戦いの正当性を示すのに利用されてきたといっても過言ではない。女性に対し、身体的暴力や精神的暴力を加えた上で性的に搾取し、経済的にも搾取するという、考えられる限りの「野蛮さ」を備えもった「人身取引加害者」を処罰することは、「われわれ」の使命である。そうした認識は、同時多発テロ後にますます揺るぎ無いものとなったといえるかもしれない。
 しかし、「人身取引」が米国の「奴隷制」の歴史に組み込まれ、マニフェストデスティニーの論理に支えられながら取り組まれたことによって、「人身取引」の解釈やそれを取り巻く言説は、米国社会が経験した「黒人奴隷制」と「白人奴隷制」という過去2回の「奴隷制」がつくりあげた認識枠組みから離れることができなくなり、また、「われわれ救済者」として語られる物語の人物配置と状況認識から自由になることができなくなってしまった。
 つまり、米国社会に公式に認定された「人身取引」の「実態」とそれへの対応の正当性は、米国が「救済者」としての歴史を歩み続けようとする力の働きによって支えられている。そこでは、「現代奴隷制」を廃止し、「奴隷」たちを解放して救済するという立場を維持するにふさわしいと社会歴史的に判断された声が聞かれているのである。
 この力の働きによって、「奴隷」であると見做された「売春女性」という立場に居続けようとし、その立場での労働権を獲得することを主張するような人々の声や、「救済者」であるはずの「われわれ」自らが被害を訴えようとする声は聞こえなくなっている。また、「奴隷制」を外部社会から持ち込み、それを維持する「加害者」であると見做された「外国人男性」や米国内の「人種的マイノリティ男性」が被害を申し立てる声や、救済することが米国の安全や発展のためにはあまり有益でないと考えられる、労働搾取の被害を訴える女性たちの声も、聞こえにくくなっている。
 こうした力のもとで構築された「人身取引」問題は、「奴隷制」を克服した「自由の国」、あるいは強く、正しい国として、米国が歴史を刻み続けるための材料のひとつとなっているのである。
 一方、「奴隷」であると見做された人々を「クライエント」として支援しようとする支援現場では、上記のような「救済者」としての歴史を歩もうとする力とは別の力が働いている。そこでは、「被害者」「元被害者」「支援者」といったカテゴリーに属する人々のうち、誰がどのくらい「実態」を知っているのか、「実態」を語るにふさわしいのか等をめぐる争いが起こっている。また、公式に認定された「人身取引」問題の解釈の変更を求めるために、自らが認識している「実態」をまとめあげようとするなかで、被害の重さ比べ、一般化、普遍化が行われ、強い主張をつくりあげていくために「実態」を選び取ったり、「クライエント」にカテゴリーを押し付けたりすることもしばしば生じている。
 こうした力が働いているなかで、公式に認定された「人身取引」の語りを維持している「救済者」に対する異議申し立てをしようという声はひとつにはまとまっておらず、現在のところ、米国社会における「人身取引」のドミナントな語りを揺るがすほどにはなっていない。
 以上が考察と分析から得られた成果である。これを踏まえ、筆者は現在の米国における「人身取引」問題の語りの在り様に対して、男性の被害や女性の労働搾取の被害を「典型的事例」としたり、「売春女性」の社会的地位と権利向上までを「人身取引」というクレイム申し立てに含めて「現状の改善」を要望していくことは、不可能ではないが、問題に取り組む人々の間の溝をさらに深めてしまう可能性もあるのではないかと考えるに至った。
 多様にあり得る「実態」をすくいあげ、対応していくことを「現状の改善」と考えるのであれば、既存の認識枠組みの力に抗い、それを組みかえようとする努力は継続しながらも、同時に、それによって救われている人々もいることを改めて認識し、既存の社会問題フレイム間を繋げるような、新たなフレイムを創出してクレイム申し立て活動を生み出すことが必要であるように思われる。それによって、陰なる複数の語りに光を当て、こぼれた「実態」をすくっていくことが今後の課題になるのではないか。
 ある問題をどの種類の問題として認識していくのか、あるいはどの問題の延長上に位置付けようとするのかは、その社会の社会歴史的な認識枠組みや、その時代の国内外の動きに大きく依存する。社会歴史的な認識枠組みを変えたり、国内外の動きを止めたりすることは大変難しく、クレイム申し立て人たちは、ある意味では、その時々の状況をみつつ、望むような「成果」を得るためにはどのような枠組みでクレイム申し立て活動を行うのが適切なのかを考え、行動を起こしている。
 その際、行動を起こす者たちは、自らの主張を行うだけでなく、自らの認識がとりこぼす「実態」を把握し、とりこぼした「実態」をもいずれは救っていけるような解釈枠組みを作り出そうとする努力を怠ってはならないと思う。「そこに問題がある」と認識する感受性を持ち続けつつ、様々な視点から問題を捉えなおしてみることが必要である。
 米国の事例を考察してきた今、筆者は自省の念を込めつつこれらを心に留め、研究者として、あるいは「支援者」の一員として、今後の日本における「人身取引」問題の解釈を深めていく作業に関り続けていきたいと思っている。

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