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博士論文要旨

論文題目:藩政改革の展開と「改革主体」の形成
著者:小関 悠一郎 (KOSEKI, Yuichiro)
博士号取得年月日:2008年3月21日

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1.本論文の課題と方法
(1)目的と対象
 本論文は、近世中期の藩政改革について、政策の立案から実施に至る過程に関与した様々な人びとの意識・思想と活動のありように焦点を当てて考察する。このことによって、領主から民衆に至る社会各層の意識・思想と、政治・政策をめぐる相互の関係性・葛藤の実像に迫りうる藩政改革論の提起を目指すものである。
 中期藩政改革は、藩財政の窮乏、社会構造・経済情勢の変化への対応的側面を持ちつつ、年貢収取体系の再建、殖産興業、藩校設置を中心とするイデオロギー政策などを主要な政策として、強力な改革主体によって実施された。宝暦~天明・寛政にかけての時期は、ひろく全国にわたって、数多くの藩で改革が行われている。中期藩政改革は、18世紀後半という時代を特色づける動向である。

(2)中期藩政改革研究の成果と問題点
 1960年代後半から70年代にかけての中期藩政改革研究は、宝暦―天明期論の成果をうけて、50年代までの型論とは異なる意味で、宝暦~天明・寛政にかけて行われた中期藩政改革に独自の意義を見出した。すなわち、殖産などの諸藩の経済政策の展開とその基盤を解明して、幕藩制の構造的矛盾への領主的対応の実際を次々と明らかにするとともに、幕藩市場構造の変動に着目して、藩領域経済の自立化動向・志向を見出したのである。近世を二分する画期とも言われる18世紀後半―宝暦~天明・寛政期に行われた中期藩政改革は、他の時期の改革とは異なる、固有の意義を持つものとして位置づけられたのであり、それを考察する意義は極めて大きい。
 幕藩制国家論が展開するなかで行われた1970年代以降の研究は、中期藩政改革の動向が、近世におけるイデオロギー面での画期を形づくっていることを明らかした。具体的には、藩校の設置とそれに基づく各藩独自の「藩政の方針」、「支配の論理」(=支配イデオロギー)の確立が図られ、「強力な教化政策」によって「領内人民」をもそれに巻き込んでいく、とされたのである。しかし、藩政改革の結果として形成された「支配の論理」とはいかなる内容を持っているのかというと、これまで必ずしも十分な分析は加えられてこなかった。藩が自ら確立したと言われる「支配の論理」や「強力な教化政策」の内実をいかに捉えるかということが、中期藩政改革の課題として浮かび上がるのである。人びとの意識・思想の面から改めて中期藩政改革を考察しなければならない。
 また、70年代には、全国の藩政改革の網羅的把握に基づいた総括的考察が行われ、藩政のいかなる動向を改革として評価するかが明確化された。しかし、そこでとられた視角―「封建反動」、あるいは支配者層による「徹底的な抑圧」や「対決」として中期藩政改革を捉える視角―については、これまで、十分意識的に検討されることは少なく、根本的な批判は行われてこなかったと言える。
 1980年代には、個別の藩政改革が詳細に分析されるとともに、幕政と藩政の統一的把握―幕藩制政治改革の視点の導入が主張されるなど、藩政改革論のいくつかの方向性が提示された。こうした中で、佐々木潤之介は、中期藩政改革を「絶対主義化」と捉え直し、「生産者農民における生産者意識の変動」についての分析を前提に、「藩主と国との相対的乖離と民の国への連動」を内容とする「藩=国家観」に立った改革を、「藩の地域権力としての自立の出発点」と位置づけた。さきにふれた藩政方針の自立化といった論点と併せて考えれば、「国」に関する意識のあり方や、「自立化」の内容(特に藩領支配の問題)が問われていると言えよう。
 1990年代以降、中期藩政改革の研究は必ずしも活発とは言えない状況にあるが、それゆえにこそ、いま改めて中期藩政改革を総合的に論じうる視角が求められているのである。

(3)近世史研究の現状と藩政改革論
 上述の中期藩政改革研究の課題は、近世史研究の現状といかに関連するだろうか。まず、近世政治像に関する研究動向からみていこう。
 1970年代に提起された「仁政イデオロギー」論が、領主・民の関係意識を理解する視角として、近世史研究に大きな影響を与えてきたことは周知であろう。この問題提起を行った深谷克己は1993年の『百姓成立』において次のように述べている。すなわち、従来の「仁政イデオロギー」論は「完全な農民掌握(剰余収奪のメカニズム)」に重点があったが、「双務的」とも言える「御百姓意識」は、「百姓の支配への規定力、あるいは達成水準としての歴史的約定という面から理解され直されなければならない」、と。このように、「仁政イデオロギー」論は、90年代に入り、「双務的」とも言える「歴史的約定」という関係意識として改めて提起されるに至っている。中期藩政改革についても「支配への規定力」、「歴史的約定」という観点から再検討されなければならない。
 では、現実の政治・政策の展開と民衆との関係はどのように捉えられているだろうか。この点に関しては、1980年代後半以降の地域社会論の流れの中から、領主層による献策要求や民衆側からの政策提言=「民衆知」の活用を不可避とする、新しい政策運営の形態の出現が指摘され、18世紀半ば以降、「民衆と政治とのかかわりが大きく変容した」との見解が提示されるに至っている。藩政改革の叙述に、民衆の政治・政策への関与の動向を組み込むことが求められていると言える。本論文は、こうした議論に大いに学ぶものであるが、「民衆知」の内容や、藩権力内部に踏み込んで領主層や家臣各層の「知」や主体のあり方を精緻に分析することが、不可欠の課題であることを指摘しておきたい。
 他方、「知」の問題に関して、1990年代以降、従来取り上げられることの少なかった書物を史料として分析の対象とすることで、様々な論点が提起されるようになった。こうした研究によって、近世政治を論じる上で、社会各層の意識・思想にまで踏み込んで考察することの有効性・必要性が示され、思想家や民衆にとどまらず、領主層の思想をも捉え得る議論が提起されている。藩政改革論もこうした観点を軸に、総合的分析の視角を構築する必要があろう。

(4)方法―「改革主体」論
 以上を踏まえ、本論文では、「改革主体」のありように焦点を当てて考察を行う。吉永昭は、18世紀後半の藩を取り巻く情勢の変化に対して、一貫した理念や意図のもとに総合的な改革政策を打ち出し得るだけの「強力な政治(改革)の主体」という理解のもとに「改革主体」を論じた。しかし、そこで主として「改革主体」に措定されたのは、「名君・賢宰」であった。これに対して、近年の研究は、改革における藩主の存在感の「希薄」さや藩主主導という捉え方の困難さが指摘されており、「名君・賢宰」論のみによっては「改革主体」を捉えきれないことが浮かび上がってきている。また、権力自体の運動構造を分析する視角から、「政策主体としての能吏集団」の形成に注目する動向も現れている。この提起で重要なことは、「政策主体」が問題にされている点である。このことは、改革政策の実施を担う人々までを含めて「改革主体」と捉えることの必要性を示している。この提起を踏まえれば、地方支配の実務にあたる中士層、さらには、民間において改革政策に関与した人々=村役人層などの「地域リーダー」的存在をも、「改革主体」として考察することが求められるのではないだろうか。
 以上から、本論文は、社会各層の活動・意識をそれぞれ具体的に解明するとともに、それを、政策の立案から実施に至る藩政改革への関与を基準に、「改革主体」として再度同一平面上で把握することで、近世中後期における政治・社会の複雑な展開過程を総合的に理解することを試みるものである。それによって、「支配の論理」や「強力な教化政策」の内実とその意義、さらには、藩の「自立化」の意味を考えてみたい。
 「改革主体」の活動・意識に即して中期藩政改革を論じる際に、留意すべき点は以下の通りである。
 第一に、儒学思想・経世論に関する問題である。18世紀後半以降は、儒学が「豪農商の庶民」にまで広汎に学習されはじめる「儒学の大衆化」の時期、あるいは、幕藩制社会の中で「現実的な力を獲得しはじめた」時期と捉えられている。このことを踏まえ、本論文では、社会各層における学問の「担い手」に即した思想分析、民間における儒学受容を視野に入れた考察、当該期に顕著になる孝子顕彰等の民衆教化の再検討、を行う。
 第二に、「国益」論の展開である。従来、領主層によって近世中期に持ち出されたとされる「国益」論だが、「国産」・「国益」論がいかにして形成され、藩政にいかなる影響を与えたのかを検討することで、領主・民の関係意識のあり方―民衆の政治への規定力について考察する。
 第三に、「明君」とは何か、という問題がある。「名君・賢宰」論については既に触れたが、彼らがなぜ「明君」とされたのか、改めて考察しなければならない。
 第四に、地方支配機構再編の問題である。これまでの中期藩政改革研究において、地方支配機構の改編は、農村支配・改革政策遂行のための施策としてその重要性が指摘されてきが、「改革主体」に着目する見地からは、地方役人の資質や改革への意識といった点に踏み込んで改革と地域の関係を問う必要がある。
 以上の諸点を踏まえ、基本的改革政策の立案から実施までの過程を、社会各層における「改革主体」の意識・活動に即して分析することで、一八世紀後半の藩権力の特質を明らかにするとともに、地域・民間の動向をも視野に入れた総合的な藩政改革論の提起を試みていきたい。

(5)考察の対象
 本論文では、米沢藩の明和・安永改革を中心に、寛政改革まで含めた同藩の改革を素材として、中期藩政改革の意義を考察する。
 そもそも、米沢藩の中期藩政改革は、既に近世中後期から「明君」の治世として、全国的に知られていたが、戦後の近世史研究においても、一八世紀後半の藩政改革の典型としてたびたび取り上げられてきた。以下でもみるように、そこでみられる政治・政策の展開は中期藩政改革の典型的な内容を含んでおり、それは、考察対象としての米沢藩中期藩政改革の重要性を物語るものである。


2.本論文の構成と概要
(1)構成
序章 中期藩政改革研究の成果と課題
第一節 中期藩政改革論の展開
第二節 近世史研究の現状と藩政改革論
第三節 方法と課題
第四節 論文の構成
第一章 米沢藩明和・安永改革における「仁政」論の再編過程 
    ─竹俣当綱の「地利」「国産」理念を中心に─ 
はじめに
第一節 明和初年における竹俣当綱の改革構想
第二節 改革構想の転換と諸政策の展開
第三節 竹俣当綱における「国産」理念確立の過程
おわりに
第二章 竹俣当綱の「徂徠学」受容と藩政改革
はじめに
第一節 竹俣当綱の思想と『産語』の受容
第二節 竹俣における「徂徠学」受容の契機
おわりに
第三章 藩政改革と地方役人 ─米沢藩における郷村出役制度─
はじめに
第一節 竹俣当綱による郷村出役の設置
第二節 郷村出役の活動実態
第三節 郷村出役の資質・学問
第四節 郷村出役の廃止と再設置
おわりに
第四章 地域リーダーと学問・藩政改革
     ─金子伝五郎の平洲学受容と民衆教化活動を中心に─
はじめに
第一節 金子伝五郎の文化活動
第二節 竹俣当綱の民衆教化論と教化政策の展開
第三節 金子伝五郎の思想・活動と平洲学
おわりに
補論一 宝暦期松代藩における学問奨励 ─菊池南陽と小松成章を中心に─
はじめに
第一節 松代藩と菊池南陽の招聘
第二節 小松成章と『春雨草紙』
第三節 南陽の思想傾向
おわりに
第五章 「明君録」の作成と明君像の伝播・受容 ─『米沢侯賢行録』を中心に─
はじめに
第一節 『米沢侯賢行録』の成立と明君像の形成
第二節 明君像の形成と細井平洲
第三節 「米沢侯賢行録」の内容的特色
おわりに
第六章 近世中期における「明君録」の形成過程 ─莅戸善政著『翹楚篇』の事例─
はじめに
第一節 『翹楚篇』流布の過程と背景
第二節 『翹楚篇』の成立・内容と莅戸善政の思想
第三節 藩政の動向と莅戸善政
おわりに
補論二 真田家の系譜・事蹟編纂と鎌原桐山の思想
はじめに
第一節 近世後期の系譜・事蹟編纂と鎌原桐山
第二節 鎌原桐山の思想
第三節 文政期藩政の展開
おわりに
終章 中期藩政改革と「改革主体」
第一節 「改革主体」論
第二節 展望と課題

(2)概要
 本論文各章の概要は、以下の通りである。
 第一章は、「仁政」論の再編という視角から、強力な「改革主体」を形成して米沢藩の明和・安永改革を主導した家老竹俣当綱の思想形成過程を明らかにし、同改革に表現された領主・民の関係性を追究したものである。中期藩政改革を「仁政」論の再編の場と捉え、そこに表現される領主・民の関係を両者の「合意」・「約定」履行への模索という観点から捉え直そうとした試みである。
 第二章は、竹俣当綱における『産語』(「徂徠学派」の儒者太宰春台の著とされる)受容を分析の中心として、米沢藩明和・安永改革における改革理念・政策の立案過程を解明し、あわせて「徂徠学」受容の契機として、領主層における軍学への関心を指摘した。第一章と併せて、近世中期における「仁政」論の展開を、領主層の思想形成という観点から考察したものである。
 第三章では、地方支配機構の再編が進められるなかで安永元年(1772)に創設された郷村出役の役割を、郷村出役渡部浅右衛門の意識・活動に即して検討した。「改革主体」としての地方役人層が、領主側の支配意図の貫徹というだけでなく、村方による意図的利用によって、改革政策の内実を村方にとってより有利な形に変容させていく役割を果たしたことなどを明らかにしている。
 第四章は、米沢藩領中小松村の百姓金子伝五郎を事例に、「地域リーダー」の思想・活動を分析し、それを思想家や領主層との相互の関係性の中で総体的に捉えようとしたものである。「地域リーダー」が、地域社会(村方)の抱える問題をいかに認識して村立て直しに向けた実践活動を行ったのかを解明するとともに、その実践活動にとって儒学(儒者細井平洲の学問)受容がいかなる意味を持ったのかを明らかにしている。
 補論一は、宝暦期(1751~64)の松代藩における学問奨励に関する動向を考察の対象としている。これまでほとんど明らかにされてこなかった儒者菊池南陽の経歴や松代での活動実態を解明し、南陽門人の松代藩士小松成章の政治的な意識・思想を南陽の思想の特質と比較検討した。18世紀後半の各藩における儒学受容の多様性が窺われ、米沢藩における儒学受容のあり方を相対化する視点ともなるものである。
 第五章は、『米沢侯賢行録』を取り上げ、上杉治憲の明君像がその存命中、安永・天明期(1772~88)から成立していたことを指摘し、その明君像の全国的な流布の様相を解明したものである。本章では、個別の「明君録」の流布の実態を、諸写本の全国的調査により解明し、「明君録」・明君像の形成に儒者や全国の藩士が関わっていたことや、18世紀後半における明君像の内容的特色を明らかにした。「明君録」の社会的広がりの意味を解明するための一つの基礎を築こうとした考察である。
 第六章は、近世後期、全国に広く流布した米沢藩主上杉治憲(鷹山)の「明君録」=『翹楚篇』(寛政元年成立)、及び同書の著者莅戸善政(米沢藩士)の政治思想を分析の素材として、18世紀後半における「明君録」の形成過程について考察したものである。本章では、『翹楚篇』成立の背景に、安永期における家臣団内部の深刻な対立や全国的な民衆運動高揚への危機意識が存在したこと、『翹楚篇』の内容に、米沢藩の寛政改革における政策課題や、上記の対立・葛藤の経験が反映されていることが明らかにされている。
 補論二は、文政・天保期の松代藩における真田家先祖の系譜・事蹟編纂の動向を、家老鎌原桐山の思想を軸に検討した。藩独自の歴史編纂の意義を、当該期に藩が直面した課題との関わりで論じた。

3.結論
 中期藩政改革における「仁政」論再編の過程で、「国産」の語は殖産政策遂行の理念として機能し、大きな役割を果たした。これまでの研究ではこうした点が重視され、一八世紀後半の殖産政策は、領主層による財政再建のために実施されたとして、商品生産展開の成果の掌握という視角から取り上げられてきた。しかし、こうした捉え方のみでは、社会における殖産への取り組みが、村や地域の立て直し・発展に結びつく場合もあったことを説明し切れないのではないか。「国産」―「国益」理念とそれに基づく殖産政策は、民衆の政治に対する規定力という観点から再考されなければなるまい。中期藩政改革を「仁政」論の再編の場として捉え直すことを提起したゆえんである。
 中期藩政改革を民衆の政治に対する規定力を反映した「仁政」論再編の場として捉えるならば、改革理念に基づく諸政策が、現実にどのように実施されたのかが問われなければならない。この意味で、「改革主体」としての地方役人層の分析は重要な意味を持つ。従来の研究において、地方支配機構再編によって登用された地方役人は、藩権力側の意図を貫徹する存在として捉えられてきた。しかし、「改革主体」としての領主層の政策理念・意図、同じく地方役人(郷村出役)の資質・活動実態を精確に理解することで、これとは別な側面が見えてくる。すなわち、「改革主体」としての地方役人の活動実態まで含めて見るならば、地方支配機構の再編は、「困窮」からの立て直しに向けた村方の取り組みに起因するところの、村方の諸負担軽減を可能とする行政システムの形成という一面を持っていたと言えるのである。一見、領主層の強力な主導と見える改革政策の実施であるが、村方の日常的な訴願等によって作り出される、民衆の改革に対する規定性を見落としてはならない。
 上記のような在地側の積極的動向を、より具体的な「改革主体」に即して検討するために注目したのが、「地域リーダー」(「改革主体」)の意識・思想と実践活動である。検討の結果として、儒学(儒者細井平洲の学問)受容とそれに基づく実践活動が、藩の強力な主導による改革政策を、その実施の局面で、より村方の立て直しに資するような内実を持たせるものに変化させていったことが明らかになった。強力な「改革主体」を形成した領主層・地方役人層の意識・意図や活動との関連において、「改革主体」としての「地域リーダー」を検討することによって、藩権力との癒着論や「政治参加」の過大評価に陥ることなく、彼らの藩政改革への関与―民衆の政治・政策への規定性を多様な局面において捉えることが可能になるのである。
 一方、中期藩政改革における「明君」の役割は、人事や委任体制の構築のみならず、「徳」の提示によって改革政策を正当化するための率先的実践にあったと言えるだろう。米沢藩主上杉治憲は、かかる意味で「改革主体」たりえた「明君」だったと言えよう。
 18世紀半ば以降の藩領域への認識の深まり=「国」意識の浸透、地方支配機行政の再編・充実=藩の「国家」性の強まり、米沢藩の明和・安永改革は、この起点として考えることができるものである。中期藩政改革によって押し出された新たな動向が、近世後期にかけての国家・社会において、どのように機能・変容していくのか、さらなる課題である。この課題に答えるためにも、藩政改革とそれを推し進めた社会各層における「改革主体」、という視点を、藩権力・地域社会を総合的に考察するための方法として一層鍛えていかなければならない。

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