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博士論文要旨

論文題目:転換期における中日関係の研究:政府と民間、政府とビジネスという視点から
著者:李 恩民 (LI, Enmin)
博士号取得年月日:1999年7月14日

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(一)


 第二次世界大戦終了以来の中日間の政治・経済関係は,その歴史的特徴によって,大きく三つの時期に分けられる。第一期は「国交なき時代」において民間経済外交が盛んに行われた1945-72年の27年間で,第三期は「改革開放の時代」において国際的政治・ビジネス慣行にしたがって政治外交と経済外交が官民両レベルにおいて正常に行われた1979年から現在に至る約20年間である。そして,この第一,三期の間の第二期は,今日の中日関係の基礎作り,枠組作りが行われた「転換の時代」といえる1972-78年の6年間である。本論文はこの第二期を研究対象とする。
 これまでの中日関係研究のほとんどは,この時期を軽視して,第一,三期に集中していた。この第二期の出来事について,政治学者,ジャーナリストによる研究が若干あるが,その多くは中日貿易協定,航空協定,そして中日平和友好条約だけに絞られたため,系統的,包括的な検討はまだほとんど手付かずの状態にあった。しかも,その多くは政府レベルの政治的な動向または国際政治の連動という方法での考察であった。

 戦後の中日関係は政府レベルの政治交渉と国際政治の激動だけによって動かされていたのではなかった。公式の政府間外交と並行していた民間外交,政治外交と並行していた経済外交は,中日関係または広義の意味から言えば,近年国際関係の研究にとって,見逃すことのできない視点である。そこで,筆者はこれまでの研究とは別に,国際関係史研究においてまだ用いられていない二つの新しい視角,すなわち民間外交と経済外交という視点を用い,第二期を取り上げて,日本の対中国外交において政府と民間,政界と財界のそれぞれの思想と行動,友好運動と政治,政治とビジネスの相互作用を考察してみた。これを通じて,従来の外交史と経済交流史において見過されてきた中日関係史,日本外交史の新しい一面を明らかにするととも,政府レベルの政治交渉を中心としてきた従来の国際関係理論をより広い領域に導いてみた。


(1 )民間外交:政府間外交の一側面 

 民間外交(国民外交または人民外交ともいう)とは,政府と直接的な関係を持っていない民間人あるいは民間団体によって行われる 政府の外交に一定の影響を与える国際交流活動をさす。民間ベースでの貿易交渉とその実施,民間人,民間団体によるスポーツ,芸術,学術,文化などの交流活動の全過程がそれに当たる。本論文は,日本の対中国外交交渉にあたって政府と民間の相違に注意を払って,政府外交と並行した民間外交の実態と役割を解明しようとしている。

 ところで,本論文のなかでいわゆる「民間人」「民間団体」とは主に,(1)日中友好協会(正統)・日中友好議員連盟・日中協会などの中日友好関係各団体と個人,(2)日本貿易振興会・日本国際貿易促進協会10団体・日中漁業協議会・日中長期貿易協議委員会などの中日経済交流各関係団体,(3)各関係業界・業界団体(金融,肥料,石油連盟,石油公団など),(4)各関係企業グループ・企業(三菱グループ,住友グループ及び新日鉄,国際石油など),(5)財界4団体と日中経済協会,等5種類の組織及び個人を指している。本論文はまた「経済人」と「財界首脳」(財界人)との二つの用語を使用している。前者の場合は上記の(2)~(5)の企業経営者を指すが,後者の場合は,「財界4団体」と日中経済協会のリーダーたちを意味している。


(2)経済外交:政治外交の一側面

 経済外交とは,国家間の各レベルの経済関係,経済問題に関する外交的交渉活動である。本論文はこの定義をもとに,日本政府の対中国政治外交の展開を考察しつつ,財界の対中経済外交,特に資源外交について分析を試みた。戦後の日本において,経済に関する外交のウェイトは非常に高かった。財界は「見えざるもう一つの政府」として,日本の対中外交にどのような役を演じていたのであろうか,財界の外交参与は,中日政治と経済関係の発展に対して,いったいプラスなのであろうか,それともマイナスなのであろうか。本論文は戦後の中日関係を総合的に把握するには,これらの問題の解明は絶対必要であると認識している。




(二)
 以上で述べた分析の視角を踏まえて,本論文は従来の国際政治や政府レベルばかりに焦点をあわせた研究に対して民間レベルから,また従来の政治外交ばかりに焦点をあわせた研究に対して経済の側面から考察することを課題とした。それを通して日本の中国外交における政府と民間,政治とビジネスないし政界と財界の織り成しているつながりを明らかにし,中日関係の知られざる一面を浮き彫りにしたいと考えている。この目的を達成するために,本論文は固有の資料をいっそう利用しながら,従来ほとんど活用されていない民間経済団体の資料を積極的に渉猟し,それらを駆使して分析に当たった。その主なものは次の通りである。

 (A)民間友好団体,経済団体の出版物と報告書。経団連の対中資源外交に関する重要な文書『訪中経済使節団報告』(1974年1月作成),『経団連訪中代表団報告』(1976年2月作成),『華国鋒体制下の中国と日中経済関係』(1977年7月作成),日台民間経済交流の一次資料である東亜経済人会議日本委員会の『東亜経済人会議(記録)』各年版,中日両国の政府と民間が主催する展覧会に関する協力状況を忠実に記録した財団法人東京中華人民共和国展覧会協力会の『記録・中華人民共和国展覧会』(1975年7月作成),日本貿易振興会の『日本工業・技術展覧会開催報告書』(1975年作成)などは,この種の資料の一部である。

 (B)聞き取り調査資料。一般的に言えば,いかなる一次資料であっても,文献記録として残される過程において省略されたり,粉飾されたりする場合がある。こうした意味で,戦後中日民間外交や経済外交に携わってきた人々の経歴または経験は極めて重要な情報源であり,ヒヤリング調査を適時に行い,歴史研究においてそれを補足的な参考資料として活用する必要がある。筆者は二十数人の当事者から貴重な話を聞き,次の13人へのインタビュー記録を引用した。彼等の名前は林祐一氏(初代駐中国公使・日中協会常務理事),丁民氏(元外交部亜洲司日本処処長・元駐日本公使),白西紳一郎氏(日中協会理事・事務局長),園田天光光氏(元衆議院議員・元外務大臣園田直夫人),平井博二氏(日本国際貿易促進協会相談役),横井陽一氏( 元日揮株式会社経営企画室副室長,元日中経済協会経済交流委員会委員),金光貞治氏(元日本日中覚書貿易事務所総務部長),稲山孝英氏(稲山嘉寛三男,ヤナセ社長),船本洋治氏(鹿島建設台湾営業所元所長),守山聡氏(経団連国際本部アジア・大洋州グループ責任者),山田信夫氏(石油連盟広報部次長),浜林郁郎氏(石油連盟広報部資料課長),鈴木章雄氏(日中長期貿易協議委員会事務局参事)などである。
 このヒヤリング調査にあたって,筆者は次のような方法をとった。(1)研究の必要から,ヒヤリング調査をしたい相手(証言者)を初歩的に選定した後,調査の意図,研究の目的と内容,相手から大体いつ頃のどのような方面のことについて教示を受けたいかなどをまず説明した。(2)証言者の履歴について,これまでの情報を基礎とし,本人の自伝的な文章,著書,論文などを最大限に集め,そのうえで自分が質問したいまたは確認したい「問題要項」を作成した。(3)調査は口述歴史の方法をもって相手のライフ・ヒストリー(個人史)を中心とした。それに沿って相手が中国との関わり,中日関係史上ある事柄に参与した経過とその実情,「当時」の観察と考え,関係人物に関する印象と評価などについて話を聞いた。(4)ヒヤリング調査にあたって,基本的には事前の了承を得て相手の話を録音したが,録音の許可を得られなかった場合は,メモを作った。(5)インタビュー記録の全文を発表しないことは約束したが,本論文のなかで引用することについてはほとんど許可を得ることができた。ただし,実名使用の可否については証言者の希望にしたがった。

 (C)『人民日報』記事の検証。本論文は新聞を資料として読みこなせば研究に役立つという考えから,新聞記事を利用しなければならない時には,主に『毎日新聞』『朝日新聞』『日本経済新聞』『読売新聞』などを選び,また『人民日報』の記事をも参照した。参照の結果,筆者は一部記事のミスを訂正することができたことだけでなく,『人民日報』に書かれていない中国側の「意図」や「意向」を「読み取れる」ようになった。『人民日報』は中国共産党の「代弁者」という性格から,また中国政府の「政治立場」を表明する場として注目されることから,「自由報道の政策」を採っておらず,選別したニュースを伝えることにしていた。1972-78年間の中日外交交渉の報道に限って言えば,『人民日報』の報道傾向は,(1)「政治的立場」を表明する必要があるときには(例えば「覇権反対」の立場),大いに報道し,はっきり言明している。(2)中日友好に有利な活動については,たとえ普段は全国紙に載せることのできない小さな出来事であっても,積極的に報道する。中日平和友好条約の早期締結促進運動についての報道は特に際立っていた。(3)中日外交交渉においていくら重要な出来事であっても,中国側が重要視しない,または一般国民に知らせたくないときには,報道しなかった。(4)国内の情勢によって未だ明言できないことについては,一定の報道方法をもって「ある意向」を暗示した。中日関係を研究する際に,中国側の資料だけに頼れれば,客観的な研究ができず「中日友好調」あるいは「日本たたき調」の論文しか書けないだけではなく,重大な出来事を見過ごしてしまう可能性もある。一方,日本側の資料だけに頼って中国側の資料,特に『人民日報』の報道傾向をチェックしなければ,中国側の真の「意思」を探知することは不可能であろう。外交文書が公開されるまでは,両方の報道を照合すればするほど,研究がより真実に接近することになるだろう。

 本論文は以上で述べた視角をもって,大量の一次資料,二次資料を駆使して次のような順序で分析を進めてみた。

 第1章「序論」では,本論文が取り扱う「転換期」(1972-78年)の中日関係を研究するにあたって,その問題意識を先行研究の分析を通して明らかにし,民間外交と経済外交を分析の視角として提起した。続いて,この時期の日本の対中国外交における政府と民間,政界と財界(政治とビジネス)がどう係わり合っていたのか,それぞれの思惑と行動は何であったのかを歴史的に究明することを目標とし,この目標を成し遂げるために,主にどのような資料を収集または利用したのか,『人民日報』の報道傾向から中国側の「意思」「意向」をどう「読む」べきかなどについて説明した。

 第2章「新しい外交体制作り」では,中日国交正常化後の外交体制作りに関して政界と財界の動きを分析し,民間団体の再結集の動向をも検討した。政治外交体制と民間外交体制は,政府と民間が,それぞれの意思で比較的早期に作り上げ,対中外交には協力的であった。ところが,新しい政治局面を迎えた経済界は,ポスト覚書貿易の中日経済交流体制作りについては,意見が食い違っていた。覚書貿易グループと東西財界の一部首脳が「中国・アジア貿易構造研究センター」を国交正常化に先んじて設立したのに対して,中日経済交流の新規加入者の多い東西財界トップは「日ソ経済合同委員会」体制をまねて「日中経済合同委員会」を構想していた。1960年代以来,外務省より積極的に中国に接近してきた通産省は「日中経済センター」の設置に動きだしていた。結局,「中国・アジア貿易構造研究センター」グループは通産省のバックアップを受けて「日中経済協会」を設立した。中国側は「古い友人を忘れない」という誠意を示すためかのようにこれを受け入れ,「日中経済合同委員会」構想に対して否定的な意見を示した。本章は各グループの活動を中心に論述を展開した。

 第3章「民間外交の季節」は,中日国交回復直後の情勢を背景にして,同じ時期に起こった「中日友好ムード」の中身を具体的に探究した。戦後以来,中日民間外交の基本理念は「友好」である。民間ベースの経済交流を通して両国関係の改善,国交の正常化を目指した1972年9月までの民間外交に対して,この時期の民間外交はまず「相互理解」を求め,それを土台に本格的な経済交流を図った。中国展覧会と日本工業・技術展覧会の開催,友好都市運動の展開はその線に沿ったものであった。一方,中国側は「古い友人を忘れないで,新しい友人をつくる」というスローガンを提出して信義を重視する立場から中日経済交流において中小企業などの「古い友人」に特別配慮をしながらも,資金と技術面において実力のある大手企業や財界を主な交流相手としていた。「古い友人」は新しい情勢に面して「企業の更生」を図ると同時に,各地域の自治体においては政,財,官,民が一体となって中国の特定地域との間に,友好,理解を求め,地域的経済関係を密にしようとした。

 第4章は「政治とビジネス:経済交渉をめぐって」である。1972年9月以降,中日両国は従来の民間関係の維持を確認しながら,正常な国家関係をもとに政府レベルの経済関係の構築にむけて経済交渉を行なった。本章は電信,貿易,航空,海運,漁業の交渉を中心に分析を展開し,経済的問題をめぐってどのような政治的問題を処理しなければならなかったのか,両国の経済関係のなかでどのような問題が存在し,交渉にあたってどういうふうに解決したのかを検討した。また,難航していた航空協定を実例として民間団体は協定の早期締結のためにどのように「促進運動」を行なったのか,中国の「古い友人」の全日空が日中航路就航に熱意を示したにもかかわらず就航できなかったのはなぜか,などについて筆者の認識を叙述した。最後に中日海運,漁業協定の政府間交渉を考察して,政府協定がこれまでの民間協定の精華をどこまで継承したのかを明らかにし,対中経済外交にあたって政府と民間の不可分の関係を事実をもってあらためて究明した。

 第5章は「中日平和友好条約をめぐって:政府,民間,財界」である。1978年8月に締結された中日平和友好条約について,「覇権条項」をめぐる中日両国の意見対立が交渉難航の主因であるとの説は「通説」あるいは「常識」となっている。また,交渉は政府の役目であることから,これまでの研究は政府レベルの交渉だけに注目して,民間と財界の動きを見過ごしている。そこで,本章は,同条約の締結をめぐる政府,民間,財界のそれぞれの思惑・行動を綿密に考察した。それを通して通説を批判し,中日政治交渉の新しい一面を明らかにしようとした。主な論点は次の通りである。(1)平和憲法をもつ日本にとっては「覇権反対」は問題にならなかった。「覇権条項」問題は,交渉の初期段階では焦点となったが,1975年9月の中日外相ニューヨーク会談をもってすでに解決済みとなった。その後,交渉の中心は「第三国条項」に移った。(2)条約交渉の焦点が「覇権条項」に終始したという説が「通説」となったのは,マスコミがそれを誇張に報道したためであった。日本政府は別のねらいをもっていたが,それを表に出さないため,マスコミの「誇張的報道」の波を利用した。(3)条約交渉にあたっての日本政府の真のねらいは,係争中の尖閣列島(釣魚島)領有権問題の「詮議」と日本を仮想敵国とした「中ソ友好同盟相互援助条約」の廃棄であった。(4)条約の調印と批准にあたって,日本側は「中ソ条約と尖閣問題が明確に処理された」と強調したのに対して,中国側は当時の国際政治情勢から「覇権反対」の意義を強調し,平和な国際環境の形成に力を注いだ上で「改革・開放」政策に踏み切ろうとしていた。釣魚島問題については淡々としていた。ちなみに釣魚島問題について登小平の「現状維持」という約束は,中国側から言えば「係争状態」の「現状維持」を意味しているが,日本側から見れば,「日本の実効支配」の「現状維持」を意味することになってしまった。(5)「覇権反対」は反ソの意味になる恐れがあるという日本政府の表の主張に対して,日本の民間では,覇権は侵略だ,覇権反対は「平和5原則」と同じようなもので,「世界をクリエートする」新しい哲学である,と理解して条約の促進運動を大いに展開し,政府に圧力をかけた。(6)転換期の財界は,中国をアメリカのような,日本の将来のパートナーとして位置付け,中日長期貿易協議(取り決め)を一つの踏台として平和友好条約の締結を望み,同条約交渉の早期妥結を推進した。その裏には,平和な環境のもとで,中国との間で「資源・プラント・技術」貿易を行い,中国の工業化を手伝いながら,日本の資源輸入ルートの多角化を図った。(7)「中日平和友好条約」の評価について,人によってウェイトの置き方が違うが,筆者は同条約と「改革・開放」との関連を考察した結果,同条約の締結と米中国交の樹立によって,A)中国が当時の外交的苦境から抜け出すことに一定の助力をしたこと,B)さらに,これによって中国の「改革・開放」の国際環境が作り上げられたこととして評価した。

 第6章は「財界の対中資源外交:経済安全保障を求めて」である。前述したように財界が中日平和友好条約の早期締結の促進を望んだということは,財界にとってそれがビジネスと関係のある活動の一つであったからである。建て前として財界は政治に関与しないが,国際間のビック・ビジネスにおいては政治抜きの純粋のビジネスは存在しないだろう。そこで本章では,1978年2月に調印された中日長期貿易協議の成立過程を詳しく論考し,それと関連した中日両国の内政情勢をも考察した。その結果,筆者は「LT貿易からMT貿易へ,MT貿易から長期貿易協議へ」といったような解説を避けて,従来,「中日民間友好の自然の流れ」として見られてきた中日長期貿易協議を日本の経済安全保障戦略の一環として,また中国の現代化の一環として見,政治とビジネスとの係わり合いの実態を解明した。その後,本章はさらに中日間の石油・石炭の貿易と協力開発について仔細に考察し,同長期貿易協議実施の実態を把握した。 

 第7章は「『改革・開放』のプレリュード」である。本章において,筆者は中日長期貿易協議に基づいて中国側が日本からどのようなプラント・技術を導入したのか,それに伴って中国は従来の政治的,経済的システムの何を変えざるをえなかったのかを考察し,中日経済交流の影響を中国の国内視野において明らかにしようとした。その際,中日技術協力のシンボルとしての武漢製鉄所と上海宝山製鉄所の両プロジェクトを実例とした。中国は立ち遅れた経済を立て直すために,まず目を日本に向けて,先進技術とプラントを輸入した。そのうえ,これらの先進技術とプラントに適応する環境を作るために,現地で教育から管理までの調整を始め,「文革」体制からの脱却に向けて動き出した。その後,中国はさらに大量のプラント・技術を導入したが,資金不足のため,従来の金融政策を転換して「円借款」を受け入れるようになり,「改革・開放」の重要な一歩を踏み出した。中国の「改革・開放」は「総設計師」登小平が設計したもので,外部の影響なしに「自主」的に決定した政策である,と従来われわれは理解してきた。本章であげられた実例を見る限りでは,中国には改革や開放などの政策をとらざるを得ない事情もあった。先進工業国との経済交流,特に日本との緊密な接触がなければ,たとえこの時期,華国鋒が失脚し登小平が登場したとしても,中国が必然的に改革開放の道へ歩んでいったとは限らないだろう。論述のなかで,筆者は日本のプラント・技術の導入を中国改革開放のカタリスト(触媒)として評価した。

 第8章は「日台政治関係の転換と民間経済交流」である。中日関係を総合的に考察する場合は,常にそれと連動性のある日台関係の考察を避けて通ることはできない。本章は,まず1972年9月以降,「断交」の衝撃を受けた台湾が,日本との関係に対してどのように対応したのか,日台間の接触チャンネルがどのように政府から民間へと切り換えられたのかを考察し,台湾側の節度ある経済対策を評価した。次いで日台航空路線と東亜経済人会議を取り上げ,日台貿易経済関係をめぐる政界と財界ひいては業界間の動きを詳細に分析した。

 第9章「エピローグ」は,以上で叙述してきた事実を基にして,本論文が取り扱う転換期における中日民間経済外交の特徴を総合し,民間外交と経済外交が中日関係の健全な発展においてどのような役割を果たしたのかを明らかにしたものである。本論文は最後に,自分の研究を民間外交と経済外交のケース・スタディの一つとして位置づけ,時期や地域を限定せずこのようなケースをできるだけ多く取り上げ,綿密な研究を行うことを提言した。筆者は多くのケース・スタディの結果を総合すれば,民間外交,経済外交,あるいは民間経済外交の学問が将来,必ず理論化されることを信じている。

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