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博士論文要旨

論文題目:日中民間漁業協定の歴史的意義
著者:陳 激 (CHEN, Ji)
博士号取得年月日:2008年11月26日

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問題意識
 現在ではほとんど知られていないが、1949年10月に成立した中華人民共和国(以下、中国と略記)と日本の間には、領海・漁業をめぐって極めて深刻な対立が存在していた。具体的には、東シナ海・黄海における日本の以西漁船の操業による領海、漁区の侵犯、沿岸漁業妨害などに対する中国側官憲の発砲や拿捕という実力行使事件の多発である。これら一連の事件は、1950年12月以降続発するようになり、1954年7月まで続き、合計158隻の日本漁船が拿捕された。人的被害についても17名の死亡者を含む1,909名の漁船乗組員が中国に抑留された。抑留は長期にわたることとなった結果、拿捕された漁船員とその家族は生命の危機や生活に対する不安を覚え、また抑留されなかった漁船員も、常に発砲・拿捕の不安に怯えながらの操業を行わざるを得ない状況であった。さらに拿捕された漁船員の釈放・帰還は認められたものの、漁船が中国側に没収されたことで、日本の漁業経営者に深刻な打撃を与え、経営危機に陥る漁業者も現れるようになった。
 こうした事態を打開するために、日本の以西漁業関係者の間で何らかの取極を中国との間に結ぼうとする気運が高まった。しかし1952年4月に台湾の中華民国政府との間に締結された日華平和条約のため、当時日本と中国との外交関係は断絶状態にあり、政府間交渉によって問題を解決することは不可能であった。このような状況下で考案されたのが、民間レベルによる外交交渉であり、日中友好協会と、以西漁業関係者の有志などによって結成された日中漁業懇談会をはじめとする民間漁業団体が交渉の中心となったのである。そして日本側の熱心な働きかけの結果、1955年1月から4月まで北京で日本の日中漁業協議会と中国の中国漁業協会との間で、事態解決を図るための会談が開催され、史上初の民間漁業協定が締結された。同協定は同年の6月に発効し、事態は沈静化へと向かうこととなった。
 戦後発生した日中間の漁業問題は、中国側による上述のような実力行使にまで発展したため、日中間の深刻な対立に発展する恐れがあった。しかし事件発生から四年弱で問題が平和的話し合いにより解決されたことは、ほぼ同時期に発生していた日韓、日ソ漁業紛争と比較した場合、比較的短期間で解決されたということができる。
 そして日中間の漁業対立が、比較的短期間で解決された背景として次の二点を指摘することができる。第一は、日韓、日ソ間紛争が、領土問題など、漁業問題以上に深刻な対立が問題の背後にあり、その問題解決が容易にはいかなかったのに対し、日中間の対立は、どちらかといえば漁業権侵害に対する中国側の警戒心が最も大きな原因であり、両国家間のイデオロギー対立まで含めた深刻な対立に発展しなかったことである。第二は、問題解決の推進主体が、日本側は直接利害関係を持つ漁業関係者であったため、現実的かつ実効的な解決策を迅速にとろうとする姿勢が重視されていたことである。
 こうした日中民間漁業協定の特徴をふまえ、本研究の課題は、1)日中民間漁業協定の歴史的意義を、主として戦後アジアにおける国家間の漁業をめぐる利害対立、戦後の日中関係といった観点から明らかにすること、2)国際漁業発達史といった観点から日中民間漁業協定を見ることによって、同協定が国際漁業をめぐる多国間条約やその基盤となる理論の発達に与えた影響を明らかにすること、以上の二点である。

先行研究
 日中漁業問題及び日中民間漁業協定については、その歴史的背景などの分析も含めた専門的な研究がほとんど存在せず、戦後の歴史研究の中では、断片的に扱われているにすぎない。具体的には、主として日中国交回復史研究において、日中民間協定の一部として扱われてきた。民間協定問題には日中民間貿易協定問題と日中民間漁業協定問題があるが、両者を比較した場合、それぞれが対象とする領域の範囲が遥かに民間貿易協定の方が広いために、日中民間漁業協定は民間貿易協定ほど重視されておらず、日中国交回復過程における民間交流の一断面か、民間貿易協定に付随する協定としての位置づけが与えられているに過ぎない。
 日中国交回復過程に関する初期の研究は、日中民間貿易協定と並んで、民間経済交流の一環として民間漁業協定をとりあげ、これら民間交流の積み上げによって日中の国交が回復されたと位置づけている。日中正式国交回復の前提としてのいわゆる「草の根交流」の積み重ねという視角である。こうした視角の研究の代表として、初期には、菅栄一・山本剛志・白西紳一郎『日中問題』(三省堂、1971年)、古川万太郎『日中戦後関係史』(原書房、1981年)があり、近年の研究には李恩民『中日民間経済外交 1945-1972』(人民出版社、1997年)、島田政雄・田家農『戦後日中関係五十年-日中双方の課題は果たされたか』(東方書店、1997年)、王泰戸「中国与日本的関係篇」(王泰戸主編、張光佐・馬可錚副編『新中国外交50年史』北京出版社、1999年)、呉学文著、加藤優子訳「民間外交と政府をつなぐレール」(石井明・朱建栄・添谷芳秀・林暁光編『記録と考証 日中国交正常化・日中平和友好条約締結交渉』岩波書店、2003年)などがある。
 また日中民間漁業協定は、その推進主体は民間であっても、経済水域の画定という国家間の取極に属する問題を対象としていることから、国際法や国際漁業の分野においても研究がなされてきた。具体的には遠洋漁業をめぐる国際関係や、国際法の観点からの民間漁業協定についての研究である。
 国際法の領域では、とりわけ公海自由といった分野において活発に議論がなされてきた。この分野の研究では、これまで次の二つの対立する議論の潮流があった。第一は、公海における生産競争は完全に自由であるべきで、漁獲量や漁場を規制した日中民間漁業協定は伝統的公海自由原則に違反しているという見解である。第二は、水産資源保護は公海自由原則に優位するという立場を基調に持つ日中民間漁業協定は、これまでの国際慣例であった公海自由原則を一定程度修正させたものだとして評価する見解である。前者の研究は小田滋「日中漁業協定の成立をめぐって」(『ジュリスト』第84号、1955年6月)が代表的で、後者の主なものは、今田清二「On the China-Japanese Fisheries Agreement―A New Principle of the International Regulation of High Seas Fisheries 日中漁業協定について―公海漁業の国際規則に関する新原則」(『鹿児島大学水産学部紀要』第5巻、1956年)である。
 他方、主に協定の締結と協定の実施ついて分析したものもある。奥原日出男「我国国際漁業の理論と問題」(『レファレンス』第112号、1960年)は、1958年の民間漁業協定の中断問題をとりあげ、中国側の政治的理由にくわえて、日本漁業者の協定違反行為の頻発も一因であると指摘した。そして、国交がない状況の中で拿捕事件を回避するためには、以西漁業関係者が「操業秩序を堅持し、民間ベースにおける友好を守る」のが最も重要であることを強調した。
 また漁業史及び漁業経済史の分野においては、戦後日本漁業の国際的地位ともいうべき視角からの研究として、近藤康男の『漁業経済概論』(東京大学出版会、1959年)と新川傳助『日本漁業における資本主義の発達』(東洋経済新報社、1958年)がある。近藤康男は、日中民間漁業協定の締結によって東シナ海は日本漁船が安全に操業できる海域となったことを評価し、今後の日本の国際漁業のあり方について、戦前のような「軍事力とソシァル・ダンピングによってではなく、この協定にみられるような科学に基づく合理主義(漁業資源保護のための漁区設定と入漁規制)と国際的協調のなかに漁業の進展の途が求められねばならない」と述べている。そして新川傳助は、日中民間漁業協定の締結で「明治以来、かつ大戦後においてもなお続けられてきた帝国主義的侵略漁業の性格に終止符をうち、東シナ海・黄海を名実ともに国際漁場として確認した」と高く評価し、戦前以来続いている日本の遠洋漁業の膨張的性格に、日中民間漁業協定が一定程度の歯止めをかけたことを評価している。
 さらに、外交史の分野では、鹿島平和研究所編『日本外交史 第26巻 終戦から講和まで』(鹿島平和研究所出版会、1973年)が日中民間漁業協定を終戦後の日中関係の一節として取り上げた。同書は公海に対して中国側が交渉前からあらかじめ規制区域を設けようとした目的は、中国の漁業資源保護及び、国防の安全と軍事上の要求であることを明らかにしている。また規制区域が日中両国の機船底曳網漁業だけに対し適用される点に関しては、「全く独特な公海漁業の規制」とし、日中民間漁業協定が、国際的取極としては極めて異例なものであることを指摘している。
 以上の先行研究の特徴をまとめると次のようになる。 
 第一に、分析の対象時期の問題である。日中民間漁業協定については、日中両国の民間団体が協定締結交渉のテーブルについて以降の政治過程に関する分析が中心となっている。これは、日中民間漁業協定を、日中国交回復に向けた一道程という視角だけから捉えているため、日中民間漁業協定締結が必要とされた前提である、占領期の日中間の漁業対立といった固有の問題にはほとんど注目が集まってこなかった結果であるといえる。
 第二に、戦後日本の国際法学界における伝統的公海自由原則論の呪縛の強さである。独立後の1952年5月に調印した日米加漁業条約において日本は、はじめて国際漁業条約に参加したが、この条約は北太平洋における日本の操業区域を決定した条約であり、公海における操業区域を分割したという意味で、従来の無規制の公海自由原則に修正を迫るものであった。この条約の表向きの理由は、公海における資源保護であったが、西経175°以東のサケ・マスなどの漁獲から日本のみを排除するという点からもわかるように、日本に対する規制という性格が強く、戦前日本型の漁業大国復活に対する警戒心の強さを背景とし、さらにアメリカの漁業利益、とりわけアメリカ西海岸の漁業関係者の利益保護を目的とした条約であるといえる。そのため日本の国際法研究においては、日米加漁業条約における日本排除的性格に対する反発が強く、無規制の伝統的公海自由原則に立脚して同条約を批判する傾向が強い。  
 確かに日中民間漁業協定も資源保護のための操業水域分割という意味では、日米加漁業条約と共通しており、戦後の国際的潮流となった制限付きの公海自由原則に基づいた二国間取り極めである。そのため、この協定に対しても、先の日米加漁業条約に対するものと同様に、無規制の伝統的公海自由原則からの批判が相次いだ。しかし日中民間漁業協定が持った意義、すなわち平等互恵原則に基づき、関係国が互いの利害関係を調整するという面に注目が集まることはなかったのである。
 第三に、研究の多くは、同時代の分析・評論であり、日中民間漁業協定に関する本格的な歴史研究は未だ存在しないことが指摘できる。

研究の方法と視角
 これまで見てきたように日中民間漁業協定については、日中国交回復史研究では、日中民間貿易協定と同じ性質の協定とみなしてきたのが特徴である。しかし日中民間貿易協定と比べた場合、日中民間漁業協定は、明らかに異なる性質を持った協定であったということができる。日中民間貿易協定は、1952年6月にはじめて締結されて以降、計四回わたって結ばれた協定である。この協定が締結された背景には、戦後経済復興に向けて日本側が巨大な中国大陸市場への進出を目論み、中国との貿易を再開したいとする政財界の強い欲求があった。さらに日中民間貿易協定には、この協定締結を契機として、近い将来に正式な国交回復を行なおうとする思惑が込められており、このことが日中民間貿易協定の大きな特徴だった。
 これに対して日中民間漁業協定は、日中民間貿易協定の締結をきっかけとして、中国側との話し合いを持とうとする動きが具体化したという意味では、日中民間貿易協定の影響を受けているといえる。しかし、日中民間漁業協定の大きな目的は、占領期における漁業をめぐる日中間の対立を解消しようとする点で、日中民間貿易協定とは大きく性格が異なるのである。すなわち、日中民間貿易協定が、正式の国交回復も含む将来を見据えた協定であるのに対して、日中民間漁業協定は、過去から現在にかけて存続している現実の東シナ海・黄海における漁業対立を解消することを目的とした協定であった。そこで日中民間漁業協定を分析するにあたっては、協定締結に向けた交渉過程のみならず、そうした協定締結が必要とされるに至った原因、協定締結に至る背景を仔細に分析することが必要となる。
 その際、日中民間漁業協定の大きな特徴の一つである民間の持つ意義について、日本側の主体に注目してその実態を明らかにすることを重視したい。日中民間漁業協定における民間とは、具体的には、1)交渉を担当した日本側の漁業経営者、2)以西漁業経営者、3)実際に現場で漁業に携わり、抑留などを経験した労働者、の3者に分類することができる。1)については、彼らが中国側に働きかける過程を分析し、協定が日本側の民間で担われたことの意義を明らかにしたい。2)については、中国側による日本漁船抑留は、漁船の没収を意味し、漁業経営者にとっては大きな打撃となっていたが、このことが日中漁業交渉や当時の以西漁業に与えた影響を具体的にみていきたい。さらに日本側の経営者にとっては大きな打撃となっていた日本漁船の拿捕、抑留が実は、3)の抑留当事者に対しては、異なった印象を与えているという点にも注目したい。中国共産党政権に対する支持を調達する、あるいは日本帰国後に親中国的運動を起こすことを期待して、被抑留日本人を厚遇するという中国の政策の結果、漁民の中には現在でも抑留を好意的にとらえている者が数多く存在する。こうした漁民の存在が、協定の締結に具体的にどのように影響を与えたかを、戦後中国の対日政策と照らし合わせながら明らかにしていきたい。
 日本漁船、漁船員への発砲・拿捕といった事件は、中国沿岸部への日本漁船の殺到、濫獲といった問題に対する中国側の強い警戒心をきっかけとしている。その背景には、戦前以来の日本遠洋漁業の膨張的性格が大きく影響している。すなわち、日本は戦前帝国主義国家として膨張していくのと歩を合わせるように、遠洋漁業も次第にその操業範囲を拡大させていき、朝鮮・中国などの沿岸部を侵漁していく。このことが中国に日本漁業に対する強い警戒心を抱かせるようになったといえる。そこで日本遠洋漁業の戦前における膨張的性格が形成された原因を、日本の遠洋漁業草創期にさかのぼって明らかにしたい。そして中国及びその国民生活に戦前日本の遠洋漁業が与えた被害の実態を考えてみたい。
 また、戦後日本漁船が中国沿岸部に殺到した背景には、中国沿岸部にまで日本漁船を押し出すような構造が、占領期の日本社会に形成されていたことが考えられる。そのため、日中民間漁業協定を分析する際には、協定締結の前提となった占領期日本の漁業が持つ問題点を検討することが重要な課題となる。
 占領期日本の漁業の問題点については、次の三つの視角からの分析を行っていきたい。
 第一は、日本の漁業政策における以西底曵網漁業の位置づけである。以西漁区で操業する日本の以西底曵網漁業は、漁獲物も集中的な水揚げが可能であり、敗戦直後の食糧難にあえぐ日本にとっては、最も有望視された漁業種目であった。その結果、日本政府は中国との摩擦があることを知りながらも、敢えて以西漁区へと日本漁船が殺到する仕組みを様々な政策を通じて作り上げていった。具体的には、占領期日本の造船政策とそれを下支えする復興金融公庫を通じた融資政策である。GHQの政策により、以西漁区は戦前と比較して大幅に制限されていたが、それにも関わらず日本政府は、大幅な漁船増加政策をとり、水産資源の枯渇などに対して無配慮な造船政策を実行したといえる。また復興金融公庫を通じた融資は、こうした漁船増加政策を後押しした。このような政策が、以西底曵網漁業の企業間競争のあり方や操業秩序に与えた影響を明らかにしていきたい。
 第二は、GHQによる日本漁業政策、すなわち、GHQの日本漁船の操業に対する政策と、日本漁船建造の管理規制政策の解明である。1945年9月から11月にかけて、以西漁区に関してマッカーサーラインと呼ばれる操業区域が設定された。これは戦前日本漁業が操業していた水域212,000平方海里と比較すると、わずか36,000平方海里となっており、戦前の17%にまで削減されていた。1946年6月22日の以西漁区拡張により以西漁業の操業水域の面積は34,000平方海里増の70,000平方海里となったが、これでも戦前の三分の一、有望な漁場に関していえば戦前の五分の一にすぎない。この制限にはいうまでもなく中国との摩擦を回避しようとする狙いが込められていた。
 他方で造船政策についてGHQは、漁区制限とは正反対の対応を示す。終戦直後からGHQは漁業に用いられる船の建造に関しては許可制を指令していた。そのため漁船建造の管理規制は、GHQの管理下におかれることとなっていたが、すでに述べたような日本政府の無計画な造船計画に対して、GHQは規制を行うことはほとんどなく、結果として政府の造船政策を支援する形となってしまったのである。
 第三は、以西漁業における競争環境の形成と漁業における労使関係が与えた影響である。政府による無計画な造船計画と、投資が短期に回収できるという以西底曵網漁業の利点は、以西底曵網漁業への多数の出漁者の殺到という事態を生み出し、漁業者間に熾烈な競争環境が形成された。その結果、投資の回収、利益向上のためにはマッカーサーラインを超えて操業してもやむをえないという意識が漁業者間に植え付けられた。また、賃金における歩合制と船頭支配という漁船経営のあり方は、自らの賃金確保のためには、拿捕の危険を冒してでもマッカーサーラインを越えて漁獲高を上げなくてはならないという意識を漁業に直接携わる人間の間に作り出したのである。
 ところで日中民間漁業協定が持つもう一つの柱である制限付の公海自由原則については、すでに見たように、日本においてはなかなか受容されなかった。確かに日米加漁業条約に見られるように、制限付の公海自由の原則が漁業大国日本の復活を抑制する政治的切り札として用いられた結果、条約自体が日本に対する規制という性格を持ったことは否定できない。そして条約の持つこうした政治性へ注目が集まり、制限付の公海自由原則に対する批判が強まり、日中民間漁業協定もこうした観点から批判された点についてはやむを得ない一面を持っている。しかし制限付の公海自由原則の日本における受容といった観点から見た場合、日米加漁業条約と比較してもなお日中民間漁業協定は進歩的内容を持っており、その受容は日本の国際漁業への復帰にあたっては重要な意義を持つものと考えられる。そこで日中民間漁業協定の漁業史上における意義を考えるにあたっては、次の視角を重視したい。
 第一に、日米加漁業条約との比較である。日米加条約は1951年12月に仮署名、講和条約発効直後に締結された条約である。日本の独立前に交渉が行われ、締結した条約であったため、アメリカ側の漁業利益が優先される内容を持った「押しつけ」的性格の色濃い条約であったといえる。そのため表面的には制限付の公海自由原則に立脚していながらも、漁区分割にあたっては一方的に日本漁船が排除された。これに対して日中民間漁業協定は、平等互恵の原則に基づき、操業秩序維持のための規則、とりわけ公海上に操業規制区域を設けて、国籍に基づいて漁船数を配分することを規定したという点においては、より発展した内容を持つ協定であったといえる。こうした日中民間漁業協定が持つ革新性に注目しながら同協定の交渉過程を検討していきたい。特に、国際法の学界において根強かった伝統的公海自由原則論が現実の中でどのように克服されていくのかという点に着目したい。
 第二に、日本側民間団体が交渉の主体となったことの意義である。日中民間漁業協定の交渉の初期段階で、中国側が提示した公海分割案は、日本の伝統的公海操業秩序であった無規制の公海自由論に修正を迫るものであり、結果的に協定締結にあたって、日本側は無規制の公海自由方針を放棄することになった。日本側が自ら修正を決断した背景には、直接の当事者である漁業関係者が交渉にあたったことの影響が大きいと考えられる。
 さて、日中民間漁業協定が打ち出した制限付の公海自由原則は、日米加漁業条約と比較した場合のみならず、国際漁業条約史といった点からみても革新的な性格を持つものであった。国家という枠組みを越えて漁業資源を保護するために複数の国家が協調するという経験、あるいは安全操業の秩序を維持するための制限付の公海自由原則が日中民間漁業協定においてはじめて打ち出されたことが、国際漁業に与えた影響を明らかにしたい。国際漁業の歴史は、無規制公海自由の原則が次第に様々な要素を取り入れて制限付の公海自由という理念に現実化していくプロセスだといえる。そこで近代以降現代に至るまでの公海自由原則の変遷の中に日中民間漁業協定の基調となった制限付の公海自由原則を位置づけていきたい。
 論文の構成は次のようになる。
 
第一章 戦前日本の遠洋漁業と以西漁業
第一節 遠洋漁業の発達
第二節 以西漁業の形成と発展
第三節 公海自由・3海里領海と日本
第二章 占領期の以西漁業と講和問題
第一節 マッカーサーラインと以西漁場
第二節 以西漁船の建造と許可
第三節 以西漁業の企業と労働者
第四節 講和と日本の漁業
第三章 民間交渉の提起と実現
第一節 拿捕・発砲事件の発生
第二節 民間交渉への道
第三節 交渉の焦点-公海自由
第四節 協定の実施とその後

各章の概要
 まず第一章では、戦前日本の遠洋漁業及び以西漁業の形成について検討してきた。明治維新後、1880年代以降の日本の遠洋漁業は急速に発展していくが、この発展を促進した大きな二つの要因は、一つには漁業技術の革新、もう一つには漁場外延の拡大であった。漁業技術の革新においては、遠洋漁業奨励法が重要な役割を果たしていたが、これはトロール漁業のような近代的漁法に重点的に資金を投入することにより、漁業機器性能の向上、漁船の動力化を実現させた。その結果、これまで以上に効率よく操業できる新しい漁法・漁船を生み出すこととなった。その代表的なものは機船底曳網漁業・漁船である。
 しかしその一方で、トロール漁業の進化版である機船底曳網漁業は、その破壊的ともいえるような漁獲効率の高さのため、日本沿岸の漁業資源を急速に枯渇させることとなり、日本各地で沿岸漁民との軋轢が絶えず繰り返されるという事態を招くこととなってしまった。こうした事態を解決されるために考案されたのが、日本外延漁場の拡大である。沿岸漁民との軋轢を避けるために、次第に漁場を日本沿岸から遠隔地に誘導し、最終的には東経130°以西という漁場に落ち着くこととなった。この水域において以西漁業は形成され、戦後日中間の対立の舞台となるのである。
 日本の外洋漁場の拡大は、以西漁場のみにとどまらなかった。以西漁場へ日本漁船が参入する以前、すでに1870年代の朝鮮近海への進出から日本の外延漁場拡大は始まっていた。朝鮮近海への進出以降、日清、日露戦争以降は、中国、ロシアなどの他国の近海・沿岸にまで進出し、数多くの漁場を開拓した。強大な海軍力の援護を背景に、海軍力、漁業技術ともに日本より劣った国家の沿岸海域へ進出していったのである。他方でこうした外洋進出政策を下支えしたのは、領海3海里の論理と無規制の公海自由原則であった。
 その後、日本はその漁場を日本に近接している海域から南氷洋や北太平洋などへと拡大していき、1930年代には世界の漁獲量の3割以上を占めるほどの漁業大国となった。無規制の公海自由論に基づいた遠洋漁業の振興であったが、こうした行為には当然国際的な批判が集まった。とりわけ1940年のオットセイ保護条約の破棄、国際捕鯨協定屁の未加入及び、1930年代のブリストル湾の進出などは、日本の無規制の公海自由論への信奉度の高さを示すと同時に、国際漁業社会における対日批判を決定的なものにしたといえる。そして日本の遠洋漁業は略奪漁業であるとする評価が定着するに至り、戦後日本が国際漁場に復帰する際の大きな障害となった。中でも中国沿岸部における侵漁、低価格の魚の中国市場への出荷は、中国沿岸漁業を崩壊寸前にすると同時に、中国社会の物価体系にも大きな影響を与えることとなった。そしてこのことは、中国の日本遠洋漁業に対する脅威意識を強くし、戦後中国による日本漁船拿捕・抑留の遠因となったのである。
 第二章では、GHQによる日本漁業管理政策、日本政府による以西漁業再建政策、以西漁業における操業実態、講和を進める中での漁業問題の扱いを分析し、日本漁船がマッカーサーラインを越えて操業する原因を検討した。そして中国沿岸海域を荒らした日本側漁業の背後には、GHQ、日本政府による以西漁業復興計画の無計画性から生じた野放図な造船政策が大きな原因となっていたことを明らかにした。さらには漁獲高に完全にリンクし、水揚げがないと翌日からの生活にも困るといった環境に置かれた日本漁船の操業実態といった問題が熾烈な競争環境を以西漁場に形成させ、最終的にはマッカーサーラインを越境して操業をせざるを得ないという状況を生み出したのである。以西漁業をめぐる日中間の対立は、以上の要因が絡み合って生じたものであり、必ずしも日本側が故意に中国沿岸部への侵漁を企図したものではない。さらに中国側による拿捕を複雑化させた要因として、GHQの以西漁業に対する無関心な態度を指摘することができる。北方を除く水域における日本側越境操業に対して、GHQは積極的には取り締まらず、黙認したといってよい態度に終始した。これは冷戦の開始に伴い、アメリカが日本との講和を優先し、結果として以西漁業問題が放置されたことが原因である。
 中国による以西漁船に対する銃撃、拿捕といった一連の事態は、優れた漁業技術を駆使した以西漁船の操業が中国沿岸の海洋資源を枯渇させてしまうのではないかという中国の警戒心に起因している。建国間もない中国にとって、敗戦国ではあっても、急速にかつての勢いを取り戻しつつあった以西漁業の中国沿岸における活躍は大きな脅威となっていたのである。
 第三章では、日中民間漁業協定締結までのプロセス、及び協定実施の実態について検討した。中国側による拿捕・抑留が日本側漁業関係者に与えた影響が極めて大きく、一刻も早く安全操業を確保できる環境を創らないと以西漁業そのものが成り立たなくなってしまうという以西漁業関係者の危機意識が協定締結へ向けた推進力となった。
 しかしサンフランシスコ講和会議による日本側の西側世界への組み込みは中国の態度を硬化させたため、吉田政権の段階では、中国側はその提案にまったく応じなかった。朝鮮戦争終結後の中国による、いわゆる平和攻勢により、中国側はその態度を軟化させ、中国側から交渉を提案してきたが、その背景には鳩山政権の誕生による日本側の政策転換に対する中国側の期待があったのである。
 日本政府は協定に対して終始表面に出ることがなかったが、それは日本政府が、中国側の外交戦略に乗らないことを意識していたからであった。しかし日本政府は、交渉に一切干渉しないとしながらも、代表団に対する助言、黙認という行為を通じて陰に陽に影響を与えつつづけていたといえる。その結果、代表団の構成、日本側交渉方針などに政府の影響が見られる結果となった。
 日中両国の交渉に臨む姿勢の相違、交渉における検討項目をめぐる対立から、交渉は初期段階から激しい対立を示し、一時は決裂寸前にまで至った。しかし最終的には妥協が成立し、その後、二回の延長まで取り付けることができた。この点では日本側以西漁業関係者の安全操業確保という目標は実現し、交渉は成功したといえる。しかし交渉の争点は、公海自由原則の是非にあったが、最終的に日本の民間漁業代表団は、安全操業確保を優先し、自ら従来の規制なしの公海自由原則を放棄したのである。このことにより明治維新以降日本が堅持し続けてきた無規制の公海自由という原則に修正が迫られる結果ともなったのである。

日中民間漁業協定の意義
 日中民間漁業協定交渉に対しては、日中両国の思惑には大きな隔たりがあった。中国側は、民間貿易協定や民間漁業協定といった民間協定を積み上げ、最終的には日本政府を正式の交渉の場に引き出し、正式国交回復を実現したいという思惑であった。そのため、民間漁業協定の交渉過程においても、日本側交渉団を通じて日本政府に対する何らかのアプローチを確保する文言を協定に盛り込まなければ交渉を終わらせることができなかったのである。これに対して日本側は、何よりも以西漁場における安全操業確保を実現することを優先していた。そのため、交渉における討議項目は、これまでの拿捕・抑留事件の解決、以西漁場における安全操業の確保といった問題に限定したかったのである。
 漁業交渉を日中の正式な国交回復の布石にしようとする中国側と、漁業協定の締結そのものが最大の目的であった日本側との間での交渉は、かみ合うはずもなく、交渉当初は激しい対立に見舞われた。にもかかわらず最終的に協定の締結という結果に終わったのは、長期にわたる話し合いの中で日中双方が妥協点を見出せたからである。具体的には中国側は当初東シナ海・黄海をまるごと三分割しようとする案を提案していた。しかし、日中漁船が競合しやすい場所に六つの規制区域を設けるという日本側提案に同意すること、他方で日本側は日本政府に対し、日本政府自身が中国側との交渉に出てくることを働きかけるという譲歩を行うことにより交渉は妥結したのであった。中国側にとっては日本側との正式交渉の可能性が見出せたこと、日本側にとっては操業区域が制限されながらも、最低限の安全操業確保が実現できるという点で互いが妥協できたのであった。
 次に、この協定の民間協定という形態が持った意義について考えてみたい。日中民間貿易協定は、日中国交回復史研究が強調するように、正式な国交回復の前段階としての「草の根」交流の積み重ねといった意義を確かに持っていた。しかし、日中民間漁業協定には同様の意義は認められない。あくまでも日中間の漁業問題解決に役立った協定としてとらえるべきである。そこで、日中民間漁業協定の民間協定という形態での実現が、中国、日本側以西漁業関係者、日本政府それぞれにもたらした意義を考えてみたい。
 中国側にとって持った意義は、何よりも中国沿岸海域の中国側漁船の利益を保護できることになったことである。戦前から続いてきた日本漁船による侵漁を、協定実現によって一定程度規制することが可能となった。東西冷戦秩序が固定化し、日本政府を通じた交渉が不可能となった状況下で、中国が自国漁業利益を確保できたのは、まさに民間という形態のみで可能であったと考えられる。そして日本政府との正式国交回復についても、日本側の代表団を通じて日本政府にアプローチをとることができるようになった点も、十分な結果を残さなかったものの、民間協定という形態ならではの収穫であったといえる。
 日本側漁業関係者にとっての意義は、以西漁場における安全操業が実現されたことであろう。すでに中国側にとっての意義で見たものと同様に、政府間交渉の実現が期待し得ない状況下での最良の手段が民間協定の締結という交渉形態であり、自らが交渉に主体的に乗り出していくことであった。当初日本側が望んでいた無規制の公海自由論の修正を迫られることとなったものの、中国側による拿捕・抑留によって崩壊の危機に瀕していた以西漁業が再び安全に操業できるようになったことの意味は大きかったといえる。
 そして日本政府にとっての意義を考えてみたい。日本政府は交渉に直接乗り出すことはなかったものの、日本側代表団に対し、黙認やアドバイスという形で陰に陽に影響を与えることができた。さらには民間協定という、日本政府が公式には関与していない形態の協定を結ぶことができたことにより、「共産中国」と政府が直接交渉した場合に受けたであろう批判をかわすことができた。そのため、民間協定という形態は、東西冷戦下においては日本政府にとってもある程度うま味のある形態であったのである。
 日中民間漁業協定の民間協定という形態が持った意義を以上に述べたが、次に民間協定という形態が持ったマイナス面についても考えてみたい。それは何よりも民間形態のため、協定実施にあたって政府からの支援をほとんど受けられないことであった。法的拘束力、強制力を持たない民間漁業協定は、協定遵守にあたっては操業者のモラルに頼らざるを得ない。しかし実態として、協定締結後においても協定違反が続出したことは、民間協定が持つ限界を露呈してしまうこととなったのである。
 最後に日中民間漁業協定が日本の国際漁業史において持った意義について考えてみたい。第一は、日中民間漁業協定が、戦後日本が初めて対等に外国と結んだ国際漁業協定であったことである。占領期に仮締結された日米加漁業条約が存在するものの、対等というには程遠い内容であった。これは占領下において占領国であるアメリカ主導で条約が調印されたために、日本のみが操業を放棄しなくてはならないなど、あまりにもアメリカ側の利益が一方的に押しつけられた条約であった。
 これに対して日中民間漁業協定は、すでに述べたように、日中双方が長い交渉期間を経て互いが譲歩することにより締結された協定という点で、戦後初の対等な漁業協定であるといえるのである。同時にこの交渉の過程で注目すべき点は、日本側が、戦前以来堅持し続けてきた無規制の公海自由原則を放棄したことである。具体的には以西漁場における操業を、操業秩序維持、濫獲の防止実現のために自主規制したことである。
 さらに重要なことは、日中民間漁業協定に見るような、公海における操業の自主規制は、国際漁業条約史の面からみても画期的なことであった。国際漁業法制史、中でも公海自由概念の変遷から見てみると、1880年代から濫獲を防止し、資源保存を目的として次第に公海自由の概念には規制が設けられるようになってきた。しかし、日中民間漁業協定第一条、附属書第一号のように、公海において紛争を避け、操業秩序を維持する目的で規制を設けたのは歴史上初めてのことであった。民間漁業協定の交渉過程を見ても明らかなように、当初公海における操業に規制を加えることは日本側内部に強い異論があった。しかし、中国側に対する妥協の一つとはいえ、日本側が公海における操業規制を容認したことは、戦後国際漁業に一つの画期をもたらしたのである。

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