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博士論文要旨

論文題目:明治前期地方編制と町村概念の転換
著者:荒木田 岳 (ARAKIDA, Takeru)
博士号取得年月日:1999年3月26日

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【論文の構成】


第一章 明治前期地方編制と町村概念の転換
 はじめに
 第一節 近世的町村の性格とその改編課題
 第二節 明治前期地方編制=「過渡期」説
 第三節 町村規模の地域的格差と「戸長管区」の運用
 第四節 「近代的町村」の形成
 小括

第二章 近世的地域支配とその動揺
 はじめに
 第一節 日本近世における身分制と「役の体系」
 第二節 「役の体系」と近世的地域支配
 第三節 都市における地域支配の展開(長岡城下を例に)
 第四節 農村における地域支配の展開(古志郡栃尾組を例に)
 第五節 近世的地域支配秩序の動揺

第三章 戸籍法の歴史的位置
 はじめに
 第一節 幕末維新期の京都における政治課題
 第二節 維新政府の対応
 第三節 京都府戸籍仕法の「前史」
 第四節 京都府戸籍仕法の編製原理
 第五節 統一戸籍法(壬申戸籍)の編製原理
 小括

第四章 「役の体系」の解体・再編と行政区画制
 はじめに
 第一節 「役の体系」再編の課題
 第二節 軍制の再編と徴兵制
 第三節 「学制」の展開
 第四節 「空間の斉一化」「身分の平準化」と地租改正
 第五節 「役の体系」の解体・再編と行政区画制再編の条件
 小括と展望

第五章 「大区小区制」の成立過程と学校行政
 はじめに
 第一節 戸籍法の施行過程
 第二節 太政官布告第一一七号の解釈をめぐって
 第三節 学校行政の展開と行政区画再編の課題
 第四節 大蔵省布達第一四六号の成立とその解釈
 第五節 一般行政区画と学区の糾合
 小括と展望

第六章 「大区小区制」下の町村合併と郡区町村編制法
 はじめに
 第一節 広域行政の課題と町村の「合併」「連合」
 第二節 町村規模の不均等発展と「大区小区制」の性格
 第三節 町村編制の地域的差異
 第四節 三新法体制への視座
 小括と展望

第七章 新潟県(旧柏崎県)古志郡における行政区画制の展開
 はじめに
 第一節 古志郡域における管轄と支配機構の変遷
 第二節 長岡における「戸籍区」と「大区小区制」の展開
 第三節 栃尾郷における「戸籍区」と「大区小区制」の展開
 第四節 三新法体制期における行政区画制の展開
 第五章 連合戸長管区制期における行政区画制の展開
 小括

第八章 市制町村制と「城下町」の再編
 はじめに
 第一節 町村大合併の課題
 第二節 市制町村制における都市再編の課題
 第三節 町村合併をめぐる軋轢(新潟県内の旧城下を例に)
 小括

総括と展望


【論文要旨】

 「国民国家の終焉」が語られて久しい。それは歴史学にとどまらず、社会科学全般にわたる傾向であり、そのことが国家の枠組みから議論を解放した意義は大きい。しかし、そこでは国民国家に代わる新たな枠組みが、未だ具体的に提示されていないように思われる。あえて深読みするなら、「ナショナル」「トランスナショナル」のレベルではなく「サブナショナル」のレベルに打開の展望が期待されているようである。そうした事態を反映してか、現在、多様な意味での「地域研究」が隆盛を見せている。

 しかしながら、そこでの地域概念は、先験的に用いられており、「地域」とは何かということが、それ自体としては、あまり問題にされていない。あえて国内の例で語るが、都道府県、区市町村から町内会等々に至るまで、想定されうる社会集団の多くは、国家権力によって何らかの刻印を与えられている。明治期以来、あるいはそれ以前から、地域社会は権力によってさまざまに編制され、改編されてきた。少なくとも、20世紀は間違いなく「国家の時代」である。この時代において、国家を離れて地域概念を模索することは不可能であるし、国民国家に代わる新たな社会への展望は国民国家を追究することの延長上にしかありえないというのが筆者(荒木田)のスタンスである。

 「国民国家の時代」において「地域」を考える際には、まず何より、(1)国家権力が地域をどのように把握しようとしたかということ、次に、(2)住民が地域をどのように考えているかということ、そして、(3)その上に築かれる「ある実体としての地域」という、およそ3つほどのレベルが考えられる。そのうち、本稿では(1)を中心に扱う。よって、「町村概念」といったときには、「権力が町村をどのように把握しようとしたのか」という点が問題になる。

 上述のように、本稿では町村という「地域」を考察の対象とする(府県や郡区については主要な考察対象としない)。幕藩体制期においても、そしてまた明治地方自治制施行後においても、「町村」は統治の上で重要な位置を占めている。しかし、両者間には規模・機構・性格の上で大きな隔たりがある。「幕藩体制期の町村」から「明治地方自治制期の町村」への移行は、「町村概念の転換」とでも呼ぶべき重大な変化であり、このような変化がいかにして達成されたかを、地域支配のありよう、とりわけ行政区画に着目して検討することが本稿の課題である。結論的に述べるなら、町村の行政的機能に着目し、明治前期地方編制を、「近世的町村」すなわち「役負担町村」から、「近代的町村」すなわち「機関委任事務町村」への変容過程として把握する試みである。こうした方法は「権力」側から地域を掌握する見方であり、近代以降を考える場合にも、確立した集権的統一国家を「与件」とし、「地域」がパッシブにイメージづけられるという限界を内包するものと批判されるかもしれない。しかし、あえて本稿でこのような方法を採用する理由は、それが権力と地域をめぐる緊張を捉えるためにはいまだ有効であると考えるからにほかならない。

 この点について詳しく述べよう。従来の地方制度史研究は、「地方自治制度史研究」という位置づけで深化させられてきた。ここで「自治」という言葉は、ある団体が他の団体から自立した、自己完結的なイメージを喚起する。しかし、「地域」は権力から完全に自立して存立しているわけではない。それは、近世のような封建割拠の時期においても同様である。むしろ、権力と「地域」の関係性、ないし緊張こそが「地域」に「意味」を与えるのである。さらに敷衍しよう。従来、「中央」と「地方」の対立を前提に、中央の決定に対して地方はパッシブであるという論調が一般的で、近年、そのことへの反省として、「地方にも自治があった」といった議論が提起されている。一見、正反対の主張に思えるそれらの議論であるが、双方とも、中央と地方を切り離して、相対的に独自のものとして捉えるという点で方法を共有している。

 しかし、そのような観点では、「制度」を国家権力の属性として捉えることになり、地方制度は「上から」押しつけられ、いつも地域住民に対して敵対的なものである、と位置づけられはしないか。とすると、そこからは「制度を地域住民の手に」という観点が欠落してしまうのではないか。確かに、明治政府が「制度」を媒介して「地域」を強権的に統合しようとしたのは事実である。その意味で、国家を「階級抑圧のための暴力装置」と捉えることは依然として正しい。にもかかわらず、国家も、「地域」(インターナショナルからサブナショナルまで含めての)が抱える具体的な条件や可能性から自由に政策を遂行できたわけではない。この意味で、「地域」も、そして「権力」も、それぞれ他方から切り離されて存在しているのではない。地方統治の方法は、「権力の抱えた課題」と、当該地域住民の主体的な関わりも含む「地域をめぐる条件」に規定されるからである。よって、「自治」か「官治」かという二項対立ではなく、両者の関係性から地方制度の意味を読み解いていく作業が必要であろう。権力に着目するのは、その「関係」を考える上で、地域の改編にとってより主導的な影響力を持っていたと考えるからである。

 さて、本稿では、各段階において、法令を通じて社会を捉えようとする「法制史」的なアプローチを採用している。同時に、「共同体」や「自然村」の問題は意識的に回避した上で議論している。昨今の「社会史」的な方法が批判的に明らかにしているように、このような方法では「こぼれ落ちる」事象が多いことは自覚しているし、もとより明治前期の社会のすべてを本稿のフレームで理解できるとも考えていない。しかし、「社会の骨格」の構造を描き出すには有効な方法であろうと考えている。「自然村」という議論に関わって、本稿で「役負担町村」、「機関委任事務町村」というとき、それはある時点での町村の姿を想定しているのであって、町村のオリジナルな形態、あるいは最終的な形態とは考えていない。「本来的な町村」であり続けることを追求すれば変化していくことが否定され、変化することを肯定すれば「本来的な町村」から逸脱していく。こういった方法は本稿の採用するところではない。ここでは町村を「不断の生成過程」として捉えたい。よって、本稿においては「自然村」という言葉は使用しない。

 以上の問題意識において、「明治前期地方編制」とその意味についての検討を行った結果、以下のことが明らかになった。

 まず、明治前期地方編制に先行する「近世的町村」の性格から確認する。「近世的町村」の性格には、近世的地域支配のありかた、ひいては近世における社会編成原理が投影されている。近世には「役の体系」を介した分業構造と、その「身分」としての定着が実現されており、おおよそではあるが、身分ごとに、「空間」的に「棲み分け」がみられ、基本的に他身分との間は「没交渉」であった。原則として身分間の「社会移動」が認められていないため、「身分」は、出自によって超えられないものと観念されていた。そして、そのことを肯定・正当化する論理として、さきの「役」のような「名分・職分」的観念が作用していたのである。「近世的町村」は、以上を背景として編制されていたのであるが、その特徴は、(1)支配系列により幕府直轄領、藩領・旗本領、御料地、寺社地などに分かれており、(2)土地と身分が不可分であり、その反映だが、町方(町)と地方(村)の差別化、さらにそれらの内部における序列、武家地、町人地、寺社地などの差別が存在、(3)支配が入り組み、「飛び地」「地籍錯雑」が多く存在し、(4)「無地」「無高」「無民戸」から1000石以上まで規模の多様性があり、(5)ただし、概して小規模であり、(6)「国土」の全体を覆いつくしていない、と要約できよう。そのような町村を、本稿では「役負担町村」と呼んだのである。

 しかし、江戸中期から「役の体系」は弛緩しはじめ、身分ごとの空間編制も崩れはじめる。「役の体系」からこぼれ落ちる人口が増加し、幕府・諸藩はその再編を迫られる。そこでは組合村の設置、貢租の戸数割負担採用、役外者の五人組への組織など、近代へつながるような施策もみられるが、特権・差別を前提とした身分制社会そのものの生み出す矛盾の広がりが支配を動揺させていく。そしてそれは幕末期の対外的圧力によって決定的となる。

 脱藩し、藩の支配領域を超えて「横議横行」する志士が出現し、「世直し一揆」が起こる。それは新しい時代の到来を告げるものであった。幕府は崩壊し、維新政権が成立、諸藩はひとまず生き残った。昨今、この「明治維新の過程は犠牲者も少なく、平和的なものであった」との議論もなされるが、量的な問題はあれ、一揆・騒擾・「天誅」に象徴されるように、「暴力的」な過程であったことは疑いない。維新政権は、成立当初からこの「暴力」への対処を迫られる。治安維持を目的とした住民組織の再編と戸籍の導入が企図される所以である(従来、戸籍法は「身分の平準化」「平等化」のために導入されたと説かれてきた。しかし、戸籍そのものは、治安維持を目的として導入されたのであった)。

 諸藩財政の窮乏化による武士家禄削減の課題と、安価なる兵卒の大量動員のために、「士族の常職解除」と「国民皆兵を旨とした徴兵制の導入」が実施され、都市住民の特権を剥奪し、ここに課税するために、地租改正が実施され、税は定額金納化された。「国民教化」、国力の底上げ、「人材登庸」、条約改正の前提たる「文明国化」等々の課題を達成するために「学制」が施行される。これら、同時並行する一連の「維新改革」が相俟って、「役の体系」の解体・再編が実施されていく。そして、それらの諸改革は、「平等化」それ自体を目的としていたわけではなかったにもかかわらず、結果として、人々の「上昇志向」など、同意の契機を包摂しながら、「身分の平準化」と「空間の斉一化」をともなって実現されたのである(なお、この2つのタームは北原糸子『都市と貧困の社会史』から学んだが、本稿では都市内部の問題だけでなく、地域支配原理の転換を解く概念として位置づけた)。

 「戸籍区」制、「大区小区制」をはじめとする明治前期地方編制は、上述の、「役の体系」の解体・再編と、それに付随する「身分の平準化」「空間の斉一化」を前提として展開する。町村編制の原理は「役負担」から「行政の論理」へと変化していく。行政区画として当初に設定された戸籍区、それを再編した大区・小区の制度には、従来にない特徴が存在していた。

 戸籍法が戸籍調査の便宜のために町村を連合させ、それを「番号」で呼ぶという方法を採用したことは画期的であった。まず、行政事務の円滑な実施のためには「連合」もありうるということを示したからである。しかし、そこまでであれば、近世の「組合村」もそのような機能を有していたであろう。しかし、それを「番号」で呼んだ点は近世とは異なる段階を示す。さらに、「大区小区制」は、それを重層化し、一般行政区画とした。「番号」で呼ぶ方法は、町村固有の名称と競合しない上に、当該範域にアイデンティティを発生させにくい。あくまでも「実定的」であり、「便宜的に設けられた管域」というイメージを与える。研究史を眺めて気がつくのは、「大区小区制」は編制替えをされるものである、という前提が存在しているかに思われることである。組み合わせが変わろうが、番号が変わろうが、あまり目にとめられていないのである。そして、それはたぶん、当時から同じであった。大区小区編制の際には、町村合併のときほどに反対は行われず、戸長の職務・管轄区域がドラスティックに変化しても、「大区小区制」内部での手直しと観念されているかのようである。

 「行政のための区画は行政課題との関係によって可変的たりうる」との観念はこのときに発生したのではなかったか。「戸長」という吏員の名称は可変的な区画編制に適合的であったし、その後三新法体制下で展開した、課題ごとの多層的な課題別行政区画の併存はそのことを裏付ける。実際、「大区小区制」は、かなりの裁量幅を認める制度であった。そこでは、町村の「合併」が推進された県と、推進されなかった府県があり、町村の規模・性格も多様化した。一見、こうした「差異」を許容したことは、制度化の未進行を表現するものであったかに思われるが、それ以降の流れに鑑みても、むしろ「大区小区制」は近代的な機能社会に対応するために都合のよい制度であったといえる。さて、一部の県で町村合併が多発している1876(明治9)年から、統一地方制度の策定が開始される。それが三新法に結実するのであるが、そこでも、規模・性格ともに多様な町村を一般行政区画として定置することは不可能であった。そのことは、郡区町村編制法が表向き「旧慣尊重」を唱え、町村を法認し、町村合併を禁止しながら、実際には「大区小区制」以来の「連合」方式で、「戸長」を置き、その管轄区域を一般行政区画としていることからもわかる。三新法体制下で戸長に期待された事務は「戸長ノ職務概目」として列挙されていたが(本論第1章参照)、それはある程度の規模をもった行政区画でないと実施しえない内容だったのである。そこで定置された戸長管区は、多くの府県において、「大区小区制」下の戸長管区の経験をふまえて設置されたものであった。以上の意味で、従来なされてきた、「三新法は町村を行政主体として法認した」という評価も、「三新法は『大区小区制』の否定の上に出現した」という評価も、ともに不正確である。戸籍区・「大区小区制」以来の連合町村による事務処理の経験は、1884(明治17)年の「連合戸長管区制」においてさらに進展させられる。まず、管轄区域が拡大され、しかも、多層的に存在した課題別の特別行政区画が、徐々に「連合戸長管区」なる一般行政区画に吸収されていくのである(この時点では戸長が官選になる)。

 以上に述べた町村の「連合」の経験をふまえて、市制町村制が準備される。制度理念を説明した「市制町村制理由」には、「自治」という国民の「義務」を担わせるために、(市)町村は「疆土」と「人民」を有し、「十分ノ資力」を有していなければならないと規定されている。これが、従来、連合事務によって覆い隠されていた「無民戸の町村」さらには、町村数全体の約七割を占める戸数100未満の町村などを念頭に置いたものであり、町村合併の不可避性を宣言するものであることは明らかであろう。そこでは、(市)町村に自治立法権など権限が委譲されると同時に、戸籍法以来積み上げられてきた行政事務(戸籍、奥印、学事、衛生、土地登記、徴税、徴兵、選挙、等々)が機関委任事務とされていく。事務の内容は画一的に制度化され、(市)町村の性格も平均化される。

 こうして形成されていった「近代的町村」の特徴は、(1)指揮命令系統が一本化し、国土が一元的に支配され、(2)土地への緊縛が解消し、近世的身分も平準化され、都市と農村の差別、さらにその内部の序列も撤廃され、「空間の斉一化」がもたらされ、(3)町村の範囲は「地籍」「境界」で区切られ、「飛び地」が整理され「一円化」、(4)土地・人民と「十分ノ資力」を持ち、しかもある程度「適正規模」化され、(5)よって、大規模化し、(6)町村が国土を覆いつくしていく、と要約できる。

 以上に、「町村概念の転換」過程をみてきたが、これを概括し、時期区分すると、次のようにまとめられる。明治初年の「役の体系」の解体・再編を契機に「身分の平準化」と「空間の斉一化」が達成され、行政区画再編の条件が準備される。その意味で筆者は、「近代的町村」展開の前提が確立された1871年~1872年を、近世と近代との分水嶺と考えている。その「条件」の下で、町村は、地域的差異を抱えつつ、「大区小区制」、三新法体制期を経て、地域的差異を平準化しながら、1889(明治22)年の市制町村制施行の時期に「近代的町村」として成立していく。本稿が扱った、1872年の戸籍法施行から、1889年の市制町村制施行に至る「明治前期地方編制」期は、上述の意味で「近代的町村」生成までの「過渡期」であった。

 次に、現存する町村との関係を考えてみたい。筆者(荒木田)は、「近世的町村」と「近代的町村」は、行論に述べたとおり、「質」的に異なったものと考えているが、1889年に出現した「近代的町村」と現在の町村の違いは「量」的な差異であると考えている。市制町村制期以降、(市)町村の区画・規模は行政目的のために可変なものであると観念されるようになる。本稿では、この、行政のための可変な区画を(市)町村と呼ぶようになった時点で、「近代的町村」が完成されたと考えたい。1907(明治40)年に原敬は「国家ノ進運ニ促サレ、事物ノ進歩ニ応ジマシテ、段々町村ハ合併セラレテ居ル、町村ガ合併イタシテ町村ノ大キクナルト云フコトハ自然ノ趨勢デアリマス、町村ガ合併イタシテ多少大キクナリマセヌケレバ、町村ノ事業ヲ為スコトガ甚ダ困難デアリマス、故ニ、町村ナルモノハ漸次大キクナリマス…」と語っているが、それは、第2次大戦後の「昭和30年合併」に際しても基本的に変化していないのである。

 このように、町村の「適正規模」は行政目的の変遷に応じて変化するものと観念されるようになり、町村合併による町村規模の拡大が自明視されるようになる。そして、町村合併に関する諸研究もそうした「空間操作」を前提とした「適正規模」論の土俵上で議論されてきたのである。以上を前提として、市制町村制の施行以降、世界でもまれにみる末端行政区画の再編(=市町村合併)が展開されたのであった。

 以上に、町村概念の転換に至る「明治前期地方編制」の展開過程をみてきた。従来、明治地方自治制については「絶対主義官僚」による「芸術作品」であったと、その「官治性」が強調されてきた。住民の政治参加がきわめて局限された時期のことでもあり、そのような性格は多分にもつであろう。しかし、それがすなわち「権力のフリー・ハンド」を意味するものではなかった。本稿では、住民が直面する治安維持の課題、学校経営の費用負担、他町村との合併反対など、地域的な条件のなかでの住民の主体的選択がオペレートされていることを述べてきた。エンゲルスは「国家はけっして外部からおしつけられた権力ではない…それは、むしろ一定の発展段階における社会の産物である…社会からうまれながら社会のうえに立ち、社会にたいしますます外的なものとなってゆくこの権力が、国家である…」と述べているが、国家権力が社会の中から発生する、という視点はもう一度確認されてよい。

 ところで、そのようにして形成された「制度」によって、社会の側も変革される。ここで、選挙制度の例に典型的なように、制度が社会を変え、人々の考え方までをも変えてしまう力を持っていることは改めて強調されなければならない。筆者が1994年に長岡市郊外の旧深才村(1954年5月1日に長岡市に編入)で古老のヒアリングをした際、出身地を尋ねると、ほぼ例外なく「長岡」と回答した。合併以前の「深才村」で生まれたにもかかわらず、である。この意味でもやはり、(市)町村は現在もなお「不断の生成過程」にあるといえる。

 かくして、社会的関係の中から「制度」が生成され、その「制度」が規範となって社会に変化をもたらす。そして変化した社会から、また新たな「制度」が生成する。この絶えざる連関の中で、社会も制度も日々更新されているのである。

 最後に、残された課題について言及する。まず、「方法」的な問題から述べたい。本稿では、「法制史的アプローチ」によって、法令に表現された「規範」を読み解くことに重点を置いてきた。この「規範」が、一方で「現実」を反映し、他方でまた「現実」を作り出していることは事実であるが、これによって当該社会の全てが理解できるわけではない。本稿の「序」にも記したことであるが、この方法は社会の「骨格」を描くには有効であるが、そこから「こぼれ落ちる」ものもまた多いのである。本稿においては、町村概念について、「政府が町村をどのように把握しようとしたか」という点から解明を試みたのであるが、「果たして、それが現実にそのように運営されたのか」、また、「果たして、人々が観念する町村とどこが一致し、どこが一致しなかったのか」ということに関して、さらなる吟味が必要であろう。この点は課題として残されている。また、行政区画制研究を行う上で、行政事務がどのように実施されたのかを検討することが不可欠であったにもかかわらず、この点も不十分であった。

 次に、方法的には位置づけることが可能であったにもかかわらず、本稿では留保した問題について述べる。従来、「地域運営のあり方」を規定する3つの基本的な要素として、(1)地域団体の地理的範囲、(2)地域団体の長の性格、(3)地域住民に対する地域運営上の合意の取り付け方、と整理されてきた。この3点は、法制史的アプローチによって位置づけることが可能なものであったが、本稿では「行政区画を通じて町村概念の転換を明らかにする」ことを主要なテーマとしたために、(1)を中心とした検討になり、(2)(3)については、ごく一部しか言及できなかった。本稿がひとまず除外した「共同体」や代議制の問題については、今後の課題としたい。

 「空間」的な問題では、通常、近代日本地方制度史研究においては、「本土」と法体系が異なる北海道(開拓使)と沖縄(琉球藩)、植民地については言及しないのが通例である。しかし、地方制度が多様性をもって展開するのも、「地方」をより安定的に「国民国家」に繋留しようとするからにほかならず、法体系が異なることを理由にこれらの地域に言及しないことには、全く正当な根拠がない。むしろ、その「差異」の意味を探ることが、遠隔地「経営」に対する政府の意向を明らかにする上で有意義であると思われる。ただし、本稿では、上述の問題意識は有しつつも、史料その他の制約からこれを果たすことができなかった。これも今後の課題としたい。

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