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博士論文要旨

論文題目:アナーキズム思想に見られる革命観とその背景 ―『フライハイト』紙を中心にして 1879-1886年 ―
著者:田中 ひかる (TANAKA, Hikaru)
博士号取得年月日:1997年6月11日

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1、本論文の課題と意義、および方法と分析の視角

 本論文の課題は、19世紀におけるドイツ語によるアナーキズム運動において中心的役割を演じたドイツ語週刊紙『フライハイトFreiheit』紙上で、1879年から1886年にかけて展開された革命観とその背景の解明である。

 1871年から第一次世界大戦直前までのヨーロッパは、平和と繁栄に彩られた時代としてばかりでなく、当時の社会における軋轢や矛盾が顕在化していた時代としても把握できる。その場合、アナーキストの思想や行動は、まず当時の社会が抱えていた負の部分を鮮明に描き出すために不可欠の要素であり、また当時のヨーロッパ社会で生きた人々の精神構造を理解するために多くの手がかりを今日の我々に与えるものであると見なしうる。特にアナーキストたちの革命観を検討することによって、当時の社会の一部に醸成されていた不満、あるいはそれを媒介にして生み出された革命の到来とユートピアの実現に対する期待の一端を解明す手がかりが得られるであろう。本論文の課題が「アナーキズム思想に見られる革命観とその背景」である第一の理由がここにある。

 本論文で「アナーキズム思想」と言う場合、それは実際にアナーキストを自認する人々が自身の主張に与えた呼び名であるか、もしくは彼らの主張に筆者が便宜上与えた名称である。他方革命観という言葉は、革命の原因とその端緒、および革命勃発以降の過程とその結末に関するあるまとまりを持ったイメージのことを指し、それは以下のように要約できる。革命とは誰も「作る」ことができないものだが、「準備」されねば達成されえない。革命の前提を作り出しているのは、無秩序な工業の発展がもたらした経済的な混乱であり、あるいは、そのような混乱に拍車をかける為政者の無策である。そして、革命の端緒となるのは、まずもって経済恐慌や戦争であるが、それと同時に重要なのは、「反逆の精神」を持った人々によるプロパガンダ、もしくは暗殺や小規模の暴動などである。さらに、革命の勃発を促してそれを成功に導くためには、人民の「前衛」の役割を担う自覚を持ち「決然とした」革命家の存在が不可欠である。革命の舞台は大都市であり、そこで何らかの事件をきっかけにして大衆が蜂起した時、それまで「準備」してきた少数の革命家たちが主導権を握る。革命派が都市で勝利を収めた後、都市の外部では反革命派と軍事衝突が、都市内部では新社会建設と反革命派に対する血生臭い弾圧が展開される。こうして建設される社会は「支配のない」「自由社会」である、と。

 1880年代に『フライハイト』派に属する人々がこういった革命観にそって現実を解釈して革命の早期到来を主張した時、これをW・リープクネヒトは「状況」を無視した主張だと非難した。ところが同時期にA・ベーベルは、既存の政治・経済体制の「崩壊」あるいは「革命」の勃発が近いと、具体的な事実を根拠に繰り返し主張していた。しかも彼に敵対するビスマルクは、当時ドイツ国内で大規模な暴動あるいは革命が勃発する危険性に対し、繰り返し懸念を表明していた。これは彼が一般に抱かれていた「恐怖心」を「政治的手段」として用いるためであったとも言えるが、不穏な社会状況がドイツにあると一般に認識されていたのも事実であり、当時帝国議会に議席を持つ様々な派閥を代表する議員の発言にも、「革命への恐れ」を読み取ることができるのである。つまり80年代のドイツにおいて革命勃発の可能性を指摘しても、それは決して荒唐無稽なものとして批難されたり無視されるものではなく、むしろある程度説得力のあるものとして受け入れられた可能性の方が高いのである。

 ところがその後E・ホブズボームらによって、次のように説明されることになる。アナーキストたちは当時の「状況」など省みようとせず、しかも自らの「意志」さえあれば革命の達成は可能であると主張した。こういった革命観こそがあらゆるアナーキズム思想の核心なのであり、したがってアナーキズム思想一般は「主意主義」である、と。だがこういった解釈は、革命観の実証的な分析から導き出されたものなどでは決してない。これに対して本論文では、テクストに現れた思想とそこに読みとることのできる歴史的背景との両者が結びつけられながら分析がなされる。その際『フライハイト』紙が検討の対象とされる理由は、同紙が当時ドイツの社会民主主義者によって「意志」だけで革命が達成できるなどと主張していると非難されたJ・モストによって編集されたからであり、同紙が「主意主義」という定義の再検討にも革命観の解明にも、格好の素材であるからに他ならない。

 また同紙は、帝政ドイツ時代においてばかりか、それ以降に成立するアナルコ・サンディカリズムにも影響を与えていくという意味においても重要である。他方で近年の研究により、社会民主党に対立したアナーキストやアナルコ・サンディカリストがドイツに一定程度存在し続けたという事実は、たとえ彼らが少数だったとはいえ、今や無視できないものとなっている。こういった事実を解明する研究は、大多数のドイツの労働者が社会民主党や大規模な労働組合の影響下で穏健化・体制内化したという通俗的見解に修正を加えるものなのである。ただしそれらの研究は、ワイマール時代のアナルコ・サンディカリズム運動に見られる組織やイデオロギーの表面的理解に終始している。これに対して本論文で筆者が検討するのは、帝政ドイツ時代のアナーキズム思想に見られる革命観である。したがって本論文は、従来の研究の欠落部分を補うという点でも、これまで論議されることのなかったアナーキズム思想に関する分析の方法を提示するという点でも、ドイツにおけるアナーキズム研究に新たな視点を提起するものである。

 本論文が対象とする時期が1879年から1886年に定められたのは理由の理由による。1、『フライハイト』紙上では創刊以来、次第に革命観が描かれていくが、その基本的特徴は同紙がアナーキズム路線を採択する前後においても同様である。だがその後1886年にシカゴで起きたヘイマーケット事件、さらにはドイツ語圏におけるアナーキズム運動の分裂により、同紙を取り巻く状況は激変するため、この時期を境にして同紙上での論調に様々な変化が起きると思われる。2、国際的なアナーキズム思想・運動史は1880年から86年までの時期において、以下の特徴を持つ。まず、思想・運動がヨーロッパ各地に普及し始め、同時に多数のアナーキストが理論として「共産主義」を、戦術として「行動によるプロパガンダ」を採択する。他方で、社会民主主義派内部の不満分子やブランキストの中から、アナーキズム派に共感する「社会革命家」が現れ、アナーキズム運動に加わり始める。それとほぼ時を同じくして、アナーキストたちの間には、革命がすぐさま到来するという期待が醸成され始め、その結果テロ行動などが実行される。だがその後アナーキストたちは労働運動により接近するようになる。3、当時ドイツで出版された百科事典で「アナーキズム」に関する詳細な記述が現れるのは86年であり、そこでアナーキストは、社会民主主義と目標では一致しながらも、それを暴力によって達成しようとする人々だと定義されている。同様の見解は当時の警察の報告書にも見られる。他方社会民主主義者は、当初もっぱらアナーキズム理論を批判していたが、86年以降、主な批判の対象は革命論や戦術に移っていた。つまりドイツにおいてアナーキズムは、86年頃になって暴力革命論として一般にも社会民主主義者にも認識されるようになったのである。したがって、後に規定される意味での「主意主義的」暴力革命論を把握する為には、86年以前の時期に注目しなければならないことが明らかとなる。

 本論文で筆者は、以上述べた方法に基いて『フライハイト』紙上で描かれた革命観を分析するが、その際に留意しなければならないのは、同紙が支持者・支援団体によって彼らの共有財産と見なされていたという事実である。筆者はこの点を同紙の財政・運営状態を検討することで明らかにした。それゆえ本論文において筆者は、通説と異なり同紙と編集者モストとを一体のものと見なさない。以上が序章で展開される主張であるが、本論はさらに4つの章と終章によって構成され、最後に本論文での筆者の主張が要約され、今後の課題が検討されている。以下、本論文の構成に従って内容を要約する。


2、各章の要約                                                     
 第1章で筆者は、『フライハイト』がその立場を社会民主主義からアナーキズムへと変えた過程を描き、そこで展開された革命観とその背景を明らかにする。社会主義者鎮圧法によって打撃を受けたドイツ社会主義労働者党再建のため、1879年1月、ロンドンのドイツ人による労働者組織とモストとの協力の下、『フライハイト』紙が創刊される。やがて同紙上では、革命の早期到来論および穏健な戦術を支持する「指導者」に対する批判が展開され、80年に入ると『フライハイト』派のメンバーが「社会革命家」であると明言され、ブランキストやアナーキストを含めた「社会革命家」諸派との連帯が訴えられる。その後ビスマルクが労災保険法案などを提出し、国会で多くの党議員たちが政府案を肯定的に評価すると、同紙上では彼らが「国家社会主義」を主張していると非難され、やがて党の集権主義的な組織原理ばかりか「人民国家」までもが否定される。さらに82年10月、同紙上では初めてアナーキズム路線への転換が表明された。以上の過程で形成された革命観では、社会民主主義の歴史観やブランキズム的な革命観が放棄されることなく、同時にアナーキズム的未来社会論も主張されていた(以上第1節)。

 以上の過程で展開された革命観は、以下のような議論の集合体であった。(1)「状況」を根拠にした革命の早期到来論。(2)以下のように主張される「反逆の精神」論。革命は政治・経済状況の悪化とともに、支配秩序に対する様々な批判が「行動」に転化することで勃発する。これをもたらすのが「一握りの少数派」によるアジテーション、さらには「反逆の精神」を持ち革命家を「模倣」する人々による「行動」である、と。(3)「少数派」革命論。これは当初大衆的な組織形態を拒否する少数精鋭組織論であったが、やがて「少数派」としてのプロパガンダ組織・軍事組織論となる。(4)革命が戦争および「敵」に対する血生臭い弾圧の過程であるとする、パリ・コミューンなどの過去の「教訓」を根拠に展開される議論。 (5)こういった主張を正当化する、「ブルジョワの倫理」を否定する議論。(6)革命に際しての武器としてダイナマイトと石油の使用が強調される議論 (以上第2節)。以上の革命観が展開される中でモストは投獄されるが、その間に同紙の運営が組織によって担われた点が指摘され、従来のモスト中心の叙述とは異なる『フライハイト』像が明らかにされる(以上第3節)。

 第2章では、革命観の背景を成すアメリカにおけるアナーキズム運動の形成過程が検討の対象である。1870年代の終わり頃からアメリカ国内では社会主義者たちの路線対立が顕在化し、やがてドイツでの『フライハイト』派と「指導者」派との対立や81年にロンドンで開催された社会革命派の国際会議が、社会民主主義派からの社会革命派の分離を促す(以上第1節)。その後沈滞する社会革命派の運動は、モストの演説活動によって活性化され、ピッツバーグで全国規模の組織(IWPA)結成に結実する。また会議で採択された宣言文が検討され、そこで『フライハイト』側の草案にアメリカ独立宣言の一部やT・ジェファーソンの言葉が加えられた事実が明らかにされ、宣言文が思想の融合の帰結であったと指摘される。さらにIWPAを構成したアナーキストたちの実像が先行研究に基づいて明らかにされ、シカゴの事例から、彼らは当時のシカゴに在住していた大多数の移民労働者と同様の人々だったと指摘される(以上第2節と第3節)。他方、従来否定されてきた『フライハイト』派と労働組合との関係が検討され、まず同紙上での主張やモストと労働組合との関係、さらに革命および未来社会において労働組合が中核を成すというシカゴ・グループと同様の主張が『フライハイト』派によっても展開されていたという事実、さらにはモストが労働組合をIWPAに加入させようとしていたという事実が明らかにされる(以上第4節)。

 第3章で検討されるのは、未来社会論をめぐる議論の中で『フライハイト』紙上で展開された主張である。まず同紙上に掲載された記事がパンフレット『自由社会』にまとめられ、その過程で同紙の支持者から「自由社会」論批判が開始される経緯が明らかにされる(以上第1節)。また、先行研究に依拠しながら、こういった批判者たちが支持した「共産主義的アナーキズム」の成立過程とそれがアナーキズム派の「教義」にまでなるという事実、さらにこの思想をいち早く「教義」として受容したのがドイツ人アナーキストたちだったことが確認される(以上第2節)。次いで「自由社会」論に対する「共産主義者」の批判とモストの反論が検討され、その比較によって両者の相違が鮮明になる。「共産主義者」が未来社会における個人の労働の報酬を拒否して「欲求に応じて取る」という消費の原理を支持したのに対し、モストは労働時間を基準とした個人の労働に対する報酬が必要だと主張した。ただし『フライハイト』側の反論において最も重要なのは、未来社会の細かな描写は無益であり、重要なのは、今すぐにも実現が可能であり、また、社会革命に向けたプロパガンダにも役に立つ未来像を提示することなのだという主張である。このようにして本章の最後では、『フライハイト』派が重視したものが、なによりもまず社会革命の勃発であったと強調される(以上第3節)。

 第4章での分析の対象は、86年5月に起きるヘイマーケット事件前夜までの時期に『フライハイト』紙上で描かれた革命観とその背景である。筆者はまず80年代前半にドイツ語圏で起きた様々な「行動」を検討し、特にシュテルマハーらによる「行動」および彼らが裁判で示した態度が、その後描かれる革命家の理想像のモデルであったと指摘する。また、フランクフルト警察の警視正が暗殺されたことにより、『フライハイト』側でのドイツにおける運動への期待が高まったことが明らかにされる。たしかにこの事件をもってドイツ語圏における「行動」は終息し、運動の拠点のスイスから多くのアナーキストが追放されてドイツ語圏における中心メンバーが失われると同時に『フライハイト』の密輸活動が打撃を受けるのだが、同紙上に掲載されたドイツからの通信や警察報告に基づけば、ドイツにおける運動が終息したとは考えられないのである(以上第1節)。

 次いで筆者は、同紙上での記事を検討し、『フライハイト』派にダイナマイトの製造・使用についてわかりやすく説明できる能力のある人物がいなかったが、それでもダイナマイトの使用が同紙上で推奨され、またその破壊力に対して過大ともいえる期待が表明されていたことを明らかにする。さらにこういった期待の根拠が、当時アイルランド人の革命派によってイギリス国内で起こされていた爆破事件にあり、また彼らを支持する人物によって提案された革命戦術にもあったという点が指摘される。これに加え、ドイツ語圏での「行動」等に関する報道がなされた直後に提案された「新しい革命戦術」が検討され、それまで『フライハイト』紙上で提案された革命戦術や、実際に起きた「行動」が戦術として革命観に組み込まれた結果、従来の革命観が変容したことが指摘される。他方筆者は、こういった革命観という枠組みから様々な事件がどのように解釈されたかを検討し、同紙上で爆破事件などを報じた記事から、「個別の行動」に「反逆の精神」が『フライハイト』側によって見出されていたという点を指摘する。さらに、85年前半に紙上に掲載された暴動などを報じる記事が検討され、同年6月終わりに同紙上で「革命の前哨戦」が始っていると主張された事実が指摘され、こういった主張がなされたのも、革命観という枠組みによって暴動などが「反逆の精神」の発端あるいは発露と解釈されていたからだと指摘される。他方それと同時期、同紙上に連載された記事が集められてパンフレット『革命兵学』が出版される。従来同書は翌年に起きるヘイマーケット事件の「原因」としてのみ取り上げられて来たが、筆者はその内容の検討を通じて、同書がドイツでの「行動」などから得られた「教訓」を基礎としている点を明らかにし、『革命兵学』はそれらの事件の「結果」であったと指摘する。

 さらに、ヘイマーケット事件前夜の86年5月までに同紙上で描かれた革命観が検討される。まず工場占拠という戦術が、一つの事件を「教訓」にして革命観に導入され、これにより従来の革命観に変更が加えられたという事実が明らかにされる。さらに筆者は、占拠された工場を「自由な社会における自由な組織の基礎」だとする主張に注目し、工場や住居の占拠を戦術とすることにより、『フライハイト』側は革命を「戦争」としてばかりか、新たな社会の建設の過程としても描くことが可能となったと指摘する。その後86年4月に同紙上では、ベルギーの多くの都市で同時に発生した暴動がいずれ社会革命に向かうと主張されたが、他方でばらばらの蜂起をまとめあげる「中核」としての少数の人々による武装組織が必要だという「教訓」も得られた。以上の叙述において筆者は、ヘイマーケット事件前夜までには『フライハイト』紙上で描かれた革命観が、実際に起きた様々な事件を媒介にして部分的に変容を遂げていったという事実を明らかにした。こういった革命観が根拠としていたのは革命の早期到来であったため、世界各地で暴動などが頻発しているという事実を根拠に、同紙上では武装が緊急の課題だと主張され、モストは集会の場で武装を訴えたのである(以上第2節)。

 終章ではヘイマーケット事件以降1890年頃までの『フライハイト』を取り巻く状況の変化について、先行研究に依拠しながら概観する。まずシカゴで86年5月に起きたヘイマーケット事件をきっかけにしてアナーキストへの弾圧が開始され、モストがニューヨークで逮捕・投獄されるまでが叙述される(以上第1節と第2節)。次にロンドンで『フライハイト』派と「アウトノミー」派とが分裂し、しかもアナーキズム派によるベルギー国境からの非合法出版物の密輸が中断したため、『フライハイト』が打撃を受けるまでの経緯が述べられる(以上第3節)。さらに、同紙上で主張された「少数派」革命論が1890年まで同紙上でほぼ同じ論理で展開され、従来の革命観が決して放棄されてはいなかったと指摘される。だが92年に同紙上では、「行動によるプロパガンダ」がアメリカでは効果を発揮しないと述べられ、戦術の転換が宣言される。他方ドイツでは鎮圧法が失効し、社会民主党がエアフルト綱領を採択するが、党内では指導者の穏健路線を批判する「青年派」が現れ、彼らの中からアナーキズム運動を担う人々が輩出され、他方「ドイツ自由労働組合同盟」の集権主義的な組織に反対して独自の組織を結成する「地方主義者」からは、アナルコ・サンディカリズム運動の担い手たちが生まれる。彼らの中には鎮圧法時代から『フライハイト』からの影響を受けた人々も少なからずいたと考えられる(以上第4節)。


3、まとめと今後の課題

 『フライハイト』紙上で展開された革命観は、一方では様々な事実によって、他方では「反逆の精神」論や「教訓」などによって根拠付けられていた。こういった革命観の枠組みによって現実が把握されたことにより、小規模な暴動などが革命の序曲として捉えられた。『フライハイト』派は革命が早期に到来するという予測の下、それに向けた「準備」を重視したが、未来社会の青写真を詳細に描くことを拒否し、むしろ未来社会像は革命観の中の一部として描かれた。本論文ではこういった『フライハイト』派の意図を明らかにすることを重視したため、アナーキストや社会主義者の未来社会構想に関する分析や比較を行わなかったが、これは今後の課題である。いずれにせよ、『フライハイト』派によって展開された革命観が、「状況」、さらには革命と未来社会をめぐる様々な議論から構成されていたのであり、それを「極端な主意主義的」などという言葉によってのみ表現できないという点は強調されるべきである。

 他方で既存の政治・経済体制の崩壊もしくは「革命」勃発の時は近いという認識では、ベーベルとアナーキストは一致し、ビスマルクや当時のドイツにおける政治家たちもまた、議会などで公然と同様の認識を明らかにしていた。これらの革命に対する不安や期待を一括して論じることはできないが、パリ・コミューンが当時のあらゆる階層に属する人々が持っていた認識の枠組みに大きく作用していた可能性は高い。たしかに、19世紀全般を通じて政治家や知識人の発言に見られる革命に対する不安は、フランス革命を起点とするものであろう。だが、『フライハイト』紙上で描かれ、為政者たちが恐れた「石油とダイナマイト」による都市の破壊はパリ・コミューン以降の問題である。したがって、革命に関する様々な言説を捉える場合には、そこに描かれる革命のイメージに基づいて、19世紀という時代にいくつかの時期区分を設定していく必要がある。他方、その後も修正主義論争や大衆ストライキ論争に見られるように、社会民主主義者の間で認識の相違があったのであるから、革命の早期到来論が「大不況」以降に消滅、あるいは周縁化したと断定できないと筆者は考えるが、この点は今後明らかにしていく予定である。

 また本論文で筆者は、アナーキズム運動の形成された要因に関して検討できなかった。ただし、資本主義に脅かされたある限られた「後ろ向きの」職業集団に属していたのがアナーキストだったという議論は、アナーキストも社会民主主義者も同じ職業集団に属していたという帝政ドイツにおける現象を説明できない。したがって検討されるべきは、活動家や演説家、出版物、読書サークルを通じてアナーキズム派による様々な議論が「学習」される過程であろう。 ただしそれ以前に、運動の構成メンバーがどのような新聞を読み、そこでいかなる主張が展開されていたかを明らかにする必要があり、この点を筆者は本論文で明らかにしたのである。したがって本論文は、まず帝政ドイツ時代のアナーキズム思想における革命観というイデオロギーの分析であるが、他方では運動を分析するための準備作業でもある。

 アメリカにおけるアナーキズム運動も、『フライハイト』派を論じる際には重要であるが、本論文で筆者はこれについて詳しく検討できなかった。筆者は今後、アメリカ合衆国におけるドイツ人移民とその生活世界の変容を検討し、この点を明らかにする予定である。これに加えて本論文では、1886年以降の『フライハイト』紙上の主張を明らかにすることができなかったが、この作業に筆者は既に着手しており、その成果の一部は終章で明らかにされた。これ以外にも、第一次世界大戦前夜のアナーキズム思想全般に見られる革命観、あるいは当時の政治家や市民層の言説などを筆者は扱えなかったが、本論文で用いられた方法、分析視角によって、今後この点も明らかにすることができるであろう。さらに、もしそれら19世紀における革命をめぐる諸言説が、相互のせめぎ合いの中で立ち現れていたのだとすれば、本論文で明らかにしたアナーキズム思想に見られる革命観は、それらを検討する際に一つの出発点となるであろう。

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