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博士論文要旨

論文題目:インドネシア・ブトン社会における歴史語りの社会人類学的研究
著者:山口 裕子 (YAMAGUCHI, Hiroko)
博士号取得年月日:2008年3月21日

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 本論文の目的は、インドネシア共和国のスラウェシ島東南島嶼部に位置するブトン(Buton)社会の、位階の異なる二つの村落社会――ウォリオ(Wolio)とワブラ(Wabula)――における、歴史語りをめぐる社会人類学的な記述と分析である。
 ブトン島は、古くから東部インドネシアの海上交易のルート上に位置し、16世紀以降の欧文資料などにも、ごくまれに中継港などとして登場する。この島を中心に14世紀ごろ起こったとされるブトン王国は、16世紀ごろイスラーム教を受け入れ、インドネシア共和国に組み込まれた後の1960年まで存続した。本稿では、ブトン島とその周囲の島々からなる、旧ブトン王国の勢力範囲を「ブトン社会」と呼ぶ。今日のブトン社会は、多民族、多言語状況にある。だが住人は、自分たちがかつてブトン王国の構成員だったとする共通の歴史観と、それに基づく「ブトン人意識」をもつ。自然資源に乏しく特筆すべき産業をもたないブトン社会は、今日のインドネシア国家の政治的、経済的な周辺社会である。その歴史や文化に関する先行研究は非常に少ない。
 ウォリオ社会(人口約1,700人)は、ブトン王国の王侯・貴族の末裔であるウォリオ人からなる。彼らはブトン島の南西部に位置する、旧ブトン王国の中心地だったとされる堅固なウォリオ城塞に居住し、現在では多くが公務員や自営業者である。今日のブトン社会の政治的、経済的エリートの多くをウォリオ人が占め、ウォリオ城塞は近年の文化観光開発の資源として注目されていることからも、ウォリオ社会は、ブトン社会の政治・経済・文化・歴史の中心的位置づけにある。一方ワブラ社会は(人口約2,200人)、ウォリオ城塞から約60kmのブトン島東南沿岸部に位置する、農耕を主たる生業とする平民層の社会である。ワブラ村は、ブトン王国時代にはエリート防衛拠点の一つが置かれたところである。現在では、地理的にも社会的にもブトン社会の中の周辺部に位置づけられ、ウォリオ社会との間には、実生活における接点はわずかな機会をのぞけば殆どない。
 今日ウォリオ人とワブラ人は、それぞれの村落社会における日常生活のさまざまな機会に、歴史を盛んに語るという特徴を有する。両者はともに、過去の出来事の中でもとくに、起源的人物の到来から、ブトン王国の基礎の建設や政治体系の整備を経て、イスラーム化した後までの、西暦でいえばおおよそ16世紀から17世紀前半までに相当する時代の出来事について集中的に語るという特徴が共通している。ウォリオ人もワブラ人もそれぞれに、自らを物語の中心に位置付けながら「ブトン王国史」を語る。だが、今日のインドネシアの政治的な文脈において政府から公式な「ブトン王国史」として記録・保存され、学校で教育されるのは、ウォリオ人とウォリオ城塞を中心とする、ウォリオ・ヴァージョンのブトン史である。ワブラ人はこれに対し、自らが語る歴史こそが「真実の歴史」であり、ウォリオ・ヴァージョンの歴史はワブラの歴史を模倣した、「正しくない歴史」であると主張している。これらの二つの社会における歴史語りの実践から読み取れる問いは多元的である。それらに対し、本稿では、社会人類学的な歴史研究の方法を援用することを出発点とし、さらにそれに工夫を加えた、以下のような多元的な方法でアプローチした。
 まず、ウォリオとワブラの歴史語りの実践を、それぞれの村落社会における日常的な生活の時空間の中に位置づけながら、内容と語り口の特徴について詳細に記述・分析した。ウォリオ社会では、ウォリオ城塞に残る、王国時代のさまざまな出来事にまつわる岩、墓、あるいは城塞そのものといった「歴史の標し」との接触が、人々にそうした出来事について日常的に想起し、語らせる契機となる。過去の出来事は、発生した時間とは関係なく、反復と冗長を交えて「言葉遊び」のように語られることもあれば、西暦の年代や、登場人物の系譜にそって編年体に近い語り口がとられることもある。全般としては「今から400年も前から、現在のインドネシアの国是“多様性の中の統一”を達成し、難攻不落の城塞を住人自らの手で建設した」偉大なブトン王国が語られる。これに対し、ワブラ人はブトン王国の本来の中心地と、その優れた政治体系のモデルは、本当はワブラにあったという、もう一つの「ブトン王国史」を語っている。ワブラ社会では、一年周期で行われる農事暦儀礼の中の「巡礼儀礼」で、「始祖の墓」や祖先たちがかつて暮らした旧村落への巡礼路を辿る道程や、儀礼以外の日常的なさまざまな機会に「ブトン王国史」が語られる。語りは、巡礼路で出会うさまざまな過去の出来事にまつわる「歴史の証拠」との接触を契機に、時系列にかかわらず「時間が空間化」したような語り口がとられることも、また別の機会には編年体の語り口がとられることもある。ウォリオとワブラの双方の社会では、多くの場合、資格をもつ特定の個人ではなく、村の成員の誰もが潜在的に語り手や聞き手として語りに参加する。つまりそれぞれの村落社会という生活の場そのものが、いわば「歴史を生きさせる時空間」となっているのである(以上第1章、第2章、第4章、第5章)。
 本稿では次に、語りの口承史(オーラル・ヒストリー)としての側面に焦点をあて、語りと、語られる出来事が発生したと見られる、16世紀から17世紀前半ごろの欧文を中心とする一次史料を比較検討することにより、初期ブトン王国時代の歴史過程を探求した。まず一次史料を中心とする検討からは、ヨーロッパの大航海時代の到来とともに、東南アジアが「交易の時代」を迎えた当時、インドネシア東部の香料交易の権益を巡って、オランダ東インド会社(VOC)、マカッサル、マルク諸島が激しく競争していたこと。その中でブトン王国は、時にVOCに対する従属的な条約の締結を迫られ、時に戦場となるなど、激しく干渉されつつも、VOCやテルナテ王国などのより強大な勢力と与することで、マカッサルの脅威に対して、なんとか王国としての存続を保ったことが明らかになった(第3章)。
 だがこれらの過去の文字資料の情報は、今日のウォリオ人が語るような「強大なブトン王国」像とは大きく異なるものであった。またこの文献研究からは、今日のウォリオ人が語るように、ウォリオ城塞は「スルタン・ラ・ブケの時代(17世紀前半)」に「王国の住人自らの手で築かれた」のか、また、ワブラ人が問題とするように「王国の本来の中心地」は本当にワブラだったのか、などの王国の内情は解明されていない。
 こうした過去の史料と現在の語りの間の齟齬に注目し、本稿で取り組んだのが、語りから語り手の「現在」を読み取るという課題であった(以下第6章)。ところで、ウォリオとワブラの二つの社会における歴史語りは、基本的には村落社会の成員が互いに直接的な語り手と聞き手になる。だがコンテクストによっては、その場にいない「第三の聞き手」を想定した、対他的なメッセージ性のより強い語りがなされることもある。これらの語り口の間の差異は截然とはしておらず、相互にゆるやかに連続性がみられるものの、語り手自身が語りのコンテクストに応じて使い分けていると見られる場合がある。本稿では、その場にいる社会の成員をより直接的な聞き手とする語りを「内向き」の語り、その場にいる聞き手以外にも「第三の聞き手」を想定したような語りを「外向き」の語りと暫定的に呼び分けた。語り手の「現在」を探求する際に焦点を当てたのは、主に「外向き」の語りである。さらに、語り手の「現在」に影響を与える「過去」の時間的深度や、現在の二つの社会を取り巻くそれぞれの社会的コンテクストの空間的広がりには幅がある。語られた過去の一時点と現在との関係や、ウォリオとワブラの二者関係からのみでは、「現在」は十分に理解できない。いわば現在の語り手を媒介として、ある時点の過去が異なる時点の過去と、そして語り手は単一ではない「他者」と「対話」をしている、あるいは「対話を試みている」のである。
 そこで本稿では時間的にも空間的にもいくつかのコンテクストを設定し、語りと、ウォリオ人やワブラ人を歴史語りに向かわせる社会的背景と、語り手の現状を相互反照的に考察した。そこからは、民主化や地方分権化が進む現代インドネシアにおける「慣習復興」や地方自治体の再編の動向が、現在の二つの社会に自らの過去を振り返らせ、語らせる直接的な要因の一つとなっていることが見て取れた。つまり、人々はこれから実現するべき、インドネシア中央政府からのお仕着せではない、地方独自の行政機構や社会のあり方を模索する中で、その範型を自らの過去の中に探り、歴史を語っているという側面をもつのである。さらに近現代のブトンとその外部の民族間関係を探求することにより、今日ウォリオ人の歴史語りが想定している「第三の聞き手」には、20世紀初頭にオランダと与して、東南スラウェシ地方における中心的地位をブトンから奪取したトラキ人や、ブトンをその従属的立場においた南スラウェシ社会などがあることが見て取れた。一方、より近年のスハルト中央集権体制下のウォリオ社会は、インドネシアの一地方・東南スラウェシの亜民族ブトンの中心/代表として、中央政府の政策的呼びかけの対象となってきた。ウォリオの歴史言説が、公式な「ブトン王国史」としてインドネシアのナショナル・ヒストリーの周辺的な一部に参入を果たしたのは、ウォリオの「外向き」の語りがインドネシア中央という聞き手に届いた結果、中央から得られた「反応」のひとつの形だったのである。
 一方、ワブラ人は、上述のような近現代の歩みをとおして、植民地政府やインドネシア中央などの外部の権力からはついぞ政策的な呼びかけの対象となることはなかった。ワブラ人自身は、スハルト期にはインドネシア中央政府、そして現在ではウォリオ社会をより明確な「第三の聞き手」に想定し、歴史語りをしてきている。とくに後者の特徴は、ワブラ人の「真実の歴史」の語り方に明確に見て取れる。それは、今日一般に流通しているウォリオ人中心的なブトン王国史の登場人物を、「本当のワブラ名」で読み替えながら自分たちワブラ人を主人公として語り、数々の出来事をパラフレーズしながら、「ワブラ人の本来の中心性」や「それを騙し取ったウォリオ人の不正」を明示的に主張するのである。しかしワブラ人が語る「真実の歴史」の言説は、ワブラ社会の外部に彼らが想定する、当の聞き手に届くことはない。にもかかわらず、ワブラ人は「真実の歴史」に改編を加えたりすることなく、それを今日に至るまで「真実」として語り続けている。
 以上の議論を経て浮かび上がったのは次のような問いであった。1. ワブラ人のウォリオ人社会に対する対抗意識は、他の平民諸村落には見られない特質であるが、その対抗意識の要因となる出来事を、ここまで検討した近現代のワブラ人とウォリオ人の歴史的歩みの中に客観的に見出すことはできていない。この対抗意識をいかにして説明できるだろうか。2.ワブラ人の「真実の歴史」は、それを外部に発信し、想定した聞き手からの反応を得るという、「歴史語りの対話」には失敗してきている。にもかかわらずワブラ人にとって「真実の歴史」の「真実さ」は揺らぐことなく、語り続けられているのはいかにしてか。
 ワブラ人の歴史語りは、「聞き手」であるウォリオ人の歴史との接点や整合性が第一に重視され、それ以外の史料との客観的な整合性、つまり一般的な意味での歴史の「実証性」は問題とはならない。加えて、ワブラの言説は通常ウォリオ人をはじめとする外部世界に届くことはないため、外部の権力からそれが直接的に否定されることもない。これらが「真実の歴史」の「真実さ」を支える、外在的かつ部分的な要因として挙げられる。
 ここでウォリオ社会にも目を向ければ、外部に想定した「聞き手」の歴史の枠組みを参照しながら、より大きな歴史へと自らの歴史を参加させようとする特徴は、ウォリオの「外向き」の語りにも共通していることに気づく。ウォリオ人の歴史言説が中央政府との「対話」に成功し、「公式なブトン史」の地位を得た要因は、「実証性」の意味では、ワブラ人の語りとほぼ同レベルにある――したがってウォリオとワブラの歴史のどちらがオリジナルでどちらが「模倣」なのかを決定付けることも原理的にはできない――ウォリオ人のブトン王国史の前半部分を、「神話」や「地元のお話」として後半部分に接続しながら、聞き手である中央政府が求めるタイプのブトン王国の通史を語ることができたからである。つまりブトンにおいて「公定史」という地位を与えられたウォリオ・ヴァージョンの「ブトン王国史」の「真実さ」は、一般に歴史学で問題となるような実証性とは別の、スハルト期の地方文化の定式化という文脈における、ウォリオ社会と中央政府という外部の権力との間の「対話」の中で形成されたものだということが指摘できる。
 さて、先に述べたことは、ワブラ人の「真実の歴史」の「真実さ」の説明としてはなお部分的であり、また上の議論からは、抗ウォリオ的な性質の要因も十分に解明されていない。ワブラ人の「真実の歴史」に見て取れる抗ウォリオ的性質について、本稿で筆者がとってきたアプローチは、ワブラ人の「真実の歴史」の語りを次の二つの意味で「表象」と捉えてきたといえる。それは一方では、過去に「本当に起こった」らしい出来事(群)からなる、より「本当らしい」「歴史」を想定し、現在の語りをその表象と捉え、語りと他の史料との整合性を探ることで、そのより「本当らしい」「歴史」に到達しようとする態度である。しかし「ムルフム‐クマハ条約」――ブトン王国の中心から一防衛拠点へのワブラ社会の“地位陥落”を決定的づけたものとして、今日ワブラ人が語る出来事――が、「本当に」起こったという痕跡は、ワブラ社会外部のウォリオ人の語りや、ブトン社会の他の平民社会の語りにも、そして欧文資料などにも見出すことはできなかった。他方で筆者は、ワブラ人の語りが持つ、現在の語り手の立場性やポリティカルなメッセージの表象としての側面にも注目してきた。つまり、「真実の歴史」を通して現在にも看取されるワブラ人の抗ウォリオ的性質に着目し、その要因を「ムルフム‐クマハ条約」以外の近現代のブトン社会における彼らの歩みの中に客観的に見出そうとしたのである。この探求からは上述のように、近現代をとおして、外部の権力によってブトン内部でのウォリオの中心的地位が決定付けられ、その結果平民諸社会が周辺化されたという経緯は跡付けられた。しかしその経緯自体はワブラを含む他の平民社会に共通するものであり、ここで問題となる、ウォリオ‐ワブラ関係を決定付ける、他の平民社会とは異なるワブラ特有の歴史的経験や要因は解明されなかった。つまり、「ムルフム‐クマハ条約」が、「本当に」起こった証拠は、「真実の歴史」の外側に客観的な形で存在してはおらず、それは、ワブラ人自身が語る「真実の歴史」の中にしか見出せないのである。このことは、「真実の歴史」の語りの、過去の(不変の)歴史の表象としてだけでも、また、語り手のポリティカルなメッセージの表象だけでも説明しつくせない、さらに別の性質を探求することを要請している。
 この性質に接近するためには、ワブラ人の歴史語りを、上述の二つの「表象」という枠組みから解放し、ワブラ人の抗ウォリオ的性質の最も直接的な要因は、「真実の歴史」の語りの外側にではなく、その内側にしかない、ということを受け入れる必要がある。それを受け入れた時、再び強く想起されるのは、「真実の歴史」が、この(外部者にとっては)説明しがたい性質をもちあわせたまま、ワブラ社会の中でまさに「真実」として語られ、生きられているという現実である。そこで最終章では、「真実の歴史」の語りの、対他的な「外向き」の言説のみならず、「内向き」の語りにも再び目を向け、それらを今一度、生活の時空間の中に戻し、「真実の歴史」が「真実」として語られ、生きられることを可能にする人々の生の条件がいかなるものであるかを考え、そこから翻ってワブラの人々の生における「歴史」を語ることの意義を考察した(第7章)。
 結論をいえば、上述のような「外向き」の語りと、巡礼儀礼というコンテクストを代表とする「内向き」の語りが、ワブラ社会ではともに「真実の歴史」として語られ生きられることを可能にするワブラ人の生の枠組みは二つある。その一つは「ブトン」である。ワブラ人は、エリート防衛拠点としてブトン王国を構成する一部として、(あるいは彼らが語るようにそれ以前は王国の中心として)生きてきた。さらに近年のインドネシアの民主化、地方分権化の中で、「ブトン」は政治的にも文化・歴史的アイデンティティの指標としても意味ある枠組みとして、ワブラ人を含むブトン社会の住人に再認識され、その中でのウォリオの文化的、歴史的中心性も高まってきている。ワブラ人の「真実の歴史」――それは「ワブラはかつてブトン王国の中心であり、その中心的地位をウォリオ人に奪われた」と語る――の「真実さ」を人々に実感させるのは、一つには過去から現在にいたる歴史的時間の中で、ワブラ人によって「ブトン」という枠組みが生きられてきたという「歴史」そのものがもたらす「実感」とでもいえるものである。「真実の歴史」の「真実さ」に実感をあたえる枠組みの二つ目は、「ワブラ村」というワブラ人の生の最も基礎となる時空間である。ワブラ人の生活空間は、自らがかつてブトン王国の中心であったことを示す、初代女王の墓をはじめ、起源の村や旧村落などさまざまな「歴史の証拠」からなる。その生活時間は、一年周期で実践される農事暦儀礼によって明確に節目を与えられている。ワブラ人は、この農事暦儀礼の実践をとおして、起源以来の歴史的歩みを通して確立してきたワブラ社会の秩序、慣習、宗教を、一年を単位とするサイクルで再生させ追体験し、再確認する。ワブラ人はその一年を過去から現在に至るまで繰り返して生きてきたし、その繰り返しからなるワブラ人の歴史的歩みの「証拠」――それは(もう一度言えば)単にワブラ村の歴史の証拠なのではなく、ブトン王国の歴史の証拠である――自体を現在にはっきりと残す時空間の中で現在も生きている。ワブラ村のみならずブトン王国の歴史的歩みについて語る「真実の歴史」の「真実さ」に「実感」を与え、「真実の歴史」の延長線上に彼らの生を位置づけ現在において語らせるのは、このブトン王国の歴史の「証拠」をも内在する、ワブラ村という時空間における生に他ならない。つまりワブラ人にとっては、「真実の歴史」の「真実さ」の「証拠」は、「真実の歴史」とその語り、および語りがなされる巡礼儀礼と日常生活そのものを一部とするワブラ村という生活の時空間の中にある。それこそが、ワブラ人にとっての歴史の「真実」のあり方そのものなのである。
 一方ウォリオにおいても、「歴史」語りは、想定する第三の聞き手からの要請や対話に応じる中で、部分的に変形されたり再構成されたりするダイナミクスをもつ一方で、そうした「外向き」の語りからは排除されるような内容や、冗長、反復などの特徴をもつ語り、すなわち「内向き」の語りが淘汰されることなく、語り続けられている。ウォリオ社会の中で「内向き」「外向き」双方の語りが語られ、生きられるのは、それが、ワブラの場合と同様に、数々の「歴史の標し」からなる、ウォリオ城塞における彼らの生活の時空間に根ざした語りであるからに他ならない。ウォリオ社会においてもワブラ社会においても、「歴史」語りは、不変の過去の歴史の単なる再現(表象)でもないし、語り手による完全にフリーハンドの創造物やポリティカルなメッセージの単なる乗り物であるわけではない。これらの社会では、「歴史」が生活の中で語られるというよりは、「歴史語り」が人々の生活の時空間の中で生きられているのである。本稿で試みたのは、そのような「歴史」と「歴史語り」を一部とするウォリオとワブラという小規模社会の社会生活の記述と分析の民族誌、つまり「歴史語りの人類学」の実践である。

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