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博士論文要旨

論文題目:キルケゴールと「キリスト教界」
著者:須藤 孝也 (SUTO, Takaya)
博士号取得年月日:2010年3月23日

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 本論文は三部から成る。第一部では、主に46年までの前期において提示された、キルケゴールの人間論を見た。続いて第二部で、後期において深められたキルケゴール思想を、「キリスト教界」との関わりに注目しながら見た。最後に第三部で、それまでの議論を踏まえ、キルケゴールを「キリスト教界」内の思想家として特徴づけた。 
 第一部は、第一章と第二章から成る。第一章では、キルケゴールの人間理解の中核をなす、実存を弁証法的に発展するものとして捉える実存論について見た。美的人間が、自己の外部にある時間的なものに価値を見出すのに対し、倫理的人間は自己のうちに永遠なものを見出す。倫理的人間は、この永遠なものという理念に関わり、またそれを自身の具体的実践において実現しようとする。しかしこの企ては、永遠性と時間性の質的差異によって最終的には失敗する。こうして、自己に関わるのみならず、同時に神にも関わる宗教的実存への生成が可能となる。本論文は、こうしたキルケゴールの人間理解が、「形而上学」批判として提示されている点に注目する。実存が「形而上学」による把握を拒むことは、『後書き』における「体系」批判や「思弁」批判にも現れているが、その他のテクストにおいても同様に見出される。キルケゴールによれば、形而上学は、実存を把握せず、美的な段階にとどまる理解である。実存が偶然性を含みながら「生成」するものであるのに対し、形而上学は、「永遠の相のもとに」、必然性を原理として実存を「認識」するものでしかない。キルケゴールが独自の「形而上学」批判を展開する際に、重要なキーワードとして用いるのが「人格」である。倫理的実存がまさに「人格」への生成であり、宗教的実存もまた、神と人格的に関わることによって知られるとされる。キルケゴールにおいては、神は人格的交わりの対象として捉えられているのである。さらにキルケゴールは、読者が人格を有していることにも配慮し、他者の実存の発展を促すような思想の伝達を行う。それが「間接伝達」であった。
 第二章では、そうした人間理解が、キリスト教信仰に基礎付けを求めることを見た。キルケゴール思想において、信仰は、推論の果てに導出されるものではなく、むしろあらゆる思考を起動させる第一前提なのである。キルケゴール思想が神に基礎付けを求めるキリスト教主義であることを、キルケゴール思想の主要概念である「第二倫理」や「反復」に注目することによって明らかにした。キルケゴールは、ソクラテスの古代には人間本性を基盤とした「第一倫理」が見出されるとする。そしてキルケゴールは、これを座礁するものと考え、その後を受けるものとして、キリストにおける神の受肉を根拠としてもつ第二倫理を挙げる。「反復」もまた、多義的に用いられる概念であるが、その根幹にあるのは、キリストにおける神の受肉である。キルケゴールはこれを論拠にして、観念と実在を照合させ、また過去を一端廃棄しつつも現在において未来を神から受け取り直す、という信仰者の在り方を示すことができるのである。キルケゴールの著作活動そのものもまた、神に対する信仰を基盤としていた。それは「詐術」としての仮名著作、という自身の著作活動理解に表れている。キルケゴールは、読者が「キリスト者と成る」きっかけとなるようにと著作を書いた。読者の自己関係を促すために、著者は、キリスト者に成る以前の者とされた。これを読むことによって、キリスト者を自認するキリスト教界の人々の自己反省を促そうとした。キルケゴールが美的著作から著作活動を開始したのは、このような「詐術」を遂行するためであった。キルケゴール思想にあるのは、キリスト教が真理であることの導出ではない。初めの第一歩からすでに、キルケゴールは、キリスト教の理念が「真理」であることを前提として、全ての議論を組み立てているのである。 
 第二部は、第三章から第五章までである。第三章では、後期キルケゴールの中心思想である、「隣人愛」について見る。キルケゴールのキリスト教主義思想は、ここにおいて倫理学の表現を得る。キルケゴールは、人間と人間の直接的な関係においては、愛の関係は達成しえないとする。キルケゴールによれば、人間はまず神に関わり、次いで神を経由して他者に関わる仕方によってのみ、他者に対して愛を行うことができる。キルケゴールの「単独者」概念は、こうした神を経由して他者に関わる者を意味する。「単独者」は自ら神に関わり、そして他者を愛する。そしてキルケゴールが「愛の業」の模範として考えていたのが、「卑賤のキリスト」であった。この世において「愛の業」を行ったのにもかかわらず、その愛の観念が、永遠性に由来するものであったがために、「この世」によっては理解されず、磔にされることになった、というのがキルケゴールのキリスト理解である。そしてキルケゴールは、このような卑賤のキリストを「倣う」ことを、「キリスト者」の要件とする。後期のキルケゴール思想は、この「卑賤のキリストの倣い」を中心にして展開する。キルケゴールは、「倣い」という義務を強調する。しかし、しばしば見誤られるところであるが、キルケゴール思想には恩寵論が欠けているのではない。キルケゴールは、恩寵が可能であるためには、義務がまずもって立てられなければならないと考えて、倣いという義務を明確にすべきと主張するのである。もし義務がなければ、それを果たし損ねることもなく、義務を果たし損ねることがなければ、神による赦しもまた不要のものとなる、とキルケゴールは考えた。
 第四章では、キルケゴール思想のキリスト教主義的性格を明らかにするために、フォイエルバッハの人間主義との比較を行った。「自由思想家」としてのフォイエルバッハは、神を信じることも、キリスト教を信仰することもない。フォイエルバッハは、神学を人間学として読み替えることを主張した思想家であった。信仰の点においては、キルケゴールとフォイエルバッハは、はっきりと分かれる。しかし、キルケゴールは、フォイエルバッハのキリスト教理解の正当性を認めていた。フォイエルバッハが、キリスト教の理念が卑賤にあると主張した点に、キルケゴールは注目する。当時のキリスト教が国家と結びつくことによって繁栄し、卑賤とは遠くかけ離れていることを見て、フォイエルバッハはキリスト教の虚偽を指摘する。キルケゴールのキリスト教界理解は、この点においてフォイエルバッハのそれと重なる。キルケゴールはフォイエルバッハがキリスト教を正しく「理解」していたことを評価するのである。しかし同時にキルケゴールは、キリスト教は、本質的には理解の対象ではなく、信仰する対象、すなわち人格的に関わる対象なのだと主張する。キルケゴールからしてみれば、フォイエルバッハは、キリスト教を理解しつつも、これに適切に関わることができなかったのであり、フォイエルバッハはキリスト教に「躓いた」にすぎない。キルケゴールはまた、フォイエルバッハが提示する「投影論」の妥当性についても同意を示す。しかし同時に、投影論が妥当するとしても、そこから、彼岸の此岸への「還元」は結果しないとした。というのも、投影関係が見出されるとしても、そのように彼岸と此岸を創造した神を考えることがなお可能であると考えられたからである。
 第五章では、キルケゴールの「キリスト教界」との関わりを、J.P.ミュンスター監督とのやり取りを中心に見た。キルケゴールのキリスト教史理解によれば、中世カトリシズムは、外面性の宗教性であった。それは宗教性が本来的には内面性に存することを理解しなかった。それに対し、プロテスタンティズムは、キリスト教が内面性の宗教であることを理解した。しかし、内面性を強調するあまり、内面性が外面性へと転化する点を看過したとして、キルケゴールは、ルターおよびプロテスタンティズムを厳しく批判する。キリスト教が単に内面性の宗教にとどまるということになれば、信仰者は、信仰を実践する必要がなくなってしまう。隣人愛を実践する必要がなくなってしまう。キルケゴールは、カトリシズムにあった外面性の重視を、プロテスタンティズムは見習うべきであると言う。こうした理解をもって、キルケゴールは、「キリスト教界」を統轄する地位にあったJ.P.ミュンスターと深く関わった。ミュンスターは、キルケゴールのみならず、父のミカエルとも親しい関係にあった。ミカエルはミュンスターを尊敬しており、キルケゴールに対しても、ミュンスターのようになるよう宗教教育を行った。キルケゴールもまた、ミカエルを敬愛しており、ミカエルの願い通り、牧師職に就くべくライフビジョンを描いていた。それは著作を出版するようになってからも同様であった。しかしキルケゴールが「宗教的著作家」と「牧師」と「キリスト者」の三つの間で自己理解を深めるにつれて、キルケゴールとミュンスターの間には軋轢が生じるようになる。キルケゴールは、牧師養成所の教師となるべくミュンスターに相談するも、「キリスト者」理解の相違から、結局は断られるに至る。キルケゴールは、なおミュンスターを「正しいキリスト者理解」へと導くべく、著作活動によってアピールを続ける。しかし、ミュンスターはこれに理解を示さずに、54年に他界してしまう。キルケゴールは、国家教会に属す一信徒であり、教会に対して改善を求めるが、教会制度に対しては批判的ではなかった。しかしミュンスターの後任のH.L.マーテンセンが、ミュンスターを「真理の証人」と評したために、キルケゴールは、マーテンセンを批判せざるをえなくなった。キルケゴールによれば、「真理の証人」とは殉教者を意味するからである。こうしてキルケゴールは、最晩年に教会攻撃を開始するに至る。キルケゴールが執拗に教会に対して働きかけざるをえなかったのは、教会が卑賤のキリストの倣いを、キリスト者の要件としなかったからである。キルケゴールには、教会の説く現状肯定的なキリスト教理解は、キリスト教の本質から遠くかけ離れているように思えた。 
 第三部は、第六章から第八章までである。第六章では、キルケゴール思想が、理念と現象の二元論に立ったキリスト教主義であることを指摘した。キルケゴールは、理念としてのキリスト教を信仰し、現象としてのキリスト教界をそれに近づけようとした。この二元論によって、キルケゴールは、理念からのずれを厳しく指摘する一方で、理念からずれたキリスト教界についても、その存在を是認することができたのである。そしてまたキルケゴールが信仰したキリスト教は、実定宗教としてのキリスト教であった。キルケゴールは、キリストにおける神の啓示を信じ、またこの理念の現実態であるキリスト教界に立脚した思想を編んだ。この点にキルケゴール思想の特徴がある。すなわちそれは、ユダヤ教的な思想でも、人間本性に基礎付けを求める「キリスト教的な」思想でもない。キルケゴール思想の二元論的構成は、個別と普遍の関係理解にも表れる。しばしばキルケゴールの思想は個別性の思想と見なされるが、しかし実際には、キルケゴールの思想は、そのキリスト教主義によって普遍性のもとに包括される個別性を考えている。とはいえその普遍性は、すでにありただ見出されることを待っているような普遍性ではなく、達成すべき普遍性である。万人が、実存を発展させ、キリストを介して神に関わって初めて達成される普遍性である。キルケゴールは、こうしたいわば「奥義の思想」によって、普遍性を達成しようとするのである。すなわち、キルケゴールは、啓蒙主義の浸透によって、「すでにある普遍性」を見出そうとする運動へとキリスト教が姿を変えようとする点に抗したのである。キルケゴールの思想は、キリスト教界を改革すべく努めるものであった。
 第七章では、キルケゴール思想にある「素朴性」について考察した。キルケゴール思想には、一方では現代哲学を先取りするような深い反省性が見出される。これは前期の「形而上学」批判において顕著である。しかし他方、キルケゴール思想は、キリスト教を「真理」とする際には、反省を停止させるという素朴性を残した。しかしこれは、キルケゴール思想が「キリスト教界」内で機能すべく編まれたがゆえに、ある必然性ないし必要性を有していた。キルケゴールは、議論を展開するにあたって、大学や教会に属する知識人だけではなく、素朴な一般信徒の存在をも念頭に置いていた。キルケゴールは、彼らと教会の調和した関係が達成されることを望でいた。教会を統轄するミュンスターに働きかけることになったのは、キルケゴールが、理念のもとに集う共同体を志向していたからにほかならない。理念を告げ知らせる立場にあるミュンスターに関わることで、「キリスト教界」の改善がなされると考えた。理念と現象の図式で考えたキルケゴールが企てたのは、「上からの」改革であり、「民主主義的な」下からの改革ではなかった。
 第八章では、現代の様々な形而上学批判の議論を参照しながら、キルケゴール思想を特徴付けるとともに、展望を示した。確かにキルケゴールは「形而上学」批判を展開したのであったが、しかし裏面においては、「伝統的な」キリスト教主義に依拠する一面をも有している。20世紀の哲学史に見出される形而上学批判の見方からすれば、キリスト教主義としてのキルケゴール思想は、いまだ基礎づけ主義的であり、普遍主義的であり、本質論的である。こうした性格をキルケゴール思想が残したのは、それが「キリスト教界」の内部で編まれた思想であったことによる。すなわち、現代哲学が異文化間の衝突について思考することを一つの重要な主題としてもっているのに対し、キルケゴールにおいては、キリスト教界内部に見出される問題のみがもっぱら考察され、キリスト教界の外部については、ほとんど重大な考察すべき事柄は見出されなかった。キルケゴールは、「キリスト教界」の文脈で機能すべく、著作活動を行ったのであり、それが現代の文脈と一致しないことは何ら、キルケゴール思想それ自体の欠陥を示すものではない。現代において見出される共同体と思想の共軛関係を理解するために、キルケゴールとキリスト教界との関係を、我々は一つの範例として用いることができる。 
 キルケゴール思想は、キリスト教の形而上学による正当化を批判しながらキリスト教の正当性を信じていたり、教会を批判しながら教会を信頼していたり、卑賤を要求しながらそれを果たせないことを容認していたり、絶望を語りながら敬虔な信仰を堅持していたり、反省的な著作を書き残しながら素朴な信仰を称揚していたりと、様々な局面において両義的な姿を見せる。
 しかし、たとえ現代の文脈からキルケゴールを眺めたときに、それが両義的な存在に見えるとしても、キルケゴール思想それ自体は、決して両義的であるのではなく、「弁証法的」であるに過ぎない。この世的なものとあの世的なもの、人間的なものと神的なもの(あるいはキリスト教的なもの)、時間的なものと永遠的なもの、有限なものと無限なもの、身体的なものと精神的なもの、等々の二項対立によって、キルケゴール思想は構成されている。
 キルケゴールの弁証法は、こうした二項を対照させることによって、そのうちの一方を高次へと高める仕方で展開する。これは、一方が他方を「止揚」する類の弁証法ではない。キルケゴールの弁証法においては、上げられた項は、神のもとにその起源を見出すのであり、この点により正確に言えば、上げられるのではなく、むしろ上の位置に「初めからあった」ことが確認されるのである。そしてまた、両項は同一性へと解消されることもない。というのは、低次にとどまる項は、他方の項を上に押し上げるために、機能し続けるからである。
 このように、キルケゴールの思想世界においては、分裂したままの両義性といったものは存在しない。一見して分裂して見える状況に遭遇しても、キルケゴールは、神とキリストの物語から演繹的にこれを理解することができることを信じていた。そしてそれが唯一の真理であることを信じていた。キルケゴール思想の内実としてあるのは、キリストにおける神の啓示に基づいて諸現象を有機的に解釈するキリスト教主義である。
 したがって、キルケゴールの立場からすれば、キルケゴールのうちに見出される両義性は、むしろキルケゴールに両義性を見出す眼差しのうちに存することになる。例えば、世俗化の現象は、それを「躓きの可能性」を考慮して理解するキルケゴールによれば、何ら宗教をめぐる両義的な状況ではないし、また何ら信仰を脅かす現象でもない。宗教をめぐって両義的な性格を有しているのは、世俗化しつつある社会現象の方にすぎない。キルケゴールは、そうした状況に面しても、キリスト教主義的弁証法によって、キリスト教の立場から状況を記述し続けることができる。
 こうして、キルケゴールを理解しようとする者は、自身を理解するよう促される。キルケゴール研究の現代的意義は、このような対峙に、キルケゴールからの照り返しを我々が真摯に引き受けるところに存する。キルケゴールを理解しようとする作業は、我々がいかなる存在であるのかを問い直す作業と表裏をなすのであり、キルケゴール思想の特徴付けは、我々自身の特徴付けとなるのである。

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