博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:アンシァン・レジームにおける美術政策と鑑賞者 −王室建造物局総監ダンジヴィレとルーヴル美術館構想(1747-1793)−
著者:田中 佳 (TANAKA, Kei)
博士号取得年月日:2009年3月23日

→審査要旨へ

 本論文は、ルーヴル美術館の創設に関わる諸計画とそれを生み出した社会・文化的背景を考察の対象としている。このフランス初の本格的な公共美術館は1793年8月10日、王権停止一周年の記念日に革命政府の下で開館する。しかしこれは革命政府が独自に発案し実現したものではなく、すでに1740年代以降、アンシァン・レジームの美術行政によって繰り返し検討されてきた構想であった。本論文では、美術館の最初の創設案が提示された1747年から開館までの約45年間に見られるさまざまな提案や美術行政側の対応を詳細に検討し、美術作品を広く一般公開する公共美術館という発想とその実際の創設計画とがいかなる背景から生まれたのか、そして王権が美術館をどのようなものとして構想し、いかなる機能を付与しようとしたのかを、アンシァン・レジームの社会・文化的文脈の中で考察することを目的としている。とりわけ美術館の開館を目指して具体的な計画を推進したルイ16世期の王室建造物局総監ダンジヴィレ(1730-1809)の政策に焦点を当て、その美術館構想の全貌を明らかにすると共に、特に美術館での展示を目的として注文された「奨励作品」を詳細に分析することで上記の目的に迫った。巻末に付した奨励作品のカタログは、この作品群全体の情報を体系的に纏めた初の試みであり、本研究の資料的価値を高めるものと確信している。
 本論は大きく二部に分かれている。第1部はダンジヴィレの美術館計画の前史として、1747年に出された初めての美術館案とルイ15世期に見られる美術界の変化について検討し、この時期に美術館を開設する文化的な土壌が育っていく様子を論述している。本論の中心となる第2部では、ダンジヴィレの美術館計画を詳細に検討した後、特に奨励制作に関して、その社会・文化的な背景との関連を探っている。
 第1部は、トゥルヌエムの総監時代に出された美術館案とその結実について論じた第1章と、これに続く時代に高まる美術館開設への要請とその背景について論じた第2章から成っている。
 1747年、愛好家のラ・フォン・ド・サン=ティエンヌは匿名の小冊子『フランスの絵画の現状の諸原因に関する考察』の中で、ルーヴル宮の荒廃と国王コレクションの不適切な保存状態、そして絵画の最高位のジャンルである物語画の衰退という諸問題を解決する方法として、フランスで初めて国王コレクションの公開を提案した。同様の提案は、これと前後してトゥルヌエムに私的に宛てられたバショーモンの手紙にも見られる。こうした提案がほぼ同時期に出されたのには理由がある。まず、世紀初頭以来のロココ美術の流行が華麗で親密な画面を数多く生み出し、厳格で重厚な物語画が画家たちからも収集家たちからも敬遠される状況にあって、これを復権することが急務の課題となっていたことが挙げられる。さらにヨーロッパ各国で相次いで美術ギャラリーや美術館が開設され、美術品公開の機運が高まっていたことも背景にあった。ラ・フォンらの提案に対し、トゥルヌエムは迅速な対応を見せた。彼はラ・フォンが指摘したリュクサンブール宮内のギャラリーの管理の問題を改善したばかりでなく、ここに新たに国王コレクションから選んだ100点あまりの絵画を展示して一般公開することを計画する。1750年10月、フランスで初めての公開型の王立美術ギャラリーとして開設されるリュクサンブール宮ギャラリーには、イタリア、北方、フランスの各流派の作品が展示されたが、注目すべきは「玉座の間」という部屋に、ルイ14時代に活躍した物語画家を中心とするフランス派のみの作品が集められたことである。ここには、すでに高い評価を得ているイタリアや北方の画派と同等のレベルにフランス派が達しているという自負と、フランス派の本質あるいは規範として古典主義の物語画を掲げ、美的な価値観の建て直しを図るという意図が如実に表われている。
 ところで、ラ・フォンが美術ギャラリーの創設を訴えた背景にはもう一つの重要な要因があった。それは美術鑑賞者層の拡大という、18世紀のフランス美術界が経験した大きな変化である。1730年代以降、競売会や展覧会が発達し、それまで一部の収集家や愛好家に限られていた美術鑑賞の機会が大きく広がることになる。ラ・フォンが美術ギャラリーの創設案と同時に展開した美術における「公衆」の考え方は、これまで専門家のみに認められてきた作品の価値判断の権利を公衆にまで認めるというもので、ラ・フォンはこの考えに立脚してサロン展の出品作品に関する詳細な批評を行なう。これはアカデミーの美術家や愛好家たちの間に激しい論争を巻き起こすが、この議論の応酬は、こうした美術界の変化がもたらした動揺を反映していると考えられる。一方で、競売会や展覧会の発達は愛好家や収集家の成長をもたらし、王侯を凌ぐ立派なコレクションを形成し、美術家や専門家たちの「学校」とも呼べるようなサークルを主宰する者も現われた。こうした「学校」は、財政難で目覚しい政策を打ち出せない行政や王立絵画彫刻アカデミーとは対照的に勢いを増して影響力を高めていった。その結果、リュクサンブール宮ギャラリーの公開に満足せず、ルーヴル宮内により規模の大きな美術ギャラリーあるいは美術館を開設すべきだという声が愛好家たちの間で聞かれるようになる。当時総監を務めていたマリニーやテレーも、ルーヴル宮を学問や芸術の殿堂に仕立てたいという想いはあったようだが、具体的な計画に着手されることはなく、美術館創設への要請は高まるばかりであった。1774年にルイ16世の下でダンジヴィレが総監職に就く頃には、ルーヴル宮グランド・ギャルリーに美術館を設けることが、公衆のほとんど一致した希望となっていた。
 ダンジヴィレは王立美術館の具体的な創設計画を進めた初めての総監であった。彼の計画は大きく二つに分けることができる。すなわち展示作品の準備と展示空間の整備である。展示空間の計画については、第3章第2節で検討しているように、ルーヴル宮グランド・ギャルリーに美術館の設置場所を定め、当時そこを占領していた諸都市の模型や地図を移動した後、ギャラリー内部を作品展示に適するよう改装することが建築家たちに要請された。スフロを中心とする委員会は、この広大な空間をどのように使い、どのような採光を施すかについて検討したが結論が出ず、何度も委員会を組織してはまた新しい案を検討するというように、綿密な議論が交わされた。結局、天井からの自然採光を行なうことが認められ、ルナールが最終的なプランの作成を依頼されたのは1788年のことであった。一方で、ダンジヴィレは展示作品の準備を着々と進めた。このために二つの方法が採られた。一つは第3章第1節で扱った競売会等における作品購入であり、そしてもう一つが第4章で論じたアカデミーの美術家たちへの「奨励制作」である。このうち作品購入に関しては、既存の国王コレクションの内容を勘案し、比較的数の少ない北方やスペイン派などを補充することによって包括的な美術史を形成するよう配慮された。また「奨励制作」は隔年のサロン展に合わせて、毎回物語画十数点と彫刻4点をアカデミーの美術家たちに注文するものであった。
 この奨励制作に、ダンジヴィレは「徳と愛国的な感情を掻き立てる」という役割を与えた。そのために、物語画の主題には従来の宗教や神話のエピソードではなく、古代ギリシア・ローマの歴史的なエピソードやフランス史上の出来事が選ばれた。具体的に選ばれた場面は、勤勉さによって狭い農地から豊かな収穫を上げたところ、魔術師の疑いをかけられるが、手入れの行き届いた農機具を示すことによって自らの努力を証明する「ローマの農民クレッシヌス」や、自分の所有地の壁を取り壊させ、人々が自由に入ってきて庭の果実を取れるようにした「アテナイ人キモンの施し」、そして夜を共にするために連れてこられた若い娘の純潔さに心打たれ、婚資を与えて無傷で返した中世の将軍「バイヤールの自制」といったもので、こうした主題からは孝心、敬虔さ、夫婦愛、無私無欲、精神の堅固さ、徳や習俗の尊重といったような明確なテーマを読み取ることができる。これは一言でいえば「穏やかな徳」の尊重といえる内容であり、このように一貫した方針の下に定期的に注文制作が展開されたのはこの奨励制作が初めてである。また、その注文の方法にも特筆すべきものがあった。全7回に及ぶ注文のうち、第1回こそアカデミー内の地位やそれまでの実績等が重視される形で担当画家が決められたが、第2回以降はサロン展に奨励作品が出品された際の評価が担当画家や画面の大きさの選択に反映された。特にフランス史の主題に関しては、アカデミー準会員の若手の画家であっても、サロンでの評価に応じて登用する傾向が強かった。王室からの注文に鑑賞者の意見を取り入れるという例はこれまでには認められず、ダンジヴィレがいかに公衆の声を重視していたかが窺える。また主題の選択に関しては、最初の2回分についてはダンジヴィレとピエールの間の相談で明確に定められたが、第3回と第4回では一部に画家の意向を取り入れるという試みも見られ、第5回以降は画家自身に主題を提案させるという方法を採っている。行政側が奨励制作に込めた意図やそれに相応しい表現の方法がある程度浸透したところで、画家の自主性の尊重あるいは才能の奨励へと積極的な方向転換を行なったのである。これによって、当初の奨励制作に認められた明確な道徳的メッセージはややぼやけた部分もあるが、それでもダヴィッドのような祖国愛をテーマとする峻厳な画面や、ペイロンの夫婦愛のエピソードなど、多くの画家が奨励制作初期の主題に連なるようなテーマ性のある歴史画を制作したことは、ダンジヴィレの意図が確実に浸透した結果といえるだろう。
 一方の彫刻の奨励制作では、歴史上活躍したフランスの偉人たちの大理石全身像が注文された。物語画におけるフランス史の主題の注文と同様に、彫像の対象としてフランスの偉人を体系的に選ぶという試みは画期的である。このシリーズの彫像には高い写実性が求められ、衣服やその人物の功績を表わす持ち物といった面での時代考証を重視し、偉人を理想化するのではなく、あくまでもその時代に生きた実在の人物として表現することが肝要とされた。それによって観者に親近感を与え、競争心を掻き立てようとしたのである。また偉人の選択に目を向けてみると、ルイ14世時代を中心として、軍人、法曹、劇作家、哲学者、芸術家など多彩な人物が選ばれており、思想・信条的にも偏りが見られない。ここで選択の基準となったのは、その人物の功績に加えて徳の有無であった。
 このような偉人のとらえ方は、第5章第1節で検討したように、国王の事蹟や軍事上の活躍を称賛する17世紀の傾向とは大きく異なっている。しかし18世紀の後半には、アカデミー・フランセーズの雄弁術部門のコンクールで偉人の称賛が取り入れられ、これが地方のアカデミーにも伝播する中で、国事や軍事に限らずさまざまな領域で花開いた才能に敬意を表する傾向が強くなっていた。また『百科全書』をはじめとするフィロゾーフたちの著作においては、「偉人」を「英雄」から区別し、偉人に求められる要素として徳を挙げるものも見られる。公共の広場に設置された国王像においても、ルイ14世の像が軍事的な勝利や征服を表わすモチーフに覆われているのに対し、ルイ15世の像では正義や愛、平和など、穏やかで人類愛に溢れた王というイメージが前面に打ち出されている。奨励制作のテーマは、こうした同時代の現象と同じ志向性を持つものとなっているのである。さらに第5章第2節では、奨励制作の物語画が従来の神話や宗教の主題ではなく歴史の主題を中心に構成されている点に注目し、当時の蔵書の構成や書物の出版、そして演劇作品の上演に認められる歴史人気との関連性を指摘した。すなわちダンジヴィレは、さまざまな媒体を通じて広く浸透していた歴史への関心に呼応する形で奨励制作を構成したのである。これは「徳と愛国的な感情を掻き立てる」という自ら定めた目的の実現を目指す手段であったと同時に、奨励作品を見る鑑賞者の嗜好を汲み取った結果でもあった。事実、サロン批評の中にも、歴史的主題、とりわけフランスの歴史を主題とする作品の制作を強く求める声が聞かれる。こうした傾向は、やはり同時代に認められる17、18世紀フランス派の愛好と相まって、美術を通じた愛国心の形成を促すこととなった。
 奨励作品の注文の経緯や主題の選択、あるいはその文化的な背景の検討からも明らかであるように、ダンジヴィレは鑑賞者の存在をはっきりと意識していた。時に鑑賞者の評価を直接的に参考にし、あるいは彼らの嗜好を反映させるなど、これまでの美術行政にはおよそ考えられないほどに鑑賞者に寄り添う政策を展開したのである。その背景には、第6章で詳述したように、年々数を増すサロンの来場者が数万人にも及び、これに伴なって批評が影響力を増してくるという現象があった。こうした現象にアカデミーの美術家たちは困惑し反発を見せる。彼らはサロン批評の出版と流通によって、得体の知れない「公衆」のイメージを膨らませて不安を募らせるが、その一方でダンジヴィレやピエールは基本的には放任主義を取った。とはいえ、ダンジヴィレも奨励制作の目的や美術館の構想など、その政策の根幹に関わる部分に批判が及んだ場合には厳しく対処した。ダンジヴィレはあくまでも自らの美術館構想を貫くことに重点を置き、そのために有効と判断されれば公衆の意を汲み取り、また不都合と判断されればこれを排除するというように、もはや無視し難いほどに成長した公衆の影響力を利用しつつこれを教化するという、独自の「共存」の道を探ったといえるだろう。
 では、そのダンジヴィレの美術館構想の根幹とは何か。ダンジヴィレの「Musœum」という用語の使用や奨励作品の複製を巡る動きから察するに、それは奨励作品を含む美術館の展示作品を通じて「啓蒙された市民のモデル」を提供することである。ダンジヴィレは公衆の意向を探りながらも、公衆に規範的な徳を教え、公衆を啓蒙するという普遍的な機能を美術館に課した。この教化の役割を担い、国王コレクションの至宝と同時代の美術家の成果が一同に集められる美術館は、ルーヴル宮という建造物の壮大さも手伝って、フランス王権の威光を高めることに繋がるはずであった。
 この理想的な美術館はダンジヴィレの下では実現しなかった。フランス革命の進行に伴ない、ダンジヴィレは亡命を余儀なくされ、王室その他特権階級が所有していた美術品は一気に国有化される。革命政府は、アンシァン・レジームへの勝利を人々に印象づけるべく、ルーヴルへの美術館の計画を実行に移し、開館を実現させる。しかしそこには、ダンジヴィレが美術館のために注文した奨励作品はおろか、18世紀フランスの美術家の作品はごく一部の例外を除いて見られなかった。ここではあくまでもアンシァン・レジームの否定という政治的な意味が前面に出されたのである。展示作品を通した道徳的な教化、祖国愛の醸成といったようなメッセージ性は皆無であった。
 しかしながら、革命は「美術館」という枠組みは否定しなかった。美術館の公開、あるいは美術を通じた教育という発想は、美術作品を見る公衆の存在を前提とするが、この美術鑑賞者層の形成という現象こそ、アンシァン・レジームの美術界が経験した最大の変化であった。ダンジヴィレや旧体制の諸制度を否定したはずの革命政府は、ダンジヴィレが築き上げた啓蒙の手段が発揮しうる効果を誰よりも信奉していたのである。

このページの一番上へ