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博士論文要旨

論文題目:神話と浄化―マレ地区保存にみるパリの景観形成
著者:荒又 美陽 (ARAMATA, Miyou)
博士号取得年月日:2009年7月8日

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1.問題の所在
 本論は、歴史的街区を保存する政策が都市空間にもたらすインパクトを、世界で最も初期の事例のひとつであるパリのマレ地区から検討したものである。歴史的環境の保存は、現代においては世界的に受容された考え方であり、都市の一角を対象にすることも珍しい現象ではない。しかし、現代都市は、グローバル化が進展するなかで、常に大きな変化を迫られてもいる。都市の実態的な変化のなかで、制約の大きい歴史的街区保存政策を導入することの政治的・社会的意味については、長期的な視野で考察する必要がある。
 パリのマレ地区は、1962年に制定された通称マルロー法により「保全地区(secteur sauvegardé)」に指定され、1964年から保護されている。政治的にも経済的にも国際社会の中心のひとつである都市において、指定から40年が経過したこの事例は、現代都市における歴史的街区保存の意味を考察するために重要な視点を提供している。また、その端緒となった戦前の事業の存在も先行研究によって示されており、政策展開が長期であることも明らかになっている。しかし、政策決定直後には事業手法やその問題点の研究が多くなされたものの、戦後から60年代までの政策決定過程や80年代以降の状況については、ほとんど研究がなされていない。本論は、フランス国立古文書館、パリ市古文書館をはじめとし、アクセスしうる歴史的資料をベースに、近年の行政資料、新聞や雑誌などの記事を加え、1960年代にマレ地区を保存するという決定がなされた背景とその現在までの帰結を、20世紀を通した歴史から明らかにする。
 パリの都市計画の歴史という観点からみるなら、マレ地区の保護は歴史的街区の保護政策のみにとどまらない意味を持つ。1970年代以降は、ここで行われた修復主体の都市整備手法が、都市全体に適用されることとなったからである。マレ地区では、保全地区指定以降、「ブルジョワ化(embourgeoisement)」と呼ばれる居住層の変化が起こった。その整備手法がパリ全域に適用されたことは、中産階級の都心部居住を進め、貧困や暴力に特徴付けられる「インナーシティ問題」が、パリにおいては「郊外」の問題として現れてくる状況をも生み出した。その意味で、マレ地区の政策を研究することは、パリの都市構造を明らかにすることにもつながっている。

2.「神話」と「都市景観」
 都市においてある領域を保護することは、個々の建造物を保護することとは異なる意味を持つ。そこには、(1)その領域が長い歴史を通じた変化にもかかわらず、総体として歴史的であるという認識があること、(2)その本来多様性を持った地区を統一的に整備する方針を持つことが必要である。そのため、本論では、「神話」と「都市景観」の二つの切り口からこの事例を見ていく。
 「神話」というのは、文学作品、絵画、写真、また専門的な研究などに描かれ、共有されていく都市空間の見方のことである。それは都市の現実から導き出されながら、いったん作り出された後には、逆に現実の都市に対して拘束力を持つ。無数の作品で描かれているパリについては、神話の存在は複数の論者によって指摘されている。しかし今までの研究は、19世紀の神話に関しては既に多くのことを明らかにしてきたが、都市計画において歴史性が重視されるようになった第二次大戦後についてはほとんど触れられていない。多様なメディアが都市を描く現代においてこそ、神話の影響力を測っていく必要がある。
 19世紀にパリを描いた著作では、都市のポジティヴな面よりもネガティヴな面を強調していたという。その舞台となった地区の多くが、19世紀の再開発の対象となり、解体された。衰退地区であったマレはその格好の舞台でもあったが、行政はそこを破壊するのではなく保存することを選んだ。そこには、貧困や暴力といったネガティヴな神話に対抗する歴史性というポジティヴな神話が形成される過程があった。地区の保存をめぐる議論に、論理ばかりではなく詩情に訴える面が多く見られることは、神話の政治的な場面への表出と考えることができる。本論ではこの神話の中でマレの歴史性がある時代に特定されていく過程を示す。
 もうひとつの切り口である「都市景観」は、建築や都市工学では建造物の外観を整えることに用いられる用語である。しかし近年の地理学では、むしろ「景観」あるいは「風景」というものの見方を作り出すイデオロギーの所在を重視する研究がなされてきている。本論の関心は、歴史的街区の外観を整える見方を作り出すイデオロギーにある。フランス語で「都市景観」に対応するpaysage urbainという表現は、1945年にサルトルが用いたときにはアメリカ都市の見方を示すものであったが、1965年ごろにはフランスの街区を全体的に見る都市工学的な概念として用いられるようになる。その意味で、マレ地区の事例はフランスにおけるpaysage urbain概念の画期を示す事例でもある。そこでは、都市は歴史や人間性のある有機的存在として捉えられるのではなく、あるイデオロギーによってひとつの全体として捉えられ、整備されるのである。

3.各章の要旨
 第一章では、19世紀までのマレ地区の歴史、19世紀の文学作品のなかで描かれたマレ地区、19世紀のパリの都市計画の三つから、本論が対象とする時代の前にマレ地区が置かれていた状況を明らかにした。中世から都市化が進み、17世紀に貴族の街区として最盛期を迎えたマレは、18世紀以降急速に衰退し、19世紀には民衆的な街区となった歴史を持つ。しかし19世紀の文学作品は、次第に民衆的になっていく街区の状況を伝えると同時に、この地区の貴族の記憶をも残していた。後者は、地区の実態において貴族のプレゼンスが下がるほどに強調されるようになったと見ることもできる。こうして、マレには、低所得層が密集し、衛生状態の悪い地区というネガティヴな表象と、貴族が生活し、多くの邸宅を残した地区というポジティヴな表象の二つが生まれた。
 他方、19世紀にパリで行われた近代都市計画は、都市の衛生状態を改善することを最も重要な課題としていた。とりわけ、コレラで大きな被害を出した密集地区は、七月王政から第二帝政にかけて、取り壊しの対象となった。マレ地区は、19世紀を通した再開発の対象にはならなかったが、20世紀の初頭に一部が「不衛生区画(îlot insalubre)」に指定され、1930年代までに取り壊しの方針が確定した。これが保存の方針に転換したことが、マレ地区全体の保存政策につながることになる。

 第二章では、第一章の最後に取り上げた不衛生区画事業の方針転換を市民の地区認識の形成から捉えなおすことを試みた。そのためにまず、歴史的建造物の保存に関する思想と政策の展開を示した。フランスでは、革命以降、歴史的事物は国民全体の紐帯や精神的豊かさを持つものだという考え方が普及し、20世紀初頭までには法制度としても整えられていった。その動向は地方行政にも影響を与え、パリでは「古きパリ委員会」というモニュメント保護に関する諮問機関が1897年に発足した。さらには、同じ時期に、市民が行政区ごとに歴史研究を行う歴史協会も複数発足した。
 そのなかで、現在のマレ保全地区とほぼ一致するパリ3-4区の歴史協会「ラ・シテ」は、パリでもっとも熱心に成果を発表していた。「ラ・シテ」の会員は、4区に居住するか4区で働いている上層市民層が中心であり、行政担当者も多く含まれていた。運営委員会には、国会議員、市会議員、市長、助役などが名を連ねており、「ラ・シテ」の研究の方向性が政策に影響を与えた可能性は大きい。その研究は、地区の開発に対抗して進められ、マレの建造物の威信を高めていった。
 他方、当時のマレ地区には多くの東方ユダヤ移民が住んでおり、「ゲットー」と名指されることもあった。「ラ・シテ」においては、次第に、地区の不衛生性は彼らがもたらしているものと見なされるようになる。マレ地区の不衛生区画が解体ではなく保存されることになるのはヴィシー政権下であるが、そのときにはユダヤ人は強制移送の対象となり、マレ地区から姿を消した。その同時性から見て、不衛生性を表象したユダヤ人の不在とマレ地区の歴史的街区としての再生は無関係ではない。

 第三章では、この戦時中の経験がアクターの連続性によってマレ地区全体の保存事業に引き継がれたこととともに、マレ地区保存をめぐる神話が誰によって、また誰に向けて形成されたものであるのかを明らかにした。マレ地区が国の保護の対象となる時代背景として、第五共和制の初期には、アルジェリア戦争による内戦の危機を抱えていたことがある。マレ地区は、絶対王政下におけるフランスの統一という歴史を表象する地区であり、文化による国内統一を図る政権にとって好ましい地区であった。
 その政策は知識人たちによって熱狂的に支持されていたが、そこには戦前のマレ地区における不衛生区画保護を推進した人々がかなり含まれていた。建築家のアルベール・ラプラドはその中心人物の一人である。ラプラドは、1915年から19年までの間、保護領モロッコの都市計画に携わっていた人物である。モロッコでは、メディナと呼ばれる現地の人々の居住区とヨーロッパ人入植者の居住区が明瞭に区分けされ、視覚的にもはっきりとした違いが示されていた。
 19世紀の近代都市計画の対象とならなかったマレ地区は、ラプラドにとってモロッコのメディナと同様に、近代との対比によって特徴付けられる地区であった。彼は、そこには「土着の神髄(génie autochtone)」があり、特にアメリカなどの外国に向けてフランスの知性や文化を示す場であると主張した。このような考え方は、ほかの同時代の人物の発言からも読み取れる。マレ地区は、自分たちの生活の反転を投影するという意味ではオリエンタリズムと変わるところのない思想によって、しかもそれゆえにフランス的独自性を体現すると考えられたために保護が主張されたのである。
 ラプラドは、セーヌ県と密接な関係を持ち、第二次大戦後から1960年代までマレ地区保護に関する調査と整備方針案の策定を請け負った。そこでは、18世紀のテュルゴー図と呼ばれる古地図の状態が地区の理想とされ、航空写真からマレ地区の現状を古地図と比較することによって、地区を全体として貴族の時代の状態まで復元することが提案された。取り壊すべき建造物は、街区に病=不衛生な状態をもたらす原因とみなされ、外科的施術の隠喩をもって「掻爬的撤去(curetage)」を適用することが求められた。彼は最終的には保全地区の建築家にはならなかったが、当初の地区の保全方針には彼の考え方が大きく反映された。こうして、マレ地区の歴史は貴族の時代を中心に神話化され、それにそぐわないものが排除される浄化作用が現実の都市空間において進むこととなった。

 第四章では、1960年代から現在までの地区の統計的な変化等が神話の実現を示していること、他方で行政が直接かかわった事業の帰結や保全地区の整備方針確定までの迷走から、地区が行政の手を離れて自律的に神話を維持する傾向を見て取れることを示した。マレ地区の保全地区への指定は、当初は大きな関心と期待を持って迎えられた。現在、マレ地区の人口は1960年代の半数になり、パリの他の中心部と比べても所得水準や教育水準が高く、フランス国籍が多い地区となっている。また、保護された街区であるにもかかわらず、古い建造物の解体も新しい建造物の建設も、他の地区以上に進んだ。その意味で、この地区には神話による浄化作用を確実に見て取ることができる。
 事業主体がセーヌ県だった時代から進められていたいくつかの街区の整備は、莫大な予算を使い、また住民の反発を招いた。マレ地区の保護は相対的には評価され、パリ全体の都市計画に影響を与えたが、地区内の事業は必ずしも成功していたとはいえない。そのなかで、「保全活用計画」(Plan de Sauvegarde et de Mise en Valeur, PSMV)とよばれるマレ地区の整備方針は、数回の見直しを迫られ、承認されるまで30年以上が経過することとなった。最終的なPSMVには、地区の経済活動の保護や生活実態の尊重、また19世紀のパースペクティヴの保護などが含まれ、当初の方針とはかなり異なっている。
 しかし、その方針転換は、神話の弱体化よりはむしろ、マレ地区の浄化がそれだけ進んだことを示している。あるものが保護されると次の保護されていないものへと視線を移し、「素人には見えない」実態を訴えながらも、それぞれを消費しやすい、あるいは少なくとも理解しやすい形にするエリート主義こそが、地区の神話を支え続けている。
 その影響は、1980年代以降の新しいアクターの動向にも現れている。1960年代に活躍していたアクターは後景に退き(地区の建造物の価値を訴えた「マレ・フェスティヴァル」の不振、ラプラドの死亡、保全地区の建築家の中心であったミノの死亡、地区の住民の世代交代)、1980年代からは、特にユダヤ人、ホモセクシュアルの人々、中国系の皮革卸業者などが地区を特徴付けるアクターとして注目されるようになっていく。彼らの存在は保全地区指定の当初の段階では想定されておらず、地区の歴史性を重視する周辺住民としばしばコンフリクトを生み出している。しかし、彼らの活動範囲は、実際にはマレ地区の重要建造物の整備と衝突しない場所である。そして、現在はマレ地区の観光地化に伴って、実際にはパリの他の地区にも見られるそれらのコミュニティの存在自体が商品化されてきている。1960年代と違い、現在では保全地区の領域が一体として貴族の街区と見られることは少ないものの、この区域における事象がパリにおいて特権的に扱われる過程は続いている。

4.都市景観による神話の固定化
 マレ地区がたどった経緯は、歴史的街区の保護政策としてみた場合、次のようにまとめることができる。
(1) 歴史的街区を保護する政策が現れてくるには、それ以前にその街区が歴史的だと認識される過程がある。その認識は、現実の都市から引き出されたものではあるが、常に歴史の一面を反映しているに過ぎない。認識を作り出すのは知識人であり、彼らが作り上げた地区認識が神話化されたときには、それは彼ら自身さえも拘束する力を持つ。
(2) 街区に対する認識が政策に反映される際には、時代を支配するイデオロギー(たとえば植民地主義やナショナリズムなど)と無関係ではありえない。行政は、衛生性などの一見客観的な指標を用いながら、イデオロギーに従って夾雑物を取り除き、都市景観を統一的に整えていく。
(3) 他方で、どんなに綿密な調査を行い、予測し、計画を立てても、現実の都市においては思いがけない要素というのは現れてくる。それは、都市を変革する潜在的な力となる可能性もあるが、神話が持つ浄化作用のなかで、完全に排除されるとはいえないまでも、理解しやすい(あるいは消費しやすい)形にまで変化させられることもある。
 マレ地区で用いられた考え方や手法は、現在ではパリ全域を規定するまでになっている。筆者が本論のタイトルとし、繰り返し用いてきた「神話」と「浄化」は、現在のパリの都市計画をはっきりと特徴付けている。パリはますます神話に拘束され、またそれが技術的に具現化されているのである。60年代のマレの整備手法は、「ファサード主義」と批判され、現在ではより繊細な調査が行われてはいる。しかし、街区保護の社会的意義が詩情に訴える域を出ないのであれば、それは神話を強化するものにしかなりえない。
 マレ地区の保存が行われた時代は、植民地の独立とともにフランス的であるとはいかなることかが問い直された時代であった。その後、グローバル化が進展し、ローカル性はますます重視される傾向がある。そのなかで、世界遺産などに多くの歴史的街区が含まれていることは、世界の都市において神話を強化する傾向へとつながってはいかないだろうか。また、それらの歴史的街区の多数が植民地時代に「発見」されたものであり、ヨーロッパ的なものの見方を物理的に固定化する意味を持つことも懸念される。
 都市に地名があり、地名を用いた都市についてのさまざまな作品が生み出され続ける状況は変わることはないだろう。それが現実の都市空間を変化させる大きな流れを生み出したときに、そこから自由であることは非常に困難である。その意味で、都市を語る自身が何に加担する可能性があるのかについては、意識的であり続けなければならない。

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