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博士論文要旨

論文題目:中国国民党訓政下の政治改革
著者:味岡 徹 (AJIOKA, Toru)
博士号取得年月日:2007年12月12日

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 中国国民党は、1894年に孫文が結成した興中会を前身とする現代中国における最も歴史ある政党である。同党は孫文死後の1928年に軍事力により北京政府を倒して全国を統一した。
 国民党はその後20年間の訓政を経て、1948年に憲政を実施したが、49年に中国共産党との内戦に敗れて全国政権を失い、台湾へ逃れた。この21年間中国国民党の最高指導者の地位を占めていたのは蒋介石であった。
 国民党の大陸における21年間の統治はどのようなものであったのか、蒋介石ら国民党の指導者はどのように政治を進め、どのような結果を得たのか、それを政治制度とその改革から考えるのが小論の主要な目的である。

 小論は、以下の各章からなる。

序章  国民党政権と政治改革
第1章 訓政の実施と国際環境
第2章 日中戦争以前の党政関係
第3章 日中戦争・戦後時期の党政関係
第4章 地方制度の改革
第5章 省区縮小運動
第6章 日中戦争時期の行政三聯制
第7章 行政三聯制下の党政工作考核委員会
終章  訓政時期の国民党政治

 序章「国民党政権と政治改革」では、1928-1949年の国民党政権が近代中国の富国強兵の課題を孫文理論に基づいて実現しようとした改革主義的な政権であることを指摘した上で、小論の考察課題を以下のように提示した。
 (1)国民党政権の政治改革は多岐にわたるが、小論では政権にとって重要であった党政関係、地方制度および行政効率向上のための改革を取り上げる。行政効率向上のための改革としては、日中戦争時期の行政三聯制と同制度下の改革推進機関である党政工作考核委員会の活動を取り上げる。
 従来の研究は、史料的な制約もあって、こうした改革の実施を指摘するにとどまることが多かった。小論では改革の具体的内容を考察する。
 (2)国民党政権は、孫文が定めた訓政プログラムに従う一方で、日本の侵略、共産党との抗争、当時の経済・文化などの内外環境条件に規定されて同プログラムに背くことがあった。
 従来の研究は、訓政プログラムや内外環境条件の国民党政権に対する制約をあまり考慮していない。さらに孫文の訓政プログラムを「民主」的と評価し、蒋介石がこれに従わずに「一党専制」へ向かったと見る見解も存在する。
 小論は、訓政プログラムの国民党政権に対する制約とともに、その制約に従い切れなかった事情を検討する。またそれを通じて孫文の訓政プログラムの革命理論としての意義も考察する。

 (3)国民党政権を率いた蒋介石は、比較的明確な独自の政治方針を持っていた。蒋は政治体制としては中央集権をめざし、行政体制としては有能な官吏による効率的な行政をめざした。諸改革の検討に際しては、こうした蒋の政治的意図がどのように政策化され、またどこまで実現したかという問題を重視する。

 第1章「訓政の実施と国際環境」においては、訓政が孫文のプログラム通り進んだのではなく、内外環境とくに国際環境の変動の中でさまざまな修正を余儀なくされたことをあきらかにした。
 満州事変、日中戦争といった国際環境の変動は、国民党の訓政に対して、一方で地方自治などの課題の進行を妨げ、他方で憲政の準備を促す圧力となった。
 1928年に成立し、31年の「訓政時期約法」によって一定程度の正統性を得た訓政体制は、満州事変後に動揺を来し、国民党政権は憲法の起草を開始することになった。
 1937年に日中戦争が始まると、訓政プログラムでは民衆を民族的抗戦に動員できないことが明らかになった。そこで国民党は代替プログラムとして「抗戦建国綱領」を制定し、訓政プログラムに背いて他党派の存在を容認した。また議会に似た機関である国民参政会を設置し、諸勢力に国政に関する発言の場を与えた。
 こうした政策は戦争の遂行には一定の効果を発揮したと言えよう。しかし国民党政権はその中心的公約である地方自治を訓政終了までに完成させることができなかった。

 第2章「日中戦争以前の党政関係」では、孫文、蒋介石ら国民党の指導者がどのような党政関係を構想し、実際はどのようであったかを日中戦争以前について考察した。
 孫文が「建国大綱」によって確定した訓政プログラムは国民党に対し、一定期間議会なしに行政府を指揮し、また監督することを課すものであった。
 この訓政プログラムは、国民党と政府の活動に以下の諸特徴をもたらした。
 第一に、党は中央政治会議あるいは中央政治委員会を通じて政府を指揮、監督することになっていたが、個人の政治理想の実現のためには党よりも政府の実権を掌握することが重要であったため、国民党の内部で有力な指導者が行政府の指揮権をめぐって争うことになった。
 第二に、国民党は国民の主権を代行するとされていたが、地方党部は同級の地方政府を指揮、監督することを許されなかった。地方議会がないため、地方党部は選挙を通じて住民と結びつき、また組織を強化することができなかった。
 第三に、政府にとっては、議会がないことは不都合ではなかった。しかし政府は国民からほとんど監視を受けないために腐敗しやすかった。
 政権獲得から1930年代半ばにいたる内外環境も、党政関係また党政軍関係に以下のような影響を与えた。
 第一に、党を頂点とする訓政の形式のもとでは、軍人が行政面の指揮を行うことは本来は認められていなかった。しかし1930年代前半の共産党討伐と対日関係の緊迫化の過程を通じて、党政軍関係の中で軍の比重が次第に増していった。
 第二に、蒋介石は党内権力よりも政府の実権の掌握を重視し、政治改革を通じて政府の権力の蒋個人への集権を進めようとした。これは内外環境の変化に機敏に対処するための現実的な政策という一面を持っていた。

 第3章「日中戦争・戦後時期の党政関係」では、日中戦争時期および戦後の党政関係にそれぞれどのような改革が図られ、実際はどのようであったかを考察した。
 訓政下の党政関係は1937-45年の日中戦争期間に大きく変容した。蒋介石は、中央では効率的な戦争指導のために党機関に軍人や政府官吏を加え、地方では党の人材を政府の業務に生かすことを重視した。前者の例は1937年の国防最高会議、1939年の国防最高委員会といった党政軍合同機関であり、後者の例は1938年以降の省・県レベルの「党政連携」、「党政融化」である。また戦地では「党政軍の一元化」が試みられた。
 これらの政策は、党政軍3者の関係から言えば、戦地においては主として軍に、また戦地以外においては主として政府にそれぞれ権限、資金、人材を集中しようとするものであった。これらは民族戦争を遂行するためにやむを得なかった政策であると言えるが、その実施の現場では軍人や政府官吏がしばしば党に対して優位に立ち、党は政府を十分コントロールできなくなり、政府は腐敗の度を強め、訓政の「以党統政」の原則は形骸化していった。官吏の腐敗は必然的に国民の批判を受け、政権の崩壊の一因となった。

 第4章「地方制度の改革」においては、中央集権的なまた軍事重視の制度の構築をめざす蒋介石らと地方自治の実現を訓政の中心事業として重視する勢力の対抗を軸に地方制度改革の実情を考察した。
 国民党政権はその成立当初から行政効率の向上や地方自治の早期実現を地方行政の主要課題としていた。しかし1930年代に入り、「剿共」や国防の課題が緊急のものになると、集権主義的な地方制度改革が実施されるようになり、とくに基層では自治の準備は停滞し、代わりに保甲という伝統的な治安維持組織が作られるようになった。
 1935年11月の五全大会において、地方自治を地方行政の第一の課題とする方針が決まり、地方自治推進勢力はある程度力を回復した。しかし保甲を自治に組み入れるという独特な地方制度が生まれることになった。
 保甲を自治に組み入れる政策は、日中戦争開始後に「新県制」 として制度化され、実施された。新県制は、孫文がめざした地方自治制度と蒋介石の行政論との妥協の産物であった。

 第5章「省区縮小運動」では、蒋介石が地方実力派の勢力を削減するための省制度改革として取り組み、とくに日中戦争時期に進展した省区縮小運動の過程を追った。
国民党政権成立直後から、蒋介石らは省政府の割拠とそれによる中央統治権の脆弱性を克服する方法の1つとして省区の縮小を企図していた。ただ早期の実現は難しく、そのため蒋介石らは代替策として行政督察専員制度を実施した。
 日中戦争開始後、蒋介石らは省区縮小運動を復活させた。行政督察専員制度が抗戦に貢献したことは、専員制度を省区縮小に発展させる運動の契機となった。また蒋介石に広範な行政権をもたらした国防最高委員会の設置も省区縮小運動を推進することを容易にした。しかしこうした好条件にも拘わらず、戦時下であること、また党内に消極論があったために運動は成功しなかった。
 省区縮小運動は日中戦争終了後も継続された。しかし蒋介石が多数省への分割に固執し、政権中枢で意見の不統一が起きたことにより、運動はやがて消滅した。

 第6章「日中戦争時期の行政三聯制」では、日中戦争時期に行政効率向上のために取り組まれた政治改革である「行政三聯制」の展開過程を検討した。
 「行政三聯制」とは、全ての行政事業に事前の「設計」(計画)と事後の「考核」t(評価)を欠かさないこととし、「設計」、「執行」、「考核」の3段階の緊密な連携とその循環を通じて行政効率の向上を図ろうとするものであった。同制度は1941年に国防最高委員会のもとに2つの推進機関「中央設計局」と「党政工作考核委員会」が成立するのを待って実施されたが、期待された成果を上げるにはいたらず、日中戦争終了後の1947年に両機関が解散すると、事実上廃止された。
 行政三聯制は、その直接の契機は日中戦争という非常事態であるが、本質的には国民党政権成立初期以来の非能率的な官僚体制に対する早晩必要な改革であった。しかし官僚層の抵抗や消極姿勢により、改革の成果は限定されたものとなった。

 第7章「行政三聯制下の党政工作考核委員会」では、行政三聯制の重要部分である評価事業を担当した「党政工作考核委員会」の具体的活動とその成果を考察した。
 党政工作考核委員会は行政三聯制の重要な一環を担い、戦時下の行政改革に尽力した。しかし中央設計局と党政工作考核委員会が既存の各機関の職権を侵して計画を立て、評価を行ったことは、既存の機関および孫文の五権分立論に固執する人々の不満を招いた。党政工作考核委員会の考核能力に対する不信も存在した。
 これらの不満や不信感は、戦争中は押さえられていたが、戦後に政治協商会議が国民政府の改組を決め、さらに国防最高委員会の廃止が決まって、蒋の権力が相対的に低下すると表面化した。こうした新状況の中で、解散する両推進機関に代わる行政三聯制の新機関を設置しようとした蒋の計画は挫折した。

 終章「訓政時期の国民党政治」では、訓政時期における国民党政権の政治改革の結果と意義を大要以下のようにまとめた。
 第一に、国民党は訓政を成功させることができなかった。
 訓政の中心目標は、国民を政治的に訓練すること、具体的には地方自治の実現であった。しかし国民党政権はこれを達成できなかった。
 ただ、訓政の不成功は政権の公約の未達成ではあるが、それがただちに蒋介石の政治的失敗となるわけではない。蒋介石は国内外の諸情勢を見て、地方自治よりも集権主義的な政治改革を選択した。
 その選択はたとえば日本との戦争を戦い抜く上で幾分の効果があったかも知れない。しかしそれは戦後の政権の安定に寄与するものとはならなかった。
 第二に、国民党はしばしば孫文の訓政プログラムを修正した。
 孫文は彼の訓政プログラムにおいて訓政期間における国民の国政参加を認めなかったが、国民党は国民会議、国民参政会などを開催した。
 これらの措置は国内政治の安定や国民の団結を促す効果があったから、誤った選択とは言えない。しかしそのことは孫文の訓政プログラムが現実の政治への十分な対応力を備えていなかったことを意味する。
 第三に、党政軍3者の関係においては、権力の重心が党から政府あるいは軍指導部へ移動する趨勢が認められた。
 蒋介石は行政権力の掌握を重視した。蒋は政権の政策を党組織ではなく、政府機関を通じて基層まで届かせようとした。このために地方の党組織は弱体化し、政府機関を監視することができなくなった。
 第四に、蒋介石の改革の多くは中央集権的な政治体制の構築をめざしたものであった。
 蒋はとくに基層の制度作りに力を入れた。保甲、新県制などはその例である。蒋はそれが中国の富国強兵の道であると考えていた。
 第五に、蒋介石は行政効率の向上のために官吏の質の引き上げを図った。
 蒋はそのために信賞必罰と訓練の2種の方法が必要だと考えていた。行政三聯制とくにその考核分野の制度整備は信賞必罰を確実に行おうという試みであった。しかし蒋のこの政策は広い支持を受けて実現するには至らなかった。
 第六に、蒋介石自身は官吏の汚職防止に関心を寄せていた。しかし官吏に対する外部からの監視のない訓政体制は、官吏の腐敗を招きやすかった。これは国民の政治参加を制限する孫文の訓政プログラムにも原因があると言える。
 第七に、国民党は戦後に独裁政党から普通の政党への移行を確実に行うことができなかった。
 国民党政権崩壊の政治的原因として、しばしば国民党員や官吏の腐敗が指摘される。しかし戦後における訓政から憲政への移行は、国民党にとって20年続いた政府に対する寄生的地位を捨てて普通の政党になることであり、容易な事業ではなかった。
 国民党政権の権威と官吏に対する統率力は訓政終了時に大きく低下した。これが党員の規律の緩みの一因となった。

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