博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:人民主権論の生成-ジョン・ロックによる近代社会の理論的構築
著者:鵜飼 健史 (UKAI, Takefumi)
博士号取得年月日:2010年2月10日

→審査要旨へ

 本論文は、ジョン・ロックの政治思想における、人民と政治権力との相互連関的な理論化の様式を分析する。本論文の主眼は、人民主権論の生成およびその論理を分析することで、ロックの果たした思想史的・理論的な役割を明らかにし、その理論構造がもつ特質を論じることである。この課題は、現代まで引き継がれる近代政治の基本的な原理の誕生を解明し、特徴づけることを意味する。
 ロックの歴史的な課題は、人民が権力を持つという意味での人民主権原理の発明ではなかった。彼の人民主権論が前提としうる歴史的な立脚点は、権力の担い手である人民が、議会とは区別され、諸個人の集合体に還元することができる、ということである。そして問われるべき課題は、求心化した政治権力と遠心化した原子的人間とをいかに接続するかということである。ロックにとって、この課題は個人を政治主体へと転換することであり、かれらの政治体制を正統化することである。この人民統治の原理の理論化にこそ、ロックの思想史における重要性を指摘することができる。ただし、政治的人間を論じることは、たんに権力が人民に由来していることを前提とするだけで済まされる問題ではなかった。「政治が道徳哲学の一部である」かぎり、主体の考察は、哲学的な課題とならざるをえない。本論文では、ロック理論における人民主権論の構築を、理性と主体(第2章)、権威と権力(第3章)、そして寛容と正統性(第4章)という三つの領域に区分する。そして、これらの概念の生成の様式を分析することで、人民主権の多層的な現われを論じる。
 以下では各章の内容について、目次に従って説明したい。
イントロダクション ―人民主権の歴史的展開 1
第1章 方法論について ―概念の生成 13
  1 ロックの読み方 ―コンテクスト主義を超えて …………………………………13
  2 共時性と通時性:生成としての政治理論 ………………………………………21
  3 ロックの「意義」 ……………………………………………………………………30
第2章 理性と主体 35
  1 近代政治理論における主体の構築 …………………………………………………35
  2 「大海」としてのマルチチュード …………………………………………………40
  3 「国家の友」としてのマルチチュード ……………………………………………44
  4 人民の誕生 ……………………………………………………………………………48
  5 反革命としての抵抗 …………………………………………………………………56
第3章 権威と権力 61
  1 近代政治理論における権威 …………………………………………………………60
  2 初期近代における権威論の位置 ……………………………………………………66
  3 初期ロック理論における権威主義的権威 …………………………………………70
  4 権威の自律性 …………………………………………………………………………73
  5 革命としての抵抗権 …………………………………………………………………78
第4章 寛容と正統性 82
  1 ロック政治理論における正統性 ……………………………………………………82
  2 政教分離の理論化と宗教Ⅰ …………………………………………………………87
  3 政教分離の理論化と宗教Ⅱ …………………………………………………………93
  4 無神論の位置 …………………………………………………………………………99
  5 神による正統化の問題  ……………………………………………………………103
第5章 ロックのユートピア 106
  1 ロック政治思想とユートピア  ……………………………………………………106
  2「アトランティス」について …………………………………………………………109
  3「アトランティス」の世界 ……………………………………………………………113
  4 空想から理論へ  ……………………………………………………………………120
結論 ―ジョン・ロックと政治的なるもの 122
 
 第1章は、本論文の方法論を明らかにする。本論文の対象は、通例の思想(史)研究が対象とするものと異なる。ロックの人民主権論における、言説構成それ自体が分析対象となる。このとき重視されるのは、言説の通時性である。ある理論の「生成」は、通時的に言説を分析することによって明示される。この方法論は、現在思想史研究において主流的な立場を占めるコンテクスト主義への批判的な刷新を含意している。コンテクスト主義がもつ根本的な欠点は、それが自らの解釈の論争的(あるいは政治的)性格を認めない傾向にあるということである。そのために、それはテクストが有する論理や、皮肉にも、自らが描出しようと望む歴史に対してしばしば盲目になることがある。こうしてコンテクスト主義による歴史性の優位については、二点の批判点が指摘できる。ひとつには、それがすべての言説を歴史によって説明しようとする、還元主義としばしば結びつく傾向にあるということである。そしてその結果、第二に、このアプローチが思想家の有する理論的な特異性を十分に論証することができない、ということである。別言すれば、それはある理論家が別の同時代の理論家となぜ異なる理論を示したのかという問いについて、回答を準備することができない。
 本論文の方法論にとって決定的なのは、これらの欠点が「時間性」に対する意識の欠如に由来していることである。それは、ある思想家が有する言説が変化し、それが通時的に理論を構成しているという観点の欠如である。コンテクスト主義が問えない問題とは、「通時的な意図」、あるいはテクストとテクストを貫くような言説の方向性である。本論文の方法論にとって重要なのは、言説のなかでいかに対象が「生成する」のか、という分析である。生成とは、ある言説の流れにおいて、概念が不在から存在へと変化する過程である。共時性を前提とした通時的な言説を読解することによって、概念の生成を解釈することができる。その結果、理論化のプロセスと、同時にその限界を理解することができる。言説的構造が含みこむことができないような存在は、言説の根本的な外部として留まる。こうして理論の外周が明らかとなる。この理論の構造を描くという作業は、それ自体が概念と概念をつなげてゆくという意味で、理論的なものである。この方法論は、いかにロック思想における人民主権が普遍的なものとして理論化されてきたのか、という問題を分析する。本論文の方法論のオリジナリティは、持続的な言説の分析に政治理論の根源的な課題を見出すことにある。ロック理論を構成する政治的諸概念は、人民と権力を普遍化するために論理的に変換され配置される。
 第2章では理性と主体が論じられる。本章の目的は、理性的人民の理論化と、同時に、その規範化へのロックの貢献を分析することである。それは、当時の焦眉の課題である寛容と不寛容を分かつ境界線、あるいは人民の条件、の理論的分析である。ここで論じられる理性は、ロック哲学のみならず、彼の政治理論にとっても中心的な概念である。なぜなら、理性の理論化は、人民の主体化とデモクラシー論に対して大きな影響を持つからである。
 1660年代中葉以降に生じた、ロックの立場が絶対主義的な初期理論から離れていく軌跡は、おもに二点に要約される。ひとつは、人間の理性能力の擁護や道徳規範としての「共通の同意」などの、普遍的かつ自律的な道徳的人間論の展開である。そして第二に、政治権力に裏付けられた特定宗派の理論的および制度的な優越性が排除され、あらゆる宗派がすべて道徳哲学において特殊なものとみなされるようになった。こうして特殊な宗教的な存在であった「マルチチュード」が一般化され、「国家の友」として扱われることが可能になる。この道徳と宗教をめぐる普遍化と特殊化のふたつの方向性は、主権者としての人民を理論的に準備することとなる。同時に、それはかれらが構築する国家の道徳的な普遍化を可能にするのである。彼の認識論的哲学の体系化とともに、人間は理性能力を獲得し、自らの能力によって道徳規範(自然法)を理解するようになる。理性能力によって、人民は政治主体としてコモンウェルスを運営できるようになる。
 ロックの理性と主体の接続という課題が、ある種の「恐れ」によって強迫されていたことは間違いない。ロックの方法は、人間の道徳能力を解明し、特殊な宗教的価値の対立を超えた政治社会を構築するというものであった。このとき価値対立は、特殊なものとして政治の外部に置かれる。それに代わって、政治権力と人民が自然法に立脚した普遍的なものとして、政治体制の中心的な概念として生成する。もし人民に理性が認められない場合には、ロックが特殊なものとみなすあらゆる主張が政治を壟断することになってしまう。神意を僭称する宗教的狂信としての特殊的な「マルチチュード」と、主権者である人民の前段階としての普遍的なマルチチュードとの理論的関係性は、ロック政治理論の持続的な展開を示している。それは宗教道徳から普遍道徳へ、また絶対主義から人民主権へという旋回である。抵抗権を獲得することで、人民は主権者としての位置を確固たるものとする。そしてそれは自然法秩序に反するような特殊性に対して、反革命の手段として機能する。道徳的に正当化される人民主権論の確立は、普遍的な政治主体を逸脱する存在を想定することを排除した。こうしてロック以降の政治的人間論をめぐる問題は、「人民かあるいは別の政治主体か」ではなく、「人民のなかにいかに組み込まれるのか」という形式上の問題となったのである。本章が示すことは、政治の本質として、自然状態におけるプロパティを享受する理性的個人の設定が、人民主権論を構成する上で決定的であった点である。
 権威について、ロックは政治思想史において比類のない貢献を果たした。第3章で論じられるテーマは、いかなる意味においてロックは政治的権威の最初の理論家であるか、ということである。本章は、ロックが拘泥した権威(authority)と権力(power)の生成論の厳密な区別に注目することによって、彼が通時的に構築した人民主権論の特質とその思想史的意味について明らかにする。重要な点は、ロックが「権威」の構成内容を変化させてきたということであり、この通時的な軌跡が人民主権の理論化に大きな影響を与えたということである。この変化の終着点として論じられるのは、人民が権威をもつということの理論的な意味である。このとき、抵抗権の思想史的意味が再構成される。
 初期ロックの政治論では、為政者の権力は、抵抗を論理的に許さない権威をもつ。それはホッブズやハリントンのように、権力概念を介した、自由と権威の調和理論ではない。自由と権威の根本的な対立の上に、為政者権力の絶対性が弁護される。これに対して、『統治二論』では、人民がコモンウェルスを設立する際に、その多数者に統治権力の行使を信託する。これが権威の契機である。さらに、契約を超えて人民を制約する場合には、再び同意を通じた権威が必要となる。権力がみずからの利益と権利にかなっているか常に審査するために、人民は政治権力の形成以降にも権威を保持する。政治権力と「法を作る権威」の同一性は、明示的な同意の連鎖によって存続可能になる。権力と権威が明確で自発的な同意の下に同一化することによって、諸個人からなる人民による統治が確立することになる。しかもそれは、どちらにも一方的に還元できないような、個人の自由と公的な権威との表裏一体をもたらすことになったのである。
 権力と権威の概念的区別を維持することによって、統治体の成立以後も政治的権威を人民が保持するという狭義の人民主権が確立する。この区別は、たしかに初期理論では為政者権力の絶対性を確保する装置であった。しかしながら、それは、人民が政治主体へと変容する理論過程において、政治権力の暴走に対して自らの権利を守るための理論的基盤を提供する。人民による権威なくしては、権力の命令は法として認められない。人民に認められた抵抗権の成立は、このような一連の理論的革命の帰結である。専制の打破としての抵抗権は、たんなる自己防衛的手段なのではなく、積極的な自己立法の手段として理解されるべきである。それは、コモンウェルスの自浄作用としての人民存在の再定位である。権力と権威の概念的区別は、個人と統治体とのあいだで、政治権力の階層性から循環性へという理論的展開を可能にした。政治的権威概念は、近代政治における主体を準備しつつ権力の正当化を果たすという根本原理を、近代国家論に提供したのである。
 第4章では、寛容と正統性の関係が分析される。本章は、人民の生成と不可分である、普遍的国家の理論化を解明する。ここで注目されるのは、統治の正統性との関係における、宗教の位置づけである。宗教が統治と関係しない特殊なものとされることで、宗教的寛容が達成される。政治権力の脱宗教化がすすみ、それが普遍的な道徳国家の様相を帯びることにより、少なくとも理論的には寛容問題は解決、あるいはより正確に言うならば、消滅するはずである。このとき寛容を享受する人びとが有する市民権は、だれにでも開かれた政治的権利の公共的問題としてのみ論じられるだろう。政治的正統性の原理が宗教から道徳へと変化していくなかで、ロックは中性国家と普遍的人民の理論化への道筋をつけた。
 ロックの功績の最も大きなもののひとつが、普遍主義に立脚した国家論の設立にあったことは明らかである。ただし私の関心は、むしろそれが有する論理構成に注目する。それは近代国家の特殊性を示すとともに、それが持続的な「普遍的なもの」として存在しうる論理を導く。ロック理論の特質は、この神の意志の規定性であるというよりはむしろ、神の意志を表現する形態が絶えず変化することにある。
 ロック理論では、国家の正統性は神の意志に由来している。そのため、自然法を理解する努力をしない人びとは、寛容を享受することができない。彼の初期理論では、非国教徒は為政者の宗教的管理に従わない宗教的狂信者と呼ばれ、彼の不寛容の主要な対象となる。しかし、道徳哲学の世俗化によって理論化された人民は、かれらの宗教にかかわらず、すべての人間を包摂できることになる。そのため、このロックのコモンウェルスには(宗教的)不寛容は存在しないのである。政教分離論の生成の理論的な主要因は、道徳の宗教からの独立、そしてそれを可能とする人間の理性能力の理論化にある。この認識論的展開は、宗教の脱価値化および脱規範化を推進し、公共善とその実現である政治からの分離を可能とさせる。同時に、政治権力による(不)寛容は、宗教的なものから道徳的なものへと形態を変容したのである。普遍的国家の生成において、コモンウェルスの内部における宗教的なるものの位置が、正統性とのつながりを失いつつ、公的領域から離脱してゆく。このような文脈で語られる近代国家の境界線こそ、人民主権論における寛容として語られるべきものである。
 しかしながら、それゆえに、無神論への不寛容は、非宗教的国家における正統性およびその特殊性を反映する。ロックにとっては、「政教分離」が成立する国家は、あらゆる教会や宗教から分離された非宗教的な世俗国家ではなく、無神論者を排除して成立する「有神論」的な中性国家なのである。無神論者はキリスト教を信じていないからではなく、神の存在とその命令を否定するからこそ不寛容される。なぜなら神の意志こそが、人間とその社会を構成するからである。それを否定する人間は、人間の条件に合致しない。ロックの人民は、個人に始まり個人に至る政治権力の一元的な循環モデルを阻害する存在を、最終的に否定する。国家の正統性の根源である神の理論によって、不寛容される対象が、信仰の自由に依拠した寛容論の外部において発生する。こうして、この政治権力による不寛容は、寛容論の限界としてではなく、国家論の限界として理解することができる。
 ロック政治論の課題とは、政治権力の普遍的な正統化原理を提起し、これに適う政治形態を弁証することにあった。そしてこの政治理論は、新たな政教分離論および寛容論をもたらすものでもあった。ロックの国家は、はじめ国家宗教を奉じる宗教国家であったが、しだいに脱宗教化されて、普遍的な人民からなる普遍的な国家となる。
 第5章で論じられる課題は、これまでの各章で明らかにされた主体と権力のつながりを、ロックが具体的にいかに想定していたか、ということである。本章の分析対象は、ロックのユートピア論「アトランティス」である。この作品は、彼のフランス滞在中(1676-79)に執筆された。この作品は彼の「統治の技量」についての見解の分析する上で、非常に示唆的であるものの、これまでほとんど注目されてこなかった。私見によれば、「アトランティス」はたんなる空想ではなく、人民主権原理に依拠した自由主義的なユートピアとしての彼の理想社会を生き生きと示すものである。
 本章の課題は、この「アトランティス」と題されるユートピア論のロック理論における位置づけ―とりわけ人民主権に依拠した統治様式の特質―を明確にすることにある。またこの課題は、その叙述に反映された、彼の統治の技量論を再構成することでもある。ロックの論じたユートピアは、宗教共同体論でも社会風刺でもなく、生真面目な統治様式の叙述である。人民が道徳主体かつ政治主体であるということは、アトランティスの徹底した自己支配の原理によって貫徹されている。人民は相互に規律の対象となる。絶対的な権力者とそれに基づく垂直的な権力構造を排した世界では、「アトランティス」の記述に如実に現れるような、水平的で相互的な権力構造がこれに代替する。そして、このような人間・社会像こそ、神の恩寵によって支えられている。別言すれば、神の監視下に置かれる人間社会を想定することによって、諸個人の生活様式の腐敗は権力の介入を余儀なくされる。
 本章が明らかにすることは、労働・規律・家族によって構成されるアトランティスが、道徳的個人の存在論と国富の増大とが不可分に結びつけられた、自己統治の形態として構成されていたということである。この場合、統治は道徳的個人の本質的実践であり、この主体を再生産する。ロック思想において、人民の生の形態を具体的に叙述することによって、「アトランティス」は、「第一の政治学」としての政治機構論と、理性的人間の存在を論証した道徳哲学とを架橋する位置にある。この著作は、ロックが構成した人民主権論を、現実的で具体的な社会様式に反映している。またこれは同時に、人民を政治主体とした近代政治理論が本質的に孕む、主体の置かれた不安定な状況を示している。
 本論文の議論をまとめるなら、ロックは人民と権力を相互に不可分なものとして接続させたことにより、たとえ統治者の恣意や不意の出来事があったとしても、人民主権論にもとづく統治が円滑に循環するように理論化した。ロックは普遍的人民を普遍的国家の担い手として理論化することで、循環を阻害するような、政治におけるあらゆる特殊性を理論的に解体する。個人の存在とその同意の体系を破壊する政治権力の暴発に対する人民の抵抗権は、コモンウェルスの自浄作用としての人民概念の再定位として機能する。政治主体としての人民の同一性を、抵抗権によって、永遠に更新し続けるのである。抵抗権は、(革命として)専制と(反革命として)マルチチュードの双方に対抗する。人民主権は、特定の様式、制度、あるいは陳述に還元できるものではなく、このような人民の統治を規定するひとつの統合的な原理である。
 ロックの政治理論は、政治の外周を決定するような主体の形式について、ひとつのプロトタイプを提供したといえる。そしてそれは、人民がもつ政治権力の形態と結びつくものであった。理論家としてのロックの価値は、『統治二論』に描かれた「民主主義」にのみ反映されているのではない。むしろそれを通時的に構成してきた、概念の持続的な形成過程においても、それは見出されるべきである。

このページの一番上へ