博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:近現代アイヌ思想史研究―佐々木昌雄の叙述を中心に
著者:マーク ウィンチェスター (WINCHESTER, Mark)
博士号取得年月日:2009年3月23日

→審査要旨へ

問題の所在

  「アイヌ思想史」は新語である。しばしば戦後日本の縮図として描かれ、体制の命運を左右する位置にあるものとして捉えられてきた「沖縄」とは違って、「アイヌ思想」や「アイヌ思想史」なるものは現れることなかった。戦後日本思想史上での「アイヌ体験」は、きわめて周辺的なものに留まってきた。これらの「アイヌ体験」から「日本国家への根底からの批判」の動機や「日本を書く」ための素材が見出され、または戦後アイヌ史研究とも共通する「アイヌの視点」や国家間政治に翻弄される辺境からの眺めなどという視座の必然性が訴えられてきた。これは、近代国民国家のたどった軌跡とそれに関わる国民史のあり方を徹底的に相対化させる試みとして理解されてきた。しかし、かかる視座の間を飛び移る以前の問題として、そうした「視座に立つ」こと自体がいかなるものを自分から要請しているか、自分自身がそこでいかに組み立てられているのか、ということを模索する課題が軽視されつづけてきたのである。
  思想は個体から離れて発生しない。このため、思想史は個人の人物を取り上げなければならない。しかし、一方で、「アイヌ」を対象とする伝統のある学問から生み出されたアイヌ学知では、自らの名を記して文章を発表した人々は、民族誌的な情報の供給源、あるいは時代背景を読み解くための手がかりのいずれかの扱いを受けざるを得なかった。個人の恣意を学界に対する責任という同義反復に基づいた形で、こうした学知は自らの名を記して書かれたものの価値を裁断し、ときには著者を称賛するあまり、その声を押し殺し流用してきたのである。その中で「アイヌ」は〈日本〉という共同体の起源を探る装置のようなものとして仮構された。なお、開拓の不均等性として浮かび上がり、一種の非同時性の同時的存在として帝国の北側に広がる領域に現前してきた「アイヌ」と、歴史上に見出された「アイヌ」との間にある断絶を、アイヌ学知は近代の産物として了解しようとしなかった。代わりに、「アイヌ」を時間の収縮された「現在における過去」として理解し、自ら建ち上げる歴史の連続性へと序列化させることで、「アイヌ」の来たるべき滅亡が宣告されたこととなった。
  この「アイヌの視点」などを見出そうとしてきた戦後日本思想史上の「アイヌ体験」と、「アイヌ」を「現在における過去」として理解してきたアイヌ学知の双方の背後には、ある徹底した歴史主義が潜んできた。それはつまり、断片的な現在を近代の時間軸に全体化し、そこに当てはまらないものを「いまだnot yet」、「まだそうでない」としてしか理解できない認識の体系(D. Chakrabarty)であり、現在時においてたえず反復される診断のようなものである。この「いまだ」との診断によって、近代という時代において「アイヌ」が一視同仁下で被征服民族を演じさせられる者、あるいは、国民並みではない国民や「旧土人」という存在に転化させられた。一方では、そうした「いまだ」なる者より自分はより気楽な場にいるのだという「シャモ」なる者の感性が可能となった。他方では、「いまだ」だと診断された「アイヌ」なる者には、その診断に対して「同化」するか、自らの自律的な伝統を再現させて「異化」するとしか行為の余地は残されなかった。このようにして、〈日本〉の近代形成ならびに展開過程が「アイヌ」という「いまだ」なる存在を必要とし、「同化」と「異化」あるいは主体と客体といった二分法の発想によって捉えられてきたものが、対象として「アイヌ」を仮構し出すことにつながったのである。この発想の痕跡はまた、今日においても彷徨っている。
  思想は個体から離れて発生しないが、その人物に限定して留まることはない。思想史として構想された本稿の方法論は、この指摘に由来しているのである。本稿が単なる個人研究に留まらないのも、この点に拠っている。つまり、思想史の狙いとは、思想の発生体としての個人の人物と、その人物の置かれた歴史的状況と時代との間の緊張関係の中から、現在の時代状況において決して終わってはいない思想的な営みを繰り上げることにある。
  本稿では、一九六〇年代後半から一九七〇年代前半頃までに執筆活動を行った佐々木昌雄(一九四三年~)が、上記の二分法の発想に対する批判の論者として詳細に論じられている。本稿は、彼がかつて呼んだ「状況としての『アイヌ』」および「『アイヌ』なる状況」が、その時代とはやや異なる位相に移り変わった現在において、佐々木の試みたものを掬い上げ再開し、そして時代への新たな介入として提示することを狙いとしているのである。
  佐々木の叙述は、彼の言葉で言えば、「人々がわたしたちを『アイヌ』と呼ぶ、その『アイヌ』という意味が、わたしたちの生き方を拘束しているものとなっている状況」を構成しているものの由来を追求することによって、自らの上に刻みつけられたその「アイヌ」なるものの痕跡を記録する試みであったと言える。その著作に通じて彼は、「アイヌ」として在るという選択不能な臨界状況において、それを自分の中に精神的に転じさせようとしていた。「人種としての『アイヌ』でもなく、民族としての『アイヌ』でもなく、状況としての『アイヌ』」として、いわば歴史的過程の所産としての自分を、まず知覚することによって、自らがその歴史に介入することの準備を行ったのである。佐々木にとって、「アイヌ」として在るということは、かかる自己同一性と同じように、それがかくある現実だと自ら誤認する歴史的過程にほかならなかった。
  いたずらに「人種」として固定され、「民族」として固定され、「自己同一性」として固定され、「いまだ」並みではない者たちとして固定され、歴史的過程としての人の活動の所産だったこの「『アイヌ』なる状況」が、逆に人を支配することとなっていた。だが、佐々木は、「アイヌ」なる当のものとは決して自分であるなどあり得ないという思考の手続きにおいて、「アイヌ」が現在時においてたえず仮構し直されているというその歴史的過程が再び知覚可能となったのである。そして、その過程を対自化にしない限り、「アイヌ」なる者自身からも、〈日本〉の「共同体意識」、すなわち「同化」と「異化」の反復が生み出されつづけるのだ、と佐々木は論じたのである。これは、一見して「同化」の否定に見える「異化」の可能性そのものの否定に由来する佐々木の思想の原形なのである。
  今日では、抵抗の対象となった「同化」なるものは、数々の言論者と活動家によって、過去の領域へと強く押し込まれ糾弾されてきた。代わりに、「アイヌ」としての自己同一性を表現し、あらゆる活動に参加することが容易になったとさえ見える。この情勢の背後には、本稿が取り上げる北海道旧土人保護法の廃止と、一九九七年七月一日に制定された「アイヌ文化の振興並びにアイヌの伝統等に関する知識の普及及び啓発に関する法律」(アイヌ文化振興法)の存在が大きい。また、二〇〇八年六月六日に採択された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に関する官房長官談話を踏まえ、現在では、国政レベルでの内閣官房アイヌ政策推進室が設けられ、「アイヌ政策のあり方に関する有識者懇談会」が、先住民族としての「アイヌ」に関する今後の政策のあり様を決めようとしている。本稿で見ていくように、アイヌ文化振興法の制定過程そのものが反復されようとしているのである。
  「アイヌ」は「いまだ」並みではない者として仮構される。そのように仮構されることによって、「アイヌ」なる者に「自主性を与える」という発想が生まれる。佐々木昌雄は、この「自主性を与える」という感覚こそ、「保護」そのものである、と断言した。現在において佐々木昌雄の思想実践を再開するために問題となるのは、「アイヌ」なる者が滅びる可能性が逆に滅ばされ、代わりに時代に適ったものとしての「アイヌ」が受け入れられ、「同化」と「異化」の環が反復され、「アイヌ」なる者に対する完全な救済―いわば「アイヌ」の最終解決―が成し遂げられてしまうまでに待たされている今、ここでいかにこの状況を作り換え、ひっくり返すことができるのか、ということである。
  「アイヌ」なる者の「アイヌ」なる所以が「シャモ」との対関係で決定される意識からなる限り、「アイヌ」なる者はその決定に対して静かに諦念するか、決定それ自体に遡及的な義務を払いながら、「アイヌ」を再価値化するしか、彼らの営みの範囲はない。佐々木昌雄は、不可逆的に「アイヌ」として仮構されながら、その「アイヌ」として在ることにおいて、もはや「アイヌ」であることが許されない状態に、自ら自分を移行させようとしていた。「アイヌ思想史」が目指すのは、ここ現在において、その可能性を再び思考に照らすことにほかならない。

本稿の構成

  序章と終章を含めて、本稿は大きく五章から成り立っている。序章では、戦後日本思想史と戦後アイヌ史研究、さらにポストコロニアル研究のそれぞれの研究群に照らし合わせることによって、「アイヌ思想史」の可能性が模索されている。

第一章  近代、同化、破局―
―戦時に己を引き裂く力に出会う―
  第一章では、「アイヌ」に関わる近代史において「同化」というものが、「アイヌ」なる者にとっては、いかなる情動と期待の回路となったのかを検証している。だが、この章は、近年のアイヌ史研究が見出し始めた「同化」における「アイヌとして自覚」というものが、その「同化」が二〇世紀最大の世界総動員体制の戦場につながったことを視野に入れたとき、果たしてどれほど妥当なのか、という疑問に拠っている。第一章は、佐々木昌雄が「アイヌ」なる者の内なる〈日本〉と呼んだ事象が、アイヌ近現代史においてどのように見出せるのか、という問題提起でもある。また、この問題がもっとも究極に明らかになるものの一つは、総力戦体制下における「アイヌ兵」の位置づけである。
  転換期以降のアイヌ史研究は主に「アイヌ兵」を、差別を受けながら絶対主義国家の兵隊として他国の兵士と戦うという二重の苦しみを負わせた者として見出してきた。しかし、一九九〇年代以降では、国家の戦争戦略と彼らとのそれぞれの目指すものに、ある種の「乖離」が指摘されてきた。「アイヌ」なる者にとっての徴兵が、自らが「改良」可能な集団存在として呈示されている欲求の投影となった。「非同時的な同時代性」として、「アイヌ」なる者は道徳的主体としての自己を組立て、近代を内面化していったのである。彼らの「平等」への夢はまた、近代北海道史のより広い文脈の中において捉えるべきである。そして、佐々木昌雄が「アイヌ」の内に潜む〈日本〉と呼んだものは、このような近代の夢にほかならない。しかし、それは同時に、「アイヌ」なる者も、「アイヌ」を必要とする「シャモ」として在る者も、そこに頼らず、対自化の試練に晒されているのである。この章は、何人かの「アイヌ」の戦時体験を通して、まさに銃先に自らのその「平等」への意志が同じ近代の合理性に基づいている戦争と対立せざるを得なくなる瞬間に触れている。これら体験には、戦後に確立していた「同化」対「民族性の復権」の物語にはそう簡単に吸収できない要素があるはずである。

第二章  この〈日本〉に〈異族〉として在ること
―佐々木昌雄論―
  第二章は、佐々木昌雄を総括的に取り上げた論文である。彼の生立ちからその思想形成をたどり、佐々木と彼が執筆活動をつづけた時代との間の緊張関係の中から、その生涯前半の思考論理に迫る。彼が仙台時代から詩作に取り掛かり、または同人誌に文学批評を書き始めたこの時代の作品から、より直接的に「アイヌ」を取り上げた時評に内在している論理の原形を導かせてみる。次に、佐々木が始めて本格的に「アイヌ」を取り上げた時評から、彼の思考を支えるある種の根幹となった、歴史における徹底的な断絶への認識について論じる。佐々木が「アイヌ文化」なるものを「形骸」なり、「埋もれた死体」なり、という厳然な表現で言い表そうとしていたのは、「アイヌ」なる者の「アイヌ」なる所以が、もはや現在時におけるかかる関係性の中でしかない、という知覚に由来している。それはまた、「シャモ」として在ろうとする者による、近代に基づいた「いまだ」との診断によってほかならないのである。
  佐々木昌雄が叙述をつづけた一九六〇年代後半から一九七〇年代前半頃という時代は、北海道百年記念祝典に象徴されるような高度経済成長がより加速した時期であり、戦後開発の中で、都市問題と公害問題、環境問題などが取りざたされ、ベトナム戦争の反戦運動やその他の住民運動、または学園闘争が激化し、沖縄の「本土復帰」の時代状況であった。一方では、北海道ウタリ協会を中心とした戦後の対アイヌ政策の展開は、主に農漁商工業に従事していた中間層が先頭にあり、同協会は、一般住民との生活格差を解消するという戦前の活動とさほど変わらない主張を守りつづけていた。しかし、他方では、学生運動やその他の左派運動と関わってきた活動家が「アイヌ」に注目し始め、新聞やその他のマスメディアにおいて「アイヌ」と関連づけられた告発事件や裁判、数々の汚損事件や一九七六年の道庁爆破事件にクライマックスした一連の爆破事件が全国規模で取り上げられていた。「アイヌモシリ独立万歳」、「アイヌ解放」などという文字が、注目を集めた時代であった。
  このため、「アイヌ」として自らの名を記して発言することについては、複雑な手続きを要していた時代でもあった。佐々木は、札幌に転居した主に平取町の「葦の会」の若いメンバーと組んで、タブロイド新聞の『アヌタリアイヌ われら人間』の初代編集責任者となる。そして、同時代に起きた様々な出来事を論じながら、「状況としての『アイヌ』」という彼自らの視座をかためていた。この頃から佐々木が書いた時評は、アイヌ学知を基づく動機と方法論、北海道旧土人保護法の改廃論争、活動家の姿勢、または文学における「アイヌ」の表象という問題までにおよんでいる。特に文学における「アイヌ」表象に関しては、佐々木は「アイヌ」というよりはむしろ「シャモ」として在ることには、どのような発想と情動の誘因があるのかを模索し始めた。また、そこに導かされた佐々木の結論は、人が「いまだ」なる「アイヌ」に対し「シャモ」として在る者だと自ら意識する限りにおいて、自分は「アイヌ」よりも気楽な存在であり、そこから始まった人の感性は、「保護」でしか具現されない、ということである。
  さらに、第二章の最後には、しばしば佐々木の「断筆」として語られてきた事象について触れる。ここでは、佐々木が「アイヌ」に関わる言論界から徐々に遠さがっていったという「断筆」や「断絶」と見られたことを、特に彼が論じた「形容句のない私」なる者とは相反しないような行為として見て、「断絶」という評価と発想が、逆に今日における「アイヌ」なる者がかかっている状況に共鳴しているものとして見直す。

第三章  「アイヌ文化振興」という名の救済の後で
  第三章では、「アイヌ」の先住民族として位置をめぐる現在進行中の動きを踏まえた上で、一九九七年制定のアイヌ文化振興法までの政界内外における展開を、佐々木の叙述から読み得る思想的な営みから、総括的に捉え直す。この章では、佐々木が〈日本〉の内の「異族」として論じた問題、または「異族」に対する愛他倫理なるものが、いかにアイヌ文化振興法の中へと内在化されていることが明らかにされる。この法律の制定過程が村山内閣から橋本内閣の移行期といういわゆる「ポスト戦後政治」の前夜に行われたのであり、国家と地方行政、または特に制定のプロセスに動因された知識人との間に繰り広げられたせめぎ合いに焦点を当てる。
  資源に対する最終的な権利をその根底にある論理から決して手放したくない国家が、その可能性を除外することに成功した。それゆえ、具体的な政策構想過程は官房長官の私的諮問機関に任せられた。構想期間の時間的制限をも考慮した上で、そこに集められた知識人たちは、〈日本〉の伝統や起源を探る技法として確立されたアイヌ学知からも大いに影響を受ける形で、「アイヌ」を、まるで多文化共生の一つのモチーフかのように、同じ〈日本〉の多様かつ貴重な文化遺産の持ち主として再び形象化していったのである。彼らはまた、「アイヌ」であるという「表現形式は一律に強制されてはならない」といったことに憂慮を払い、新事業との関わりを個々人のイニシアティヴに任せながら、それと同時に、アイヌ文化振興法が振興している文化の形態を、「アイヌ」の「アイデンティティの基盤」を成すものとして規定し、一種の強いられた自発性を「アイヌ」に付与してしまったのである。
  一方では、事業を運営している財団法人、アイヌ文化振興・研究推進機構にとって、事業内容がいかなるものかはともかく、助成金の消費と数値化の公表が優先されているのである。他方では、「アイヌ民族の誇りが尊重される社会の実現を」という、政策の基本理念を表しているスローガンがそのまま語っているかのように、それが達成できるのは、その社会の貢献者にすぎない「アイヌ民族」なのではなく、逆にこれまでそうしてこなかった人々のみであり、その社会の規定者として在る者だけなのである。この「アイヌ文化振興」という発想において、かつて克服すべき、「恥ずべき」だった「アイヌ」なるものが、今度は「尊重される誇り」として堂々と引き受けるように求められるようになった。この意味では、第三章の結論は、現在という時代に「アイヌ」として在るように勧められている者は、ある種の旧・旧土人になったと言えるのではないだろうか、ということである。つまり、それは、現在における「アイヌ」なる状況とは、人は、もともと「旧土人」として見られてきた者という名目に移し換えられてきただけなのである。

終章  純然たる操作として
―「先住民族」時代へ―
  終章では、これまでの議論を踏まえて、現在進行中の政界での動き、または二〇〇七年九月に国連総会で採択された「先住民族の権利に関する国連宣言」が、いかに「アイヌ」に対して適応できるかという動きに対して、いくつかの疑問が述べられている。国際人権文書の主体は、国連加盟国政府である。また、先住民族をめぐる運動もこのために、国家暴力に対する国家の自己反省のプロセスにほかならない。しかし、先住民族の政治は、いかに各国家を反省させることができたのだろうか。この章では、国際法に内在している実証主義と承認主義の問題を触れながら、現在、いわゆる脱国民化しつづけている現代国家のあり方において、先住民族に対してせいぜい実現可能な政策というのは、知識人や役人という経営者層による管理のポリティクスに過ぎないのではないか、と問いかける。国家は決して反省はせず、新たな政策を備える段階で再び「アイヌ」を政策対象として措定しようとし、「アイヌ」が、新たな福祉制度機関の導入によって、国民並みではない国民として「いまだ」との診断をまた下そうとしているのである。「アイヌ」なる者を仮構しつづける近代の二分法を明らかにしつつ、それを内側から越えていく思想を備えていた佐々木昌雄のような者の思想実践を再開し、読み直す必然性が、今後の「アイヌ」をめぐる言論が担っていくべき大きな課題である。

このページの一番上へ