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博士論文要旨

論文題目:1950年代日本における漁村社会と漁業秩序の変容
著者:森脇 孝広 (MORIWAKI, Takahiro)
博士号取得年月日:2009年7月31日

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 本論の課題は、1950年代日本の漁村社会における漁業秩序形成のありようを分析することで、戦後日本社会変容の一端を明らかにすることである。
 グローバリゼーションや市場万能主義・競争至上主義のもと、地域や個人は競争を通じて発展するものであるという価値観が盛んに喧伝され、都市と地方の格差は拡大し、地域社会・地域経済は衰退の一途をたどりつつある。米国発の経済危機が世界規模で拡大し、日本国内においても雇用情勢に打撃を与えたのを機に、こうしたいわゆる新自由主義路線に対する露骨な賞賛はなりを潜めたかに見えるが、この流れは今後の日本社会に深い傷跡を残すであろう。そこで、現在衰退に向かいつつある地域社会はどのように形成されたのか、これを歴史にさかのぼって検討することは、現在の地域社会に横たわる問題点を把握し、今後の展望を描くために避けて通ることのできない課題であると考えるに至った。
 四方を海に囲まれた日本は、古くから漁業と深い関わりをもちながら発展してきた経緯がある。とくに戦後日本を政治面で規定してきた日米安保体制、経済面で規定してきた経済成長路線は、漁業生産・漁村社会の犠牲のうえに成り立ってきたといっても過言ではない。すなわち1952年の講和条約調印による西側陣営の一員としての国際復帰、日米安保条約による対外的安定(同時に沖縄の切り捨て)の確保と軍事基地の提供、漁業との関連でいえば海上演習場の設定が行われ、沿岸の埋立てによる臨海工場地帯の形成は経済成長を牽引する役目を果たしてきたのである。戦後日本を政治・経済・社会の諸側面で規定してきた「軽武装・経済成長」路線は、漁業・漁村の歴史とも決して無縁ではなかった。ゆえに漁業と漁村の歴史から戦後日本社会を逆照射するというアプローチも可能ではないだろうか。以上が課題設定に至った問題意識である。
 次に、戦後日本の漁業・漁村に関する研究を、漁業経済学や漁村社会学による現状分析を中心に以下のように整理した。すなわち、①1950年代、講座派マルクス主義の潮流における漁村の前近代的・半封建的性格の強調と、それを変革するための下からの運動と主体形成の必要性を説く研究であり、対抗的漁民運動を高く評価するもの、②1960年代以降における臨海工業地帯の形成と漁業権放棄をめぐる問題に焦点をあてた社会学の研究、③1970年代以降、公害問題に社会の関心が集まるもと、開発・公害問題と漁民との対抗を描いた研究である。一方、④基地闘争史・平和運動史研究の分野では、特に1990年代以降、基地と地域社会・地域住民との関係(抵抗と協力の諸相)を解明する研究がみられる。
 以上のような研究状況をふまえ、1950年代漁村社会における漁業秩序の形成と変容を課題として設定した。1950年代に着目したのは、戦後改革から高度経済成長に至るまでの期間として、独自の時代的固有性・重要性をもっていると考えたからである。その際、具体的検討課題としたのは、①漁業秩序を形成するうえで果した漁業制度改革の意義と限界は漁村の生産現場にどのように表出したか、②漁業制度改革によって生じた問題を漁業関係者はいかに調整し新たな漁業秩序を形成したか、③基地闘争を経験した末米軍基地の受け入れを余儀なくされた漁村が、基地の存在によっていかなる変容をこうむったのか、基地撤退後をも含めて基地と漁村との関係を通時的に明らかにする、以上の3点である。
 分析にあたっては、一地域の事例から全体を類推する弊を防ぐため、浅海養殖地帯、沿岸定置網漁業地帯、沖合・遠洋漁業地帯といった類型を設定し、それぞれに典型的な漁村を抽出した。その上で分析方法として、①漁村内部の経済・階層的分析を中心としつつ、②漁業協同組合・漁業資本家など多様な漁業秩序形成の担い手を明らかにしたうえで、③それらを政治・行政の対応とリンクさせることにより、必ずしも体制対抗的とは限らない漁村における多様な主体形成のあり方を明らかにすることを狙いとした。
 第1章「浅海養殖漁業地帯における漁業制度改革と漁業秩序―千葉県昭和町奈良輪の事例―」では、奈良輪漁業協同組合を中心として、①漁業制度改革が目指した2つの原理(漁場の漁民への開放と生産力の向上)の矛盾がいかなる形で現れ、それをいかに克服したのか、②2つの原理のうちの後者、すなわち漁場開放により漁民が増加するなかで生産力向上への取り組みがいかに行われたのか、③1950年代後半に昭和町とその隣村・長浦村を舞台に起こった長浦干拓反対運動を素材に、奈良輪漁協が干拓撤回を勝ち取るに至った背後にある漁業秩序形成の内容を検討した。
 ノリ養殖が盛んな奈良輪漁協では、敗戦後の生活難等により新たにノリ養殖への着業を希望する漁民が増加し、面積の限られた漁場へいかに多くの漁民を着業させ、なおかつ生産力を上げるかという難問に直面していた。ノリは元来病気に弱く、生産力を上げようとしてノリ網を張りすぎると病気が伝染しやすくなるのが短所だったのである。この難問を解決する上で第一に重要な役割を果たしたのが、漁協の総代会であった。総代会は漁協内各部落の有力者から構成され、戦前の旧漁業会時代からの中上層経営層及びそれらからノリ経営を引き継いだ子弟が中心であった。総代会は、新規着業希望者に対して個々人の生活・経済状況をもとに漁場利用の可否を審査することを通して、漁業制度改革第一の原理である漁場開放の点から漁業秩序形成の担い手となった。
 第二に、生産力向上の点から漁業秩序形成の担い手となったのが浅海増殖研究会であった。研究会に集ったのは主として20~30歳代の青年層で、戦後という新たな時代の気風のなか、従来のノリ養殖にありがちであったカンとコツという職人的要素からの脱却を目指し、合理的な技術を取り入れようと試行錯誤を重ねる。その結果が、ノリの種を人工的に培養する人工採苗技術と、水深の深い水面でのノリ養殖を可能にしたベタ流しの実用化の成功である。
 また奈良輪漁協では1950年代後半、長浦干拓反対運動に取り組む。敗戦後の食糧難を背景とするこの計画に、当初奈良輪漁協は賛成の意を示していたが、食糧情勢の変化や農林省の干拓方針の変更等を受け反対に回る。その反対の意志は非常に強固であり、最終的に奈良輪沿岸の干拓撤回を勝ち取る。奈良輪漁協が反対を貫くことができた背景には、恵まれたノリの漁業資源とそれを基盤とした豊富な資金力のほか、漁民の自主・自立を喚起する目的で1950年代後半から始まった千葉県による新漁村建設運動があり、これらの諸要因が相互に融合しながら漁業秩序が形成されていたのである。
 以上のような意味において1950年代の奈良輪漁協は、工業開発一辺倒に傾斜していく以前の、漁業それ自体がいまだ独自の産業的意義をもちえた最後の時代の象徴ととらえることができると評価した。
 第2章「沿岸定置網漁業地帯における漁業秩序と漁業資本―神奈川県小田原市の事例―」では、①1940年代後半から漁業制度改革期にかけて、小田原市域(小田原市・片浦村)における定置網漁場のひとつである片浦村沿岸の米神漁場の漁業権をめぐって、漁場を経営していた小田原市の資本家集団(相海漁業経営組合)と漁業権を取り戻そうとする片浦村米神部落の集団(米神漁業会「自営派」)との対抗を通じて、この地域の漁業秩序の形成がどのような勢力により主導されたのかを明らかにした。次に②1950年代における小田原漁港建築をめぐる議論を、小田原市議会を中心に紐解きながら、小田原市政における漁業と漁港の位置づけを試みた。以上2つの検討を通じて、この地域の海面利用のあり方をめぐる利害対立の構図を整理し、漁業秩序形成の特徴を論じた。
 相模湾に位置する小田原・片浦沿岸は、ブリやアジ・サバの定置網漁業が盛んで、古くは旧村(部落)を単位とする漁業組合により網が張られていた。しかし1920年代以降、資本主義的漁業の発展により網や漁船が大型化するにしたがい漁業経営は部落の手を離れ、小田原地域の政治・経済に強い影響力をもつ鈴木家が経営する小田原魚市場(社長は小田原市長も務める鈴木英雄。のち英雄の弟・二六が相海漁業経営組合を設立し、これへ経営権を転貸)に移っていた。それに伴い部落の漁民は商業的農業発展の流れに乗りミカン経営に軸足を移した。
 敗戦後の生活難及び戦時期の果樹への肥料統制によるミカン農園の荒廃に加え、来るべき漁業法改正(漁業制度改革)の内容を新聞報道等で察知した片浦村米神漁業会員の一部は、1947年、下層農漁民の立場を主張して「自営派」(のち第一米神漁業協同組合)を結成し、相海漁業に対し経営権の返還を要求するが敗北を喫する。続く漁業制度改革の際にも第一米神漁協は再び相海漁業に対抗し漁業権を主張するが、またも敗れる。その要因となったのは、米神部落内における職業構成の多様化であった。一方相海漁業では、漁業労働者の多くが小田原市という都市部出身者で構成されるようになっていた。こうした実態から、紛争の調整を行う神奈川県漁業調整委員会では、漁場を有する片浦村の漁民と経済的依存度の大きい小田原市の漁民が打って一丸となって経営すべきであるとの理由により、漁業権の対象区域を小田原市から片浦村までと決定した。この決定により、漁業労働者を多数抱える相海漁業側に漁業権が免許され、資本家的漁場利用が最終的に承認される。
 小田原漁港建築をめぐる小田原市議会の議論のなかにも、小田原市に固有の政治・経済的特徴が反映されていた。漁港建築を推進した鈴木十郎市長(英雄の弟)は、就任当初から市経済の浮揚をねらって工場誘致に取り組むが、漁港建築による外来船や水産加工業の誘致は、工場誘致を同様の位相をもって語られていた。さらに漁港周辺の道路整備・土地区画整理とも一体となった漁港建築構想は、漁業関係者を基盤とする鈴木市政の目玉のひとつとなっていたのである。
 以上の分析から、1950年代の小田原における漁業秩序は、相海漁業・魚市場関係者の利害のもとに形成され、さらに鈴木市政による漁港修築構想によってさらなる発展が目されていたと結論した。
 第3章「沖合・遠洋漁業地帯における漁業団体―千葉県南房総の事例―」では、敗戦後の沖合漁業の復興過程において漁業団体の果した役割を考察した。戦争による漁船の徴用や漁網・石油等の配給統制により生産力を大きく減退させていた日本の漁業は、「沿岸から沖合へ、沖合から遠洋へ」の水産政策のもとでの諸施策により、漁船の大型化・動力化、装置の近代化、漁法の改良がすすみ、漁獲能力が向上していた。その結果、全国各地の優良な漁場には漁船が集中し、漁業種類間・地域間での紛争や対立が起こるようになり、それらを調整する措置が講じられるようになる。1950年、千葉県南房総の沖合漁業船主によって設立された千葉県沿海漁業協同組合では、千葉県による補助金を中心とする水産業振興策、及び新しい漁法の開発と普及により操業力を増した所属漁船が、県外出漁と漁場開拓を推進していた。サンマ棒受網漁業の北海道出漁、サバ一本釣漁業の九州西海区への出漁はこうした状況のもとに行われた。とくに、1952年度には九州西海区への出漁が行われたのであったが、翌年度には李ラインという国際的契機や他県からの出漁船の殺到により、新たな漁場の開拓が必要となった。沿海漁協では、千葉県による補助金施策を利用しながら所属漁船が漁場調査に乗り出すなど、主体的に行き詰まりを打開する役割を担った。
 こうした戦後における沖合漁業秩序の形成過程において、沿海漁協は保守政党や行政への結びつきを強め、いわば利益団体としての性格をもつようになった。各種の漁業調整や補助金獲得に際してはこれらへの陳情活動を活発に行い、自分たちの利益の実現を図るようになっていたのである。以上のような意味で1950年代の沿海漁協は、いまだ沖合漁業の地位が相対的に高かった時代を象徴する存在であった。1960年代以降、第二次・第三次産業の発展による若年労働力の流出で乗組員の確保が課題となっていく段階と対比しても、独自の位置をもっていたといえよう。
 第4章「漁村における軍事基地反対闘争と漁業秩序の変容―内灘闘争とその前後をめぐって―」では、1952~1953年に石川県内灘村でおこった米軍試射場接収反対闘争とその前後の村の軌跡を、漁業と農業を中心とする産業構造の変容を軸に検討し、そのことを通して地域における基地闘争の意義と限界を考察した。
 西に日本海、東に河北潟という2つの水域に挟まれ、砂丘地が村の大半を占める内灘村では、戦前から続く北海道・九州方面への出稼ぎ漁業と砂丘地を利用した自家消費的農業により生計が立てられていた。敗戦後の食糧難や出稼ぎ漁業の不振に直面した内灘村では、村内産業の建て直しが課題となっていた。1947年に村長に就任する中山又次郎は、砂丘地の農地化と河北潟の埋立てによって漁業の村から半農半漁の村へと村を改造する構想とたてる。1952年9月に米軍試射場接収の報が飛び込むや、中山村長はこれを機として補償条件付きによる試射場受け入れで村を改造しようと考えるようになる。また、村内各部落の出稼ぎ漁業・農業への依存度の相違が試射場受け入れの賛否の相違となって現われた。産業構造の相違が試射場受け入れに対する態度の相違となっていたのである。
 接収受け入れ後、補償金の配分、補償事業の進展により村内の産業・就業構造に変化が生じる。出稼ぎ漁業の村から、漁業・農業・工業(撚糸業)の村へという方向をとりはじめていたのである。しかし補償事業のひとつに要求していた河北潟干拓は先延ばしにされ、1957年の米軍引揚げから6年が経過した1963年に実現の緒につく。当時の日本は高度経済成長の道を進んでおり、食糧難は問題とはならなくなっていた。一方、砂丘地の農地化は一度は実現するものの、1960年代に入ると隣接する金沢市の人口増加とともに宅地へ転用され、新たな住民が流入するようになる。こうして、基地問題を契機として中山村長の構想により実現に向かいだしたかにみえた半農半漁化構想は、米軍の引揚げにともなう補償という名目の喪失と高度経済成長の開始により大きく転換することとなったのである。
 これを運動の側からみれば、生活と風紀の擁護をかかげて接収に反対していた村民が、闘争を支援する外部団体と接触することで、平和や民主主義といった価値理念を吸収する可能性をもっていた。反対闘争を率いた出島権二を中心とする内灘革新協議会は、従来保守的とみなされていた漁村内灘に風穴をあける存在として期待された。しかし、接収期間中の産業構造の変容という事実のなかで活動は持続しなかった。以上のような意味で、内灘村が経験した1950年代は、反対闘争、試射場の存在とその後の米軍撤退という事態に翻弄され、村の姿をめぐる模索が続いた時代であった。
 第5章「九十九里米軍基地闘争における漁業問題と漁業対策」では、千葉県の九十九里米軍基地闘争の期間(1950~1957年)における漁業問題と漁業対策の分析を行った。九十九里沿岸地域は、戦前来イワシ揚繰網漁業地帯として活況を呈していたが、戦後は一転不漁に直面する。そこへ1948年に米軍が高射砲射撃演習場を設置することにより、不漁に加えて漁業への操業制限が加わることとなった。さらに陸上における事故などの被害もあって、この地域の基地闘争は、イワシの網元や町村長を中心とした補償要求運動という性格を強く帯びつつ展開されることとなる。補償要求運動が本格化するのは、占領というくびきから解放された講和後である。とくにかれらの補償要求の根拠となっていたのは、同時期に石川県内灘村で起っていた内灘闘争であった。内灘闘争における補償要求に刺激され、占領下から基地被害に苦しんできた九十九里にも内灘並みの補償をと要求していたのである。
 こうした補償要求運動の高まりをうけ、千葉県の側で具体的な対策が講じられるようになるのは1955年、千葉県総合開発審議会の場で九十九里浜沿岸地区総合振興計画として沿岸漁業対策が盛り込まれたことを契機とする。漁業対策の目玉は片貝漁港の建築であった。それは、敗戦後から打ち続く不漁と占領期に接収された演習場による被害の継続、これに対する補償要求運動の高まりをへたひとつの政治的帰結であり、この地域における漁業対策の集約的表現であった。これを行政の側からみれば、漁港建築決定にいたる一連の過程は、公共事業による演習場補償事業からの吸収・代位であった。1960年代以降の京葉工業地帯造成による労働力の流出と漁業の地位低下以前の時期において、水産業・漁港建築が地域の産業振興上また公共事業上、戦略性と有効性を期待されていた時代の中で行われた点に特徴があった。
 終章では各章で述べた点を踏まえて改めて論点を整理した。すなわち、①「軽武装・経済成長路線」が政治・経済・社会の諸方面を規定するものとして定着する1960年代以前の時代にあって、地帯ごとに多様な漁業秩序の担い手に支えられ、漁村自体が独自の機能と役割を発揮し、漁業自体が産業としての発展の可能性をもっていたという意味で最後にして固有の像を示していた。②安保体制下の末端に位置づけられた内灘・九十九里にあっては、補償要求中心という運動の性格、運動の行政への吸収によって漁村のあるべき方向を模索していたという意味でやはり固有の姿を示していた。
 最後に残された課題については、①漁村と都市・農村などとの相互関係のいっそうの解明、②1950年から1960年代への変化を、工業化・都市化といった外在的要因のみならず内在的要因から解明する必要性の2点を指摘した。

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