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博士論文要旨

論文題目:17世紀イングランドの年季奉公人―出自の社会経済史研究―
著者:石井 健 (ISHII, Takeshi)
博士号取得年月日:2009年10月14日

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 本論文は、17世紀イングランドの年季奉公人の出自を論じるものである。
 序章では、奉公人の出自にかんする先行研究を振り返り、現在までの到達点と課題を提示した。まず、先行研究では奉公人の出自について、二つの学説が現在有力であることを指摘した。一つは、奉公人を浮浪者や盗人、売春婦といった最下層出身者中心の集団とみる古典説で、消極的受動的な行動原理をもつものとイメージされた。もう一つは、奉公人を農民・職人から労働者までの中下層出身者中心の集団とみる修正説で、積極的能動的な行動原理をもつものとして描き出された。また、修正説は年季奉公人をイングランド国内で慣習化されていた奉公人制度一般の一部とみなし、男子青少年層を中心とするライフサイクル・サーヴァントとであると喝破した。古典説がその決定的根拠を同時代文献の記述に求めるのに対し、修正説は奉公人契約書史料群の分析に依拠し、実証性という点では修正説の方がはるかに説得的である。
 しかし、修正説が古典説よりも優れていると論じるにはなおいくつかの弱点があった。第一に、同時代文献の記述の問題である。同時代人は奉公人を社会の底辺出身者として記述するのが常だった。かれらの証言を無視するのでない限り、古典説には一分の理があり続けることになる。そのため、修正説でも同時代文献の奉公人像を自説に組み入れようとして矛盾した奉公人像を生み出し、苦しい議論を展開しているものもある。第二に、修正説は奉公人の出自の地理的特徴について、特定地域社会と移住との関連性を主張するのだが、その議論がむしろ古典説に有利なように展開されている問題である。都市や森林地帯出身者が多いことが、貧民が集まりやすい場所であるという理由で説明されており、第一の問題と同様、矛盾した奉公人像に苦しむ結果となっている。奉公人の移住距離の議論も同じである。第三に、出自の地理的特徴の議論のなかで指摘された情報アクセスの問題である。これについは、たんに指摘にとどまって、具体的実証にはいたっていない。
 そこで、本論文は以上の三つの問題を課題とし、順次検討することとした。まず、第一部「同時代文献に現れる奉公人像」では、奉公人の出自を叙述する際に頻繁に取り上げられる同時代文献のなかから引用頻度の高い2点を選び、その文献批判・史料批判をおこなった。第一章では、ジョサイア・チャイルドの『交易論』を取り上げ、かれの植民地論と貧民論を整理し、その文脈のなかでチャイルドの移民像がもつ意味を明らかにした。チャイルドにとって植民地は本国経済の成長を生産面でも消費面でも牽引する原動力であった。それは、本国の遊休余剰人口である貧民を植民地へ移し、そこで就労人口へと再編することでもたらされるものであった。チャイルドの経済理論において、貧民は国富を増やす源泉として、植民地はその貧民を勤勉な労働力へと再教育する場として、また本国にとって有益な交易をうみだす場として位置づけられていた。そのような植民地論・救貧論であったからこそ、移民は貧民であらねばならなかった。本国で無益な存在が植民地で有益な存在へと変身しなければならなかった。したがって、チャイルドの移民像は史実の姿を借りた理論上の命題であった。
 第二章では、ヘンリー・ホイッスラーの「西インド遠征日誌」を取り上げ、史料の成り立ちを検証し、その制作意図を探った。この史料は、史料学的情報から判断して、西インド遠征に参加した一水兵が帰国後にまとめた業務日誌風の書物である。それは、遠征中に起きたイスパニョーラ島攻略戦での敗北責任が誰にあるのかを叙述することを執筆動機の一つとして誕生した。独特のスペルで綴られるその物語は、遠征軍司令長官ロバート・ヴェナブルズと遠征軍兵士の失態を執拗に描き、かれらこそが敗戦責任者であると非難した。遠征軍兵士の中心はバルバドスで補充された兵であった。かれらは党派的に遠征軍首脳部とは距離があり、そこでホイッスラーは「この島はイングランドがくずを投げ捨てる糞の山である」とバルバドス島民の出自を揶揄することで、敗戦がかれらの無能ゆえに引き起こされたものであることを示そうとした。したがって、このあまりに人口に膾炙した文句は政治的意図にもとづく党派的発言であって、客観的観察結果ではなく、無批判に引用できない、ということになる。
 以上から、同時代文献の問題については、次のような結論を述べることができる。すなわち、同時代文献にあらわれる奉公人像は決して総体についての客観的記述ではない。それは同時代人の価値判断である。あるいはその一部についての事実を示しているのかもしれないが、しかしながら総体としての事実ではない。したがって、これらの記述に依拠した古典説はその有力な根拠を失ったと思われる。
 次に、第二部「地域社会と移住」では、特定地域における奉公人層の移住の実態を検討した。取り上げたのは西ミッドランドに位置するヘリフォードシアのワイ川流域社会である。第三章では、このワイ川流域社会の諸特徴を考察した。そこで明らかになったのは次の事実であった。まず、この地域は人口流出を構造的に生み出す社会であった。人口成長は緩やかながら、自然増加が厳しく、そのためにこの地域にとどまったり、流入した人以上に流出した人が多かった。つぎに、この地域は在地のジェントリー層を頂点とするピラミッド型の階層社会をなしていた。農夫層と労働者層のあたりに貧困境界線が引かれるが、それは流動的で、経済状況次第で浮き沈みした。また、ワイ川流域社会の主産業は開放耕地制の下で展開される穀作農業と酪農その他の畜産業であった。ピラミッド型の社会構造と対応して畑作農業はおもにジェントリーやヨーマン層、農夫層がおこない、小屋住農などは畜産業に従事した。マナー裁判所の領地管理機能が健在であり、新規参入は無制限ではなかった。一方、労働集約的な大規模な農村工業はいまだ存在せず、就業機会は極めて小さかった。つまり、新たにこの地域で一家を構えようというものにとっては、なかなか定着するのが厳しい環境であった。最後に消費生活的には、在地家族の生活はかなり質素なものであった。伝統的な農業を営むことと対応し、生活面でもさほど派手なものではなかった。
 これらの諸特徴をふまえ、第四章では、この地域の移住の実態を探った。その特徴を整理すると次のようになる。第一に、この地域の移住は近隣村落間または都市と周辺村落間の近距離移住が大部分を占め、遠距離移住はほとんどみられないこと。第二に、17世紀をつうじて平均移住距離にあまり変化がないこと。第三に、定住せずに再移住をおこなうものが少なからずみられたこと。つまり、奉公人に典型的な多段階移住が構造化されていた。しかし、そのことが直ちに貧困型、生活維持型の移住を意味するものではなく、その移住過程には奉公人と契約する側の積極的な関わりがみられる。そして、ワイ川流域社会の事例は、地理的特性が貧困型の移住かどうかの指標ではないことをも示唆している。むしろ、環境条件が意味しているのは情報へのアクセス度であり、情報にアクセスしやすい地域ほど年季奉公人への道が開けていると解釈すべきであろう。
 そこで最後に、第三部「民衆のなかのアメリカ像」では、移住と情報との関係について検討した。第五章では、17世紀のイングランド人が書物を介してどのように情報をえることができたのか、とくにロンドン以外の地方住民がどうだったのかを概観した。ここで明らかになったのは次の諸点である。まず、書物は都市や定期市など人の多く集まるところで入手しやすい商品だが、薄いパンフレット類、一枚物のバラッドや新聞などは行商人をつうじて入手することができた。それはまた、主要街道沿いの集落ほど行商人からの入手がしやすかったということでもある。もちろん、書物は厚さ・大きさに応じて価格の異なる商品だったから、厚く大きな書物ほど、その所蔵には階層差が生まれやすかった。また、いわゆる識字率も所属する社会層や職種に応じて差が大きかった。しかし、当時の教育制度は読み書きに段階があったため、書く能力は習得できなかったが読む能力は獲得した人々が少なからず存在して、識字率に表れる以上に広範囲な読者層が誕生していた。しかも、当時の読書のあり方はなおも伝統的な朗読中心であったから、文字を自分では読めなくても、書物の情報を共有することができた。また、17世紀後半になると新聞やパンフレットなどは自分で購入する方法以外に、コーヒーハウスやエールハウスなどの社交場で無料で閲覧ができるようになったから、情報アクセスへの階層間格差は次第に緩和されていくことになった。したがって、17世紀イングランドでは、情報の集まりやすいところで多くの人が情報を享受する社会が整いつつあったといえる。
 以上の状況を前提にして、第六章では、アメリカ植民地に関するどんな情報が流通していたのかを、新聞記事の分析をつうじて検討した。まず、植民地と交易する船舶関連の情報がさまざまにあった。積荷情報から植民地の特産物を知ることができたし、景気動向、作況も伝えられた。出航情報は入植への勧誘をともなった。航海中の危難災難の話は、あるものには恐怖を抱かせ、旅を断念させたかもしれないが、別のものには勇気と冒険心を奮い立たせたことだろう。戦闘報道も読者を鼓舞しただろう。勝利は富と結びついていたから。もちろん、イングランド人が常に勝利したわけではない。しかし、新聞は不利なことは極力伝えなかった。スピリッツの問題も、植民地で起きた住民の反乱も。新聞が伝えるのは、平和で繁栄している植民地像だった。新規に獲得した植民地であれば、入植を奨励すべく詳細な地誌が掲載された。そのなかのアメリカ植民地はいつもさまざまな物産を産出する肥沃の地であった。つまり、新聞のなかのアメリカ植民地像はイングランドでくすぶる人々を入植へといざなう地上の楽園像だった。したがって、新聞情報に接しやすい人ほど、アメリカ植民地は移住先の選択肢のなかで順位が高かったことだろう。
 かくして、本論文の課題にはそれぞれ解答を得ることができた。繰り返しになるが、第一部からは、同時代文献の記述が奉公人像の根拠とならないことが文献批判・史料批判から明らかになった。第二部からは、特定地域社会についての個別実証地域史研究の結果、特定の地理的特徴が特定の移住様式を決定するのではないこと、奉公人に特徴的な多段階移住は慣習化されていること、地理的特徴が意味するのは情報アクセスの問題であることが確認された。第三部からは、新聞記事を介したアメリカ植民地情報は人々を誘引する楽園像であったことが示された。以上の結果、本論文は、奉公人の出自にかんする修正説が示した奉公人像、自立に向けた通過職種として奉公に入った中下層出身の男子青少年層を中心とし、入手できる情報にもとづいて合理的に選択し行動する人々という奉公人像が正当であると結論した。

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