博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:開港期朝鮮における外交体制の形成―統理交渉通商事務衙門とその対清外交を中心に―
著者:酒井 裕美 (SAKAI, Hiromi)
博士号取得年月日:2009年3月23日

→審査要旨へ

 「伝統」的外交体制において、基本的に、清に対する「事大」と日本に対する「交隣」から成り立っていた朝鮮の外交は、1876年の日朝修好条規締結を一つの契機に、「近代」的外交体制においても、その活動を展開していくことになった。当時、「伝統」的外交体制と「近代」的外交体制との間で、朝鮮がどのような外交体制を形成していったのか、その内容と過程を明らかにすることが、本論文のテーマである。
 このテーマを検討するにあたって、研究方法として重視したのは次の二点である。第一に、徹底して外交主体としての朝鮮に焦点をあてるということである。第二に、既存の分析枠を適用することを極力避け、曖昧なものは曖昧なまま、割り切れないものは割り切れないまま、実態に即して個別実証を積み重ねることである。この方法の独自性をよく活かすため、具体的な論証の中心としては、当時、朝鮮の外交主体の中心的位置にあった統理交渉通商事務衙門と、朝鮮外交において当時もっとも重要な位置を占めていた対清外交を取り上げ、それぞれ第一編、第二編に分けて論じた。

 第一編第一章では、統理交渉通商事務衙門の設立に至るまでの、朝鮮における外交担当官庁の変遷について論じた。朝鮮の外交が、清に対する「事大」と、日本に対する「交隣」から成っていた時代、その具体的な業務は、議政府、礼曹、承文院、司訳院、戸曹などの諸機関が、また特に「交隣」については現地の地方官が、慣例的に定められているそれぞれの役割を果たすことにより、全体として有機的に進行していくという形で展開されていたが、このような形式が、どのように変わっていったのか、その過程について整理した。1880年12月に新設された統理機務衙門は、日本公使ソウル駐在、アメリカとの条約締結への動き、清への機器留学生派遣などに関連する新たな外交業務を中心的に担当した一方で、従来からの業務遂行形態に、議政府に代わる形で組み込まれながら、「事大」に関わる慣例的な業務についても重要な役割を果たしていた。しかし、壬午軍乱で統理機務衙門が廃止された後、機務処を経て、1882年11月に新設された統理交渉通商事務衙門は、国の方針として明確に打ち出された改革方針に基づいた、従来の機関とは異なる、新しいスタイルの機関であった。ゆえに、担当する外交業務についても、その内容を「条約内」の業務として規定することにより、従来の「事大」業務を切り離しており、統理機務衙門との差異を見せていた。
第一編第二章では、統理交渉通商事務衙門の基礎的研究の一環として、構成員について分析を加えた。分析のポイントは三つである。第一に、主な前歴や基本的な人的事項から、任用条件について検討すること。第二に、朝鮮政府における衙門の位置を把握するために、構成員の他機関兼職状況を調査すること。第三に、運営実態を把握するために、構成員の勤務実態について明らかにすることである。その結果、統理交渉通商事務衙門の特徴として次の二点を指摘できた。まず第一に、衙門は、朝鮮をとりまく新しい状況に対応できる人的構成を備えており、実際に効率的な運営がなされていたということである。衙門では、外交使節や外国視察の経験があることが構成員の任用条件になっていたし、実力本位の人事も行われていた。しかし第二に、その一方で、衙門はあくまでも従来の政治体制の基盤の上に立った朝鮮政府の一機関でもあったことも、重要な特徴である。構成員は一部の例外を除いては、名門家系の出身者が大半であり、また朝鮮政府従来からの機関の官職にも多数任命されていた。
 第一編第三章においては、統理交渉通商事務衙門が各国の朝鮮駐在機関と往来した文書を手がかりに、対外政策の実態について、租界、朝英・朝独新条約締結交渉とその均霑、護照発給をめぐる政策をとりあげて分析した。特に、朝英・朝独新条約の締結にあたって、統理交渉通商事務衙門は中心的な役割を果たしたが、その後も新条約均霑問題をめぐって、アメリカ、清、日本と交渉を繰り広げた。アメリカに対しては、何の交渉もなく、そのまま均霑を行った一方で、清に対しては、均霑自体は清側からの通告にあらがうことはできなかったにせよ、均霑に先立って、朝英条約をきっかけに朝清商民水陸貿易章程の変更を提案していたことが注目される。また、日本に対しては、「均霑」に独自の解釈を展開し、朝英条約を利用して、朝鮮の利益を拡大・確保するために、積極的な交渉を行っていたことが確認できた。
 第一編第四章においては、統理交渉通商事務衙門が朝鮮の地方官庁と往来した文書の検討を通して、衙門の対内政策の実態について、特に外交業務に関連する対内政策(具体的には未通商港、間行里程、填補銀支払をめぐる問題)と、財政政策をとりあげて論じた。対内政策を遂行するに当たって、統理交渉通商事務衙門は関連して必要な指令を地方に下し、地方は衙門の指示を忠実に実行していた。衙門は、国内のこのような状況を前提にして、対外交渉に臨むことができたのである。また、財政政策についてみると、統理交渉通商事務衙門の財源には、屯田経営や捐補銭など、従来からの方式が含まれていたことがわかった。衙門で発行されていた新聞である『漢城旬報』の代金徴収や、特定商業団体の保障の見返りとしての収入などは、社会状況の変化にともなって新たに生じたものもあったが、雑多な財源を寄せ集めるという運営方式自体が、伝統的なものであった。衙門が、新設衙門でありながら、従来の財政体制の上に立つ政治機関であったことが確認できる。
各章における論証の成果を総合して、統理交渉通商事務衙門について、実態からその特徴を整理すると、次の三点を指摘できた。第一に、統理交渉通商事務衙門の性格は、朝鮮従来の伝統的な側面と、それとは一線を画す新しい側面が絡み合った、複雑で多面的なものであったということである。第二に、このような複雑で多面的な特徴は、統理交渉通商事務衙門の外交政策にもあらわれており、相手国や主張によって論理と方法を使い分けながら、朝鮮の自主と現実的な利益を可能な限り追究するための外交政策を、したたかに展開していたということである。第三に、統理交渉通商事務衙門は、朝鮮の外交主体の中心的な位置において、実務機関として十分に機能していたということである。

 第二編第一章では、朝鮮の対清外交展開過程を実態に即して分析する一環として、朝清商民水陸貿易章程(水陸章程)と、それに関連して制定された派員辦理朝鮮商務章程(派員章程)、朝清輪船往来合約章程(輪船章程)、「朝鮮通商章程」の成立過程と内容について検討した。まず、水陸章程の成立過程と内容を検討した結果、その特徴は、伝統的な朝清の儀礼的上下関係を適用しない条項がありながら、清の特権を認める条項も含まれているということであったが、取り決めが大枠であり、実際の運営のためには別の規定を設けねばならない、いわば不完全な側面を持つものであったこともわかった。これを受けて、実際に細則として成立したのが、先に挙げた諸章程である。そのうち、派員章程、輪船章程について検討してみると、派員章程では、清の利益を拡大し、宗主国としての地位を明確化させようという方向での規定がなされ、輪船章程では、具体的な朝鮮側の負担が規定されており、総じて、水陸章程の時点よりも、清の圧力が強まっていた。しかし、朝鮮国王から清の総理衙門に対して、咨文で示された「朝鮮通商章程」は、日朝通商章程を土台に、朝鮮の権限を拡大する方向で改編を加えた通商章程であった。朝鮮側は、清が朝鮮に圧力を加える余地になりうる水陸章程の不完全さを、逆に自国に有利な形で埋めようとする試みも行っていたのである。
 第二編第二章においては、朝清間の陸路貿易に関わる中江貿易章程の制定交渉について検討した。交渉過程で具体的に論点になったのは、特に、官員、海上貿易、典礼をめぐる問題であったが、朝清双方の主張の対立の根本には、宗属関係に基づく朝清間の上下関係を維持・強化することで自国の利益を確保・拡大しようとする清側の意図と、それを抑えることによって実際の利益を少しずつ確保していこうとする朝鮮側の意図との対立があった。自己主張の根拠として、清側は、朝清関係の特殊性を前面に押し出した。これに対して朝鮮側は、中江貿易を海上貿易と連結させようとした主張にみられるように、清が強調する朝清間の特殊性を、他国との関係(すなわち普遍性に連続する部分)に関連づけることによって、希薄化しようとした。朝清間における正面突破では改編が難しい部分を、現実状況を二国間外に開いていくことによって希薄化し、解決していこうとする方法は、朝鮮にとって一つの可能性であった。
 第二編第三章においては、朝清間で問題になった具体的な懸案事項について、諸章程の運用実態という側面から、その実際の交渉過程について分析した。まず、ソウル西辺にある漢江北岸の港である楊花津への清船入港拒否をめぐって懸案化した楊花津入港問題と、朝官である李範晋を、清の商董である熊廷漢等が暴力的に清商署に連行し、審判を断行した李範晋事件においては、交渉過程において、水陸章程が積極的に言及されていた。反面、島民が集団で清商人を殺傷した事件である白翎島事件、清商人に対して延取引で商品を入手した朝鮮人が代金を滞納したことで懸案化した欠銭問題、漢城で発生した三件の清商店盗難事件の犯人追及と、盗品取り戻しをめぐって問題化した盗難事件については、交渉過程において章程の言及がほとんど見られなかった。清側がいくら朝鮮側の責任を追及しても、朝鮮側は、取り決めがないことや、現実的に不可能であることを主張しながら、最後まで清算や補償を行おうとはしなかった。その一方で、欠銭問題に関連して延取引の制限基準を文章化し、各国公使に照会として送付するという、独自の対策を打ち出してもいた。
 各章における論証の成果を総合して、当該時期における朝鮮の対清外交について、明らかにできたのは次の三点である。第一に、この時期、水陸章程を皮切りに、朝清関係の諸側面を、「章程」という形式で規定していく作業が進められたということである。第二に、朝鮮側の自己主張の展開方法は、宗属関係の「旧例」とともに、水陸章程や、それにともなって成立した諸章程を主張の根拠として積極的に活用する巧みなものであったが、朝清関係の特殊性と、他国との関係に表れる普遍性を関連づけて、その特殊性を希薄化しようとするものも見られたということである。第三に、朝鮮の対清外交には様々な場があり、朝鮮側はそれぞれの場において、最も適切な方法を展開していたということである。

 第一編、第二編の成果を総合して、開港期朝鮮における外交体制形成過程にみられる特徴について言えば、それは「模索期」という言葉で端的に表すことができるだろう。ここには、統理交渉通商事務衙門の複雑かつ多面的な性格や、その外交政策―特に対清政策―に表れた、朝鮮の自己主張展開方法の多様性や、外交の場の使い分け方など、朝鮮外交が内包していた様々な可能性が表れている。これは「伝統」的外交体制と「近代」的外交体制が、本格的に交差して、朝鮮における外交体制が形成され始めた草創期である開港期であるからこそ、見られる状況であり、この時期の模索を通して、朝鮮外交の幅は徐々に収斂されていくことになる。収斂される以前、「模索期」の朝鮮外交が持っていた多様な姿を、実態に即して示したことが、本論文の最も大きな意義であろう。

このページの一番上へ