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博士論文要旨

論文題目:近世の村落・地域社会における土豪の存在形態
著者:小酒井 大悟 (KOZAKAI, Daigo)
博士号取得年月日:2008年11月26日

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1.本論の目的
 本論の目的は、一七~一八世紀にかけての村落・地域社会における、土豪の存在形態とその変容過程を政治・社会関係・経済の三側面から解明し、土豪を、近世の中間層の一環として位置付けることにある。
 ここでいう土豪とは、近世前期=一七世紀段階(とりわけ一七世紀後半頃まで)において、戦国時代の土豪・地侍の系譜を引き、広大な所持地、山野・用水の用益などに関わる諸特権を有し、村役人職や大庄屋などの地位にある有力(上層)百姓を指す。いわば、村落・地域における指導者的存在、中間層である。本論において、当該段階の中間層たる彼らを、何故、土豪という呼称・範疇で括るのか、予め説明しておこう。近世の村落部における中間層の性格を検証するに際しては、村落共同体との関係、なかでも土地所持をめぐる関係を考慮していくことが肝要である。近年の研究(神谷智氏、渡辺尚志氏)を参照すると、村の土地(屋敷地や耕地)は、個々の百姓のものであると同時に村全体のものでもあった。それゆえに、個々の百姓の土地所持は、村の強い規制を受けていた。中間層も含む百姓と村との土地をめぐるこうした関係は、中世とも近代とも異なる、近世固有の特質である。しかるに、個々の百姓の土地所持を規制するところの村とは、小農を中心とするという意味での近世的村であるが、その成立は、一七世紀後半頃とされる。当然、村の土地関与も、この時期以降ということになる。よって、一七世紀後半頃までの中間層においては、土地をめぐる村との如上の関係が未確立で、近世固有の特質を十分に帯びるには至っていないとみてよい。この点を重視するならば、兵農分離を経て百姓身分の規定を受け、また、太閤検地をはじめとする近世初期検地によって土地からの収益(得分)を削減される、などといった変化を考慮しつつも、当該段階の彼らを、中世末・戦国期からの延長線上で、土豪と把握することが最も適当であると考える。
 さて、土豪は、戦国期段階において、「兵」と「農」の顔を併せ持つ兵農未分離な存在であったが、統一政権による兵農分離政策を経た後も、多くは在村しつづけ(つまり「農」の道を選択し)、近世村落の名主・庄屋を勤める者も少なくなかった。しかしながら、近世史研究、とりわけ近世中間層論においては、近年に至り改善される気運もみられるようになったものの、こうした一七世紀段階の中間層に対し、いずれは解体・克服されるもの(中世の遺制の残存)と、否定的評価をくだす傾向が依然として残っている。つまり、土豪(とくに一七世紀段階の)は、近世の中間層の一環として、相応な位置を獲得しているとは言い難いのである。そこで、本論は、兵農分離後、とくに一七世紀段階の土豪に対象を限定し、その存在形態がいかなるものであり、それが一八世紀にかけて、どう変容していくのかを明らかにし、当該段階の土豪が、一八世紀以降も地主・豪農など中間層として存続していけるのかどうかを問うていく。このことにより、当該段階における土豪を近世の中間層の一環=「第一世代」として位置付けうるのかどうかを見究め、上述の否定的評価の再検討を試みたい。

2.分析視角と方法
 本論では、一七世紀段階の土豪の存在形態を可能なかぎり、多角的に明らかにするため、政治・社会関係・経済の三側面からのアプローチを試みる。
 まず、政治的側面からのアプローチとしては、とくに広域支配制度の再検討を行なう。当該段階の広域支配制度は、その担い手として、土豪を起用していた。それゆえに、同制度は、土豪の村を越えたレベルでの政治的活動の性格を問ううえで格好の素材である。従来の研究では、同制度を、小農経営が安定せず、(近世)村単位の支配が未だ困難であるという状況下、現地の有力者たる土豪の実力を当座利用したものとして評価する傾向が強かった。それゆえに、一七世紀末・一八世紀以降に向けて、小農自立の進展・安定化とともに、広域支配制度は動揺し、不要となっていくと展望されることとなった。しかし、近年、同制度を土豪の実力と区別し、その新しさ(画期性)を強調する議論も提出されるようになっている(志村洋、山崎圭氏の研究)。このような研究動向をふまえ、本論では、改めて当該段階の広域支配のありようを明らかにし、同制度の、ひいてはその担い手たる土豪の政治的活動の再評価を試みる。
 次に、社会関係からのアプローチとしては、とくに土豪―同族間の関係をとりあげ、検討する。一七世紀段階の村落は、複数の小集団・同族団から構成されていたとされる。そして、この同族団が成員の年貢納入や所持地の管理、入会地利用などについて共同で責任を負う主体として、また、村役人に就任する資格といった権利の主体として機能しており、個々の百姓は、村内の各同族に包摂されて存在していたという(山崎氏、大藤修氏の研究など)。とすると、一七世紀段階における個々の百姓にとって、当然土豪にとっても、村落で生活を営んでいくうえで、同族関係は極めて重要な社会関係だったと考えられる。以上のような理解に立つと、土豪の存在形態(とくに居村における)に迫るうえで、土豪の周囲の小集団、同族団への着目は不可欠となろう。土豪が、周囲の分家たちといかなる関係をとり結びながら、村落に存在していたのか。この点の究明は、とくに小農との相互関係(階層関係)を軸に論じられ、描かれてきた従来の土豪像を再検討していくことにもつながろう。
 第三に、経済的側面からのアプローチとしては、土豪の経営形態の検討を行なう。土豪の所有・経営レベルの分析は、従来、さほど蓄積されてきておらず、現段階でも、朝尾直弘氏の小領主論や佐々木潤之介氏の名田地主論が、一つの到達点を示しているといえる。とくに佐々木氏の所説は、小作料収取形態(労働力→現物)など、土地の所有と経営の分析に主眼をおきながら、名田地主が質地地主へ変化していく様相を描き出しており、注目される。氏の分析は、一七世紀段階の中間層(=名田地主、本論でいう土豪)が性格を変化させながら、一八世紀以降も中間層として存続していけたことを、所有・経営レベルから明らかにしたものといえる。今後は氏の分析をふまえつつも、村の立地条件も勘案しながら、耕地以外にも分析対象を広げ、よりトータルな、土豪の所有・経営の分析を試みることが重要ではないか。そして、それぞれが、どういった変容を遂げた結果、一八世紀以降も地主・豪農といった中間層として存在しえたのかを明らかにする必要があるのではないか。さらに、併せて、一八世紀以降に成長していく豪農の成長過程を、所有・経営レベルから明らかにすることで、一七世紀と一八世紀以降、近世前期と中後期以降の中間層論の接合を目指すことが可能となろう。

3.本論の構成と各部・章の概要
 本論は、以上に設定した三点の視角・方法に沿って、大きく三部構成とする。そして、地域社会→村・同族団→個別経営、と分析する際にあつかう空間(範囲)・レベルを絞り込んでいくこととする。各部・各章の概要は、以下のとおり。
 第一部「大庄屋制支配の様相」では、一七世紀段階の大庄屋制のあり様を明らかにして、地域社会での土豪の政治的活動実態や位置付けを問う。素材は、越後国、松平光長期高田藩領である。なお、同藩領下の中間支配機構の名称は「大肝煎」である。
 第一章「土豪(=大庄屋)の地域支配」では、大肝煎に起用された土豪(土豪=大庄屋)に着目し、まず、経営から彼の地域社会における位置付け(周辺地域を支配するような存在だったかどうか)を確認する。そのうえで、周辺大肝煎との関係をふまえて、彼が大肝煎として、どのように地域支配を行なっていたのかを明らかにする。
 第二章「大庄屋制下の土豪(≠大庄屋)と地域社会」では、大肝煎に起用されず、包摂された側の土豪(土豪≠大庄屋)と彼に統轄・編成される地域社会に着目する。そして、大肝煎管轄区画内の地域支配をめぐる大肝煎と彼の相互関係=対立関係を、村々の動向をもふまえ分析する。このことにより、双方および村々の関係に折り合いがつけられながら、地域支配秩序が形成され、大肝煎制支配が確立していく様相を明らかにする。
 第二部「土豪と同族団」では、土豪が周囲の同族団といかなる関係をとり結びながら、村落に存在していたのかを問うていく。具体的には、「村政」と「年貢算用システム」をとりあげる。素材は第一部と同じく、越後国、松平光長期高田藩領である。
 第三章「村政と土豪・同族団」では、庄屋を勤めていた土豪本家と周囲の分家の関係をふまえながら、本家による村政の変容過程を分析する。具体的には、まず、土豪の同族団のあり様(成立過程や成員、特徴)を把握する。そのうえで、同族団内の一分家に注目し、その動向が村政にいかなる変化をもたらすかを明らかにする。
 第四章「土豪の年貢算用システムと同族団」では、土豪が自らの所持地の年貢をどのように算用し、負担していたのか=年貢算用システムを分析する。そして、同族団の形成により、このシステムがどう変化したのか、それは同族間のいかなる関係によって惹き起こされたものであったのかを明らかにする。
 第三部「土豪の経営形態と変化」では、一七~一八世紀にかけて、土豪の経営形態とはいかなるものであり、それがどう変容していくのかを明らかにする。併せて、一八世紀に入り成長を遂げていく豪農の経営形態をも明らかにし、一七・一八世紀の中間層論の接合を試みる。なお、素材は畿内の和泉国と河内国に求めている。
 第五章「所有・経営からみた土豪の存在形態とその変容過程」では、和泉国大鳥郡上神谷の土豪小谷家(居村は豊田村)を素材に、一七~一八世紀にかけての、同家の土地所持、上神谷地域の地理的条件を勘案して山所持、さらには、同家の諸経営を支え労働力ともなった下人の所持のあり様・変容過程を検証する。そして、結果として、これらのうちの何が維持・拡大され、また動揺したのかを可能なかぎり明らかにする。
 第六章「一八世紀畿内における豪農の成長過程」では、一八世紀に入り急激な成長を遂げた豪農である、河内国丹南郡岡村岡田家をとりあげる。同家の経営を、商業経営、所持地経営(手作+地主経営)、金融活動の三つに腑分けし、それぞれの動向を、居村・他村との関係に注目しながら跡付ける。このことにより、一八世紀における岡田家の成長過程に迫りたい。
 なお、補論「松代藩領下の役代と地主・村落」は、近世後期における村外地主と地元村の土地をめぐる関係を、松代藩領特有の役代というシステムに着目し、明らかにしている。近世中期以降、豪農らは村の枠組みを越えて活発に経営を拡大していくが、村からの規制を払拭できなかったことを示しているという点で、第六章と共通する内容をもつ。それゆえに、対象地域は異なるが、補論として、配置することとした。
 最後に、終章において、各部・各章の検討結果を整理・総括し、本論全体から得られる結論を、敷衍を交えながら提示する。

4.結論
 まず、三点の視角・方法毎に基づいて立てられた部を単位に、明らかになったことを敷衍・整理する。
 第一部では、大庄屋に起用された土豪(土豪=大庄屋)と、逆にその管下に入ることとなった土豪(土豪≠大庄屋)および彼が統轄・編成する地域的まとまり、という二方向から、当該期の広域支配のありよう、実態にアプローチした。その結果、広域支配制度は、やはり、土豪の実力とは区別される、近世の新しい支配制度とみるのが妥当である。すなわち、大庄屋、大肝煎といった広域支配の担い手となった土豪は、自らの勢力圏とは必ずしも重ならない管轄区域の地域支配を担っていた。そして、周辺の大肝煎と相互に協力・補完し合い、また、管下の、大肝煎に起用されなかった土豪(土豪≠大庄屋)と、少なからざる摩擦・せめぎ合いを経て、自らを中心とする新たな地域支配秩序を構築していく役割を果たしていたのである。一方、経営面での成長など状況次第では、彼の管下の土豪(土豪≠大庄屋)にも、解体されるだけでなく、こうした新たな地域支配秩序を担っていくことができる余地があった。
 第二部では、一貫して土豪保坂太郎左衛門家の同族団に着目した。そして、一門からまついへ、という同族団の変遷を抽出し、各段階における保坂太郎左衛門家と分家の関係について検証した。その結果、同家(元本家・本家)は、村政上の地位確保、年貢負担の遂行および所持地の維持という諸点において、分家の動向から大きな影響(正負両面の意味において)を被っていることを明らかにしえた。政治的勢力の拡大など、分家の増加=同族団の拡大によって土豪が得られるメリットは大きかったが、一方でそれは、分家の動向次第によっては、村政上の地位を低下させ、また所持地を失う危険性も伴っていたのである。土豪は、分家とのあいだの緊密な関係を保ってはじめて、その政治的・経済的地位を確保しえたのである。したがって、一七世紀段階の土豪を単独の家とみるよりは、ほかの百姓と同様に、村落構造の一環をなす一個の同族団として、内部に成員間の矛盾・緊張関係を孕みながら、集団的に存在していたとみるのが妥当である。
 第三部では、土豪の所有・経営を可能なかぎりトータルに明らかにすることにより、一七世紀の土豪の存在形態とはいかなるものであり、どういった変容を遂げた結果、一八世紀以降も中間層として存続していくことができたのかを問うた。そして、併せて、一八世紀に成長していく豪農の成長過程を所有・経営レベルから解明することにより、一七世紀と一八世紀以降の中間層論の接合を図った。その結果、一七世紀段階の土豪は、小経営に依拠し、村から規制を受ける、村落(居村)規模の作徳地主化を軸とした正負両面の性格変化を遂げながら、一八世紀以降も中間層として存続していける存在であったこと、一方、一八世紀以降に成長する豪農は、村を越えて経営諸活動を活発に展開している点で新しさを有したものの、居村・他村からの規制を払拭できず、村方地主としての性格も維持しており、これらの点において、一七世紀を通じた土豪の性格変化の延長線上に位置付けられること、が明らかとなった。
 以上、本論全体から得られる近世土豪像とは、一言でいえば、能動的・積極的姿勢を持する土豪、ということになる。第一部では、土豪≠大庄屋の存在など、様々な課題や困難に直面しながらも、それを克服して、管轄する区画内に自らを中心とする新たな地域支配秩序を構築していこうとする土豪=大庄屋の、極めて能動的・積極的な姿が見て取れた。また、第二部でみられたように、土豪らが、成員間の矛盾・緊張関係を内包させながらも、居村内に分家を派生し、同族団を形成していったことは、新たに設定された近世の村請制村のなかで、自らの政治(村政)上・経済上の地位を確保し拡大していくための努力だったといえる。そして、第三部とりわけ第五章では、土豪小谷家が、一七~一八世紀にかけて、作徳地主化を軸とした正負両面の性格変化を遂げて、以降も中間層として存続していったことを示した。その際、同家の小作形態は、寛永年間後半、一七世紀後半頃を画期として、より多額の小作料を収取できる形態への進展をみせていた。これは、同家の土地掌握力(生産力把握)が強化されていったことの結果であり、経営努力の現われと解することができる。一七世紀段階の小谷家は、自己の経営に対して、極めて能動的・積極的姿勢を有していたのであり、こうした姿勢が前提にあったからこそ、同家は一八世紀以降も中間層として存続し、また成長していくことができたといえる。以上、三局面から、一七世紀段階の土豪が、村落・地域社会において、政治・経済両面にわたる自らの主導的地位を確立すべく、能動的・積極的に努力する姿を見出すことができる。彼らは領主から利用され、また小農から否定・克服されるだけの、あるいは融通などで必要とされるだけの存在ではなく、近世社会を生き延びていくために様々な努力をする主体的な存在であったのである。
 そして、なかでも、経営に対する能動的・積極的姿勢=経営努力が、一七世紀段階の土豪に、小経営に依拠し、村から規制を受けるところの作徳地主化を軸とする性格変化を経て、以降も中間層として存続していくことを可能とし、さらに、その延長線上には、一八世紀以降(とくに中頃以降)、村を越えて地域レベルで経営諸活動を活発に展開する豪農もまた位置付けられた(本論第三部)。以上から、一七世紀段階の土豪は、土地所持をめぐる村との関係にみる近世固有の特質を十分に帯びていているとはいえないものの、近世の中間層の一環=「第一世代」として位置付けることができると考える。本論の検討結果を踏まえて、近世段階の中間層の推移を改めて整理すると、次のようになろう。すなわち、①一七世紀後半頃まで=土豪(第一世代)→②一七世紀後半~一八世紀中頃=作徳地主(規模のうえでは村方地主、第二世代)→③一八世紀中頃以降=豪農(第三世代)、となる。そして、明治に入ると、地券交付・地租改正を通じた近代的土地所有権の設定(強行)により、土地に対する村の関与は大幅に弱体化する。このことは、近世の中間層を特質付けてきた要素の否定を意味するものであり、以降、中間層の性格は大きく変容していくこととなるのである。

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