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博士論文要旨

論文題目:近代中国政治統合の研究-立憲・地方自治・地域エリート-
著者:田中比呂志 (TANAKA, Hiroshi)
博士号取得年月日:2009年1月14日

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 本論考は、清末民国初期における近代的国家建設の実施の過程を明らかにしつつ、それらの実施によってもたらされた様々な変化に光を当てて分析し、当該時期の中国を構造的に分析しようとするものである。
 周知の如く、近世期の東アジアは独自の発展を遂げつつあったが、19世紀中葉以降においては、ほぼ同様に欧米列強の到来、そしてやがては近代化を模索せざるを得ない状況に直面することになった。しかしながら、東アジア各国--日本、朝鮮、中国--の欧米列強の到来への反応や対応、近代化の歩みは一様ではなかった。その背景にあるものの一つには、近代化を受容して消化し、定着させていった社会・国家のあり方ではなかったか。
 中国ではアヘン戦争より約70年間かかって近代化の最初の到達点に達した。それが辛亥革命、そして中華民国の成立である。無論、これはそれまでの中国の抱えていた様々な問題を解決するものであったと同時に、他方では新たな問題を生み出したところの通過点に過ぎない。だが、そうであるが故、その過程そのものや社会変化、国家建設などを総合的、構造的に検討する必要性は極めて高いと言わざるを得ないのである。
 さて、これまで清末民初期の検討は、いわゆる革命史観の視角から、辛亥革命の発生・展開、中華民国の成立と、それを破壊した袁世凱政権といった善悪二元論的視角から論じられるような傾向にあった。ところがこのような理解の方法では、当該時期の歴史の展開が革命への動きによって説明されるだけであり、その結果、袁世凱政権以後の近代中国の史的展開を説明不能に陥らせていることは、今や明かである。また、辛亥以後の中国社会の変化・展開に関して、一面的理解に陥らせていることも、また、同様である。
 では、このような問題を克服するためにはいったいどのような方法でもって検討したらよいのであろうか。そこで本論考では、従来それほど検討の俎上にあげられていなかった伝統社会や伝統社会をリードしつつ、清末の国家建設に深く関与していった地域エリートの存在に着目していきたい。具体的には、第一に、地域エリートらが如何なる契機により地域社会に析出されるようになり、地域社会のリーダーシップを把握していったのかを検討しなければならない。そして地域社会における彼らの行動や選択が、いかなるメカニズムを経て、地域社会をはるかに超えて近代的国家建設と関わっていったのかを検討する必要がある。また、地域エリートらの行動が、地域社会に対していったい如何なる相互連関的影響を及ぼし、社会構造そのものを変えていったかを検討する必要性もある。
 以上がミクロ的視角だとすれば、第二に、よりマクロ的な視角からの検討も不可欠であろう。清末民初における最も根本的な課題とは、上述したように中国そのものの生存とその具現化としての近代的国家建設の問題であった。この点からすると革命とは実現するための手段の一つに過ぎない。上述したように、清朝の退場、そして中華民国の成立は次なる問題の出発でもあった。清末民初の国家建設の過程において明らかになった問題とは、いったいどのようなものであったのか。それは、一つは専制を否定するという問題であり、一つは清朝の版図を寸土たりとも失うことなく継承するという問題であった。それでは、この二つの極めて重要な問題は、中華民国成立以後どのように絡み合いながら展開していったのであろうか。これについても検討する必要性がある。
 以下、第一章から第十二章までにおいて、上述した視角から具体的な検討を進めた。
 第Ⅰ部「清末地方政治の展開と地域社会の変容」では、地域社会における構造的変動を背景とした地方政治の展開とその作用について、分析を進めた。
 第一章「清末民初における地域エリートと社会管理の進展--江蘇省宝山県地域社会を例として」では、江南地域において地域社会の中から如何なる契機を通じて地域エリートらが台頭してきたのかを長期的時間軸の中から検討し、次いで地域固有の問題を解決することを通じて、地域エリートらが地域社会を把握していった状況について検討を加えた。本章では、清代中期以降、5回にわたって県志が編纂された江蘇省宝山県を検討の対象とした。同県では、道光年間(1821-1850)において「経董」と呼ばれる肩書きを持った地域エリートが生まれ、善堂の管理運営を担当することを通じて地域社会に影響力を持ち、エリート同士のネットワークを形成するようになっていった。彼らはその後、地域防衛(団練の整備)を通じてネットワークの拡大を達成していった。そのような状況の中、19世紀最末期に、近代的教育を受け、留学経験を持つようなそれまでとは異なる新しいタイプの地域エリートが生まれてきた。彼らは、その後の地方自治の担い手となり、かつまた、立憲制をその基盤に於いて支えた存在であった。
 このような新エリートらは、地域が抱えた固有の問題--土地所有をめぐる混乱した状況、これは宝山県のみならず江南地域全体に見られた問題であったが--を解決するために清丈に着手し、その過程で自然村落レベルでの様々な地域情報--宗教、塾、土地所有、経済状況など--を入手して記録に残し、蓄積していったのであった。そして、地域エリートらの視線は、地域の文明化、そしてそれに向けての地域の改良に向けられるようになっていき、社会管理が進められていったのであった。
 第二章「諮議局の設置と地域エリートの政治参加」では、従来ほとんど検討され、明らかにされることがなかったところの諮議局の設置が、どのような人々により、如何なる動機で、如何なる経緯を経て準備されていったかを、江蘇省を事例として検討を進めた。江蘇省では清朝当局からの下命に応じて、まず上海の12の社会団体が招集され、諮議局設置についての検討が行われた。これらの団体の構成員には商会の董事、教育者、各地域の区董・董事、善堂の董事など、様々な組織においてリーダーシップを執る人々が参加していた。また、各団体の構成員間には多くの重なりも看取でき、地域エリート間に人的ネットワークが形成されていたことが明らかになった。やがて地方自治の全国化にともない、江蘇省では張謇等によって民間組織である江蘇諮議局研究会が結成されるとともに、「公正明達な官紳」によって構成されるところの二つの諮議局籌辦所が設立され、諮議局設置に向けて具体的な作業が進められた。諮議局の設置準備において最も肝要なことは、戸口調査にはじまる各種調査であった。社会調査は各地域の区董や図董、士紳を動員して進められ、その結果、有権者名簿が作成されるに到った。
 では、地域エリート等の行動を支えた行動原理・動機・世界観の構造とはいったい如何なるものであったのか。それは個人を起点として同心円状に拡大していく構造であり、地方自治への参加や実施は、「私徳」を充実させることの延長上に位置づけられていたのであった。
 第三章「清末の地方自治の実施と地域エリートの活動」では、地方自治の全国的実施に先だって、「試辦」的に実施が試みられた江南地域における地方自治に対して地域エリートの果たした役割について検討した。天津での地方自治実施にならってスタートした江南の試辦的自治は当初は官僚主導で始まり、地方自治を担う人々の養成に精力が注がれた。しかし、やがては民間でもこれに呼応して、地域社会には地方自治を推進せんとする組織が形成されて行った。
 1908年に到り、清朝の改革全般の計画(逐年籌備事宜)が策定され、さらには二つの地方自治章程が制定され、地方自治は全国的実施の段階へと移行した。地方自治実施に関与した官僚、地域エリートらにとって、地方自治の実施には二つの異なる意味づけを看取できる。一つは立憲制と一対をなす地方自治であり、「上下の一体化」「君民の一体化」を実現するための地方自治である。それ故、地方自治はあくまでも官治補助であり地方公益事業の推進に止まるものと規定されていた。しかしながら、地方自治には別の側面もあった。それは地域社会を維持し、発展させるものとしての地方自治であり、しかも地方自治に官僚等が過度に介入することを警戒するものでもあった。
 さて、地方自治が実施されて行くにつれ、新たに顕在化した問題もあった。それが「地方自治風潮」と称される民衆暴動であった。地方自治の実施過程においては戸口調査実施を契機として、それに対する「謡言」--徴兵や徴税に資するために調査を行うという--によって暴動へ発展していったのであった。その背景にあるのは、暴動の主体であった民衆等にとって官・紳等はともに自分たちを「とるにたりないもの」と見なし、自分たちを虐げる存在と見なしていたことにあった。それを解決するカギは、当時においては、一つは如何に紳士としての責務を果たすか、と考えられていた。これはどちらかというと伝統的士紳像に由来するものと言えよう。そして、これのみならず、地方自治に関する十分な知識を習得し、私的利益に傾かないようにするべき--「公」意識に基づく--だとも考えられた。それ故に、地方自治実施に当たっては何よりも自治の起点であるところの個の自治が説かれることになったのであった。 いずれにしても地方自治の実施は、地域エリート等を微妙な政治的な位置に立たせることになったのであった。
 第四章「清末民初の地方政治構造とその変化」では、地方自治の実施が従来の地方政治構造や、地域エリート等の人的ネットワークに、如何なる変化を及ぼすことになったのかを宝山県の事例を通じて検討した。第一章において検討したように、伝統社会中から析出されてきた地域エリート等は、清末新政時に到るとまず、教育分野への参入を契機として政治の場への参入を果たすようになっていった。学校の建設や管理運営を時には官僚に協力して、時には地域エリート等独自に行い、官僚との協力関係を維持しつつ、他方では地域エリート同士の関係を拡大させながら進めていったのであった。次いで宝山県の地域エリート等は清丈事業の推進、そして地方自治機関の設立をきっかけとして、県エリートとして成長し、協力関係を強めていったのであった。
 地域エリート等の結合は、従来のそれに見ることのできない力強さを持つものであった。それは本章で取り上げた知県との二度にわたる摩擦により知ることができる。それらはいずれも徴税という官僚の専権事項をめぐって引き起こされたものであった。従来であれば、如何に地域エリートであったとしてもそう容易に容喙しうるものではなかったが、この時は自らの掲げる要求を官僚に認めさせるに到ったのであった。これは地域エリート等のネットワークの持つ力の伸張を示しているものと言えるだろう。そして、辛亥革命の波及を契機として、宝山県ではいわゆる「県人治県」が実現した。これはそれまでの統治原理を否定する極めて自治的色彩の濃い地方自治であったが、袁世凱政権の地方自治停止命令をきっかけとして、停止されるに到った。

 第Ⅱ部「立憲制の展開と政治統合」では、立憲制の導入とその展開について検討を進め、その導入が辛亥革命、そして中華民国の成立とどのように関わったのか、袁世凱政権の成立、民国初期の政治統合と如何なる関わりを持ったのかを考察した。
 第五章「清末の立憲運動の展開と責任内閣制論」では、清朝の立憲推進に呼応して地域社会において進められていった立憲運動に焦点を当て、それが広範な政治勢力を結集して
清朝の準備したものとは異なる藍図(プラン)を準備し、最終的には革命勢力による革命運動と一体化しつつ、清朝に退場を迫っていった過程を考察した。
 立憲準備の過程で、清朝当局が意図していた責任内閣とは、そもそも皇帝に対して責任を負うというものであった。また、本来立憲制においては、内閣と国会とは不可分のものであるにもかかわらず、内閣の設置が優先的に考えられていた。しかしながら、かくの如き構想が明らかになると地方官僚から異見が提出され、責任を負う対象に関して必ずしも政権内部で一致していないことが明らかになった。
 やがて「逐年籌備事宜」などが公布されると、各地域の利害を主張する動きを超えて、国会の早期開設よび責任内閣の設置を請願する要求が出され、広範な支持を獲得していった。また、国会の存在こそが内閣を監督し内閣に責任を問い、専制と立憲とを区別する最も重要な存在とされ、内閣と国会の同時設置が求められていった。清朝政権も広範な早期開設運動に譲歩せざるを得ず、宣統5年に前倒しで国会の開設を決定した。しかしながら、資政院議員をはじめとしてより早期開設を望む声は収まらず、ついには軍機大臣の弾劾案提出の事態にまで到ったのであった。このような国会こそが専制の否定を象徴するという主張は、中華民国成立当初の責任内閣制の議論に継承されていくことになった。
 第六章「地域エリートの立憲構想と地方自治論」では、江南地域の地域エリートの一人であり、かつまた立憲制の推進や辛亥革命後の政局において重要な役割を果たすことになった張謇の思想と行動を手がかりとして、彼らが地方自治と立憲政治とをどのように一体的にとらえていたのか、新国家建設と如何なる関わりを持つものだったのか、それらが彼らの世界観とどのように関わるのかを検討した。
 そもそも郷里にあって地域の発展のために様々な活動を行っていた張謇は、清朝が立憲準備を開始すると、依頼されて「変法平義」を書き上げ、さらには日本訪問を果たし、立憲制の実現に向けて本格的に進み出した。張謇が最終的な目標としたのは「上下の一体化」を実現して専制を克服することであった。そのため、張謇は自らの属するところの士大夫・郷紳らの果たすべき任務、すなわち上下を媒介することを意識し、とりわけ教育--国民の創出のため--に力を注いでいく。
 張謇がこのころに抱いていた「亡国」に関する意識を検討してみると、清朝を保存することよりも中国全体、あるいは中華民族全体を保存すること--ナショナリズム--を優先する考えに立つようになっていた。この点において、革命勢力の武昌蜂起後に清朝政権を見限り、中華民国成立へ向けての行動に転換することができたのであった。
 張謇は地方自治こそが立憲の基礎と認識していたが、彼は地方自治の根幹を構成するものを「村落主義」と称していた。晩年の張謇は、議員の腐敗や人々の道徳の堕落する様を見てもう一度地域に戻り、原点から再出発しようと期し、地域における活動に従事していくのであった。これには彼の立憲制・地方自治の位置づけ方、そして彼の抱く世界観と深い関わりがあった。それは個人の道徳を起点とし、さらには地域から省、そして国家全体に同心円状に拡大していくという世界観であり、その核心部分を構成するのが「村落主義」だったのであった。
 第七章「議会政治の展開と権力闘争」では、宋教仁という人物の思想・行動を媒介として、民国成立後の議会政治の実現をめぐる権力闘争について検討し、様々な政治勢力がそれぞれの主張を掲げて政治統合を模索する中で、当該時期の二つの大きな課題--専制の否定と版図の継承--がどのように解決されようとしていたのかを検討した。
 宋は民国成立後には同盟会が秘密結社から政党として活動していく存在に転換すること、そして責任内閣を実現することに最大限の努力を傾注した。従来の研究においてはこれを十分に評価していなかったが、実はこれは専制の否定を最も強く意識したことを充分に捉えていない見解と言えるだろう。この点において清末時の責任内閣制論を継承していると共に、中華民国の正統性の一端を担っていたと言うべきであろう。しかしながら、これがある時期において頻繁な内閣の交替に象徴されるような、政治的不調和を生み出していたことも事実である。このような状況を打開し、宋の考える責任内閣の実現を限りなく現実するためのきっかけこそ、民国元年末から2年はじめにかけて実施された国会議員選挙であった。この選挙において宋教仁が率いる国民党は多数の議席を獲得し、宋自身はいよいよ自身の手によって理想とする責任内閣=政党内閣を実現する足かがりをつかんだが、その矢先、袁世凱によって暗殺されるに到ったのであった。
 第八章「第一回国会議員選挙と国民党」では、第一回国会議員選挙に勝利した国民党の運動や地域組織の形成、その活動について検討を加えた。1912年8月、宋教仁らの努力によって結成にこぎ着けた国民党は、北京に本部を置いて本格的な組織形成を進め、来るべき選挙に備え準備を進めていた。
 国民党の本来の地盤でないところで、国民党は如何にして組織的拡大を展開し得たのか。それは地域の有力者のもつ人的ネットワークであった。また、党員として地域の有力者を積極的に勧誘してもいた。それらは都市部では新聞社の社長や主筆、勧学員、郷村部では教育会長、地域の董事、校長などの人々であった。政党は地域社会に対する貢献--学校建設や銀行の経営など--を行い、それを通じて党員の獲得に努力を惜しまなかった。このような経緯を経て、国民党は地域での支持を拡大し、その成功が選挙での勝利に繋がっていったのであった。
 第九章「民初における中央政治の変容」では、第一回国会議員選挙、宋教仁暗殺事件後の正式な憲法の制定、正式な大総統の選出をめぐって展開した政治闘争の過程とその帰趨について検討した。換言するならば、清末時に明らかになった二つの課題--専制の否定と版図の継承--が二者択一的に選択されていく経過を考察した。
 第一回国会議員選挙後の最も主要な課題は、中華民国臨時約法および臨時大総統に代えて正式な憲法を起草・制定し、それに則って大総統を選出し、中華民国の基礎を構築することにあった。1913年6月、国会議員を構成員とする憲法起草委員会が設立され、具体的な起草作業が進められたが、同委員会は国会議員選挙において国民党が優勢を占めたことを反映して、同様に国民党議員が多数を占め、国民党優位に議論が展開するかに思われた。委員会での方向性は、中華民国臨時約法の性格--行政に対する議会の拘束が比較的強い--を継承する方向性で進められた。だが、同じ頃に発生したいわゆる第二革命の結果は、制定作業に重大な影響を及ぼすことになったのであった。
 委員会での議論は、憲法制定を先にするのか、あるいは大総統の選出を先にするのかをめぐっても戦わされたが、第二革命の結果、大総統の選出に大きく傾くことになり、同年10月、袁世凱は初代の大総統に選出された。その後袁世凱は、国民党の解散させ、国会を機能停止に追い込み、自己の流儀に則って民国の統一を進めようとしたのであった。

 第Ⅲ部 「地方自治の再編と地域社会」では、中央政治の枠組みや方向性が変容していく中で、地方自治がどのように変わっていったのかを検討し、地域社会の変容やその組み込まれ方を考察した。
 第十章「民初における地方自治制度の再編と地域社会」では、第九章において検討した袁世凱政権の権限強化が進展する中で、地方自治や地方統治がどのように進められようとしたのかを考察した。袁世凱政権の集権化政策は地方自治にも及び、地方自治は1914年2月、大総統令を以ていったん停止されるに到った。「県人治県」といった状況が出現していたことは既に第四章にて明らかにした所であるが、袁世凱政権にはそのような状況は官僚統治・行政を阻害するものと映っていた。そこで再び清末の官治補助的自治に回帰し、かつ社会のより末端に至るまで、官僚統治が浸透するような自治制度に改めようとしたのであった。ところが、予定されていた構想は袁世凱政権の崩壊によって全国的実施をなされることなく終わり、結局、全国的一元化は為されず、また地方自治も停止されたまま、各種の組織の管理のみが地域社会に委ねられる形となった。
 このような状況の中で、たとえば江蘇省では各県で地域エリート等を中心として県自治の復活を実現せんとする気運が高まり、様々な団体が結成され、ねばり強く運動が展開された。それらは県ごとの枠を超えて緩やかな結合を形成しつつ進められた。またその過程において人材や社会発展の程度、地域経済など、各県の抱える様々な問題も明らかになったのである。
 第十一章「清末民初における新県設置と地域社会」では、江蘇省啓東県の設置をめぐる地域エリート等の動向を分析し、民国初期の地方自治運動について考察した。啓東県は長江の最下流の北岸に位置し、江蘇省でもっとも新しく県となった地域で、それ以前は(崇明)外沙と呼ばれ(これに対して崇明島は内沙と呼ばれた)、長江を隔てて崇明県に属していた。清末に地方自治が開始されると、地域発展をめぐる利害対立が顕在化し、外沙の地域エリートらは崇明県からの分離・新県設置に向けて運動を展開するようになった。
 これらに対して王清穆ら、崇明県の地域エリートらは反対を表明し、双方は張謇ら江蘇の地域エリート、江蘇省当局や江蘇省議会、内務部に働きかけを行い、分県の是非をめぐって激しく綱引きをした。それらの議論からは、新たに形成された外沙の土地所有者が内沙の人々であったということ、分県した場合、内沙の地方自治経費が大幅に減少してしまうこと、等の事情が明らかになった。 このような綱引きは容易に決着しなかったが、最終的に分県が実現したのは、中国国民党政権が成立した後のことであった。
 第十二章「1920年代における地方自治と地域エリート--蘇社を中心として 」では、北京政府期において中央権力が地域社会に浸透を果たそうとするなかで、地域社会がそれとどのように向き合い、対応しつつ、地方自治を獲得していこうとしたのかを検討し、1920年代における江蘇省地域社会の自立化の模索について検討した。
 終章では、以上の各章で明らかにしたことをまとめ、残された課題について述べた。

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