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博士論文要旨

論文題目:妊娠をめぐる葛藤 ――ドイツにおける妊娠中絶に関する法、社会実践と生命環境倫理
著者:小椋 宗一郎 (OGURA, Soichiro)
博士号取得年月日:2008年7月30日

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本研究の目的は、ドイツにおける妊娠中絶に関する法、社会実践と生命環境倫理の成立過程とその特徴を明らかにすることである。「妊娠葛藤」および「人間の生命」をキーワードとして、その意義を法的、社会的、倫理的側面から学際的に検討する。その際、ドイツにおける妊娠葛藤相談における「相談(Beratung)」、ヨーロッパ思想史とキリスト教思想における「人格(Person)」概念等の意義をドイツの文脈に即して明らかにすることが必要となる。

第1章においては、1993年5月28日の連邦憲法裁判決(「第二次堕胎判決」)における「妊娠葛藤」概念に注目し、「相談規定」と呼ばれるドイツにおける現行制度の成立史と根拠付けについて考察する。そのため、まずドイツ統合前の妊娠中絶に関する法制度、つまり旧東ドイツにおける「期限規定」と旧西ドイツにおける「適応規定」について概観し、そこでの歴史的経験を描き出す(第1節)。つぎにドイツ統一をきかっけとした両制度の統合への経緯を追う(第2節)。「妊娠葛藤」概念は、その結果成立した「相談規定」の根拠づけにおいて、鍵としての役割を果たしている。本研究では、1993年の連邦憲法裁判決が提示したその根拠づけの内容を跡付ける(第3節)。しかし同判決で強調されている女性の「最終責任」および刑法の予防的効果(第4節)に関しては、妊娠した女性と胎児とが「二つが一つ」と言うべき一体性をもつことを重視する立場から反対意見が述べられている(第5節)。当事者間の法的地位を国家、胎児、女性という三者関係として捉える多数判決に対して、国家と女性、女性と胎児という2つの関係として捉える少数意見が対立する。つまり、多数判決が国家と胎児の直接的な関係を前提するのに対して、少数意見が妊娠初期におけるそうした直接的関係を認めないのである。胎児の生命保護をはかるにあたって、後者が「女性は対話のパートナーであって、請求権の相手方ではない」と述べるのも、胎児と女性との一体性が重視されるためだ。最後に、パートナーや共同体の義務、および「女性の自己決定権」の法的取り扱いについて触れ、「未出生の生命の保護は母親と共にだけ可能である」という観点から妊娠中絶に対する社会的取り組みが要請されていることを確認する(第6節)。
第2章では、そうした社会的取り組みが具体的にはどのようになされているのかを明らかにするため、その問題点を含めたドイツにおける「妊娠葛藤相談」の現状について検討する。制度上、妊娠葛藤相談は「生命保護」を目的としているが、同時に相談は「結果を問わない」ものでなければならないと規定されている(第1節)。ところが、ここには「相談」というものの本質に関わる矛盾が含まれている。本来自発的な対話であるべき相談が、妊娠中絶が処罰されないための法的要件として強制されるということが、実際の相談において困難をもたらしている。しかし現場のカウンセラーたちは「率直さ(Offenheit)」を旨とする努力によってこの困難に立ち向かい、妊娠した女性、ひいては胎児の生命保護のために尽力している(第2節)。本研究では、さらに相談現場での女性たちの声に注目し、彼女たちが抱えている妊娠をめぐる葛藤の内実を、現実に即して検討している(第3節)。
第3章では妊娠葛藤の社会的背景に目を向け、中絶を引き起こしうる要因について検討する。まずニュルンベルクの妊娠葛藤相談を訪れる女性たちが挙げた中絶理由について検討し、パートナー関係と経済的な要因が特に重要な位置を占めることを確認する。またキリスト教系の相談所と公営の相談所、それ以外の相談所においては、それぞれ特色を生かした援助がなされていることを指摘する(第1節)。つぎに、とりわけ離婚と養育費支払いに着目して、ドイツ社会に生きる女性たちの状況について見る。ここでは、「豊かな社会」であるはずのドイツにおいても、特に女性たちにおいて深刻な貧困の問題が浮かび上がってくる(第2節)。さらに、ドイツ統一という歴史的変化が旧東ドイツの女性たちの生活へともたらした影響を取り上げる。旧東ドイツ地域の急激な出生率低下の背景には、時代状況の変化によって失業や育児の困難さへの不安をかかえ、不妊手術によってでも出産を抑制しようとした女性たちの姿を見ることができる(第3節)。さて、妊娠中絶の要因に関しては、「ドイツ健康啓発センター」による報告書『女性たち、生きる(„frauen leben“)』(巻末資料2を参照のこと)をもとにして、パートナー関係上の問題や経済的な問題が及ぼす影響、また旧東西ドイツ地域によるそれらの違いについて整理する(第3節)。最後に、現代における出産や子育てをめぐる困難と妊娠中絶との関係について考察する。現代における「個人化」がもたらした子育て家庭の孤立、業績主義や競争社会がもたらした経済的ないしは時間的な子育ての困難さなどが、ドイツにおける出生率低下の要因とされている。妊娠中絶に関して経済的要因などは間接的な役割しか果たしていないと言えるにもかかわらず、妊娠葛藤相談などの機会を捉えた出産や子育てへの援助が、現代において喫緊の課題であることを指摘する。中絶問題を媒介として、出産や子育てに対する国家や社会および男性の責任が問われていることが明らかとなる。

以上第1部では現代ドイツにおける法制度と社会実践について論じたが、第2部ではそうした法制度や社会実践へとつながる思想史的経緯にまで遡って考察する。
第4章ではドイツの哲学者ローベルト・シュペーマンの議論に依拠して、「人格(Person(ペルゾーン))」の概念史と倫理学的意義について論じる。第1節では、まず「人格」概念の基本的意味を明らかにする。「人格」あるいは「人」と訳すべきペルゾーンという言葉には、人数を表して「8人(acht Person)」と言う時のように、人間的特徴などを含まない全く抽象的な用法がある。しかしまた“彼は堂々たる体格の人だ(er ist eine stattliche Person)”と言うときのように、何らかの特徴をそなえた具体的な〈人物〉を表す用法がある。しかもこうした「人格」は、単にそれ自身として人格であるのでなく、他者からの「承認」を構成的要素として成り立っていると言える。第2節では、こうした「人格」概念が、どのような思想史的文脈から生まれてきたのかが問題となる。本研究では古代ギリシャ、ローマ、キリスト教思想における「人格」の概念史をたどってゆくが、ここでも現代の人格概念に対応するものを見出すことができる。第一に、演劇における「役」や社会的地位を表す「ペルソナ」の裏側には、演じている本人や人間としての理性的な「本性(Natur)」が考えられる。ここでの人格概念は仮面の裏側の人やその本性を抽象的に指し示している。第二に、キリスト論において、イエスが具体的な「誰か」として捉えられることによって、「何」であるか――神であるか人間であるか――という問いを超えて、それらの本性をもつところの個別的主体として位置づけられる。第三に、三位一体論において、神の三つの「位格(Person)」がそれぞれ独立に存在すると同時に、相互に浸透しあうことによって完全な共同性をなしているという構造が示される。これが人間にも当てはめられるとするならば、もろもろの個別的な人格が、普遍的な理性的本性をもつことによって、〈人類〉というひとつの共同体を形成することになる。したがって、「理性的本性をもつ」人間である限りは「人格共同体」の一員として承認され基本的諸権利をもつ。こうした人格の思想が普遍的人権論の基盤となっており、第3節で取り上げるピーター・シンガーなどによる「パーソン」概念への反論においても主要な論拠として提示される。シュペーマンによれば、少なくとも生物学的にヒトに属する個別的存在者は「理性的本性をもつ」のであり、「人格共同体」の一員としての承認を要請している。これは、人類が互いに「親族関係」をもち、人間としての動物的本性が「人格の実現の媒体」として働くことに基づいている。したがってシンガーが言う「種差別」には当たらないとされる。また、子供は人格的な「配慮(Zuwendung)」を経験することによって始めて人格として発展するのだから、人格的特性が現に示されていることを人格であることの規準とすることはできない。さらに、人間の「通常性」から外れているからといって、たとえば重度の知的障害をもつ人を人間とは別の「生態的地位(エコロジカル・ニッチ)」を占めるような他の種類の動物とみなすことはできないのだから、かれらを人格共同体から排除することはできない等の論拠が示される。第4節は、人類史の観点を示唆しつつ、こうした人格の思想と普遍的人権論の意義について概括している。
第5章では、一方では人格の思想が妊娠初期の胎児の生命権と堕胎の禁止の主張へと結び付けられたことに対し、他方では1970年台以降の女性運動が異議をとなえてきた歴史について概観し、さらにドイツの中絶論争と近年の生命環境倫理学との関連について考察する。まず第1節では、前章に引き続きシュペーマンおよび他の生命保護派の主張を取り上げる。上述の思想史的ないし理論的考察のレベルでは、(少なくともドイツにおいては)比較的広範な同意をえられる基本的理解を示したのに対して、現実に直面した実践的レベルでは、(現在から見れば)根拠の薄い憶測や、時に冷静さを欠くともとれる言説によって、その批判者と激しく対立するさまを見ることができる。次に第2節では、「女性の自己決定権」などの主張を掲げた女性運動を取り上げる。激しさを極めた70年代の運動を通じて、女性の「解放」や中絶の「権利」といった主張は、多くの誤解にさらされた。そうした議論の混迷の中から、中絶問題における「責任」と女性の「自己決定」の意義が次第に明らかにされてきた過程を描き出す。第3節では、生命保護派の言動に対して根本的な異議を唱えたバーバラ・ドゥーデンの所論について検討する。彼女は「身体の歴史」という観点から、胎児の「視覚化」を通じたわれわれの認識の変化、そして解剖学や医療による女性の身体への介入が強化されてきた歴史について述べている。これによって視覚的表象や専門用語が本来の意味とは離れたかたちでメディアなどに流通し、「生命」という観念がイデオロギー性を帯びるさまが明らかにされる。これをふまえて、第4節ではカトリック教会の立場と2002年のドイツ連邦議会“現代医療の法と倫理”審議会最終報告書(以下、「“法と倫理”審議会」と呼ぶ)の立場とを検討している。カトリック教会が生物学的概念を用いて「人間の生命」に対して積極的に「人格」としての宗教的および倫理的意義を付与するのに対して、“法と倫理”審議会はすべての「人間の生命」に保護されるべき価値を認めながらも、その保護を何らかの形で制限する議論に対して消極的かつ批判的に吟味するという方法をとる。またドイツの公共的議論が妊娠中絶をめぐる上記の論争をつうじて議論の慎重さと公共的な合意形成の重要性を学び取ったことは、ドイツにおける今日の「生命環境倫理(ビオ・エーティク)」に対して大きな役割を果たしていることを指摘する。

以上、法律から論を起こして社会制度について展開し、いったん思想史へと話を転じた上で倫理学として全体を総括するという流れである。「妊娠葛藤」とは、「相談規定」を法的に正当化する概念であったとともに、現代における出産や子育てをめぐるさまざまな困難を反映した現実的な葛藤であるといえる。相談などを通じてそうした困難が明らかにされることは、“産める社会”を築くためにも重要な可能性を開くものだと言えるだろう。「人間の生命」を尊重することは人格的共同体としての人類の基盤となるものである。しかしまた、それをどのように成し遂げてゆくべきかという実践的な問いに対して真摯に向き合い、行動に移してゆくことが要請される。妊娠中絶をめぐるドイツの歴史には、生まれてくる子どもたちの将来を考慮しながら行為すべき――個人的および社会的な――われわれの責任が示唆されている。

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