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博士論文要旨

論文題目:ジャンセニスムと反ジャンセニスム −近世フランスにおける宗教と政治−
著者:御園 敬介 (MISONO, Keisuke)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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 本論文は、近世ヨーロッパの社会と文化に深い痕跡を残したジャンセニスムと呼ばれる事象を、運動と論争が最も激しい高まりを見せた17世紀フランスに焦点を当てて分析することで、当時密接に結び付いていた宗教と政治の具体的なあり方を明るみに出すとともに、いまだ曖昧な概念であり続けている「ジャンセニスム」を理解するための一つの視座を提示しようとするものである。
 「ジャンセニスム」とは、スペイン領フランドルの一司教コルネリウス・ジャンセニウスの遺著『アウグスティヌス』(1640)をめぐるカトリック内の神学論争において、ジャンセニウスの恩寵論に反対して同書に異端を見て取った神学者たちが、批判対象を指し示すために使い始めた言葉である。ジャンセニウスの教理をアウグスティヌスの教理と重ね合わせてその正統性を擁護した者たちは「ジャンセニスト」と呼ばれたが、彼らはこれらの呼称を拒絶して譲らなかったため、引き受け手を欠いた「ジャンセニスム」は、逆に何でも受け入れ可能な利便性を備えた語として、様々な解釈を許容するものとなった。この点を厳密に検証したジャン・オルシバルは、1953年、例えばジャンセニスムを厳格主義と定義するなら、ジャンセニウスやその思想をめぐる運動や論争と一切無関係の人物をもジャンセニストと呼ばねばならなくなってしまうといった論証を積み重ねた結果、ジャンセニスムを包括する定義を与えることは不可能であると考え、それが如何なる実体的統一も持たない幻想であると結論するに至った。ジャンセニスムを確固たる内実を伴った分析対象から外してしまうこの見方は、今日の研究者の間で有力な見解を構成するものだが、それはしばしば、括弧なしでは使えない中立性を欠いたこの語の使用自体を放棄すべきとする立場に転化することで、研究のあり方を一層難しいものにしている。事実、17世紀のジャンセニスムを主題にした研究は最近ほとんど見られない。
 このような状況においてジャンセニスムを考察対象とすることは、言わば大胆な試みだが、本論文が目指すのは、オルシバル以来の研究を覆してジャンセニスムの定義を確定しようとすることではなく、語の定義不可能性を意識しつつも問題へのアプローチの仕方を変えることで、研究上扱いにくいテーマになりつつあるジャンセニスムを正面から捉え直そうとすることである。すなわち、ある種の異端を限定すべく案出された名称であるジャンセニスムについては、それが何かという定義の問題とは別に、それはどのように作られたのかという生成の問題が提起されるとの立場に立つことで、歴史的事象としての「ジャンセニスム」を改めて考察できるのではないかと考えるのである。そのためには、ジャンセニストに焦点を合わせた従来の静的理解から、反ジャンセニストに注目した動的理解へと視点を移すとともに、両陣営の相関関係が織り成すダイナミズムに着目することが必要になるため、本論文では、当時のある反ジャンセニストの著作と運動をその背後の思想的・歴史的文脈との関連を探りながら考察するという手法が取られる。対象となる著述家はレオナール・ド・マランデ、多様な哲学的・神学的思索と軽妙な文体に裏打ちされた痛烈なジャンセニスム批判によって名を馳せた人物である。時にその重要性が指摘されながらこれまでどんな伝記も編まれてこなかった、忘れられた作家だが、独自の立ち位置から展開される論争活動は、反ジャンセニスム陣営の多様な存在や論理、さらにはそれに対するジャンセニストの反応や抵抗を垣間見せることで、問題の全体的動向に迫る上で有益な題材を提供してくれる。
 本論文は、それぞれ三章を含む三部から構成される。
 第I部では、考察の基幹となる事例であるマランデの著作と活動の意義が検討される。まず、これまで全く知られてこなかった著者の人物像を明らかにするために、当時マランデという二人の同名異人が存在したとする複数の証言が、本来一人であるマランデの独自の経歴に惑わされた誤解であることを確認して対象の輪郭を確定した上で、彼の家族環境および生涯の叙述がなされる(第1章)。続いて、著作の分析、とりわけ1620年代から1640年代末までに断続的に公表され、著者に一定の名声を授けることになった一連の非論争的著作の分析が行われる。様々なジャンルの執筆活動に励んだこの時期のマランデの思想傾向を代表する懐疑主義、護教論、通俗化という三つの軸に沿って進められるこの分析により、その後すぐにジャンセニスム批判に没入することになる論争家の筆の土台を形作った経験とその成果が如何なるものであったのかが明らかにされる(第2章)。さらに、こうした活動を経た著者がどのようにジャンセニスム論争に入り、そこでどのような特徴を持ちえたのかが考察される。作家としてさらなる栄誉を獲得すべく学者たちの論戦に積極的に参与しようと試みたマランデが繰り広げた活動は、他の論争家には見られない独特のもので、論争への介入頻度の高さと、批判論点の多様性および独自性とに要約できるその特徴は、幅広く反ジャンセニスム陣営に目を向ける一つの視角となる(第3章)。
 第II部は、ジャンセニスムを批判した者たちが立脚した理論的立場の考察に費やされる。ジャンセニスムの発端となった神学論争がそこで大きな位置を占めることは当然であり、神学的観点から見てジャンセニスムがどのような理由で排斥されたのかを明らかにすることが最初の作業となる。当時の神学者たちの批判論点を様々に吸収して書き直したマランデのテクストを起点とするこの作業は、具体的には、近世における恩寵と自由をめぐる論争の概観を通して「ジャンセニスムの教理」と見なされたものの内実を確認した上で、それに向けられた批判が如何なるものであったのかを一つ一つ確認するものである(第1章)。これに続いて、政治的観点からジャンセニスムを危険視する見解が取り上げられる。この点については、マランデは恐らく17世紀で最も明確な立場を表明しており、それは1654年のInconvénients d’Etat procédant du jansénismeに集約されているため、その分析が中心となる。同書には、ジャンセニスムを政治的セクトとして非難する様々な論拠が提示されているが、そのうち主たる七つの論理が、当時の反ジャンセニスムの風潮と照らし合わせながら検討される(第2章)。最後に、神学における典拠あるいは方法論をめぐるジャンセニスム批判が考察される。すなわち、「アウグスティヌスの弟子」を名乗ったジャンセニストの態度をアウグスティヌス原理主義と非難する立場である。当時同教父が誇った恩寵博士としての絶大な権威がジャンセニストの隠れ蓑として機能していると考えたマランデら一部の論者は、アウグスティヌスの権威を否定しないまでも相対化しようとする立場を取ったが、この相対化の論理と背景の分析は、アウグスティヌス全盛の時代の陰に隠れた思想的系譜を浮かび上がらせる(第3章)。
 第III部では、ジャンセニスム批判と平行して進められた抑圧運動の実体が解明される。最初に扱われるのは、ソルボンヌでのアルノー譴責事件である。彼の著作『第二の手紙』を断罪したこの事件は、ジャンセニウスの断罪と不可分に結び付いており、反ジャンセニスム運動の一つの軸と見なすことができる。パスカルの介入もあり、大よその展開は描写されてきたが、複数のパンフレットを公表することで外部から事件に関与したマランデの論争活動から出発して、背後にある事件の展開を細かく追ってみると、これまで強調されなかった新しい幾つかの事実が確認される(第1章)。同時期に聖職者会議を舞台に繰り広げられたジャンセニウスの「五命題」をめぐる論争は、抑圧運動の第二の軸となる。ここでも見過ごせない貢献を見せたマランデの短いテクストの背景を探りながら、フランス教会とローマ教皇庁の複雑な駆け引きを追うことで、王権と教権の協力のもとにジャンセニスム断罪が強引な仕方で決められていく経緯を再現することができる(第2章)。この動きは、ジャンセニストの抵抗もあり、信仰宣誓書と呼ばれる、ジャンセニウス断罪を誓う書式への署名を要求する政策へと繋がっていった。この署名問題は、ジャンセニスム抑圧の第三の軸となるもので、当然マランデも重要な関連文書を執筆している。それらを手がかりに、署名強制措置の実行を強力に推進した王権と聖職者会議とが講じた具体的方策が如何なるものであったのかを探り、さらに、そのための理論的正当化がどのようになされたのかを明らかにする中で、1662年刊行のマランデの一文書の重要性が逆に浮き彫りになる(第3章)。
 以上の考察をもとに、ジャンセニスムが敵対両陣営の相関関係の中でどのように理解できるのかを検討することによって、この事象に再び正面から向き合うための一つの視角が提示される。まず、結果的に見れば、当時「ジャンセニスム」に向けられた批判はどれも、「ジャンセニスト」にとっては身に覚えのない言い掛かりであり、その意味で、カトリック内改革の一翼を担った宗教運動が当事者の意に反して不当な迫害の対象になったとする歴史認識は、党派性に囚われたものとは言えない。ジャンセニスムをめぐる一連の騒動を導いたのは、確かに反ジャンセニストであった。しかし、だからといって、しばしばなされるように、ジャンセニスムが反ジャンセニスムの産物だと結論するのは性急である。事件の展開を注意深く検討してみると、筆による論争をリードしたのが、予想に反してジャンセニストであった事実が明らかになるからである。個人の内心領域の不可侵を信じて教会や国家への純粋単純な服従を拒みつつ多様な抵抗理論を練り上げた彼らの筆戦は、本来は受動的なものだったが、早い時期からその意味合いを変質させ、反ジャンセニストの抑圧政策を招く呼び水となっていた。理論的闘争において常に後手後手に回った反ジャンセニストは、駆け引きや中傷といった強引な手法に訴えざるを得なかったのであり、彼らが導いた反ジャンセニスム運動は、あくまで政治的次元に限られていた。大局的に見るなら、ジャンセニスムの歴史は、このようにして両陣営に導かれた二つのベクトルの不可避的な衝突の繰り返しであったと言える。ジャンセニスムを、実在した二つの勢力の相互反応の中で流動的に形成された概念枠組みそのものとして捉え直すことは、決して定義されないが決して幻影でもない、歴史的現象としての「ジャンセニスム」を再考する新しい一歩になるように思われる。

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