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博士論文要旨

論文題目:フェティシズムと近代フランス宗教思想に関する歴史的考察 —ド・ブロス、コンスタン、コント−
著者:杉本 隆司 (SUGIMOTO, Takashi)
博士号取得年月日:2008年3月21日

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一 本論文のテーマ
本論文の目的は、一八世紀後半から一九世紀前半にかけての、フランス宗教思想史を考察の対象とすることにより、一九世紀後半のフランスにおいて理論的・制度的に社会学・宗教学が成立するところの学問的土台となった諸思想潮流が、その思想的内容はもちろんのこと、どのような時代背景をもちながらその時代に誕生したのか、そしてその時代において賭けられていた学問的、あるいは論争的テーマとはいかなるものであったのかを明らかにすることにある。通常、宗教学、あるいは宗教社会学が学説史的に取り扱われる場合、エミール・デュルケームとマックス・ヴェーバーの宗教社会学、あるいはせいぜいサン・シモンやコントの社会学から筆を起こされることが多い。実際、一九世紀のフランス社会学を概観する場合、デュルケームを基点として、フュステル・ド・クーランジュやエスピナスを経て、コント及びサン・シモンへと遡行してゆくのが常道であり、デュルケーム自身、コントや特にサン・シモンに関する仕事を手がけており、フランス社会学の知的起源として彼らを取り上げるのは、正当であるし、伝統的でもある。しかし、この視点からすると、あくまで二〇世紀初頭の社会学・人類学という制度的に成立した学問が受け継いできたもの、あるいは発展させてきたものだけが、コントやサン・シモンの思想の中に「発見」されることにはなるが、それ以外の受け継がれなかったもの、さらには彼ら以外の思想家(例えばトクヴィルや本論文で取り上げるコンスタンなど)や社会学の流れとは対照的なスピリチュアリズム思想(ビランからベルクソンへの系譜)が、この流れから漏れることになるだろう。
そして、このような「社会学的思考の流れ」(レイモン・アロン)をさらに遡行させ、彼ら一九世紀初頭の実証主義者たちの知的起源を一八世紀啓蒙思想に求める場合にも、遠くパスカル、モンテスキューからコンドルセ、イデオローグといった「前期実証主義」(アンリ・グイエ)と呼ばれる、我々が理解する意味でのいわゆる「実証精神」あるいは「科学的精神」を培ってきた人々からの影響が指摘される。この指摘もなるほど間違いではないし、一八世紀後半から一九世紀初頭にかけて、キリスト教権力およびそれを基盤としてきたフランス王権の地盤が揺らぎ、革命後に決定的となる社会の世俗化の流れの中で、実証主義という思想潮流や、あるいは「社会学」という学問が登場してきたことはすでに常識として定着しているといえる。しかし、このような説明も、コントやサン・シモン主義者を典型とする実証主義者や産業主義者たちが、この時代にいわゆる「実証精神」や「社会科学」という考え方を唱えたのと同時に、ある種の宗教論を熱心に著し、そのうちの少なからぬ人々が自ら創設した教団の司祭やメシアをも自任するようになってゆくという事態を説明することは出来ない。また、このような彼らの「宗教的傾向」「情緒的傾向」を起源として、その後のフランス宗教社会学への彼らの理論的影響が語られることはあっても、当の実証主義者たちがなぜ宗教というものに実践的に接近していったのかを論じた具体的な研究はまだ少ない。
本研究は、これらの視点からコント以降の思想潮流によって規定された「実証精神」、「実証」社会学の視角の圏外にあえて彼らを置いて眺めるみることによって、問題意識の点で一九世紀後半に制度的に成立する社会学や宗教学とある程度の距離を取ることにした。すなわち、コントに社会学の起点を求めるのではなく、逆にそれを終着点とし、なおかつ実証的思考や科学思想というよりもむしろ宗教学・宗教思想の潮流を一八世紀から検討し、「社会学的な思考」から「漏れ」るような思想潮流をも取り上げることにより、逆にその思考の輪郭を浮き上がらせようとする試みである。ところで、この時代の宗教思想の全般的な流れをただ漠然と網羅的に論述することは避け、本研究を貫く一つの視角・パースペクティヴを設定した。本論が用いる分析概念、あるいはもっと一般的にいえば一つのキーワードとしての役割を果たすのが「フェティシズム」という概念である。
Fetichismeという概念は一八世紀の中葉、ディジョン高等法院院長シャルル・ド・ブロスによって創始された。当初この概念は、アフリカやアメリカ大陸でみられた、野生的信仰を言い表す用語として誕生したが、一九世紀に入るとマルクスが経済学に、そしてフロイトが精神分析学にこの概念を応用し、この概念の歴史的文脈が大きくかわる。本研究の考察は、この概念が誕生した一八世紀中葉のフランスから、ちょうどマルクスやフロイトが登場する直前、一九世紀中葉までの約一世紀、思想史的には啓蒙思想からロマン主義を介して実証主義へといたる、いわばフランス宗教学・人類学の創成期ともいえる時代を扱った。一八世紀思想圏における宗教史・民族学的言説から突然、一九世紀後半に経済学や精神分析学の領域へこの概念の意味内容の変更が起こったわけではない。フェティシズムという「未開」社会の野性的信仰を、「文明」ヨーロッパ人たちはどのように自らの思考に組み込み、あるいは拒絶しながら、それを受け止めていったのか。これが本研究の巨視的な問題関心のひとつである。とはいえこの時代のフェティシズムに関する言説のすべてを扱うことは不可能であり、この時代を通じて、この言説に関して最も影響力をもったと考えられる、次の三人の思想家を主にここでは取り上げた。
その思想家とはシャルル・ド・ブロス(1709-1777)、バンジャマン・コンスタン(1767-1830)、そしてオーギュスト・コント(1798-1857) である。彼ら三人はそれぞれ自らの歴史哲学においてフェティシズム概念を駆使して自らの宗教史学・歴史哲学を構築したのであるが、彼らには共通する一つの大きな理論的特徴がみられた。その特徴とは、すなわち、キリスト教の唯一神ではなくフェティシズムを宗教の起源におき、そして人間精神の発展と共にこのフェティシズムから多神教を経て一神教へと宗教観念が歴史的に進歩を遂げる宗教進歩論と呼ぶべき思想である。この「フェティシズム」概念と宗教進歩論をいわば論文全体のガイド役にして、狭い意味での宗教学や人類学に留まることなく、各時代の社会的・政治的背景を視野に入れながら、それぞれこの三人の思想家たちがこれらの考えをどのように受容し、応用していったのかを明らかにすることが本研究の全体的なテーマである。


二 本論の内容
本論文全体を貫くテーマであるこの「フェティシズム」や「宗教進歩論」というテーマは人類学および宗教学においては比較的ポピュラーな主題ではあるが、その起源はしたがって一八世紀の中葉にまでさかのぼる。全三部から構成される第一部の課題は、コントの宗教論に結実するような一八世紀の宗教思想に立ち入ることで学説史的な空隙を埋めることにある。その考察の中心に置かれるのが、『フェティッシュ神の崇拝』(一七六〇年)の著者にして、フェティシズム概念の創始者シャルル・ド・ブロスとその友人デイヴィッド・ヒュームの宗教論である。彼らに共通する考えこそ宗教進歩思想であった。周知のようにヒュームは『宗教の自然史』で多神教から一神教への宗教進歩論を展開するが、技芸や学問に留まらず、宗教さえもが進歩するというこの考えは決して一八世紀宗教思想圏において多くの賛同者を得たわけではない。大きくいえば、一八世紀においてこの考えと衝突する宗教観が、二つ存在していた。
まずは、もちろんキリスト教神学=啓示宗教である。ユダヤ・ヘブライ民族以外の宗教は真の宗教ではなく、偶像崇拝、フェティシズム、多神教といった異教は誤った宗教であり、これらは神学者にとってはすべて無神論として一括される(特にキリスト教の中でもカルヴィニズムの厳格な批判)。聖書に従えば、神の手から生まれた人類はノアの大洪水ののち、セムの系譜以外の民族は原初の唯一神の観念を忘却して堕落した。そしてこの堕落した民族の末裔がこれら異教の起源であったとされる。したがって、唯一神の系譜を広く取ったとしても、地上には、少なくともユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒といった真の宗教を崇める一神教徒と、古代多神教徒から新大陸の偶像崇拝者まで誤った宗教を信奉する異教徒という「二つの人類」が想定されることになる。
次に、一八世紀に広まっていた宗教観として理神論を挙げることができる。啓蒙主義は、科学主義=唯物論的無神論が主流であったと思われがちだが、多くのフィロゾーフは一つの宗教を懐いていた。それが理神論と呼ばれる信仰である。理神論者にとって唯一神はキリスト教的神を意味せず、この唯一神の分派にすぎない既存のあらゆる啓示宗教に先行する「自然な宗教」であり、世界の創造と共に人間本性に等しく内在する根源的な普遍的同意の観念である。それゆえ理神論は決して神自体は否定しないが、神の存在を理性に合致しない啓示や奇跡から導き出すことに反対する。その対案として出されるのが、自然界の法則秩序のデザインから造物主たる知的デザイナーを導き出すいわゆるデザイン論証である。それゆえ、唯一神の観念はユダヤ・ヘブライ民族の特権ではなく、このような論証を行うことができた賢者であれば異教徒も唯一神の認識は可能であったとされる(例 :ロック『キリスト教の合理性』、ヴォルテール『哲学辞典』)。
啓示宗教を批判する理神論者の主張は一見すると、キリスト教をも相対化した宗教の普遍性を唱えているように見える。だがこの高尚なデザイン論証から唯一神を導き出せるのは理性的賢者だけであって、大多数の無知な民衆や野生人はやはり偶像崇拝その他(もちろんキリスト教も迷信の一種に含まれる)を信奉していたとされるのである。キリスト教神学を批判しながらも、フィロゾーフにとって“民衆の宗教”はやはり真の宗教ではなく、民衆や野生人はどこまでも迷信深い存在であると考えられていた。
それゆえ以上の二つの宗教観は、奇蹟や啓示で対立するとはいえ、民族や階層に応じて、宗教には“真の宗教”と“誤った宗教”があるという点においては一致を見ていた。宗教進歩論の一八世紀宗教観に対する大きな批判点の一つは、この二元論の破棄にあった。なぜなら、宗教の起源がフェティシズムや多神教といった異教にあるという主張は、キリスト教と理神論の両者に共通する人類史の原始に一神教が存在したとする仮説とは決定的に相容れないからである。つまり、あらゆる宗教の出自が異教にあるといすれば、宗教には“真の宗教”(自然宗教や啓示宗教)と“誤った宗教”(偶像崇拝やフェティシズム)の二種類があるのではなく、すべての宗教が異教という一つの宗教に還元されうる可能性を持つことになる。これはキリスト教的な世界観(教会史)を掘り崩す視点を必然的に含んでいた。宗教観念を巡る二元論から、一元論へ、教会史から宗教史への移動というこの視点が、一九世紀の宗教論にどのように受け継がれていったのかを論じたのが、第二部と第三部でそれぞれ扱ったコンスタンとコントの宗教論である。
第二部では、ド・ブロスのフェティシズム論を直接に受容したバンジャマン・コンスタンの『宗教論』全五巻(一八二四?一八三一年)を主に取り上げた。この書は、現代の宗教学説史においてはもちろんのこと、文学や政治論を中心としたコンスタンの研究史のなかでさえも、ほとんど忘れられてきたといっても過言ではない。四〇年にわたってコンスタンによって書き継がれてきたライフワーク『宗教論』は、次の二つの点から考察された。第一にはド・ブロスから受け継がれたフェティシズム概念及び宗教進歩論を考察の対象にした宗教学・人類学的視点からの研究である。ただ、コンスタンにおいては、宗教観念を巡る二元論から一元論への移動という宗教進歩の論理に加えて、もう一つ、この一元論を補強する論理が提起された。『宗教論』でコンスタンが論証しようとしたそのテーマとは、古今東西のすべての人間に普遍的に宗教感情が存在しているとする、宗教感情の歴史的実在性の立証である。既述のように一八世紀の宗教論は、あくまで真の宗教と誤った宗教との間には、啓示の点であれ、理性の点であれ、共通点は一切想定されていなかった。これに対して、コンスタンは、一八世紀以前においては真の宗教とは認めがたかった崇拝を宗教感情の次元に定位させることでいわば「二つの人類」論をトータルに覆した。というのも、なるほど社会の底辺を捜せば知性・教養に欠ける無知な人間はいるだろうし、世界には唯一神の真の宗教をもたない人間も当然、存在するだろう。しかし、「感情」がない人間などというのは、下層民から知識人まで、野生人から文明人まで間違いなく存在しないといえるからである。宗教の起源を人間の感情にもとめるならば、地上にはいわば「一つの人類」しか存在しない。そもそも「人類」という概念自体、人間の単一性を前提にせねば成立しない
このような一元論的な人間観に立脚したコンスタンの宗教感情論は、これまでは同列に扱われることのなかった人々を、いわば“宗教的人間”という統一的な認識論的対象として扱うことを可能にさせる視点を含んでいた。具体的には、一九世紀半ばに、神学批判から「人間」を研究の対象にすえはじめた人類学や社会学が切り開いた人間観(例えば、神学批判から感情の次元に定位した「人間学」や「人類教」の構想へと向かったフォイエルバッハやコントなど、コンスタンよりも後の世代の仕事)へと結実する、広い意味での実証主義的な人間諸科学の成立を準備するものであったといえる。このようにコンスタンにとって宗教感情とは、科学や文明の発展を鼻にかけ宗教に対して無関心を装うヨーロッパ人にさし向けられた、すぐれてロマン主義的な概念であると同時に、キリスト教神学や理神論といった特殊ヨーロッパ的な宗教観を克服する人間学的な論拠でもあったのである。
『宗教論』を考察する視点の第二点目は、この『宗教論』が、革命を経た一九世紀初頭のフランス社会、特にこの書が出された一八二〇年代の王政復古期にいかなる意味をもって登場したのかという点である。コンスタンにとって、『宗教論』は、宗教史研究であると同時に、一種の政治学の書でもあった。というのも、宗教史をどのように理解すべきかという問題は、この当時の思想家たちにとってその当時のフランス社会における教会(精神的権力)と国家(世俗的権力)のあり方を全面的に規定していたからである。政治的リベラリズムの思想家コンスタンのなかで、宗教進歩論およびそれに依拠した彼の宗教史理解がいかなる役割を担っていたのか、そしてキリスト教が権威を失った一九世紀のフランス社会において宗教が占めるべき場があるとすればそれはどこなのかという点を、当時の宗教論の主流を占めたネオ・カトリック派やサンシモン主義者(第三部)との具体的な政治・宗教論争を整理しながら辿った。
コンスタンによれば近代社会のなかで宗教が占めることの出来る最後の地点、それは国家でも教会でもなく、個人であり、その神は全く私的な崇拝対象である。ここにはのちにフロイト以降の精神分析学の言説のなかで馴染みとなるような内面的フェティシズムの性格がすでに表れていた。コンスタンにとってもはや、宗教(特にカトリック教会が前提とする宗教観)はかつての中世封建制社会のような社会的紐帯の基盤や、個人の内心にまで立ち入るような道徳的権威の中心とはなりえない。おそらくこのような政治的、あるいは個人主義的な諸要素がこの書を宗教学・社会学説史のなかで正当な評価を受けてこなかった要因の一つにあるには違いない。だが、コンスタンの宗教論は近代社会やそこで生きる近代人にとってどのような宗教や神のあり方が可能なのか、その限界はなんであるのかを問うている点において、むしろ現在においてこそそのアクチュアリティーをもつ。一九世紀後半以降、もはやその関係が見失われてしまったように思われる政治学と宗教学の繋がりを、あるいは逆にそのイデオロギー性を、コンスタンの『宗教論』及び同時代人たちとの論争を通して明らかにした。
第三部では、コンスタンからフェティシズム概念とその宗教進歩論を受容したオーギュスト・コントの宗教論を扱った。コントには、宗教・宗教史そのものをタイトルに冠した著作はないが、『実証哲学講義』全六巻(一八三〇?一八四二年)において、人間精神が神学的状態、形而上学的状態、実証状態をそれぞれ通過してゆくという「三状態の法則」を展開し、この神学状態を素描したテクストのなかで、フェティシズム、多神教、そして一神教への宗教進歩論を論じている。ところが、『実証政治学体系』全四巻(一八五〇から一八五四年)以降の後期コントは、人間の知性や知識の進歩というよりも、社会組織の結束性が歴史的に「進歩」する情動の進歩法則として最終的に「三状態の法則」を描いている。すなわち、フェティシズム、神学主義(カトリシズム)、実証主義(人類教)という宗教進歩論である。コントは一九世紀における実証主義の責務を、革命の混乱からの社会の再組織化に狙いを定め、その必然性をこの秩序の歴史哲学から導き出した。この場合に、人類の宗教性の根拠としてコントの歴史哲学に要請されたのが、神ではなく、神学状態の第一期の信仰であるフェティシズムであり、その秩序の哲学に要請されたのがカトリシズムであった。こうしてフェティシズムとカトリシズムは、コントが唱えた人類教の理論的モデルとそれを土台にした実証社会(ソシオクラシー)の原型となる。のちにマルクス(資本制社会)やフロイト(性的倒錯)において告発されることになるが、一八世紀のヨーロッパ文明にとってあらゆる点において明らかに「外部」であったフェティシズムが、ここではそのヨーロッパ人自身が帰依すべき信仰として登場する。
コントはコンスタンの原始宗教史研究を受け継ぎ自らの歴史哲学に受容してゆくのであるが、しかし、両者はフェティシズムに対する視線が全く異なっていた。両者ともに産業社会における神学的な神に代わるフェティシズムの役割を重視ながらも、コンスタンが個人の宗教として描いたフェティシズムが、コントにおいては人類の宗教へと変貌を遂げるからである。コントは、カトリシズムのような社会制度としての宗教体制(二重権力論に基づく教皇制)を否定するコンスタンの「個人主義的」宗教感情論、ひいては政治的リベラリズム批判として原始宗教史を描き、そこから歴史的必然性として導き出される、一神教に変わる新たな宗教進歩の段階として人類教を構想する。カトリシズムの思想家たちと同様、コントにとって宗教とは、個人の単なる漠然とした感情などではなく、あくまで社会体制の観念論的紐帯を保証する組織であり、儀礼的制度によって個人を拘束する強制力である。リベラル政治学が唱える個人の自由など、いまだに社会化・文明化されていない野生人たちの放縦な精神と違いはなく、文明宗教たる人類教は、彼らに規律を与え、社会化の恩恵に浴させる使命を持つ。それゆえ彼の言う実証政治学とは、まさに人類教を中心とする社会体制であり、彼が「批判的形而上学」と呼ぶリベラル政治学との理論的対決の意図を念頭に置いたものであった。
以上のようなコンスタンのリベラリズム思想との対比により、結論では、コントの宗教論、ひいてはいわゆる「社会学的な思考」とはどのようなものなのかを最終的に論じた。両者の思想的対立が興味深いのは、それが政治学と社会学の分岐点を示すと共に、キリスト教の歴史言説と断絶した宗教史研究(異教史研究)と、一九世紀前半における多くのメシアニズム運動や世俗宗教論の出現の間にある一つの繋がりを垣間見せてくれた点にある。つまり、宗教史をいかに理解するか、いかに描写するかということは、彼らに限らず、歴史哲学を論じるこの時代の思想家たちにとって、神学批判のその次の段階として、純粋な個人的信仰を用意するのであれ、実践的な宗教権威を用意するのであれ、革命後の一九世紀フランス社会における「宗教」の位置づけを標定するための見取図を描く上で、一つの政治的・哲学的争点となるべき理由が存在したことを、この対立は物語っていた。なるほどコントやコンスタンの宗教論は政治的なイデオロギーが混ざった未熟な宗教学であり、その後に完成されるような学問的な宗教学の著作に値しないという批判があるかもしれない。だがそれはイデオロギーから逃れた純粋な宗教学・社会学の著作が存在しうるということを前提にしなければ可能な批判だとはいえない。むしろ、この二人の著作の相違が提起している興味深い視点に目を向けるべきである。つまり、社会に秩序をもたらす人類教と個人の自由を重視した内面的信仰という、近代社会の内部における宗教というもののあり方や位置づけをめぐる相違である。この一九世紀的な問題は二〇世紀を経た現在において解決済みの問いであるどころか、常に我々の問題として問われ続けているといえるのである。

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