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博士論文要旨

論文題目:韓国の農村開発とジェンダー(1960年代~1970年代)-国家、女性運動、農村女性の関わりをめぐる考察-
著者:権 慈玉 (KWON, Jaok)
博士号取得年月日:2009年3月23日

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 本研究は1960~70年代における韓国の農村開発に焦点をあて,ジェンダー関係が各主体間の異なる眼差しや開発に関わる諸要素と交錯するかたちで重層的に形成されていく過程を検証する.
 開発とジェンダー論は,マクロの開発構造のもとで女性の「周縁化」が進み,その結果として「貧困の女性化」が生み出された一連のプロセスを明らかにしてきた.開発が「貧困の女性化」につながることに対する問題意識と,その状況の改善に向けた国際的な認知の高まりという流れをうけ,従来の開発とジェンダー論における議論は「問題解決型」に終始しがちであった.そのため,女性の状況改善をめぐる議論や政策が,資本主義世界システムや当該社会の近代化過程と政治体制とどのような関係にあるのか,といった政治社会学的視点が欠如していた.さらに,開発計画においてはそれぞれの主体の目標や利害が錯綜するが,こうした実践のレベルにおいて「あるべき女性像」が各主体によってどう認識され,またその認識が開発の担い手あるいは受け手となる女性にはいかなる形で受容されていくのか,といった開発現象の多面性は看過されてきた.本論文はこのような問題点に着目し,韓国で近代化を軸とした開発が国是として掲げられた1960~70年代の朴正煕政権時代に焦点をあて,「近代的な農村女性像」が開発過程に関わる各主体によってどのように構築されていき,こうした女性像にもとついた開発が農村女性にはどう浸透・解釈されていたのかを明らかにする.そのうえで,ジェンダー関係が各主体の利害や開発を取り巻く諸要素によって多層的に形作られていく過程を論じていく.こうした分析を通して,本論文では,従来国家によるトップダウン型の開発として平面的に捉えられがちであった1960~70年代における韓国の農村開発の再考をも試みる.以上の研究課題を検証するために,本論文では以下の手順で議論を進めていく.
 第1章では,開発とジェンダー論が開発理論のパラダイムと連動するかたちで「問題解決型」の議論を志向してきたことを批判し,それに代わり異なる開発主体のまなざしや,制度的・階級的従属関係から派生する女性の利害関心を「開発とジェンダー」の議論の中心に据えることを提起する.そのうえで,本論文では国家,農民運動,女性運動という各主体が開発に関わる過程で「あるべき女性像」をどう規定し,またこうした規範が農村開発をつうじて日常レベルでの農村女性のジェンダー関係をいかに再編していったのかを検討した.第2章以下では,こうした農村開発を通じたジェンダー規範や社会関係の変容を,国家,農民運動,女性運動それぞれとの関わりで検証する.第2章では,開発過程におけるジェンダー規範の生成における国家の役割を分析するために,朴政権は農村開発を近代化イデオロギーの文脈でどのように解釈し,そのなかで農村女性はどう位置づけられていたのかについて分析を行った.第3章では,朴政権の「祖国近代化」の政策に対抗し展開した社会運動のなかで,農民運動および女性運動の担い手はいかなる「近代化」をめざしていったのかについて考察した.ここではカトリック農民会とカトリック農村女性会を事例とし,両者がどのようなかたちで農村女性の「地位向上」をめぐる議論を展開したのかについて女性の再生産役割などの観点から分析した.第4章においては,国家や農民運動組織の介入が,農村女性によってかならずしも受動的に採用されるわけではなく,農村女性が描いていた「近代化」を実現するための手段として用いられ,農村女性の生活を変革する機会として利用されていた現実を明らかにした.このように各主体がそれぞれ開発やジェンダー関係の形成過程に関わっていた様相を明らかにし,開発とジェンダー論および韓国の開発の社会史に対する本論文の貢献を示した.
 まず,朴正煕がめざしていた「祖国近代化」とは「自立経済」,「国民国家建設」,そして「反共と安保イデオロギー」であった.そして,農村開発とは「祖国近代化」という「近代化プロジェクト」から得られた成果を都市だけではなく,農村にも可視的なかたちで実感させようとした試みであると同時に,工業化中心の経済発展を支えるための手段であった.さらに,祖国近代化は「腐敗」「貧困」「旧悪」で象徴される前政権の残滓からの脱却をめざし,自主的で主体意識をもった「近代的な国民像」を創出する手段でもあった.換言すれば,朴政権にとって,農村開発とは「祖国近代化」という壮大な物語を実現させるための一翼を担っていたのである.
 そのなかで,農村女性はそもそも再生産領域の担当者として位置づけられていた.しかし,工業化や都市化によって労働人口が急激に減少し「祖国近代化」の齟齬が生じはじめたところで,それに対する防止策として,朴政権は従来再生産の担当者であった農村女性を生産者,地域社会の管理者,そして人口調節の担当者として新たに位置づける作業に取り組んだ.すなわち,「祖国近代化」のなかで新たな「近代的な農村女性像」を構築することで,開発体制に農村女性を動員していこうとしたのである.だがその一方で,朴政権は農村女性を公的な場から排除したり,家庭の管理者としての役割および地位を軽んじられるべきではないことをつねに強調したりすることで,従来のジェンダー関係を新たな形で再生産するための試みも行った.つまり,朴政権の女性に対するジェンダー・イデオロギーは,女性の役割を積極的に評価する一方で,女性が家庭において中心的な役割を担い,無償のケアを提供することが「自然」で「正しい」と規定するジェンダー役割の理念にもとづくといった二面性をもっていた.
なお,このように農村開発のなかで進められたジェンダー秩序の再編成は,儒教思想にもとづいた「伝統的」な家父長制のみならず,日本による植民地統治やアメリカ軍事政権の支配を経ていくなかで,制度として根を下ろしてきたという歴史的な経緯があった.すなわち,農村女性の「周縁化」は,朴政権が「男は外,女は内」という既存のジェンダー・イデオロギーを「祖国近代化」という開発体制に迎合するかたちで新たに再定義した産物であったといえる.さらに,朴政権の農村開発政策を通してもたらされた農村女性の「周縁化」は,官製女性運動の国家政策に対する無批判な後押しによってさらに強化されていった.それは,異なる階級の女性に対する無知と無関心,そしてフェミニズム思想は上流・中流階級の専有物であるという認識が生みだした結果でもあった.
他方,朴政権が唱えた「祖国近代化」がもつ矛盾がしだいに露呈するなか,農民運動をはじめとする社会運動の領域からは,朴政権の開発政策に対する異議申し立てがみられた.カトリック教会およびプロテスタント教会は,朴政権の維新体制下でも,国家による統制・監視からは比較的自由な治外法権を提供した.こうして1960年代と70年代の農民運動は,教会を活動の拠点とした知識人の働きかけに影響をうけながら成長していった.カトリック農民会は組織活動を通して「近代的な知識」および経済力,政治的な発言力を兼備した「近代的な農民像」の実現に取り組んでいた.なお,農民運動の担い手は朴政権の開発政策によってもたらされた諸問題を,農民や労働者など「祖国近代化」から疎外された貧困層の人権問題へと発展させていった.なお,このような問題提起は「反共・安保」を前提とし,それ以外のあらゆる思想を共産主義と規定し弾圧する,朴政権の限定された民主主義の発想に異議を申し立てる民主化運動へとさらに展開していった.そして民主化運動の根底には,分断状況を乗り越え,民族主義を復元しようとする統一理念と,朴政権の本質が損なわれた「上からのナショナリズム」を,反外国勢力・民族主体の「下からのナショナリズム」へと変換しようとする試みがあった.
 こうしてカトリック農民会が民主化運動としての色合いを強めていくなかで,カトリック農民会における女性は,男性農民を中心とした農民運動を再生産領域から支えることが求められていた.すなわち,農民の権利獲得を訴えたカトリック農民会では,民主化という目標が優先され,農村女性の地位向上は後回しされる傾向があった.しかし男性中心の民主化運動のなかで,農村女性は農民の権利獲得には自分たちの権利確保も含まれているということを,教育を通して,あるいは農民運動の経験を通して自ら「発見」していった.その意味で,カトリック農民会の婦女部の教育は農村女性を再生産領域の担い手として位置づけることに留まらず,結果的には農村女性に「一人の人間」としての権利を獲得することの意味を気づかせる契機を提供するものであったと評価できる.
 「農村女性の地位向上」を主要課題とし発足したカトリック農村女性会は,農村女性を一人前の生産者として位置づけたり,「近代的な知識」の伝達を行ったり,農村女性の教育,労働,健康問題などに積極的に問題提起を行うことで,農村社会の家父長制に対抗する「近代的な農村女性像」の実現をめざしていた.だが,カトリック農村女性会が理想像として描いていた「女性像」は,「合理的で生産的な農村作り」や「近代的な要素を身につけた農民育成」という近代化の方向性を全面的に否定するものではなかった.しかし,その一方で,カトリック農村女性会がめざしていた「近代的な農村女性像」は,「一人の人間」としての権利を獲得し家父長制に対抗すること,それに加えて農村女性に不平等な要素として作用する国内外における政治経済システムを認識し,社会構造の変革につなげられるような政治的な力に発展させることを強調した点で,朴政権の「近代的な農村女性像」とは本質的に異なっていたといえる.
 他方,「農村女性の地位向上」を図っていたカトリック農村女性会の組織活動が,独立した空間で展開していたわけではなかった.朴政権の「祖国近代化」の歪みに対抗した社会運動の担い手を支えたイデオロギーは他ならぬ「下からのナショナリズム」であり,そのなかで「農村女性の地位向上」は民主化や民族統一より後回しにされ,欧米から輸入された外来の思想であると攻撃された.朴政権の「祖国近代化」の一環で提唱した女性の地位向上の議論は,「上からのナショナリズム」を支える手段として機能していたことに加え,社会運動が掲げた「下からのナショナリズム」の議論においても,「農村女性の地位向上」は譲歩を迫られていたのである.さらに,女性のみによる組織の設立の必要性をめぐる女性運動内の分裂,異なる教育水準,異なる階級的背景や生活環境に起因する女性運動の担い手と農村女性とのあいだに横たわる溝,カトリック教会との連係で成り立っていた女性運動の限界などが農村女性運動の方向性に大きく影響していた.
 それでは,このような国家,農民運動,女性運動の組織化を農村女性はどのように捉え,各主体が唱える農村近代化をどう理解したのだろうか.これらの各主体の働きかけが「生きられる場」においては,ジェンダー関係の再編にどうつながっていたのか.以上を検討することで,開発とジェンダー論に提示できる本研究の知見を以下に提示したい.
 農村近代化のイメージ形成には国家のみならず,農民運動組織からの介入が大きく関わっていたが.しかしその一方で,農村女性が描いていた「近代化」が,国家や農民運動組織によって一方的に創りだされ,それがそのまま農村女性に注入されたわけではなかった.「近代化」の受容過程において,農村女性も主体として積極的に関わっていた.外部者から持ち込まれた「近代化」のイメージが農村女性に浸透する過程においては,まず,農村女性によって「近代化」は「望ましいもの」あるいは「よいもの」である,という肯定的な評価が大きく働いていた.こうした「近代化」に対する肯定的な評価を行ったうえで,セマウル婦女会の農村女性は,「祖国近代化」の一環として進められた農村開発を世帯レベルにおける経済的な利益を獲得し,生活環境を改善する手段として認識していた.しかし,「近代化」を手にいれるために行われたこのような農村女性の主体的な関与は,農村女性自らが農村開発という介入行為がもつ国家の権力に編入され,国家が提示する「女性像」を強化する結果をもたらす側面もみせていた.以上の考察から,農村開発という介入行為がもつ権力関係が,ジェンダー秩序の再編成に少なからず影響を及ぼしうることを指摘することができる.
 次に,社会変革につながるような「政治的な空間」を創出しようと試みたカトリック農民会やカトリック農村女性会からの働きかけが農村女性にはどう受け入れられていたのかを検討し,そこから提示できる分析の結果を以下にまとめて提示したい.カトリック農民会は,朴政権の「祖国近代化」のあり方に対抗し,農民がおかれている貧困状態は,農民の「宿命的な惰性」,「怠惰と依存心」,「貧困と無知」に起因するのではなく,国家の農業政策,ひいてはアメリカの剰余農産物の輸入で象徴される,先進国と発展途上国とのあいだに存在する従属関係にもとづいていると唱えた.そしてカトリック農村女性会は,「農村女性の地位向上」を訴えると同時に,カトリック農民会と連動したかたちで社会変革を図る政治的な発言力の向上を主張し,農村女性が独自の「政治的な空間」を創出していけるように働きかけた.「一人の人間」としての権利獲得を主張したカトリック農民会や,「農村女性の地位向上」と政治的な行動の重要性を訴えたカトリック農村女性会の働きかけは,農村女性に組織活動を通した社会変革の可能性や,あらたなジェンダー秩序の創出の意味について気づかせるきっかけを提供したという点で評価できるものである.
 その一方,社会変容につながるような参加の可能性を検討するためには,次のような点が考慮されるべきである.まず一つは,カトリック農民会における婦女部の教育内容からもみられたように,開発とジェンダーの議論において「女性の周縁化」を強化する国家と,それに対して問題提起を行う社会運動という二項対立的な視点を見直す必要性である.すなわち,社会運動に女性の積極的な参加が行われることが,かならずしも女性の地位向上を意味するものではないという点を強調したい.二つ目は,外部者によって持ち込まれた「あるべき女性像」が,かならずしも農村女性のニーズを反映しているとは限らない.「農民である」と同時に「女性である」ことで抑圧されてきたことに対し,女性農民運動を通して問題提起を行い,農村女性の「政治的な空間」を創出することに30年間献身してきた農村出身の活動家が,外部者によって持ち込まれた「女性像」とは本来自分が求めてきたものであるか否かについて葛藤した様相が第4章で考察された.その農村女性の発言からわかるように,「貧困の女性化」の改善に向けて外部者によって持ち込まれる「女性像」に外部者の視点が入り込み,農村女性に「押しつけ」になる可能性についてはつねに注意を払うべきである.
 以上、国家と農民運動、女性運動による農村開発を通した働きかけがジェンダー秩序の編成に与えられる影響について考察を行った.しかしその一方で,外部者の意図がかならずしも農村社会のジェンダー関係にそのまま投影されるとは限らないことも本研究を通して考察された.開発過程における農村女性の主体的な関与によって,開発は多様な社会的現実を創出し,そのなかでジェンダー関係も変わっていく可能性が生まれてくるのである.農村女性が「近代化」を肯定的に評価したことについて先述したところであるが,セマウル婦女会の農村女性は「近代化」に対する肯定的な評価に留まらず,それを手にいれるために国家の介入を最大限利用しようと試みた.その結果,農村女性は「外」で働き,経済的な力をつけることが家庭やマウル内において発言力の向上につながることを体験で学んでいった.さらに,女性は家庭やマウル内,もしくは行政機関との交渉能力をつけていった.なお,農村女性は組織の力を利用して活動領域を拡大させていく努力を続けていった.そして「よき母」づくりの一環として提示された家族計画事業を実践することで,「産む/産まない」にかかる権利がいかなるものであるかを理解していった.すなわち,「女性の周縁化」を試みた朴政権からの働きかけを,理想としての「近代化」に近づける機会として認識した農村女性は,たんに国家から与えられた物質的な恩恵に甘んじ,「女性の周縁化」に編入されていったわけではなかった.もちろんセマウル婦女会の組織活動は,国家権力に対抗し,既存のジェンダー秩序を変革するまでは至らなかった.しかし,国家からの恩恵を最大限手にいれることをめざしていた農村女性の主体的な関わりは,国家が規定するジェンダー秩序をさらに乗り越える可能性を開いていくという結果を生みだしていった.
 そのような農村女性によるジェンダー秩序の変革の可能性は,カトリック農民会やカトリック農村女性会の活動からも観察することができる.カトリック農民会においては民主化という議題が優先され,農村女性は再生産領域から農民運動を支える存在として位置づけられていたが,農村女性は自分たちによる権利獲得は女性を「一人の人間」として捉えることをも意味することを自ら認識していった.さらに,カトリック農民会の農村女性は,自ら男性活動家や農民と交渉することで,「農村女性の地位向上」を図っていた.他方,韶成洞の農村女性は,カトリック農村女性会の女性知識人が提示した「近代的な農村女性像」に問題を提起することで,その「女性像」を能動的に受け入れていた.フェミニズムの影響で「家事・育児からの解放」を唱えていた女性知識人も,農村女性がおかれている状況が「家事・育児からの解放」のみで解決できる問題ではないことに気づいていた.その両者のあいだには,双方の視点に影響され,知識と経験を分かち合う学びあいが生まれていたのである.なお,その学びあいの根底には,農村女性の積極的な問題提起が働いていたことに注目すべきであろう.以上の考察を通して,私的/公的という空間の区分のみで農村女性の地位向上を論じることに対する問題提起と,開発における外部者の働きかけはかならずしも一方的に行われ,それが働きかけられる側に同様の形で受け入れられるわけではなく,農村女性もジェンダー秩序の編成に主体として関わっていることを指摘した.
 最後に,本研究では,朴政権の「祖国近代化」に対する各主体の取り組み方に焦点をあてることで,朴政権が進めたトップダウン型の開発体制がかならずしも各主体にそのまま注入されていたわけではなく,各主体はそれに対し何らかの解釈を行ったり,選択的に選び取ったり,批判あるいは拒否する様相をみせており,複数の「近代」を創出していたことを指摘した.なお,農村開発を媒介として既存のジェンダー関係に変化がもたらされており,そこには国家のみならず,農村女性や社会運動の担い手も主体として深く関わっていたことを明らかにした.その一方で,本研究では1980年代以後の変化,なかんずく女性農民運動の領域が拡大していくなかで,セマウル婦女会の女性グループと農民運動の女性はどのように結合あるいは分裂したのかについては議論することができなかった.この点を本研究の成果を踏まえてさらに掘り下げていくことを,今後の課題としたい.

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