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博士論文要旨

論文題目:「ダワDAWA(くすり)」の治療的・政治的使用に関する民族誌的研究 ―東アフリカ・タンザニア海岸地帯を中心に―
著者:岩﨑 明子 (IWASAKI, Sayako)
博士号取得年月日:2009年3月23日

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本論文の目的

 東アフリカの海岸部地域においては、スワヒリ語の「ダワ(dawa)」という語が、多くの現象を説明するために用いられている。この語は、英語では「medicine」と翻訳され、日本語では「薬」と訳されている。しかし、実際の「ダワ」が語られている文脈には、英語や日本語の訳語の一語では解釈できない要素が多分に含まれている。その一見して、「ダワ」の文脈が散逸するかのように観察される理由には、「ダワ」が、治療と政治の二つの側面と関わるという、奇妙な特質を持つことが挙げられる。
 これまでの研究において「ダワ」とは、複数の研究分野に分かれて扱われ、総括的に論じられることの少ない研究対象であった。そのような現状を踏まえ、本論文では、「ダワとは何か」という問いに答えることを課題とし、政治と治療の両側面を架橋する「ダワ」について考察する。
本論文の意義とその成果

 本論文では、東アフリカ地域における「ダワ(dawa)」について治療と政治の二つの側面から考察するものである。この研究から、新たにどのような知見が得られるだろうか。
 まず「ダワ」に注目することにより、私たちはそれほど馴染みのない、治療と政治のあいだを通低する、現地特有の文脈を知ることができる。その文脈とは、人々が治療と政治に関わる現象の中に、ある特定の力関係を看取するものである。ただし、その特異な視点を理解するためには、「ダワ」の一つの特質に留意しなければならない。それは、「ダワ」が人に外在的に存在し、かつ人に影響を与え、人の行動を変化させるというものである。この「ダワ」の特質は、私たちには即座には理解し難いものである。しかし、調査地においては、「ダワ」を所有することが通常とは異なる力を持つことである、という語り口は一般的に知られたものである。その真偽は別として、この語り口が社会の中に広く存在することにより、人々は、日常的に起きるトラブルや仕事上のトラブル、政治的な主従関係といった事象を、同じ文脈で扱うのである。
 「ダワ」とは、病の背後に、人間関係上のトラブルや何らかの力の不均衡があるとして処方されるものである。この力関係の不均衡の説明には、実在する人物や人ではない存在が持つ、圧倒的な力の表現が伴う。具体的に治療の場面において、この圧倒する力とは、正体不明でありまた苦しみや痛みをもたらす存在として登場する。この存在を、患者はもちろん、その周囲の家族や親族、呪医といった人々が重要視する。そのため、治療はまず、この正体不明の症状や存在を名づけることから始められる。また、人々は、このような力の不均衡を原因とした病や気狂いが、一時的なものであり、治療の可能性を持つものと考えてもいる。そのため、このような病を回復させる方法として、次のような治療方法が取られる。
 一つは、力を過剰に持った存在や人物の力を削ぐという方法。いま一つは、患者や劣位にある者に「ダワ」を与え、加勢する方法である。この二つの方法により、力のバランスを均衡にする作業が、主に患者の側から行われる。しかし、この種の治療は、このような患者の側からの一方的な働きかけだけで終わるものではない。冒頭で「ダワ」は人に影響を与え、人の行動を変化させると述べたが、「ダワ」は患者だけでなく患者を取り巻く人間を治療に動員し、一同に会することを成立させる。
 このような「ダワ」の特質は、政治的な状況を解決する方法とも繋がっている。過去の長い間「ダワ」は、チーフなどの政治的、経済的に優位に立つ者が所有するものとして扱われてきた。だが、それは逆に、「ダワ」を持つがゆえにそのような優位に立つ、という説明も成り立たせてきた。そのため、人々にとって政治的主従関係とは、新たに「ダワ」を加えることで、変化させる余地のあるものであった。その結果、「ダワ」は植民地行政を覆す反対運動と結び付くことになったと言える。また、さらに言えば、一般的に植民地支配の強制的な課税や使役は、相互理解の不十分な状態で行われたものであり、かつ人々に脅威を与えるものであったと認識されている。「ダワ」の治療の分析において「ダワ」とは、理不尽な力に脅かされる状態を修復するものであると述べた。植民地抵抗運動の歴史語りにおいても、治療と同じ文脈で「ダワ」は、政治的主従関係の変化を期待され、理不尽な力による脅威を取り払うものとしての効果を持たされたと考えられる。この期待と効果の語り口を顕現させるように、「ダワ」は、植民地政府へ反抗の意を示した英雄(チーフ)の意思(遺志)を運ぶものとして抵抗運動を下支えしてきた。
 
 このように、本論文は、「ダワ」の特質を、治療と政治の両側面から明らかにすることにより、なぜ病気の治療に「ダワ」が用いられるのか、また、なぜ政治的場面において「ダワ」が登場するのかを論じるものである。その過程で、治療と政治の間にどのような論理の組み立て方があるのかを提示していく。以上のことから、筆者は、本論文の意義とは、私たちが依って立つ治療と政治という文化的諸前提を、改めて問い直す契機を与えることにある、と考える。
 
 各章の概要を述べる前に、本論文の成果として、「ダワ」の特質をどのように結論付けたかを述べておきたい。それは以下の①~⑥のようなものである。
 
① 「ダワ」とは、理解し難いものと対峙する際に用いられるものである。「ダワ」が対峙する理解し難い存在や人物には、名前がつけられるが、その存在を名づけ、表現するための語彙というものがある(特に治療の場面において)(下記のA)~D)を参照)。
② 理解し難いものとは、患者を脅かし、恐怖を与えるものであるが、これは患者を圧倒的な力で打ち負かすものである。その症状を治療する方法は、当事者間の力の不均衡を調整することを中心にした方法である。
③ 「ダワ」は力の過剰性を外在的に示す特質を持ち、政治的な従属関係を説明することができる。過去の植民地抵抗運動に使用された「ダワ」は、力の不均衡の調整を行う「ダワ」の文脈に準じたものとして語られている。
④ 国家が独立し、マジマジの乱という植民地抵抗運動が歴史物語となった現在では、戦争の「ダワ」とは、実際の場面で積極的に使用されるものではなくなっている。現在は、前述した「ダワ」の治療のような、外在的な「ダワ」を使用する空間が社会内に偏在する状況にある。
⑤ 同じ社会の中で、「ダワ」が有効に語られる領域と、その一方で「ダワ」の語り口が消滅したかのような領域とが共存し、一見したところでは、語り口の拮抗現象が見られる。後者の、「ダワ」が消滅したかのような領域の具体例として、ダルエスサラームにおけるカラテの訓練を取り上げた。カラテカたちは「ダワ」を使用せずに得られる力のために自己を鍛え、ニンジャの技芸を、旧来の「ダワ」を使用するものとして対比させる。カラテカたちは、カラテの技芸の訓練やレベルアップにより、自己に恒常的な力が備わると考える。このカラテ訓練の語り口は、力を内在的なものとみなし、「ダワ」のような外在的な要因から影響を受ける語り口を持たない。
⑥ 現在の近代化を目指すタンザニアにおいては、「ダワ」という外在的な力を媒介として問題解決を図る空間が存在する一方で、近代的主体像が受け入れられる空間とが同時に存在している。そして人々が、その異なる語り口の間を自由に横断する状況も見られた。このような状況は、まさに、現代のタンザニアがいま置かれている状況そのものを現すものではないかと指摘した。
 
 なお、本論文で扱う資料は、1999年から2001年の間にタンザニア(ムトゥワラ・リージョン内のネワラ・ディストリクトおよびダルエスサラーム)そしてモザンビーク(カボデルガド・プロヴィンシア内のムエダ・ディストリクト)において実施したインタビュー調査で得られたものである。本論文は「聞こえてくることが多分に含まれている」民族誌であることを目指し、インタビューによる対話を中心に作成した。その理由については補論で論じた。

論文概要
 
第1章ネワラ・ディストリクトの「ダワ」
 
 第1章においては、タンザニア南部のネワラ・ディストリクトにおける歴史語りを、政治と宗教、言語の側面から分析した。その分析を通じて、タンザニアやネワラ・ディストリクトが置かれる現代的な状況が、どのように捉えられているかを明らかにした。その結果、現地社会が政治的にも宗教的にも分断した社会であるというイメージで捉えられていることを示した。さらに、そのような自社会に対するイメージを背景に、「ダワ」が分断状況を架橋し癒すものとして使用されることが明らかになった。その状況は、具体的に、以下の事例において証明された。
 1) ネワラ・ディストリクトでの歴史語りを取り上げ、「ダワ」が特定の時代と結び付いて語られることに注目した。その時代とは、分断された社会を統合する政治的局面(マジマジの乱やタンガニーカとザンジバルの統合)であった。その際の「ダワ」は、分断状況を克服し政治的統合を促す用語となっていた。
 2) 現在のネワラ地域では、異なる信仰や教義が多元的に存在する状況にある。具体的には、マコンデの親族関係に基づく祖先への祈り(ただし現在は衰退していると考えられている)『ションデ信仰』、19世紀にこの地に流入した『ローマ・カトリック』、近年増加傾向を見せる『マジニの治療』などである。政治的側面の分析から、分断された社会という見方がなされていると述べたが、宗教的側面においてもまた同様に、自社会が宗教的多様性の中にあると考えられていた。そのような政治的・宗教的認識の中で、「ダワ」が相反する信仰を持つ人々を一堂に会し、分断状況から現れる問題を収束させることを考察した。

第2章「ウチャウィ」と「ダワ」
 
 第2章では、「ダワ」を治療の側面から、人々の分断状況と関わる『ウチャウィ』の事例について考察した。前述したように、東アフリカ海岸部地域は、現在さまざまな信仰を持つ人々が暮らす社会である。人々は頻繁に、自分と異なる信念をもち、相反する考え方をし、理解し難い相手に出会う。そのような状況のなかで、「ダワ」は、その存在を表す語彙と関わりをもちながら、人々を集める効果を持つ。その語彙として、以下のA)~D)が挙げられる。
 
A) マシェタニ(mashetani)・・・自己の利益のため他人を利用する人を指す。魅惑する人や力。対人的な関係性において生じるもの。実在する人物を指すこともあり、その一方で実在する人物に還元せずに、その人物に起因する力を指すことがある。
B) マジニ(majini)・・・何を要求しているのか言語化しない存在。人に脅威を与える存在。しかし、意図的に人を脅かす存在ではない。そしてその行為に責任を持たない。
C) ワジム(wazimu)・・・脳に疾患を持ち利益を追求できない人。
D) ムチャウィ(mchawi)・・・私利のため他人を利用しようと企む人物。他人に害を及ぼす人物(その行為はウチャウィ(uchawi)と呼ばれ、他人を従属させ意のままに操作する行為を言う)。

 これらの理解し難い存在を名づけるA)~D)の語彙は、同時に人を脅かす存在に名づけられるものである。これらの語彙 は、総じて人間関係における力関係の調整を期待する語り口を伴っていた。
 この語彙の中には、話者による差異がほとんどなく、ほぼ同じ意味で解釈されているものもある。それは、D)の「ムチャウィ」とC)の「ワジム」である。また、その一方で、話者により解釈に差異が見られるものもあった。それは主にA) の「マシェタニ」(「マジニ」の信仰を持つ話者の語り口にはほぼ全く現れない)やB)の「マジニ」であった。そこで、この差異を明らかにするため、ネワラ・ディストリクトにおいて、現在優勢であるローマ・カトリックと「マジニ」の信仰に焦点をあて、これらの信仰を持つ人々の語りを比較し、信仰の違いによって解釈にどのような違いがあるのかを考察した。それは以下のようなものである。
 
① ローマ・カトリックを信仰する人々は「ムチャウィ」と「マシェタニ」を同じ存在とみなす傾向がある。その一方、「マジニ」の治療をおこなう人々は、「ムチャウィ」と「マジニ」とを別個の存在として捉える。
② 「マジニ」の治療を行う人々にとって、「マジニ」とは、何を要求しているのか明言せず人を怖がらせる存在である。その脅威に圧倒された症状を治療することは、病の症状と患者との間で行われるもので、実際に術をかけた「ムチャウィ」を含めずとも治療が可能となるものである。
③ ローマ・カトリックを信仰する人々は、「マジニ」の治療法に付随する、踊りなどの集会を、本当に必要なものとは認めず、宴会に過ぎないものと見なしていた。またこのような見方は、治療に「マジニ」の媒介を認めないものであった。この見方においては、自己はあくまで外部的な影響を受けないものとして自己を聖域化する傾向が見られた。この自己の聖域化は、同様に「ピチャ(picha)」「マスク」「リピコ」「キニャゴ」といった、身動きの奪われた状態を示す言葉を侮蔑として忌み嫌う発言にも観察された。このような、自己を聖域化する考え方の下では、「ウチャウィ」とは、「マジニ」による脅威ではなく、相手の飲み物に毒を入れる行為やその実在する人物とのやり取りを指し、能動的主体である人どうしの関わり合いとして語られる傾向も見られた。
④ ネワラ・ディストリクトにおいては、「マジニ」に導かれる自己と、外部的な存在からの影響を受けない自己、という相反する語り口が共存することが観察されたが、各個々人(とくにローマ・カトリックの人たち)は、自らの標榜する信仰に忠実になるばかりではなく、ときに自分の経験や解釈から、似通った語り口を持つことも観察された。
 
 以上のことから、「ウチャウィ」が外部的な要因から生じる行動であるという語り口が、さまざまな解釈がなされるものの、共通して見られると指摘した。また、このことから、外部的な要素に対抗して治療を行う「ダワ」の使用法は、その基本構造において一致していると考えられた。ただし、「ウチャウィ」から「ダワ」に到る治療の解釈には、その間に「マジニ」や「マシェタニ」をいかに捉えるかによりかなりの多様性があることを見た。
 
第3章 マジマジの乱と「ダワ」
 
 第3章では、ネワラ・ディストリクトにおける調査から、1905年に起きたドイツ植民地抵抗運動である、マジマジの乱の歴史語りに注目した。この「マジ」とは、スワヒリ語で「水」を指し、先行研究においては、銃弾に当たっても死なない奇跡の水として、反乱に使用されたものと提示されている。この「マジ」は、スワヒリ語では「ダワ」の一種とされる。そこで、第3章においては「ダワ」を政治の側面から考察する一事例として、マジマジの乱の語りに注目する。
 マジマジの乱の語り口を考察することにより、次のような点が明らかになった。①ネワラ・ディストリクトにおいて、マジマジの乱は、先行研究が示す解釈とは異なり、1890年代にタンザニア南部において起きたマチェンバの反乱に続いて起きた反乱と位置づけられていた。②「ダワ」は、ある抵抗の意思を示す「タビア」や「シュジャア」とほぼ重ね合わせて語られていた。「シュジャア」(単数形はshujaa複数形はmashujaa)とは、字義的には、しっかりした心(moyo thabiti)を持つ人物を指し、物事に真正面から向き合うことができる人、危険なことでも怖がらずに(bila ya hofu)向かう人、を指す。筆者は自己の調査に基づき、反乱の際に流通した「ダワ」とは、抵抗運動に活躍した「シュジャア」である先人の意思を有形、無形に伝達する物であると解釈した。③また「ダワ」が外在的に存在するという歴史的な語り口においては、「ダワ」を持つ/持たないということが、政治的な主従関係をも説明してきた。この文脈は植民地行政下において植民地行政と人々の間の主従関係をも説明するものであったと考えられる。④マジマジの乱の歴史語りの「ダワ」とは、植民地行政による支配と互角になる力を得て、その脅威を軽減・治療する方法であったと考えられる。当時のドイツ植民地政府のやり方は、現在、税や区画整理、政治体制の再編制など、当時の人々からは、相互理解を省いた強制的な実行であったと認識されている。ここで、相互理解の省略や脅威が引き起こす症状として、「ウチャウィ」の治療と同様なコンテクストが、植民地政府に対する人々の抵抗運動を語る際にも現れていると考えられる。⑤旧来の「ダワ」とは、他者との力関係を意味づけるもので、その力に対抗するには、自分も「ダワ」を処方してもらい身につけることで力関係を調整することができた。それは、身に付けると同時に、身から離すことのできるものであった。ところが、そのような「ダワ」は、抵抗運動の終焉とともに、その時代以降の戦争をめぐる語り口には登場しなくなっている。ダルエスサラームでは「ダワ」を持たずに自己自身が力を備え、自己を防衛するように捉える語り口があった。そこで第4章では、その語り口についてさらに考察した。
 
第4章 マーシャルアーツと「ダワ」
 
 第4章では、タンザニア・ダルエスサラームにおけるカラテ道場(松濤館や剛柔流による)でカラテを習うカラテカたちが、三種のマーシャルアーツ(ニンジャ、カンフー、カラテ)をどのように区別しているかに注目した。この事例を取り上げた理由とは、マジマジの戦争における「ダワ」が、現代において実際に戦闘に使用されるものではなくなったものの、カラテカらの語り口の中において「ダワ」の変化を表す語り口が認められたためである。この三種のマーシャルアーツは、それぞれ「ダワ」との関わりの程度を異にして捉えられており、「ダワ」の語り口の変化を如実に表すものと考えられた。
 その差異とは、以下のようなものである。①カラテカは、上達により獲得されるレベル、自己が行う「瞑想」、自己に内在的に存在する「気のパワー」といったものを、カラテの力の源泉と捉えている。②ニンジャは奇跡を行う「ダワ」に最も近い存在とイメージされ、殺人を行う国家の機関に従属するものであると受けとめられている。②カンフーとカラテは、どちらもアジアの植民地抵抗運動と関連して理解されているが、特にカンフーは武器を使い、カラテは素手で戦う、と考えられている。とくにカラテは、武器を持たずに戦う技芸であることが特徴であると認識されており、(銃弾に倒れた)マジマジの乱の運動と相似したものと捉える発言もなされている。
 以上の考察で特筆すべきは、カラテカたちが訓練で得る力を、一旦獲得されれば永久的に自己に内在する種類の力と捉えていることである。このような、力を個人に内在し備わるものとみなす場合には、力とは、人から離したり付け加えられたりできるものではない。それは、自己に配慮し自己を訓練する、といった自己との関わりをより強めるものである。このような現代的な自己のあり方が、現在のタンザニアにおいて確立しつつある。しかし、それと同時に、第2章の治療の側面の分析からも明らかなように、外在的な「ダワ」の語りが有効な空間もある。このように異なる語りの並存は、発展をめぐるタンザニア社会の現代的な状況を示してもいると指摘した。

補論 民族誌とその方法論
 
 補論は、1980年代から1990年代にかけて行われた、民族誌とその方法論に対する議論を踏まえ、調査での経験から筆者がどのような立場に立つのか、どのような方法に基づいて本論文の執筆を意図したかを述べたものである。具体的には、筆者の調査地での苦境を描きながら、草創期の民族誌に対してなされた批判――民族誌の個人的叙述と科学的分析の並存は、民族誌の権威の確立を意図しているという批判――を新たな角度から論じた。筆者の主張によれば、こうした叙述の二重性は、権威の確立を企図したものではなく、草創期の人類学者がフィールドに対して、現地社会全体を相対化することに悩み受動的な状態にあったことと、科学的分析によりその状況を能動的に克服しようとしたこととを、示している。それは、草創期の人類学者の姿そのものなのであり、権威の確立という分析は結果論でしかないと考える。筆者は、当時の自分のフィールドでの苦境を、ムガンガに「ダワ」を処方してもらい、人々と互恵的関係になることで乗り越えられたと考えている。これを踏まえ、人類学者の視点とは、いわゆる「客観的立場」からではなく、調査対象である当該社会内において互恵的に与えられた位置から発信されるものであると論じた。それゆえ、筆者は、その立場が明らかになるように、筆者を含めて行われた対話と、その分析を中心とした民族誌の一つの試みとして本論文を執筆した。

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