研究・教育活動

サイトトップへ戻る

博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:日本統治下台湾の広告研究
著者:林 恵玉 (LIN, Hueyyuh)
博士号取得年月日:1999年5月26日

→審査要旨へ

 本稿では、日本統治下における企業の広告をとりまく諸環境について、政治、経済、そして社会・文化の3つの観点から取り上げた。日清戦争の結果、台湾は1895(明治28)年に日本に併合された。以後、1945(昭和20)年までの半世紀の間、台湾は植民地的環境に置かれた。そのため、台湾経済は日本総督府(すなわち日本政府)の経済政策に左右されることになり、日本内地経済の補足的役割が課せられた。すなわち、砂糖等を始めとする食品原料の供給地として経済開発が行なわれる一方で、内地の日本企業の生産する加工品の販売先として利用されたのである。産業政策は統治初期から1930年頃までは農業開発が中心であったが、満州事変そして日中全面戦争開始後は、軍需に伴って徐々に工業化が行なわれた。
 戦前の台湾では、「総督府政策」の大前提の下でマス・メディアにおける活動は、各種の規制・抑圧が行なわれた。許可主義がとられたため、発行された日刊新聞は『台湾日日新報』、『台湾新聞』、『台南新報』(台湾日報)、『台湾新民報』(興南新聞)、『東台湾新報』、『高雄新報』の6紙しかなかった。思想・言論統制の目的から、総督府により新聞の発行が制限されたのであった。発行制限と共に、出版物の表現内容に対しても事前検閲制がとられた。また、記事の表現内容に関して言えば、日刊新聞のほとんどは総督府により政治宣伝の道具としても利用された。各紙の広告面には、台湾と日本国内の広告だけではなく、海外の広告も掲載されていた。

  一方、台湾では、1931(昭和6)年1月22日から10キロワットのラジオ放送が始まった。普通放送、海外放送のほかに、1942(昭和17)年10月10日からは台湾人向けの第2放送も始まった。

  日中全面戦争が起こると、「思想戦」の一環として、福建語等による海外放送も行なわれるようになった。また、1945(昭和20)年に入ると、「本島防衛の思想面の重責達成」のため、放送局は移動放送車までも出動させた。

  日本語の普及に伴う識字率の上昇は、次第に台湾人を和文広告へと接触させていった。だが、その一方では、依然として漢文広告への関心や欲求も根強かった。

 日本の植民地支配の下で、台湾人は政治、経済、社会活動の面で様々な制約を受けた。彼等は伝統文化を守ろうとしながらも、日常生活の面では、「内台融和」や「皇民化政策」として強要される日本文化や日本の商品を受け入れざるを得なかった。これらの前提になるのが、日本語普及とそれに伴う文化的統合であった。総督府は、日本語の強要や台湾人の言語・文化への干渉などの言語政策によって「日本化された社会」の実現を遂げようとしていた。だが、台湾固有の言語・文化は依然として存在し、日本の言語・文化と並存していた。『台湾日日新報』の第1号1898(明治31)年から1937(昭和12)年にかけて漢文欄が存在していることは、日本語普及率の問題もあったが、それ以上に現実社会における台湾人読者の強い要望もあって、「妥協」の意味合いが強かった。このような環境において、広告も「和文」と「漢文」、さらに「台湾語」が併存する時代を迎えた。

 台湾人の消費者は、このようにして言語上の二重生活を強いられていたが、それに合わせる形で日本統治下の台湾の広告活動も2つの民族文化構造を反映することになった。そして、こうした環境の下で、商品広告は大別すると、和文広告と漢文広告に分けられていた。台湾人の日本人化が政策としては目指されてはいたが、現実には、台湾人の購買行動を促そうとする企業の広告戦略によって、総督府の言語政策を越えて漢文広告が利用された。これは、新聞の漢文欄と同じように、妥協の産物であったと考えられる。

  日中全面戦争開始後、日本化運動が急激に展開され、さらに太平洋戦争勃発後は、「国語常用運動」が徹底され、学校では台湾語を話した生徒は罰を受けるまでに至った。だが、それでも日本風と台湾風の両方の様式を取り入れた生活状況そのものは変わっらなかった。同化政策から皇民化政策へ、国語(日本語)普及運動から国語常用運動へと、総督府は戦局の激化に伴って、日本化運動に全力をあげるようになった。

 1937(昭和12)年当時、日本語の識字率は37.86 %であったが、総督府は漢文欄廃止を断行した。しかしながら、新聞の漢文欄が廃止された同年4月以降も、「国語不解者に台湾語で講演/正しい時局認識を注入」というような新聞記事を見て分かるように、台湾語・中国語はなおも、台湾人に時局認識を徹底させる道具として総督府によって利用され続けた。漢文欄の存在と廃止は、台湾の日本化という政策的意図が前面に押し出されたためと思われる。ただし、1937 (昭和12)年からは、時局の深刻化に対応し、台湾人向けの漢文広告も徐々に少なくなっていった。

  日本の植民地支配は台湾の経済活動を活発化させる一方で、台湾の社会構造や経済構造にも影響を与え、特に都市における消費文化の面で大きな変化をもたらした。台湾における百貨店の登場は、台湾経済の近代化にもつながった。これらの百貨店は販売促進活動の一環として新聞広告を頻繁に利用し、消費者の生活様式をも変えてしまった。

 台湾における百貨店の出現は、植民地政策がもたらした資本主義経済の発展、都市の近代化、消費文化の変化等の結果であった。

 日本の植民地支配とともに、封建的台湾経済は資本主義経済へと発展することになり、同時に、日本人による商店等の経営や日本商品の台湾進出も目立つようになってきた。消費人口の構成からすれば、植民地移住の日本人の数は確かに台湾人の数には遠く及ばなかった。百貨店側は植民地を消費市場とするためには、植民地のインフラストラクチャー整備や経済力、文化水準の上昇のほかに、台湾人の日本商品への消費志向をも考慮に入れなければならなかった。1923(大正12)年以降、日本の百貨店は台湾に進出していくが、それは台湾社会の近代化の進展と密接に関連していた。換言すれば、初等教育の普及、社会・経済の発展とともに、台湾人は1920年代頃から、伝統的な台湾風の生活様式の殻を破り始め、西洋風あるいは日本風の生活様式をも受け入れるようになっていった。経済の発展、社会の近代化、生活様式の多様化等が、日本の百貨店の台湾進出の気運を開かせたのであった。

 資本主義経済の急速な発展と近代都市の急成長という条件の下で、昭和初期、台湾の都市においても日本人による近代的経営の百貨店が登場した。1932(昭和7)年12月3日台北市において「菊元」という名前の百貨店が開業し、さらに同年12月5日台南市においても「ハヤシ」という百貨店が開店した。その他、高雄市では1938(昭和13)年11月に、旧店舗を改築し百貨店として生まれ変わった吉井百貨店が登場した。こうした百貨店の出現の要因としては、都市に住んでいた台湾人の生活水準の向上や日本化・西洋化志向が指摘できる。また、地元百貨店の出現という現象から、都市の消費文化が質的に変わりつつある様相を見ることができる。

 台湾における近代的百貨店の誕生は、台湾の文化・経済の発展を端的に物語っている。また、菊元百貨店等は都市の台湾人に日本的・西洋的生活様式の環境を提供したという側面もあったことを認めなければならない。

 日本の台湾併合から1945年の終戦に至るまで、政治、経済、社会、文化、消費生活等のあらゆる面で日本の植民地政策は半ば強制的に同化を求めた。植民地台湾における日本の統治政策は「内台融和」から「同化政策」へ、さらに「皇民化政策」から「決戦体制」へと進んでいった。

 日本の植民地支配の手段として、台湾人の宗教や信仰が利用された。それは、支配者と被支配者の関係は同じ宗教や信仰から始まるという人民支配の鉄則に従ったものであった。台湾人は本来の伝統的な文化・風俗・生活慣習を維持しようとする一方で、日本のそうした政策の枠の中にはめ込まれ、外来の日本文化を受容したのである。しかし、台湾人は台湾語が話せなくても台湾の信仰・習俗を放棄することはなく、思想・精神までは日本化されていなかった。

 日本の植民地政策の中で注目しなければならないのは、日本語の普及に併せて文化的統合を図った点である。それは二重言語生活を、広告に関して言うなら、和文広告と漢文広告の共生時代をもたらすことになった。しかしながら、民族言語たる台湾語への統制が露骨になってゆき、1942(昭和17)年以後、台湾人向けの漢文広告はついに新聞紙面に登場しなくなった。言語の規制・統制は新聞や広告にも波及したのである。

 植民地社会においては、統治方針、宗主国の政治動向が広告の環境に大きく影響するが、同時に広告活動は台湾の経済環境、庶民生活に深く関わっている。

 台湾の人々にとっては、日本語の書籍は近代文化の窓にであった。国語普及・常用運動は、結果として、台湾の「近代化」に大きな役割を果たしたのであった。つまり、国語教育の普及と識字率の向上は、台湾の「近代化」の重要な指標となった。

 日本の支配から解放されるまでの台湾においては、台湾語の使用率は低かったとは必ずしも言えない。1937(昭和12)年前後においては、日本語普及率はまだ低く、和文広告はアピール効果が弱かったため、漢文広告は量的には僅かにすぎなかったが、台湾人にとっては和文広告より重要であった。日本語の普及に伴う識字率の上昇によって、台湾人は次第に和文広告に接触するようになっていった。だが、その一方で、依然として漢文広告への関心や欲求も根強かった。

 台湾語による漢文広告は、台湾人社会により具体的かつ積極的に働きかけ、台湾人消費者と日本商品の距離を縮める効果があり、台湾人の習俗にも影響を及ぼしていった。こうして植民地特有と言うべき二重言語広告が生れることになったのである。

 植民地台湾では、消費者が言語上の二重生活を強いられ、かつ、主として台湾人と日本人によって複合社会が形成されていたことを要因として、台湾の広告活動も二重の民族文化構造を反映していったのであった。

 日本統治初期においては、台湾人に対する教育機関はまだ整備されておらず、明治・大正時代の段階においては、全体として見れば、台湾の民度と台湾人の日本語ならびに法律に対する理解度はそれほど高くなかった。

 台湾における当時のマス・メディアとしては、新聞が最大の広告媒体であった。したがって、新聞広告を中心にマス・メディアの動向について検討すれば、日本の植民地政策が当時の台湾社会にいかに大きな影響を与えたか、マス・メディア、特に新聞広告が台湾の経済活動にいかなる影響を与えたかがわかる。

 日本の植民地支配の下で、台湾の経済は資本主義経済へと発展していった。それと同時に、日本人による商店等の経営や日本商品の台湾進出も目立つようになり、その影響によって台湾の都市の近代化や台湾人の固有の生活様式、消費文化などに質的変化がもたらされた。また、台湾における百貨店の出現は台湾人の消費生活の多様化、余暇生活の充実を促進した。台湾人の生活水準は向上し、日本文化及び西洋文化に接触する機会が増加していった。かくして、台湾社会に本質的、構造的な変容をもたらした日本の統治は、外来の商品並びに文明・文化との密接な接触に伴って、台湾人のライフスタイルに大きな影響を与え、消費文化の面においても多様化をもたらしたのであった。

 日本統治下の台湾における日本企業の広告について歴史的考察を加えることは、日本の広告史においてこれまで忘れられてきた部分に光を当てることにもなり得る。台湾の新聞広告を通して日本企業の販売および広告活動のあり様と台湾人の消費生活を見ることができ、日本商品の台湾進出、台湾社会の消費構造の変動を明らかにすることができる。

 台湾人は日本の言語・文化に包囲されたが、台湾の都市の消費文化は「日本化」の動きが広がってゆくと共に「西洋化」の方向性を強めていった。この結果、台湾人家庭の生活様式は和・漢・洋にわたる複雑なものになっていった。当時の台湾における社会情勢と文化状況は単純ではなかった。

 日本は、台湾におけるインフラストラクチャー整備や、経済力、文化水準の上昇を推進し、台湾本島人の日本商品への消費志向を拡大していった。台湾人に対する同化政策は、台湾人の日本文化の受容度ひいては日本商品への消費欲求を増大させ、消費志向を助長させたが、台湾の消費者が日本の商品すべてを受け入れたわけではなかった。日本の植民地統治政策の下では日本内地と植民地外地との間の人的交流が対等に行なわれる条件は妨げられていたが、消費生活においては、このような日本人と台湾人を差別化する政治的意識の影響はほとんどなかった。日本統治期の台湾の広告は、台湾島内在住の人々と、日本企業・商品を結びつける役割を果たしていった。日本が遂行した戦争は、新聞広告から見る限り、当初は台湾住民の消費行動に大きな影響は与えていなかった。しかし、当時の台湾の物価は安定していたとは言えなかった。

 台湾では、政治はもとより、社会及び経済も日本の政治体制下に組み込まれていた。そのため、台湾の新聞広告も、日本の政治情況や戦争の行方とは無縁ではあり得なかった。とりわけ、日中全面戦争の開始とともに、台湾での皇民化政策が急速に展開され、その影響は一段と顕著になっていった。日本は、台湾における「皇民化を促進する」及び「被支配者の思想を強化する」政策を推進していった。皇民化運動は日中全面戦争の激化と共にいっそう強化され、戦時色の強い「同化政策」、すなわち「皇民化政策」となって、台湾人に強制されていった。そして、この段階では、戦局は消費をも抑圧し、広告環境をいっそう厳しいものにした。同化(日本人化)は、日本植民地政策の一貫した主義・方針であったが、1937 (昭和12) 年以降の皇民化政策は台湾人の「慣習、信仰」を干渉し、意識までをも改造しよう、と意図した。

 皇民化政策は同年4月に新聞の漢文欄廃止方針が発表されるまでは、日本が台湾を統治して以来とり続けてきた「同化政策」の域に止まっており、「皇民化」の波紋はまだ広告業界にまでは広がっていなかった。

 漢文広告は、皇民化政策が強化された同年4月以降、消滅への道を辿ったが、時局便乗の広告コピーは極めて少なかった。台湾人向けの漢文広告、および台湾人の出した広告は、当時の政治的な動きに対して積極的には呼応しなかった。これは台湾本島人の日本への抵抗の現われであったと理解されよう。このように台湾社会の意識実態は広告の世界にも反映されていたのである。

 1935(昭和10)年前後の台湾では、中国大陸における戦局よりも、「内台融和」など、内地日本と外地台湾の関係の強化が重視されていった。このように、満洲事変の前後には、台湾の新聞広告コピーはあまり「非常時色」を出していなかった。当時、台湾の消費社会は、満洲事変の影響をほとんど受けず、社会不安の様相は現れていなかった。

 内台融和と国語普及は依然としてこの段階での台湾総督府の重点政策の一つであった。ただし、加速する内台融和・国語普及政策は、その背後には「国策・戦争への協力」を喚起するという意図がこめられていた。

 日中全面戦争前の内台融和時代においては、植民地支配の手段として台湾人の宗教や信仰が利用された。内台融和と国語普及は、戦争への協力を喚起するという意図がこめられていたが、この時期の新聞広告の内容を見る限り、日本と同じく準戦時体制下にあったとしても、台湾の経済生活や社会全体には時局の及ぼす影響はさほど現れてはいなかった。ところが、1937 (昭和12)年、日中全面戦争が始まると、総督府は皇民化政策を強力に推し進めるようになり、台湾人の意識までをも改造しようとし始めた。そして、皇民化政策は台湾人の慣習・信仰にも干渉し始めた。日中戦争勃発後に、日本人会社が台湾紙に出した広告を見ると、戦争協力及び時局便乗、国策迎合のコピーが散見される。とりわけ、和文広告には、時局に便乗・迎合したものが多くあった。一方、日中全面戦争開始後もしばらくは、台湾人向けの漢文広告、及び台湾人の出した広告には、時局迎合傾向はそれほど見られなかった。しかしながら、戦局がいよいよ激しくなると、政治動向への迎合に消極的であった台湾企業までが、ついには広告コピーを戦争協力を目的としたものに変化させていった。このように、台湾社会の現実は広告の世界にも映し出されていた。ただし、日本統治下の台湾では、終始、日本の企業が経済活動上、中枢的な位置を占めていたため、全体として新聞広告を見れば、時局に便乗し、国策に迎合した和文による日本企業の広告がやはり中心であった。

 また、皇民化運動は日中戦争の激化とともにいっそう強化され、戦時色の強いより強調された同化政策、すなわち皇民化政策となって、台湾人に対し強制されていった。そして、統制下の政治・経済状態のなかで、広告は台湾においても内地同様、非常時局の色が濃くなっていった。

 太平洋戦争の激化に伴って、「節約自体が戦力増強」というかけ声の下に、増産や貯蓄を奨励する「決戦体制」へと移行していくが、戦争による緊迫感から、広告も戦争とより密接な関係をもった「スローガン」へと変身していった。この段階に至っては、戦争が広告活動までも支配する現象が見られるようになったのである。

 日中全面戦争開始以前には、広告にはまだそれほど色濃くは戦争の影が表われていなかった。それに対して、日中全面戦争勃発後は、日本の会社が台湾の新聞に出した広告には、戦争協力及び時局便乗、国策迎合のコピーがより多く見られた。和文広告には時局に便乗・迎合したものが多かったが、漢文広告にはそうした傾向は薄かった。

 台湾における庶民生活および生徒の学校生活は、戦争と結び付けられるようになり、台湾の住民も耐乏生活を送ることを余儀なくされた。こうした環境の下で、広告の中には次第に軍国主義に迎合するものが現われるようになった。特に、日本内地からの商品の広告は、国策に大きく協力する姿勢をとった。

 1940(昭和15)年7月になると、日本は武力行使を含む南進政策を決定した。そして、その決定は台湾住民にも負担と犠牲を強いることになった。台湾住民の生活のすみずみまで日増しに戦争の重苦しい雰囲気に包まれていくようになっていったことがうかがえる。

 日本は戦局の緊迫に伴って、日本内地と植民地外地の行政・経済統制を一元化した。戦争の熾烈化に伴い、物資不足が表面化し、戦局の急迫とともに、広告コピーも国策に即して単純化されていった。

 日本帝国の南方発展政策によって台湾が抱えることになった矛盾は、日本帝国の「資本主義・軍国主義」に奉仕する植民地的な従属経済構造の変動に端的に現れた。一方、「消費節約・国民貯蓄奨励運動」、「軍用機献納運動」、「国防献金募集」、「贅沢品の販売禁止」、「物資の配給統制」、そして「商品券、歳暮の贈答廃止」などが、日本内地と同じく台湾においても次々に進められ、台湾住民も、いわゆる「銃後国民」としての気構えの中での生活が強いられた。日中戦争と太平洋戦争が台湾人の消費生活に大きな影響を及ぼしたのであった。

 1945(昭和20)年には戦時緊急措置法が実施された。こうして、台湾でも決戦体制が強化されていったのであるが、新聞紙面にはこの時期、「決戦服装教授」などの広告が表われた。広告は戦争の緊迫感を伝える内容のものが多くなり、その結果、「商業広告」から政治宣伝としての「プロパガンダ」へと移行していった。広告表現はこの時代になって、さらに深く戦争と結び付くようになった。植民地台湾の広告は言語上、二重構造になっていたが、広告主を見ても、日本企業と台湾企業というように二重構造になっていた。戦時下の広告内容を比較検討してみると、日本企業の広告が一貫して国策に迎合していたのに対して、台湾企業のそれは、戦争当初は政治的動きに対して積極的には呼応していなかったが、やがては国策に迎合するようになっていった。日本統治下の台湾の広告は、「帝国主義・軍国主義」という時代の影を写し、日本企業の台湾進出の推移のみならず、植民地体制下において暮らさざるを得なかった台湾庶民の生活の実相までをも描写したのであった。

 台湾における日本の植民地政策は、政治、経済、そして社会、文化、消費生活の面で台湾社会に大きな影響を与えたが、特に経済的側面から見るならば、それは台湾を植民地経営の場として「化外(未開)の地」から脱皮させ、近代化の方向へと移行させる役割を果たしたのであった。

 日本統治下の台湾社会は、日本人が台湾人を支配する一方、台湾人と日本人との共存において成立し、台湾文化と日本文化の接触・混合・融和の過程で植民地文化が生まれたのであった。台湾総督府は、同化政策から皇民化政策へ、国語(日本語)普及運動から国語常用運動へと、戦局の激化に伴って日本人化運動に全力をあげていった。台湾総督府は日本人化政策を通して台湾文化を日本文化に統合しようとし、台湾人を精神的にも支配しようとした。だが、結局は、台湾文化の基盤は揺るがず、台湾文化の土台の上に日本文化がもたらされただけに終わったのであった。

このページの一番上へ