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博士論文要旨

論文題目:都市社会における文化活動の研究 ―両大戦間期の創宇社建築会を中心に―
著者:佐藤 美弥 (SATO, Yoshihiro)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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論文の構成

序章
第1章 第一次世界大戦から関東大震災前後にかけての建築論・意匠論
――その個人性と民族性
第2章 メディアのなかの「復興」――関東大震災後の社会意識と展覧会
第3章 関東大震災後の文化活動――創宇社建築会の結成
第4章 両大戦間期における文化活動の展開――創宇社建築会の1924年-1930年
第5章 1931年の官吏減俸反対運動と創宇社同人――文化活動から労働運動へ
終章
 
研究の対象と問題の所在
 
 本論文は両大戦間期の都市社会に生活する人びとによる文化活動の実態そのものと、文化活動のなかに表現される人びとの意識を、1923年秋に結成された建築技術者グループである創宇社建築会の文化活動に焦点を結んで明らかにすることを目的とする。
 創宇社は、1900年前後に生まれ1920年前後に短期間、各種学校などの実業教育機関で建築に関する実務的教育を受け、逓信省経理局工事係で製図や建築現場での監督を業務として勤務した、建築技術者たちによって結成されたグループである。彼らは結成後、1923年11月に第1回展を開催したあと、1930年の第8回展まで、おおよそ毎年1回の展覧会を開催し、建築専門誌への論文の掲載、講演会の開催といった活動を展開した。そのようななかで彼らは自らが理想とする架空の(稀には実現した)建築作品を展示し、理想的な建築についての主張、彼ら自身のおかれた環境についての議論といった多様な活動を行った。この創宇社の活動の変遷を検討することで、両大戦間期の都市社会に生活する人びとの社会意識とその変遷をたどる軸をつくることができる。ここに彼らの活動に着目する理由がある。
 創宇社の活動は建築史学のなかで、建築家のグループが多様な活動を行う、「建築運動」の一部として把握されてきた。そこでは活動の意義を、建築論や実際に建設された建築作品によって建築界の発展にどのように貢献したかという視角から検討されてきた。それゆえ創宇社の特徴である、都市社会における非エリート文化活動という側面は見過ごされてきた。両大戦間期の都市社会は従来受動的・均質的な特徴をもつ中間階級文化として認識されてきた。このようなイメージに対して無名の人びとの主体的な活動に着目してきたのが民衆思想史研究の流れである。安田常雄は1920年代の「民衆の浮上」のなかで都市・農村における非知識人たちによる内発的な活動によって自己を社会のなかに位置づける思想的営為があったことを示唆している。創宇社の同人は1920年代から1930年前後の思想状況を経験し、文化活動のなかで表現した人びとだった。1923年から1927年においては個人と普遍的な力との連関という発想をもち(第1章、第3章)、1929年から1930年には建築設計における「物質文明の受容としての合理的改革」としてのモダニズムと、マルクス主義を経験した(第3章、第4章)。まさに、安田が示したような1920年代から1930年前後における民衆思想の、これまでほとんど研究のない都市社会に生活する担い手として、創宇社をとらえることができるのである。つまり、創宇社の当該期の活動の実態と、その活動に表現された意識を検討することによって、当該期の民衆思想経験の都市社会における具体的なありかたを明らかにすることができる。ここに創宇社の文化活動を研究対象とする研究史上の意義がある。
 
各章の内容
 
 第1章では、1910年代末から1923年頃までの建築界の思想傾向を対象とした。まず、当時の代表的な建築ジャーナリズムのひとつだった『建築世界』に掲載された論考を分析し、創宇社が結成された関東大震災直後には、震災前の建築について、構造技術偏重で「人間性」や「精神」が欠如している不完全なものだったという認識、そして、震災後の新しい建築は創造性の実現によって「魂が与へられ」、「永久の生命を保つ」ものでなければならないという認識があったことを指摘した。このような建築観は第一次大戦中の建築市場の要求によってあらわれた経済性や機能性を重視する風潮に対する反動としてあらわれた。そうした技術重視の建築観においては建築の美術的側面は等閑視され、それに対して、建築家個人の「心」によって、再総合するというアイデアが主張された。この、建築における再総合のアイデアは「生命」のキーワードによって語られた。それは若いエリート建築家たちが親しんだ生命主義的な思想傾向を背景としたものだった。「生命」における創造による人格の向上を価値とする思考では、建築することは創造性実現の機会として認識されたのである。この建築界における思想傾向は芸術家、斎藤佳三の意匠論にも共通している。斎藤による総合性を重視する思想においては個人性と民族性が直接に連関するイメージが顕著にあらわれている。そしてここでの民族性とは、過去の歴史と断絶した同時代的な性質として認識されていた。以上のような同時期の建築論・意匠論からは、従来の研究によって強調される個人主義的な側面でなく、細分化された社会の諸要素を個人の「生命」の発露によって再総合し普遍的な価値の実現へと導くという思考があらわれている。そして、そのような再総合への志向は創宇社の活動にも流れていくのである。
 第2章では、震災直後における社会意識について報道を材料に検討し、さらに同時期に開催された展覧会の展示内容との関係を検討した。このことによって、創宇社結成の背景となった震災直後の社会状況を確認した。新聞報道には、震災直後から「復興」の言説があらわれていた。この「復興」の言説は社会において支配的な位置を占めたが、震災以前の東京の都市の状態以上の発展のイメージが込められたものだった。同時にそれは震災を契機に社会全体の変革を行うとする「此の際!」の言説を基調とするものであり、「天佑」の結果としてあらわれた奢侈的な風潮に対する批判としての「天譴」論とも関連して、その言説では実用を旨とした「簡素性」、そして「科学性」の価値が大きな位置を占めていた。このような社会意識に展覧会の担い手としての文化界は自らの文脈にそったかたちで読みかえを行って結合をはかったのである。その動きは1924年4月のふたつの展覧会に顕著にあらわれた。国民美術協会主催の帝都復興創案展覧会では、「復興」の言説を芸術界の文脈で再解釈して、芸術家を都市美現出の担い手として位置づけた。都市や建築が芸術表現のテーマとなり、新たな主体による新しいスタイルの建築・都市イメージが生まれた。そしてそれは、マヴォやそれに連なる村山知義の活動、そして創宇社をはじめとする、1920年代を通した批判的文化活動の端緒ともなったのである。一方、中外商業新報社主催の「復興の実状展覧会」は新聞社主催のメディアイベントとして、人びとに震災の「実状」・「復興」・「未来」のイメージを示した。震災後における人びとは、個人の経験では構成することのできない都市のイメージを、このような展覧会で提示された「復興」の表象を介して受容したのである。そして、それは都市に対する社会的関心が増す契機となったのではないだろうか。つまり、「復興」状況において芸術界のなかに多様な建築・都市イメージを表現する機会が生まれたこと、震災を契機に社会全体が都市という主題への関心を高めたこと、このことにより創宇社の非エリートによる文化活動が出現し、その活動を継続する余地が生まれたと考えられるのである。
 第3章では、1923年秋における創宇社の結成について、創宇社の中間的建築技術者による文化活動の先駆的存在としての、1919年におけるミネルヴァ会に着目し、創宇社との共通性、連続性を明らかにした。従来の研究では、創宇社の運動、とくに1920年代前半の運動は、東京帝大出身のエリート建築家の運動である分離派建築会の模倣であり、充分な成果を出すことがなかったという評価が大勢だった。しかし、今回ミネルヴァ会の活動と思想傾向を確認することを通して、彼らの活動が、高い学歴をもたないために〈建築すること〉のなかに創造性を実現する機会に乏しかったものたちの活動として創宇社との連続性をもつものだったことが明らかになった。ミネルヴァ会のメンバーは教育機関や文化活動のネットワークによって創宇社の活動と直接結びついていた。創宇社の結成は分離派の影響下にあることも確かであり、今回、新たな史料によって、創宇社の複数の同人が関西における出張期間に分離派同人との交流をもっていた事実がわかった。そして、その分離派の繋がりにおいても、ミネルヴァ会に参加した濱岡周忠との関係が創宇社第1回展の開催においては重要ということがはっきりした。つまり、創宇社の文化活動はエリート文化の模倣というよりは、第一次大戦中後に変動する建築市場のなかで、私立の各種学校を中心とする実業教育機関によって形成された中間的技術者層のおかれた、日常生活に対する批判意識の表現として内発的にあらわれた活動だったのである。
 そして結成当初の創宇社の宣言や論文、展覧会に出品された作品をみると、そこにはやはり分離派の影響が色濃くあらわれている。しかし同時に、既存の文化としての分離派のスタイルを借用し、独自の主張を表現する創宇社の活動が浮き彫りになる。創宇社は日常的な労働で身につけた技術を導入し、労働時間外における〈建築すること〉によって創造性の実現をめざした。そこでは分離派にみられる理論的根拠への信頼でなく、むしろそのような理論的なものを捨て去ったところから真の創造性が生まれると考えていたのである。このような、構造や平面計画の合理性といった機能的な裏づけを持たない創宇社の作品は批判の対象となったが、ミネルヴァ会の活動を経験した濱岡は一貫して創宇社を肯定的に評価したのである。このような創宇社の活動は彼らをとりまく同時代の社会状況に対する批判、とりわけ労働のなかで実現されない〈建築すること〉を通した自己表現への状態に対する批判を乗りこえようとする実践だったのである。
 第4章では、第2章・第3章で明らかにした、創宇社の結成と活動の起ち上がりののち、それが1924年から1930年にかけてどのように展開していったのかを、展覧会の内容や言論活動にあらわれた思想傾向に焦点を結んで検討を行った。創宇社はほぼ年に1回の展覧会の開催を重ねていく。第2章でみたような〈建築すること〉を通した創造性の実現と自己表現、それによる生活の充実という活動の目的は1924年から1927年にかけて継続した。1927年の単位三科の展覧会と舞台への参加はその到達点であり、〈建築すること〉を逸脱した芸術表現さえ行われたのである。
 その一方で、創宇社の活動に対する批評や単位三科との共同を通して「社会主義」や「科学性」という新たなキーワードが浮上し、創宇社はその新しいキーワードの摂取と模索を行う。1929年から1930年にかけて岡村を中心とする同人たちは、ル・コルビュジエなど同時代のヨーロッパにおけるモダニズムの新しい建築潮流(「新興建築」)とマルクス主義の思想傾向にもとづく新たな理想的な建築についての構想を練っている。これまでの研究では、1923年以来の芸術至上主義的な活動の傾向が、創宇社同人たちの階級的な自覚によって転換したと考えられてきた。しかし、この時期の創宇社同人の言論をみると、決してそのようにはいえない。マルクス主義的な言論に傾斜し、理想的な建築を解釈することは、当時の建築界の全体的な傾向だったのである。
 しかし、創宇社の同人は、モダニズムの建築を無批判に受容したわけではない。モダニズムの潮流を積極的に摂取しつつ、それを「機械論的唯物論」にもとづく建築であると批判する。その批判の根拠はそれが、人びとの生活する社会の実態に即していないという点にあった。この時期の創宇社の活動の特徴はむしろ、このような、1923年から一貫する、生活に立脚する思考にある。創宇社は1929年から1930年にかけて、創宇社の活動を通して培った思考法によって社会的有用性への視点を獲得したのである。しかし、同時に1930年の時点では社会への視点をもって〈建築すること〉をいかに「実践」するのか、このことについての結論はでないまま、創宇社の活動は停止するのである。
 第5章では、1931年5月から6月にかけて起こった、官吏減俸反対運動への創宇社同人の参加の実態を明らかにした。創宇社の活動は停止したが、その文化活動のなかで培養された同人たちの意識は、賃下げに対する反対運動という生活上の具体的な問題に対する抵抗運動のなかで活かされた。先行研究のない官吏減俸反対運動についての概観を行い、逓信本省の運動の運動全体における位置を確認した。鉄道省、逓信省、司法省を中心に反対運動が大規模に展開されたが、各省での運動の論理と運動の展開は異なる特徴をもっていた。これまでの研究のなかでは、官吏減俸運動は不況下における俸給生活者層の動向の一挿話としての位置を占めていたのみであったが、今回の検討によって、官吏の運動が契機となって、俸給生活者の底辺にあった雇傭人層の日常生活の改善の運動が開始されたという重要性をもつことを指摘した。
 都市社会に生活する俸給生活者の運動としての官吏減俸反対運動のなかでは、「生活権の擁護」が叫ばれ、そこでは単なる生存ではなく、消費レベルの維持、すなわち生活の質の充実が重要なものとされた。この消費レベルの維持という目的は俸給生活者全体に共有されたものだったが、その内実は給与や職位によって多様性があった。ここに同時代の都市生活者たちの日常生活における文化の重要性があらわれている。
 創宇社同人たちが中心になって展開した逓信本省内における雇傭人による逓信省経理局雇傭員会の運動にも、待遇改善のみならず日常生活の質の充実への関心があらわれている。同会の活動や、同会が発行した『我等のニユース』の記事からは、彼らの運動が次第に日常生活における待遇改善へとシフトし、労働時間外のリクリエーションの充実や、労働の実態に対する批判とそれを乗りこえて労働を通して生活を充実させることへの希望があらわれていることがみえる。そこには創宇社がその文化活動をとおして表現してきた、同時期の中間的技術者の意識があらわれている。そして創宇社同人は文化活動をとおして培ってきた経験をこの官吏減俸反対運動を契機に展開した労働運動のなかにいかすこととなったのである。そして、1923年から1930年にかけての創宇社の文化活動、そしてその日常生活への展開としての官吏減俸反対運動と雇傭員会の運動への参加は、1932年からの青年建築家聯盟・建築科学研究会の運動となり、1945年の敗戦後にあらわれる建築技術者の活動へと連続していくのである。
 
本論文の成果

・都市社会における非エリートの文化活動の発掘
 本研究においては、創宇社建築会という、尋常小学校を卒業後に徒弟学校や各種学校で事務を学び、中間的技術者として労働した人びとの文化活動の実態を、新資料を含む一次史料や雑誌記事を含む多くの史資料の分析によって具体的に明らかにした。このことをまず具体的な成果としてあげることができる。
 創宇社の活動は「都市化」する社会のなかでの疎外をのりこえようとするものだったといえる。それは観念レベルにおいては個人における創造性によって「生命」という抽象的な価値において全体性を担保し、現実においては〈建築すること〉を通じて友人どうしの共同性を構築しようとするものとして開始されたのだった。このような彼等の思考は、同時代の都市社会における生活の困難に対する批判の表現といえるが、それは農村や日本主義的な価値へと、ナショナリズムへと向かうのでなく、あくまで都市の生活のなかでの解決を構想していたのである。
 創宇社は、都市社会内部における近代性のもたらす問題に対する批判意識の表現として文化活動を展開した。このように創宇社の活動の過程の解明は、都市社会における非エリートの文化活動の事例を新たに発掘したという意義をもつものである。

・日常生活に立脚した思考と実践の場としての文化活動
 創宇社の活動は、先行研究において建築学の発展の流れのなかで把握されてきた。本論文では、その視角を超えて、都市社会に生活する人びとの文化活動としての創宇社の意味をとらえようとした。創宇社の活動にできうるかぎり接近し検討することで明らかになったその活動の実態からは、創宇社の活動が同人たちや周辺の人物たちとの交流を通して思考や実践の方法が培われ実現する場としての文化活動の意義をもつことが明らかになった。

・再総合という思想
 そのような、日常生活に立脚した思考と実践の場では、どのような思想傾向があらわれているだろうか。ハリーハルトゥーニアンによる近代性の特徴としての不安定性を超越しようとする思想傾向としての「モダニズム」の視角は、本論文における創宇社の活動の意味を検討するさいに参照すべきものだろう。創宇社やそれに先行するエリート建築家たちの「生命主義」的な建築論は、建築における技術と美術の分断、建築設計プロセスの細分化を個人のなかで再総合することを目指したものだった。ミネルヴァ会や創宇社の活動においては、さらに都市社会に生活する個人の共同性の回復という目的もみえる。つまり、かれらの文化活動の根柢には一貫して、再総合への志向ともいうべき特徴が顕著にみられるのである。両大戦間期の都市の社会像については、従来、南博らが提示したような、中間階級による受動的・均質的な特質をもつ消費文化としてのアメリカニズム的モダニズムに代表され、そのようなモダニズムは、震災後から1930年代にいたって、マルクス主義との対立の間隙をぬったファシズムにとってかわられるというイメージがいまだ支配的な影響力をもっている。しかし、本論文で検討してきた創宇社の活動からは、震災後の都市社会に生活する人びとがたえず日常生活を批判的にとらえ、主体的にその批判意識を表現する姿をみることができるのである。
以上

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