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博士論文要旨

論文題目:ベギン運動の展開とベギンホフの形成
著者:上條 敏子 (KAMIJO, Toshiko)
博士号取得年月日:1999年3月26日

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 ベギンとは、修道会に所属せず、俗人の資格のまま半聖半俗の女性としての敬虔な生活を営んだ女性に対して13世紀から広く一般に用いられた名称である。そうした女性は、殊に初期にはネーデルラントとドイツに見いだされたが、同様の女性の存在はフランス、また現在のスイス、ポーランドなど、北ヨーロッパの各地に確認される。女性のベギンに対して、男性も存在し、ベガルドとよばれたが、ベガルドはベギンに較べると数の上でほとんど問題にならないほど少なかった。ベギンと呼ばれる半聖半俗の女性が歴史に現れる以前から、修道会に所属しない修道士、修道女は様々な形で存在したが、13世紀ほど半聖半俗の修道士、修道女が大々的に問題になったことはなかった。
 この論稿で私が考えてみたかったのは、ベギンとは何であったのか、中世の女性にとってベギンになることはどのような意味をもっていたのか、という問題である。

 序章では、問題へのアプローチに関わる基本的問題と切り口、先行研究における当該テーマの位置および独自性等が述べられる。この章からはベギン研究の現状が見えてくるであろう。

 第1部第1章は、同時代人の目にベギンがどのように映ったかを問題にしている。ベギンの姿をより明瞭に、多角的に描くために、異なるジャンルの史料、異なる立場の同時代人からベギンについての証言が集められる。年代記、教会会議によるベギン規制法、リヨン公会議前夜に教皇に提出された教会改革についての提言、風刺詩に描かれたベギンの姿をつきあわせ検証することによって、証言の一面的な部分が修正される。この作業の延長上では、教会の最高権威たる教皇の発給文書たるクレメンス令の文言も相対化されるであろう。

 13世紀のベギンが、俗人女性を主体とする特異な宗教運動を形成したことを明らかに示す史料としてイングランドのベネディクト会修道士マシュー=パリスの年代記が注目される。マシューは、13世紀初頭における自称修道女の増加について、最近特にドイツで「軽い修道の誓いをたてる者が男にも女にも、しかし、殊に女に数多く」「彼女たちは、修道女を自称して、節制と生活の簡素をひそかに誓っているが、どの聖人の修道会則にも従っておらず、修道院に入ってもいない。彼らは、わずかの間に増えて、ケルンと周辺の諸都市で、2000人が報告されている」と語った。マシューはこの記述を、従来の修道女の資格を念頭においており、そのことを考慮するならベギン運動とは修道会に所属していない女性、いうなれば自称修道女の大流行であった。マシュー=パリスの年代記、13世紀ドイツの教会会議におけるベギン規制令、リヨン公会議前夜の教会情勢についての報告書、クレメンス教令、迫害に対する同時代人の記録は、ベギンに対する同時代人の様々な見方を提示している。マシュー=パリスら、イングランドの修道士にとって、大陸に現れたベギンは、勤労と敬虔を兼ね備えた新しいタイプの俗人修道女であり、13世紀ドイツ教会会議からは、托鉢するベギンの姿が明らかになる。リヨン公会議前夜にグレゴリウス10世に提出された、教会改革案においてドイツの一司教、フランシスコ会の指導者、ドミニコ会の指導者の三人は、それぞれの地域におけるベギン運動の特色を、反映して、あるいは、ベギンの禁止を、あるいは、ベギンが読むかも知れない俗語の書物の廃絶を提言していた。しかし、ベギンをめぐる様々な問題に抜本的な対策がたてられないまま、ベギンの勢力は強まり、クレメンス教令の発布を招いた。しかし、そのような時にさえ、同時代人のベギンに対する姿勢は一様ではなかった。必ずしも、型にはまらない形ではあるが敬虔に生きることへの願望をまっとうしようと努力する女性への迫害に対して、年代記作家は、時に同情的であった。

 第2章では、ドイツにおけるベギン運動の中心地であったライン流域諸都市におけるベギン運動の発展を、主に第1章とは別に史料にもとづいて明らかにする。ベギンによる資産譲渡契約書がその史料であり、ここにベギンは、家屋の売買、賃貸、遺贈をはじめとする財産契約に当事者として登場する。ライン流域諸都市において、最初のベギンが史料に現れるのは1230年代のケルン市であり、1300年までには、多くの都市にベギンが現れた。ことに、ケルン市、シュトラスブルク市のような大都市、また帝国都市フランクフルトでは、最も早い時期からベギンの存在が確認され、これらの都市は、その後、ベギンが着実に増加した都市でもあった。資産譲渡契約書に現れたベギンは、13世紀後半以降急激に増加した。14世紀には多くのベギン館が設立され、1400年頃までには、すべてのベギンがベギン館に住むようになったらしい。ベギンは、その後減少し、15、16世紀には、ベギン館の定員に欠員がでた。現存する数少ないベギン矢か規約からは、ベギン館に住むベギンが、そうでないベギンより少なかったとみられる初期のベギン館は、貧しい女性のための救済施設ではなく、富裕な女性のためのベギン館であったとの分析が得られる。

 第3章は、C.シュミット、D.フィリップスの研究によりながら、シュトラスブルク市を例にベギンの集住区の形成という視点から考察する。シュトラスブルク市においてベギンが好んで托鉢修道会の周辺に住居を求めたことが明らかになる。ことにフランシスコ会修道院の周辺には、多くの独身女性とベギンが居住し、ベギン館もやはり、フランシスコ会修道院の周辺に多かった。ベギンは、托鉢修道会の礼拝堂に好んで通ったとみられ、托鉢修道士のミサをきき、托鉢修道士に告解を行い、時には修道院墓地に葬られた。また、托鉢修道会は、事実上貸家を経営していたとみられ、ベギンを含め托鉢修道会周辺に家屋を購入した女性の多くが托鉢修道会から家屋の斡旋をうけたとみられる。シュトラスブルク市において、ベギン館が互いに隣りあってまた向かいあってたちならぶガッセが何本かあったこと、それにベギン館の周辺には、一般の独身女性や、ベギン館に居住しないベギンが多かったことは、注目される。ベギンの家は特定の場所に密集していたのである。特定の地区以外に住むベギンは少なかった。

 ドイツ諸都市においては、中世末に至るまで、市内のあちこちにベギンの住む家があって、そのような家は、しばしばドミニコ会、フランシスコ会の修道院のまわりに集まっていた。しかし、ドイツ諸都市において、ベギンの生活空間を俗人の生活空間から完全にわけようとする試みはみられなかった。これに対してネーデルラント諸都市では、ベギンホフと呼ばれるベギン専用の居住地が13世紀に建設された。このベギンホフの建設は、どのような動機によっていたのか、誰が建設のイニシアティヴを握っていたか。もとよりベギンホフは、地域を越えて横の広がりをもつ組織ではなかったから、一人の創立者というものがあったわけではないが、財政的な面から、また、法的な面から、様々な人々が、それぞれの理由によって、ベギンホフの建設を推進した。フランドル女伯は、高貴な家門の結婚できない女性が名誉を失わずに自活できるために、別の修道院長は、ベギンが俗人から隔離されることによって彼女らの救霊がより安易になるように、別の市長は、教会に行くベギンが途中で俗人と紛れることは不合理であるという理由によって、ベギンホフの建設を推進した。南ネーデルランドにおいて、ベギンホフは、しばしば、囲壁によって囲まれた小都市の様相を呈し、ベギン集落の中心には、ベギン専用の教会がそびえていた。

 ベギンホフの法と生活と題した第5章は、ベギンホフの自治と、ベギンの経済生活を問題にしている。レウヴェンのベギンホフは、シトー派修道院ヴィレール院長の介入により、教区司祭から独立している。ベギンホフのの教区としての独立を正式に認めているのは、リエージュ司教であり、ヴィレール修道院長が巡察使を派遣するほかでは、ベギンホフは、内政に関して完全な自治権をもった。ベギンホフに住むベギンは、個々の生計の維持に責任があり、自分の財産を自分で管理する。共同生活を好まないベギンは、経済力が伴えば、一戸だての家に住み、プライヴァシーと自由を守ることができた。

 ベギンホフにおいて、自活は原則であったが、経済的な必要をまかないきれないベギンのために一連の救済制度が整っていた。その代表的なものが聖霊ターフェルと施療院であり、これらによる貧民と病者の救済については、第2部で論じられる。

 第2部は、聖霊ターフェルと施療院による貧民救済について、それぞれの活動内容を会計簿の分析から明らかにする。まず、聖霊ターフェルの収入基盤は、ターフェルがレウヴェン市の内外に所有するレンテによっていた。そのほかには、ベギンそして市民からの喜捨と遺贈による収入があり、こうした贈与の蓄積により聖霊ターフェルの所領は形成されたと言われる。ターフェルの支出のうち大きな部分が、食糧と布の購入にあてられており、それらは、きまった日にベギンホフの貧民に分配されたとみられる。しかし、ターフェルの貧民として物資の分配に預かるには、経済的な条件だけでなく評判がよくなければならない、酒をたしなんではならない、賭博をおこなってはならない、などのような倫理的な条件も満足させなけばならなかった。ターフェルの貧民として選ばれたベギンは、穀物その他の物資の配給にあずかるが、特定の祭日には、「聖霊の家」に集まって祝宴にあずかった。ターフェルによる貧民救済のための支出は、分配物資の購入のための貨幣支出と、地代としてとりたてられた穀物の支出があり、穀物支出の大半が貧民に配給されたとすると、ベギンホフの貧民は、非常に内容のある援助をうけたと考えられる。

 第2部第2章はベギンホフの慈善施設のうち、施療院の機能を論じている。もとより施療院は、病気のベギン、老いて体のきかなくなったベギンのための救済施設であったが、施療院の機能は、それにとどまらなかった。そのことは、施療院の建築と、また会計簿の支出項目から明らかになる。施療院長はしばしばベギンホフ長と兼任され、施療院が雇用する使用人は、しばしばベギンホフ全体のために雇われた。例えば、門番の報酬、礼拝堂つき司祭の報酬は、施療院の予算によってまかなわれた。

 聖霊ターフェルの場合と同様、施療院財政を支えた所領は、相当部分をベギンからの贈与、ことに遺産贈与によっていたとみられる。施療院は、孤独な生涯の末に、老いてからだのきかなくなったベギンの生活の場であり、ここで看取られたベギンの財産は、強制的に施療院のものとなった。

 施療院の会計記録等を総合して注目されるのは、施療院長が報酬、居室等の点で優遇されていたらしいこと、また、入所者の生活も当時としては粗食とはよびがたい食事が三食支給され、ベットに横たわったままでミサにあづかれるなど、恵まれていたことである。施療院が保証する人生の最終局面における安楽な生活は、女性たちがベギンホフ入居を考慮するのに際して判断材料となったと考えられる。

 第3部は、近代以降のベギンホフの歴史と、ベギンホフの現況について述べている。南ネーデルランドにおいて、ベギンホフは宗教改革の時代をいきぬき、17世紀に第二の繁栄期をむかえた。しかし、その後、フランス革命の時代にベギンホフは国有化され、資産を売却されることになる。革命の嵐がおさまると、ベギンホフは再建された。しかし、もはや、ベギンは集まらず、19、20世紀と、ベギンの数は減少の一途をたどった。現在ベルギーに残された数十のベギンホフのうち、ベギンが住むベギンホフはわずかである。

 終結部では、ベギン運動展開の背景を探るべく、西欧中世世界における修道院制度の展開のなかに、ベギン運動を位置づける。西欧中世世界において女子修道院の歴史は、修道制の歴史とともに古い。しかし、概して、女子修道院数は男子修道院数に及ばず、とりわけ10世紀にはじまる修道院改革動向の中で、女子修道院数と男子修道院数の乖離は顕著に拡大する。男性であれ女性であれ修道生活を選択する理由は、さまざまであった。しかし修道院生活に入ってゆくための道筋が女性の場合には男性の場合のようについておらず、そのことが広義の修道女としてのベギン増加の背景にあったとみられる。ケルン司教区の例にみられるように、女性にとって12世紀の初頭まで修道生活はもっぱら貴族のものであった。事態は、ベギンの生活を含めた修道生活の多様化によって根本的に変化する。12世紀なかばまでに修道女全体に占める貴族の比率は100%から半減し、さらに、13世紀後半以降はベギンの増加により、10%に低下した。既存の女子修道院制度では、「今や貴族層をこえて中下層に広まりつつあった修道願望にこたええなかった。」と考えられ、この潜在的願望に応えるべく、ベギン運動は、パトリキアートをはじめとする都市の生んだ新興階層の修道願望を吸収して成長した。

 ふりかえって、ベギン運動が展開した時代をながめるなら、低地地方また、ライン河流域を中心とするベギン増加の著しかった地域が、中世西欧における都市文明の二つの中心の一つであったことに思いいたる。とりわけ、同地域においては、織布が基幹産業であり、低地地方、ライン河流域産の布は、国際的に流通していた。こうして国際的に取引される織布が都市の富の源泉であったと同時にベギンにとっては主要な生計手段であった。

 マシューの記録していたケルン市及び周辺におけるベギンの著しい増加は、当時の同市の人口から考えて爆発的なものであった。この爆発的な増加は、上述の社会経済的条件のみならず、修道者を広義に解釈して労働を肯定的に評価する思潮にも支えられていた。中世後期の社会では、修道院が高額な持参金を要求し、結婚持参金はさらにそれをうわまわっていたという。そのようななかで、伝統の重みもないかわり修道院の禁域や誓願に拘束されることもないベギンの生活は経済活動の余地をのこしており、すべての女性に開かれていた。

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