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博士論文要旨

論文題目:帝政ロシアの移住・入植政策と移住農民―19世紀後半から20世紀初頭―
著者:青木 恭子 (AOKI, Kyoko)
博士号取得年月日:2010年1月13日

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 帝政末期ロシアにおいて、ヨーロッパロシアからアジアロシアへの移住・入植は、いわば国家的な事業として進められていた。中央部ロシアから辺境地域へ人口を移動させることは、帝政ロシア政府がその支配領域をいかに統治するかという問題の一環をなしていた。中央部ロシアでは、過剰な人口を送り出すことにより、深刻化する一方の「土地不足」問題を多少なりとも緩和することが、農業危機への対処法の一つでもあった。また、辺境地域の開拓・開発、中央と地方との結びつきの強化といった観点からも、アジアロシアの「ロシア人」人口増加をはかる必要があった。
 帝政末期のロシア政府にとって、アジアロシア移住・入植の推進とは、大きく二つの目的を持つ国家的な事業であった。そのため政府は、移住を希望する農民に移住許可を与え、国有地の用益権を分与し、様々な優遇措置や特典を認めてきた。そのような移住支援策が、移住者の増加をもたらしたのは事実である。だが、いくら国家的事業だとは言っても、刑罰としての流刑・追放は別として、強制的な移住が行われたわけではなく、大半が自由移住だった。しかも、正式な手続きを踏まない無許可移住者もまた、かなりの割合を占めていた。すなわち、辺境地域の入植・開発事業を進める政府の思惑とは別に、農民には農民の、移住を求める自発的な意志が存在していたのである。
 本論文の目的は、政府の戦略的な意図と移住農民に内在する論理とを、それぞれ全く別のものとして理解した上で、アジアロシア移住・入植を推進した政府の思惑と、移住を希望し実行に移す移住農民の思惑とが、どのように交差し、また乖離したのか、考察していくことにある。
 第1章では、本格的な分析に入る前段階として、帝政末期のアジアロシア移住の概要についてまとめた。
 ヨーロッパロシアからアジアロシアへの移住が顕著な現象となるのは、およそ1880年代に入ってからのことである。シベリア鉄道が部分開通する1890年代後半から、移住者数が急激に増加し始める。20世紀最初の数年間は一時的に減少するものの、日露戦争が終結し、ストルィピン改革が始まる1906年から1909年にかけての時期が、移住の最盛期となった。その後、移住者数は1910年から1911年にかけて激減し、1912年から1914年にかけて緩やかな増加に転じている。
 アジアロシアへの移住者を特に多く送り出しているのは、北部黒土地帯と中部黒土地帯、南部ステップ地帯、東部・南東部、西部諸県である。ただしそれぞれの地域の占める割合は、時期によって大きく変動している。1880年代にはクルスク県出身者が最大の割合を占め、1890年代以降はポルタワ県出身者が第一位となる。1890年代前半までは、クルスク県やポルタワ県を含む北部・中部黒土地帯出身者に加えて、沿ヴォルガ地方のペルミ県、ヴャトカ県、サマラ県、サラトフ県出身者が移住者の大半を占めていた。
 1890年代後半以降、西部諸県、南西部黒土地帯、南部ステップ地帯など、それまであまり多くの移住者を送り出していなかった地域からの移住者が増加を始めた。20世紀に入り、移住者数が一旦大きく減少した際にも、これらの地域からの移住者は、むしろ逆に増加しているか、あるいは減少したとしても、ごく僅かにとどまっていた。
 移住世帯の身分カテゴリー別の構成は、地域や県によってかなり大きく異なる。国有地農民が大半を占める地域もあれば、逆にほとんどが元領主農民という県もある。カザークの移住者は、ポルタワとチェルニゴフの2県に集中し、沿ヴォルガ地方や新ロシア地方からは、ドイツ系「入植者」の移住も見られる。大まかに言えば、元領主農民よりも元国有地農民の方が、分与地を保有する世帯の割合が高く、かつ保有する分与地の面積も広い。なお、元領主農民の中には、最初から土地を分与されなかった元屋敷付き農奴(召使い)や、基準面積の4分の1の分与地を無償贈与された農民も含まれていたと考えられる。
 第2章では、第1章で明らかにしたような地域からの移住者が多くなる理由について考察した。
 特に多くの移住者を送り出していた県や地域に共通する特徴は、農業を専業とする農民が多く、農業以外の地元産業があまり発達してない、典型的な農業県ということである。中には、少なからぬ農民が出稼ぎに出ている地域もあるが、その大半は農業労働者としての出稼ぎである。逆に、ペテルブルクやモスクワなど大都市や工業中心地への出稼ぎが多い地域から、アジアロシアへの移住は少ない。
 このような農業県では、特に19世紀後半以降、人口増加による「土地不足」の悪化、土地の賃料や購入代金の高騰、農業労働者としての労働力需要の減少および労働賃金の下落等により、農民世帯のおかれている状況は厳しさを増していた。このような経済的要因(すなわち貧困)が、アジアロシア移住を引き起こす原因であるとも考えられる。しかし、経済的困難に直面した世帯のすべてがアジアロシアへ移住したわけではなく、むしろそれは少数派であった。しかも、移住しているのは必ずしも貧困世帯ばかりとは言えない。少なくとも移住する時点ではさほど追い詰められているようには見えない、「中農」や「富農」に分類されるような世帯もまた、移住していた。
 農民の間に流布する噂や、移住者が故郷へ書き送った手紙の内容などを分析すると、多くの農民が移住することによって実現したいと願っていたのは、土地に依拠した「農民としての真実の生活」であることがわかる。これまでずっと農業に専従してきた農民にとって、大都市へ出稼ぎに行くことや工場労働者となることは、生活を一変させることになる。そのような転換を望まず、あくまでも「農民としての真実の生活」を送りたいと願う者にとって、アジアロシアの自由で広大な大地というイメージは、非常に魅惑的なものに感じられたと思われる。
 第3章では、移住許可に関する政策について詳しく検証した。政府は、どのような世帯に移住許可を出していたのか、つまり、どのような世帯が移住者として適していると政府は考えていたのか、その政策的な意図について明らかにした。
 ソヴィエト史学では、1890年代までの政府は、地主貴族に安価な労働力と土地の借り手を保証するため貧農の移住を制限し、20世紀に入ってからは農民革命を防ぐため貧農の移住を推進した、と説明されてきた。しかし実際には、1890年代中頃以降は一貫して、入植の成功が見込めるような世帯に移住許可を与えていたのである。具体的には、世帯の労働力(成人男性)が多いこと、多少は移住資金を持っていること、あらかじめ先乗りを派遣して入植先を登録していること、などが重視されていた。つまり政府は、困難な入植事業に耐えられる力のある世帯を、望ましい移住者として考えていたのである。移住事業とは、ただ単に中央部ロシアから過剰人口を送り出せばよい、という問題ではなかった。移住者としての自覚や覚悟に乏しい者や、弱く貧しい世帯を移住させた場合に、入植に失敗し、さらに一層困窮してヨーロッパロシアへ戻ってくる危険性が高いことを、政府は懸念していたのである。
 ところが、何らかの理由で移住許可を受けられなかった世帯のすべてが、移住を断念したわけではなかった。たとえ許可されなくとも、移住したい者は移住の道を選んだ。第4章では、政府による禁止措置および著しく不利な条件にもかかわらず、このような無許可移住が決して後を絶たなかった理由について考察した。
 建前上は無許可移住を禁止しながらも、実際のところ政府は、ウラルを越えた無許可移住者の入植を事実上認めている。1896年を境に、政府の無許可移住対策はさらに新たな方針をとるようになった。それは、正式な移住許可を受けた移住者に対する支援を手厚くし、移住・入植に関連する情報を積極的に提供することによって、農民に無許可移住に踏み切らせず、合法的な移住の道を選ばせるよう、仕向けるものであった。しかし、そのような措置も顕著な成果を上げたとは言い難い。無許可移住は決してなくならず、以前よりは減少したとはいえ、移住者全体の約4割を占め続けていた。
 無許可移住が決してなくならなかった第一の理由は、移住許可を取らなくとも、新天地で暮らすことができたことにある。無許可移住者の中には、既に新天地に家族がいる者、もしくは身内や知人が移住している者も少なくなかった。また、無許可移住者でも必ずしも国有地が分与されないわけではなかった。そして移住者用区画に入植しなくとも、古参住民の共同体に加入したり、あるいは加入せずに土地を借りたり、もしくは農業労働者として雇われたりして、生活することができた。
 第二の理由として挙げられるのは、入植区画の環境悪化である。1890年代中頃には既に、新たに移住者のために作られる入植区画は、密林地帯、鉄道沿線から遠く離れた地域、ザバイカル地方や極東地方など、入植には多大な困難を伴う地域が多くを占めるようになっていた。他方で移住者は、ヨーロッパロシアから地理的に近く、古参住民も多く暮らし、ある程度開拓が進んだ豊かな西シベリア平原地帯への入植を第一に希望していた。しかし、移住者に人気の地域で入植区画に空きを見つけることは、後になればなるほど、極めて困難になっていた。環境の厳しい地域への移住を嫌い、移住したい場所へ移住しようとすれば、無許可移住という道を選ばざるを得ない、という状況になりつつあったのである。
 第5章では、帰郷者をめぐる問題について考察した。帰郷問題といえば、無許可移住者が新天地に定着先を確保できないまま、零落して帰郷する事例が主に注目されてきたが、実際には、移住許可を受けた合法的な移住者が帰郷する例も決して少なくはなかった。
 無許可移住世帯の場合は、入植先が確保できなかったことを理由に帰郷する世帯が最も多い。次に多いのが、資金不足を理由として挙げている世帯である。それに対して移住許可を得ている世帯が帰郷する理由として最も多かったのは、入植後の環境が合わなかったことである。
 第4章でも明らかにしたように、1890年代半ば以降、国有地に作られる移住者用区画は、入植環境の厳しい場所のものが大半を占めるようになっていた。辺境地域の開発を意図する政府にとっては、それもある程度はやむを得ない事情である。政府が入植の成功を見込める世帯を中心に移住許可を与えていたのは、入植地の環境の厳しさを念頭に置いた措置でもあった。しかし、より良い生活を求めて移住する農民の中には、そのような苦難に耐える気などない者もおり、割り当てられた入植区画が気に入らずに帰郷するケースも見られた。他方、無許可移住者の多くは、最初からそのような環境の厳しい地域を嫌い、ある程度開発が進み、身内や知人も既に移住しているような、比較的入植し易い豊かな西シベリア平原地帯に集まっていた。しかしそのような条件の良い場所には、空いた土地はほとんどなかった。その結果、定住先を確保できずに帰郷を余儀なくされる者が続出した。
 ところで、必ずしもすべての移住者が、移住する際に、故郷との絆を完全に断ち切っていたわけではなかった。成員の一部を故郷に残して移住した世帯も1~2割程度は見られる。さらにストルィピン改革以降に関して言うと、故郷で分与地を保有していた世帯の約3分の1が、分与地を賃貸に出すか、もしくはそのままにしている。しかも、移住許可を受けて移住する世帯よりも無許可移住世帯の方が、分与地を売却せずに残している割合が高い。さらに、シベリアに地理的に近い沿ヴォルガ地方では、分与地を残して移住する世帯の割合が著しく高かった。少なからぬ移住者が、もしも可能ならば、万一入植に失敗して帰郷しても暮らしが立つように、自分たちで安全網を確保していたと考えてもいいだろう。
 政府の側には、アジアロシア移住・入植を国家的事業として推進しようという思惑があったが、移住農民はそのような政府の思惑とは無関係に動いていた。ほとんどの移住農民は、帝国の発展のため、辺境地域の開発のため、「ロシア化」を推進し、中央政府の支配を強化するため、といったことは、恐らく考えてもいなかった。ただ単に、今よりも良い生活を送りたい、広く自由な土地で、農民らしい(と彼らが考える)生活を再構築したい、あるいは労働賃金が少しでも高い場所に行きたい、などといった思惑から、移住という道を選ぶのである。政府は、移住の動きを管理・統制することによって、この国家的事業を円滑に、自らの目的に合わせて推進しようと考えていた。他方で農民は、管理・統制の手段の一つである移住支援策を都合よく利用しつつも、決して政府の思惑通りには動かなかったのである。

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