博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:マレーシアにおけるインド人労働者家族の教育問題 ―秩序の維持に果たすイメージの役割
著者:奥村 育栄 (OKUMURA, Ikue)
博士号取得年月日:2008年7月30日

→審査要旨へ

 本稿では、マレーシアにおける主として労働者階級のインド人生徒たちの教育問題に焦
点をあて、それに関してなされる訴えや主張をクレイム申し立て活動としてとらえて考察
した。本稿で焦点をあてるクレイム申し立て活動は、インド人の利益を代表する民族政党
として与党連合の一翼を担うMIC(Malaysia Indian Congress)によって主導されている。
つまりここで扱う事象とは、インド人の利益を代弁する団体という立場から、クレイム申
し立て活動のいわば専門家(政党)によって、既に申し立てられている。MICによるクレ
イムが繰り返し申し立てられることを通じて、クレイムにおいて描かれる当事者たち――
インド人のなかでも特に労働者階級の人びとが中心をなす――のある特定の傾きを持った
イメージが、マレーシア社会を生きる人びとの現状認識の枠組みに深く浸透しているよう
に思われる。クレイムが申し立てられるなかで生みだされ、社会に流布するこうしたイメ
ージは、マレーシア社会において何を成し遂げているのか。これを明らかにするために、
本稿では次の手順で議論を進めていった。
 まず第1章では、本稿で対象とするインド人プランテーション労働者とその教育問題と
はいかなるものであるかを、プランテーション、学校教育、政党政治という3つの異なる
領域から照らしだし、議論のベースとなる理解の共有を試みた。第2章では、民族政党MIC
によるクレイム申し立て活動に着目し、その教育問題に関するクレイム、これと平行して
申し立てられているインド人青少年の社会病理に関するクレイム、そしてタミル語学校の
存続の是非をめぐって他の政党PPP(People’s Progressive Party)との間で生じたクレイ
ムの応酬を分析した。この作業によって、問題とされる状況とその関係者のイメージをつ
くりあげ、それをどう理解し、どう対処すべきかを価値の語彙を用いて指し示す、ある特
定の問題化のやり方をあぶりだそうと試みた。続く第3章、第4章では、筆者が行った現
地調査(世帯調査と生活史)の結果にもとづいて、第2章で分析したクレイムにおいて描
かれるインド人労働者のイメージを相対化しようと試みた。ここでの目的は、ある一定の
手続きを踏んで得たデータを用いて、クレイム申し立て活動を通じて社会に広く流布する
ある特定の傾きを持ったイメージに揺さぶりをかけ、その被構築性を照らしだすことにあ
る。こうした作業を経た上で、終章では、クレイムが提示するイメージを媒介として働く
社会的な諸力と、インド人労働者とその家族の日々の実践が有する意味について考察した。
 ある状況を「社会問題」として定義するということは、個々人の問題経験や生きづらさ
を「社会のあり方の問題」に還元することを意味する。その際、クレイム申し立て活動は
人びとの問題経験を社会へと媒介し、そうした現状の改変を試みる実践となる。しかしこ
うしたクレイム申し立ては、それまで自明視されてきた現状を「あるべきでない」と否定
することを意味し、社会秩序の変化、流動化を拒む社会的な力が作動してその訴えが阻ま
れることもありうる。本稿第2章で分析したMICによるクレイム申し立ての場合、「社会
秩序の変化、流動化を拒む社会的な力」が作動するより以前に、インド人コミュニティの
公的代表として政府与党連合を構成する政党という立場から、その利益の主張をあらかじ
め現秩序に挑戦しないクレイムへと加工したうえで提出していた。つまり、MICの申し立
てるクレイムは、インド人労働者層の教育問題を、社会の現秩序を変えることを求めずに、
単に社会的対処(救済)を必要とする問題として構成していると言えよう。
 また、クレイム申し立てにおいて、「問題」の構成と関わる重要な要素に、その「問題」
の当事者がどのような人物として構成されているのかということがある。MICはそのクレ
イムにおいて、タミル語学校の生徒たちを「被害者」――制御不能な外因的力によって不
当に傷つけられ損害を被った人びととして指名するとともに、不適切な状態のタミル語学
校や家庭にその責任を帰属させ、それによって生徒たちの「被害者化」――ある人物を被
害者として知られ理解されるようにすることを試みていた。そして、タミル語学校と家庭
が不適切な状態にある責任は貧困と無知に帰属されていたが、学校と家庭をそうした状態
に押し留める社会構造的な要因には言及がなく、学校と家庭の貧困と無知については責任
の所在が曖昧化されていた。こうして、貧困と無知のために不適切な状態にある学校と家
庭の被害者性は、その貧困と無知の責任の所在が曖昧であるがゆえに脆弱で、「完璧な被害
者」から離れたところに位置づけられている。そのうえ、生徒たちを犯罪者やギャングの
予備軍として言及することにより、彼ら自身が「無垢な被害者」という地位を獲得するこ
とをも困難にしている。
 MICのクレイム申し立て活動は、インド人コミュニティの末端の人びとに代わって彼ら
が経験する諸問題について訴え、政府から何らかの対応を引きだすための公式なチャネル
として位置づけられている。しかしMICのクレイムでは、学校・家庭・生徒各々の被害者
としての地位の正当性が不徹底にしか根拠づけられていない。つまり上記3者は、被害と
責任の観点からみて両義的な存在として位置づけられているため、マレーシア社会におい
て広く共感を取り付けて義憤をかきたてることに失敗しており、これら3者の被害者とし
ての地位は「自業自得」という問題の定義さえされかねない脆弱性を帯びている。そして、
その無力さと不適切さのゆえにMICをはじめとする様々な社会団体の介入を招き、代弁さ
れ、チャリティーの対象とされ、補習やモティベーションコースなどを通じて「適切化」
が図られている。つまりMICのクレイムにおいて学校・家庭・生徒は、一方では監視と統
制および適切化の対象として、他方ではチャリティーや救済の対象として描きだされてい
ると言えよう。
 他方、本稿の第3章、第4章の世帯調査や生活史の結果からみえてきたものとは、イン
ド人プランテーション労働者とその家族の自助努力と言えるような日々の生活実践の方向
性であった。父母たちは低賃金や不安定な就労環境を補完すべく、夫婦どちらかがより賃
金の高いプランテーション以外の職を求めたり、副業をしたり、野菜や果物の栽培や家畜
の飼育によって生計を補うなど、さまざまな試みを実践していた。そうして貯めた資金な
どを元手に、プランテーションでの就労を維持しつつ住宅地に移り住んだり、状況が許せ
ば住居の移転とともに退職したり転職したりして、彼らの望む生活環境の実現を各々のや
り方で試みていた。また、子どもたちの「より良い生活」を学校教育を介して実現しよう
とする傾向も、年齢が下るにつれて強まっていることが世帯調査の結果で示された。子ど
もたちの「より良い生活」として、自分たちのような肉体労働ではなく事務職などに就く
ことを望む父母が多く、そのためには学歴が必要だと考えられていた。そして、放課後や
休日に補習塾へ通わせるだけでなく、試験に失敗して進学できなかった子どもを私立の教
育機関へ通わせたり、試験に再度挑戦するために待機することを許容するなど、即座の就
労によって家計を補うことを期待するといった短期的な目標の代わりに、家計の補填が得
られないだけでなく更なる出費を要することも厭わず、より長期間の学校教育を子どもに
受けさせようとする例もみられた。このように支配的な文化にすりより、ひとりだち過程
を学校化させることを通じて、子ども世代のより良いひとりだちを準備するという選択を
する傾向が世代を下るにつれて強まっており、こうした彼らの努力の方向性は、MICのク
レイムにみいだされた自助努力の呼びかけにも呼応する態度と言えるだろう。
 彼らの選択した努力の方向性――支配文化の模倣は、必ずしもその模倣した内容に信を
おいているとは限らず、それを利用して自らの威信の増大を計る「自己拡張」に向けた戦
略の一部とみなすことも可能であろう。そうであるとしても、模倣という行為をすること
それ自体が支配的価値の生成に関与し、同時に自己の内面にその価値の侵食を許してしま
う側面がある。また、努力の目標が同じ方向に向かったとしても、得られる結果は当然一
様ではないが、生活史の対象家族にみたような学校教育における成功例は、彼らの考える
子どもたちのより良いひとりだちを準備する一方で、現秩序への正当性賦与に加担する側
面も併せ持っている。こうした事例は、ブルデューが論じた文化的再生産論にとっても、
理論の反証になるというよりむしろ、学校が社会移動を促進するというイデオロギーに信
憑性を与え、社会的再生産の構造をさらに安定化するものである。以上みてきたような労
働者家族の努力の方向性――生きづらさへの個人的対処は、そうした経験を「社会の問題」
ではなく「個人の問題」として定義し、それを社会のあり方を問い直すことへと接続する
可能性を斥けることにもなる。
 上にみてきたように、MICのクレイムは「社会を問題」とするのではなく、逆に学校・
家庭・生徒たちを「社会の問題」として構成しており、変わるべきは社会ではなく問題の
当事者だとの認識を、MICのクレイムとそこで描かれる人びとのイメージそれ自体が世間
に広め浸透させてきた。MICは、マレーシアの教育制度や政策、ひいてはマレーシア社会
全体のありように対して異議を申し立てることを避けながら、問題とされる状況の「問題
性」を矮小化し、コミュニティ内部に囲い込むことにより、その「問題性」を予め虚勢し、
無害化したうえでマレーシア社会に提出してきた。こうして、マレーシアの現状を否定せ
ず異議を申し立てないことと引き換えに、同情すべき「かわいそうな」インド人に対する
救済を政府に対して求めてきたと言えよう。これと並行して、インド人の社会病理につい
てもしばしば言及してきたMICは、「怖い」インド人を社会の然るべき位置へ迎え入れる
べく「適切化」することを請け合い、マレーシア社会にとっての脅威が拡大することを防
ぐ役割をも引き受けてきた。こうしてMICは、インド人コミュニティの「利益の代弁者」
という名の「監督者」として、与党連合におけるその存在意義を確保してきたと言えよう。
このようなMICの問題化のやり方は、インド人の教育問題を根本から解決することを志向
しないにもかかわらず、少なくとも常に問題に言及するMICのポーズが、インド人の不満
が爆発することを防ぐ安全弁の役割を果たしてきた。また、マレーシア社会の既存の秩序
を維持・再生産することに加担してしまうような、世帯調査や生活史でみたインド人労働
者の努力の方向性が、マレーシア社会とインド人コミュニティとを媒介するMICのやり方
を意図せずして下支えしてきたとも言えよう。
 さらに付け加えるなら、インド人コミュニティの主として中間層からしばしば提起され
るタミル語学校不要論に対し、タミル語学校の守護者を自認するMICは、そうした主張は
扇動法違反であり、議論すらすべきでない敏感問題だとして、議論自体を封じ込めること
を繰り返してきた。このように、インド人コミュニティにおける教育問題の議論がタミル
語学校の存続の是非に終始することにより、教育問題をコミュニティ内部に囲い込み、イ
ンド人以外のマレーシア人がそれを「他者の問題」として傍観することを許す状況をつく
りあげてきた。こうした存続の是非をめぐる議論を通じて、MICのみならずPPPやインド
人中間層も、問題の囲い込みに加担してきたと言えよう。その一方で、国民学校や中等学
校での教育実践上の問題は、タミル語クラスの実施に関わること以外、MICだけでなくイ
ンド人コミュニティにおいてもあまり議論の遡上にのぼってこなかった。つまりそこには、
あくまでインド人生徒に関わる問題に議論を特化し、他の民族に関わるような問題、ある
いは他の民族政党の領分に踏み込むような問題には極力言及しないという、いわば相互不
干渉の原則が浸透しているように思われる。こうした対処の仕方が特化する背景には、国
家の権力装置や民族間の関係に関わる現状への異議申し立てをタブー化し、排除する、マ
レーシア社会全体のありようがある。しかし、こうしたタブーに切り込む危険を冒さずに、
秩序を維持・均衡させる方向へと働く社会的諸力を突き崩すことはできないだろう。
 上述のようなタブーに切り込む危険を冒す異議申し立ての動きが、インド人コミュニテ
ィにおいて全くみられない訳ではない。2007年11月25日、Hindraf(Hindu Right Action
Force)という団体による集会の呼びかけに応じて、報道によれば数千人とも1万人を越え
るとも言われるインド人たちが首都に結集した。Hindrafの主張を要約すれば、独立以来
50年に渡る、マレーシア政府によるインド人およびヒンドゥー教徒に対する差別的処遇に
対して異議を申し立てるものであった。Hindrafの主張は、これまでのマレーシア社会のあ
り方に異議を唱え、問題を「個人/特定の民族の問題」ではなく「社会のあり方の問題」
として定義し、既存の秩序に対して変更を迫るものであった。またHindrafは、これまで
のMICを介したインド人に対する政府の対処を「マンドール制度」だとして、Hindrafの
要求を実施するに際してMICが関与しないことを求めている。ここで言う「マンドール制
度」とは、プランテーションの職階におけるマンドール(mandor)――雇用者の下で労働
者たちの労働を管理する監督職にMICを擬し、MICがインド人コミュニティの声を「代弁」
し利益を「代表」するのではなく、インド人を「監督」する役割を果たして政府与党に貢
献してきたことを的確に指摘し、独立以来50年に渡って不動であった社会のあり方に異議
を唱えている。このHindrafの起こした波は、2008年3月8日に実施されたマレーシアの
総選挙で、総裁をはじめとするMICの主要メンバーから議席を奪い、MICの大敗を帰結し
た。
 既存の国家秩序に対して異議を申し立てる行動にでるのは、相当なリスクを伴うもので
あり、容易なことではない。しかしHindrafは、政府与党を公然と批判してインド人の権
利を主張し、果敢にもマレーシア社会におけるタブーに挑戦した。それだけでなく、少な
からぬインド人票が野党に流れたことからも、MICが敗けた場合、与党連合においてイン
ド人を代表する既存のルートを(「監督」としてしか機能していないとしても)失ってしま
うという恐れを越えた人びとの決断が、上記の選挙結果に現れていると言えるだろう。た
だし、Hindrafによる問題提起の方法は、例えばヒンドゥー教徒に対する差別というくくり
方をした場合、「宗教差別」として他の宗教者の共感を得る可能性がある一方で、「宗教間
の対立」という構図に飲み込まれる危険性もあわせ持っている。また、マレー人だけでな
く、インド人に対してもアファーマティブ・アクションをと主張した場合、従来のマレー
シア政治におけるコミュナリズムの轍を踏み、結局「パイの奪い合い」に転化してしまう
恐れもある。Hindrafの今後の展開の鍵は、民族や宗教の違いを越えて共感を獲得できるよ
うな問題の普遍性をみいだし、それを人びとに提示できるか否かにかかっているように思
われる。
 本稿では、インド人の教育問題をめぐってなされるMICによるクレイム申し立て活動や
PPPなどとの議論の応酬を通じて、問題が矮小化、無害化され、コミュニティ内部に囲い
こまれるとともに、当該の人びとが「怖い」「不適切な」「救われるべき」者たちという像
を結び、語られ、救われ、適切化される「客体」として位置づけられる過程を明らかにし
た。このように、問題や人びとがいかに構築されているかを解体して示したうえで、さら
に「怖い」「不適切な」「救われるべき」者たちとされてきたインド人労働者とその家族の
日々の暮らし方、生計の立て方、子どもの将来への備え方といった小文字のリアリティの
断片を積み重ね、それによって、上述のようなある特定の傾きを持って世間に流布する彼
らのイメージを相対化し、その被構築性をあぶりだすことを試みた。インド人労働者とそ
の家族の暮らし方からみえてきた像は、MICのクレイムを通じて流布するイメージとはず
れのあるものであったが、しかしその努力の方向性は、社会をあるべきでないと否定して
問題を社会化することにつなげるものではなく、むしろ問題を社会化することを避けるよ
うなMICによる問題の囲い込みを下支えし、社会の現秩序を維持・再生産することに意図
せずして加担してしまうものであった。こうしたインド人コミュニティ内部の相互作用を
通じて問題が「コミュニティの問題」として構成されることにより、「あるべきでない」と
否定されるのはマレーシア社会ではなくインド人コミュニティや労働者たちとなり、マレ
ーシア社会全体は問題の当事者となることなく傍観者であり続けることを可能にする。そ
してMICは、こうした過程を通じて、インド人コミュニティに対しては政府与党における
コミュニティの「代表」として、政府に対してはインド人コミュニティの「監督」として、
その二重の役割と存在意義を獲得し維持することに成功してきた。
 本稿での作業は、インド人の教育問題をめぐって何が起こっているのか、それはどのよ
うな社会的意味を有するのかについての合意を導くべく、クレイム申し立て活動とそれに
よって構築される「問題」や「人びと」を解体し、さらに人びとがいかに「客体化」され
ているかを解きほぐすことにより、問題が構成され維持される仕組みを明らかにした。こ
れを踏まえて次に展開すべき課題とは、本稿でこれまでみてきたような、問題を個人やコ
ミュニティの内部に囲い込み、社会のあり方を問い直す契機を阻むような社会的諸力の相
互作用のなかで、ある特定の個人やコミュニティのあり方に問題を還元するのではなく、
社会のあり方を問い直すことを可能にし、問題を「個人の問題」から「社会の問題」へと
つなげていくような回路を模索することであるだろう。

このページの一番上へ