博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:教育諸概念の実践の論理 ― 教示、学習、知識、能力の社会的組織化 ―
著者:五十嵐 素子 (IGARASHI, Motoko)
博士号取得年月日:2008年3月21日

→審査要旨へ

1.本論の課題

現在、教育方法や知識共有をめぐる模索が様々な現場でなされ、実践の設計と評価への視角が求められている。例えば、学校教育現場では、従来の個人化された知識観や固定化された実践観への反省から多様な実践形式が導入されている。そこでは教える知識の質だけでなく、教師の関わり方や、生徒の評価方法を変えることが要請されてくる。こうしたときに、従来どおりの教師の関わり方や評価方法では、実践の目的が達成されないという困難が生じつつある。ここから言えることは、教育に関する概念の再考や提案は、最終的には実践の水準での変革という課題をもたらすものであり、教育実践に適用することができなければならないということだ。
ではいかにして、こうした概念的検討と提案が、実践に適用可能になるのだろうか。
ひとつの方向性としては、現在の心理諸学や教育学において推し進められているように、研究者が現場の教員らと共同で実践の開発に取り組むことで理論を現場に生かそうとするやり方である。確かに、そうすることで、理論を実践に組み込んだときの難しさが明らかになり、それを理論に反映させることができる。また、現場の実践家たちも、新しい視角と対峙することで自らの実践を再考することができる。
だが本論では別の行き方をしたい。社会的実践のあり方そのものから教育に関する概念について考察するというやり方である。私たちは、常に教育理論を背景に、教育を目的とする実践のなかで育てられてきたわけではなく、家族や友人を始めとする教育の素人から専門家に至る多様な人たちに、様々な場面で教育的関わりを受けるなかで成長してきた。こうした事実から翻って考えたときに、教示や学習といった教育に関する諸現象は、教育実践においてのみならず、私たちの社会的実践のどこでも生起しうるものであり、こうした概念現象を実践において捉えることによって、その性格を実践の論理として明らかにすることができると考える。本論では後者の方向性を採用することによって、教育に関わる概念の性格を実践の中に見いだそうと試み、そうすることによって、教育実践を設計し評価する際に有用な視角を提示しようとするのである。

2.本論の方法論的立場

近年では心的諸概念に関して、認知主義的見方を反省する研究動向が心理学・社会学の両領域で生じており、これらを社会的な相互行為の水準で論じるための方法論が展開している。心理学における新しい潮流は、とりわけ教育実践の設計に資するという教育・発達心理学の関心の延長に生まれてきた。従来の見方では、教育実践で教示される知識は教師から学習者に伝達され獲得される知識であり、個人の属性としての、社会的状況から独立した、外部の助けに頼らない、質問紙試験のようなもので測定できるとされていた。このため具体的な教育実践と学習経験との関係を結びつけて論じることが難しかったと反省が生じてきたのである。こうした反省から、近年では個人の知識や学習を社会的な環境によって構成されるものと捉えるアプローチが採用され、フィールドワーク等に基づいた研究方法も登場しつつある。
一方の社会学においては、認知主義的な概念化がもつ問題点を指摘する立場が登場した。代表的な論者であるエスノメソドロジストのJ.クルター(1979=1998)は、具体的な事例を用いて心的概念の論理文法を分析し、心的概念を相互行為上の諸特徴において捉える方法論を提示した。そして、従来の認知主義的な見方では、心に関わる出来事を個人に帰属し、心の中にある基底的な構造などにその根拠を求めるため、そうした帰属の実践を支える実践上の規範のあり方を看過していることを指摘した。
同様の研究は国内でも徐々に成果が蓄積している。これまでに「理解」「記憶」「能力」などの概念の検討がなされてきた。また近年においては、これらの考察を現場への示唆を得るために用いようとする動きがでてきている。
こうした二つの立場のうち、本論では、前者と関心を共有しつつも後者のエスノメソドロジー(以下「EM」)の方法論を採用する。この方法論を採用する第一の理由は、EMが実践においてどのような規範や方法に基づいて、自分たちの行っている事柄を社会的に意味あるものとしているのかを明らかにする、という方針を持つ点にある。教育実践をある目的にそって評価、設計するにあたっては、最終的にはその教育上の目的に照らして齟齬のないように、人々の実践上の規範や方法を検討し組換えなければならない。こうした点で前者よりもEMの方法論のほうが、実践を評価・設計するのに必要な視角を提供してくれると考える。
二つ目の理由は、EM研究には、教育実践だけでなく様々な社会的実践の性格に関する知見や分析概念が蓄積していることである。教育に関わる諸概念は、授業場面などの教育実践を第一の目的とするとした場面においてのみ現象するわけではない。本論はそうした教育実践場面も社会的場面の一つのあり方であるとみなし、より広い視点から教育の諸概念の性格を実践上に位置づけようと試みる。このため先行するEM研究の知見や分析概念の蓄積が、本論の具体的な事例の考察に有用だと考える。


3.本論の内容

本論は4部構成であり、全9章から成り立っている。
第1部(第1章、第2章)では、次のように本論が採用する視角と分析方針を明らかにし(第1章)、その視角と方針に基づいて保育現場の事例から場面の組織化の様相を明らかにした(第2章)。
社会学においては「社会的場面」は、多くの場合、人々の実践を考察する際の前提である。だが考察対象としての人々の実践が、ある社会的場面の構成要素であることを考えれば、実践を考察するときに、それらとその場面の組織化との関わりを無視することはできない。こうした観点に基づき、第1章では、人々の実践と社会的場面の組織化との関係をどう捉えるのかという点を方法論・分析方針上の問題として位置づけ、本論の視角と分析の方針を明らかにした。
具体的には、社会的場面の組織化を人々の実践という視角から捉える会話分析的アプローチの方法論を検討し、その方法論へのエスノメソドロジーからの批判を検討することによって、本論で採用する視角と分析方針を導出した。そこでは、社会的場面は会話の連鎖というよりも当該の場面に規範的に結びついた事柄(参加者に配分された行為規範や場所、課題など)の連関によって認識可能に組織化されるという視角を得ることができた。またこうした視角から実践を分析する方針においても以下の二点を確認した。一つ目は行為の組織化を発言だけでなく、表情、視線、身体的な動き、場所や道具といった諸資源を含めて分析すること、二つ目は参加者が当該の場面への志向性を示し合っていることを、会話の行為連鎖構造だけでなく、他の相互行為の諸特徴を含めて分析することである。
第2章では、第1章で提示した方法論と分析方針に基づき、保育現場の事例に依拠しながら場面の組織化のあり方について考察した。この第2章で扱うのは、子どもと保育士が保育室から出発して公園に到着するまでの事例である。移動場面においては「道路」という場所で「歩いて移動する」という課題が行われており、この移動を主導しているのは保育士であり、子どもはそれに従うものとされている。これに対して外遊び場面においては「公園」という場所において「遊ぶ」という課題が行われ、そこでは子どもが遊びという課題を主導し、保育士は(特に子どもに危険がないと想定される限りは)そうした子どもの行為選択に従う、という行為規範が配分されていた。また両場面に共通する行為規範としては、保育士は危険を回避するために子どもに指示を与え、子どもはその指示に従うべきであることが確認できた。本章では「移動場面」から「外遊び場面」への転換に焦点を当てて分析している。そうすることで、参加者の間に配分されている行為規範の権利/義務、場所、そこでの作業課題が大きく変化し、場面の組織化がこれらの事柄と規範的に結びついていることを例示できた。
第1部で明らかにした視角に基づけば、私たちは社会的場面においてこのような場面と結びついた行為や活動をなすことを要請されているといえる。つまり私たちの「能力」や「知識」のある側面は、このような実践をなすという水準で捉えることができるだろう。
そこで、第2部では「能力」(第3章)と「知識」(第4章)の実践上の性格について、場面と結びついた課題(task)の遂行や、配分された行為規範の利用の仕方に焦点を合わせて、次のように考察を行った。
第3章では、実践への参加の水準において「能力」と「知識」を捉えるための視角と分析の方針を得るために、H.ミーハン(1979)の「相互行為上の能力」に関する議論を検討した。ミーハンの議論から得た視角は、相互行為上の能力を実践へ参加する能力とし、相互行為上で他人に認められる方法で示されるとみなすものであり、その分析方針は、参加者がどのような知識を用いて、どのような作業によって社会的事実を秩序立てているのかを検討することによってそうした能力を明らかにするというものである。
こうした視角と方針に基づき、「外遊び場面」の中心的な課題である「遊び」の事例を取り上げ、子どもたちに要請されている作業とそこで必要とされている相互行為上の能力について分析した。彼らの砂場における「遊び」では、「砂場で一緒に転ぶことを繰り返す」という作業にあたって、自分たちの行為を遊び相手と同じように仕立てるだけでなく、自分の行動を相手と同調させ、一定の行動で「区切る」ことで、協同的に一つの行為を組織立て、それを繰り返したりしていた。そこでは複数人で協同的に「同じ行為」を行う能力やその「行為」を明示する能力がみられた。彼らは言葉を用いることはなかったが、一緒にいる相手がどんな行動をしているのかを観察しながら、自分たちの行動(動きの軌道・転ぶこと・笑うこと・反り返ることなど)を組み立てていた。また彼らは、保育士から意味づけられた相互行為上の資源(行動・道具・場所など)を相互行為上で再編し、行為を組織するものとして再編する作業を行っており、そうすることによって、自分たちの行為を文脈づけていた。こうした分析から「相互行為上の能力」の性格とは、他者との協同作業を通じて、相互行為上における資源を利用し再編することで、行為や活動といった実践を組織することだとみなせる。そうした意味で「相互行為において入手可能/利用可能」という実践上の性格を持つと考察した。
また、ミーハン(1979)の指摘によれば、私たちは相互行為上の能力において社会構造、他者、規範などに関する知識を使いこなしているという。ここで第2章の議論を踏まえれば、場面に配分された行為規範としての知識が、どのように用いられているのかを明らかにすることで、社会的場面で実践を行っていく際に求められている能力と知識のあり方を明らかにすることができる。そこで第4章では、そうした知識への視角と分析方針を導出するためにG.ライル(1949)の議論を検討し、事例を用いて具体的に考察した。ライル(1949)から導出した視角は、知識を「行為を遂行する仕方を知っている」と捉える視角であり、そうした知識を持っていることは〈行為の基準が満たされていること〉として捉えられるというものである。こうした視角と方針に基づいて、行為や活動の規範的基準を適用し、行為や活動をいかに組織しているのかという観点から「外遊び場面」を分析した。 
そこでは子どもたちの行為や活動が「遊び」という活動の規範的基準に適った形で組織化されていることを確認した。また保育士が行為役割に則って子どもへ禁止指示を出すことで、子どもは自主的な行為選択を維持しながらも、行為の規範的基準としての禁止指示に適うように自分の行為や活動を組織していたことを確認した。これらの事例では規範的基準としての知識が相互行為上の能力に支えられながら適用され、実践が組織されていた。ここから、相互行為上の知識の性格とは命題的な知識が言えることとして示されるものではなく相互行為上の能力に支えられながら、実践の遂行上でその規範的基準が満たされ、実践がそれとして成り立つことによって、示されるものであるということが確認された。
以上の考察は、教育実践を設計・実践するにあたって、以下の2点で示唆を持つ。まずは実践を評価するにあたって、教育実践の参加者がその実践を相互行為上でどのように組み立てているのかに目を向け、実践上の資源としての知識や規範的基準としての知識や利用のされ方を、教育実践の目的に沿って検討していく方法が可能であることだ。次に、教育実践をある目的に沿って設計するにあたっては、その必要に応じて実践上の資源としての知識を一定の仕方で有徴化し、規範的基準としての知識を明示することで、実践を内側から組織することが可能であるという点だ。
第3部(第5章、第6章)では、これまで明らかにしてきた能力と知識の性格を踏まえて「学習」について考察するための視角と方針を明らかにすることを課題とした。ここでは、実践において意味づけられ方が違うにもかかわらず、学習を論じる際に混同されることが多い、学習をめぐる二つの現象を取り上げる。それは測定作業の対象としての学習(第5章)と、行為の達成としての学習(第6章)である。
第5章では、測定された対象としての学習に着目し、実践において私たちがいかに「学習」を認識可能に測定しているのか、を明らかにするための方法論上の視角を得ることを課題とした。近年では、従来の認知科学・諸心理学の考え方への批判という形で、心的な現象を社会的なものとみなす立場が、心理・認知諸科学と社会学(EM)から展開している。このうち、本論が先行研究としたのは、前者の「状況論的アプローチ」においてEMの議論を取り入れて展開した、「学習の可視化」に着目する方法論である。この方法論は他の学習論よりも以下の2点で意義ある展開をしている。それは、研究者が「学習」とその社会的文脈を記述するのではなく、人々の社会的実践において学習がどのように組織化されているのかを明らかにしようとしている点であり、またそれを研究者の学習モデルを用いて記述するのではなく、人々が用いている道具だてや社会的リソースに着目することで明らかにしようとしている点である。だが本論では、この方法論が学習の「定式化」(「可視化」)にのみに照準して展開していることによって、具体的な実践の考察に不足が生じうることを指摘し、その考察方法をEMの方法論によって補って展開した。そして学習の定式化(「可視化」)を、学習を測定する作業として捉える視角の重要性を論じ、その分析にあたっては人々がどのような実践的推論の体系に基づくことで、学習が測定可能になっているのか、またそのことで彼らがどのように社会関係や社会的文脈を作り上げているのかを考察するという方針を提案した。
第6章では、達成としての学習に関する分析視角を明らかにするため、学習についての論理文法分析の知見を検討した。そこから、学習とは「行為をする能力を身につけること」であり、初学者は他者との検証作業(行為の規範的基準を判断する作業)を通じて、その学ぶべき知識である行為の基準をその適用の方法を理解し、それを実際に適用できるようになることだとする視角と分析方針を導出した。さらに、第4章に引き続き、「外遊び」の事例を参照しながらその実践上の性格について考察した。その結果、達成としての学習は、「初学者」の行為の達成として組織され、「熟練者」からその行為の完遂が帰属されることを必要とし、そうした行為の遂行においては、行為の手続きと完遂の基準を判断することに関して権利/義務を負う者との間での検証作業が伴うものであることが明らかにされた。またそうした作業のなかでは初学者は、行為の基準をその行為の組織化に適用することが求められていた。
このような達成としての学習の性格から生じうる実践上の課題は以下である。まずは、初学者は自ら配分された規範に照らして適切な行為を選択してそれを行おうとし、そして、それが一人でできないときに、自分を助ける権利/義務を持った熟練者の存在を求めることが必要になる。そして熟練者には、初学者がその行為を行う権利/義務を与えて良いのかどうかを判断する必要が生じ、さらに自分が検証の作業に関わることが、その場面の規範に照らして適切であるのかを判断することが求められる。次に、熟練者が検証作業に関わることを選択した際には、熟練者は自らの検証作業を場面の規範に沿った形で行う必要があるだけでなく、検証作業で示す初学者の行為の基準を場面の規範に照らして適切に定めることも求められる。こうした意味で熟練者にとって、達成としての学習に関わることは、自分の行為だけでなく他者の行為の設計を任されるがゆえに、双方に関しての場面に対する配慮を行わなければならない難しさがあると考察した。
第4部(第7章、第8章、第9章)では、これまでの知見を踏まえながら、教育実践場面を考察する視角と分析方針を提示することを課題とした。まずは、EM・会話分析の授業場面に関する先行研究を整理しながら、会話の特徴ではなく課題を成し遂げる作業(ワーク)の実践に着目することへと方法論的視角を移すことを提案し、その一例として教育実践に欠かせない作業である「教示作業」を理解するための視角と方針を導出した(第7章)。次にそうした視角と方針に基づいて、先行研究の事例を再分析し、教示作業の性格について考察した(第8章)。また教示作業だけでは捉えられない、近年の学校教育に導入されてきた生徒の「主体的な学び」を尊重する実践形式の教育的関わり方の性格と実践上の課題について事例を用いて考察した(第9章)。
第7章では、授業場面の先行研究を検討して教育実践場面を考察する視角と分析方針を提示した。まずは、授業に特有な会話の特徴がどのような働きをもっているのかに着目する方法論から、そうした諸特徴を授業実践の諸課題を成し遂げるための作業のための手段として位置づけて研究する方法論へと展開することの意義を論じた。さらに、授業の作業の一つとして、「教示作業」について、リンチとマクベスの授業研究(1998)の事例をもとに検討した。そこから、教示作業とは教える側と教わる側の相互行為において「すでに知られている知識」を引き出しながら、教える側はそれと対置して意味づける作業を通じて「教えるべき知識」を生み出していく実践だとする視角と、そうした特徴を持った作業がいかなる方法でなされているのかを見ていく、という分析方針が立てられることを提案した。
第8章では、第7章で明らかにした分析視角と方針に基づいて、教師と生徒のやり取りの中でいかなる教示作業が行われ、いかなる知識が教示され、実践の目的といかに結びついているのかを、先行研究の事例をもとに再分析した。この事例では、FとJの発音を識別するという局面の課題のために、必要な特定の「音」が、連鎖を通じて生徒に単語を言わせることや聞かせることのなかで定式化されていた。そうすることによって、この教師は、生徒がその教示知識を使って、初発の教師の質問に答えられるようにしていた。
こうした事例から考察されるのは、教示作業とは、熟練者の判断によって開始され、初学者の実践の組織に必要な資源として、ある共有された行動や環境における対象を定式化して意味づける作業であるということだ。ここから導かれる教示作業の実践上の課題とは以下である。教示作業の熟練者は、自らに与えられた権利/義務に照らし、初学者の当該の場面の実践上の資源としての知識の必要性を判断し、実践上で適切な時機に開始することが求められる。これに対して初学者はある時機に、熟練者からそうした知識を教示されることになる。だがこのことは初学者にとっては難しさをはらむ。教示作業は初学者に向けられてなされるにもかかわらず、それが自らのどのような実践にとってどのように適用されるべき知識であるのかは教示作業の開始前には分からない。教示知識は初学者によってある実践上で適用され行為や活動の組織化に利用されることを前提として形作られるが、初学者はその実践の設計のされ方からその必要性を理解しなければならないからだ。さらに、初学者がその教示知識を「学んだ」とみなされるには、そこで示された知識の設計のされ方から、その教示知識を実践的な課題に結びつけて適用することができなくてはならない。このことを教育上の目的を達成する効果の点から考えた場合は、教示作業には両義性があることがわかる。つまり教示作業では教示される知識自体は初学者自身の行為からは切り離された形で示されるため、それを適用するかどうかやその適用方法は、初学者の行為選択と相互行為上の能力に任されている。つまりこのことは、良い意味では初学者の主体性に任され、適用の仕方がある程度において自由である一方で、教示作業の設計上の狙いは必ずしもそのまま実施されないということになる。
第9章では、近年に導入が進んでいる、生徒の「主体的な学び」を尊重する実践形式の一つである「問題基盤型学習」の事例を取り上げ、そこでのテューター(教師)の「介入」の仕方に着目しその教育的関わり方の性格と実践上の課題を考察した。この新しく導入された授業形式では、学生が実践の主体であり「ある実践を習得すること」が教育目的そのものとなっている。こうしたときに教師は「教示作業」や「検証の作業」を行わずに、その代わりに、学生の行為や活動が教育目的に適ったやり方で組織されるようにしなければならない。そこでは、学生に身につけさせたい実践にとって必要な実践上の資源を有徴化し、次に行う行為を実践規範に従って促すことで、初学者が実践を教育的目的に沿った方向性で組織化しやすくする方法が用いられていた。
いわばここでは、熟練者(学習を支援する権利・義務を持った教師などの人物)は、その教育上の目的に沿って初学者(学習を遂行する権利・義務を持つ生徒などの人物)の「実践を内側から組織する」関わり方をしていた。またこのような教育的介入には、以下の実践上の課題がある。それは、熟練者にとってもまた初学者にとっても、当該の局面の教育目的に照らして、すくなくともどのような実践課題を何の目的に沿って行うのか、そこではどのような行為役割が誰に配分されているのか、についてあらかじめ共有されていなければならないということだ。こうした教育実践が、ある実践方法を次第に習得することを想定されて設計されている以上、初学者は適時に自分たちの実践の適切性を何らかの基準から判断して自らで修正し、ときには熟練者の介入を要請しながら実践を習得していかなければならないからである。またそうした介入を要請されたときには、熟練者は実践の展開の中から実践を組織する資源となるものを探す必要があり、また、実践規範を強化すべきところに適切に介入しなければならないという作業が発生する。そして初学者は、そうした介入の実践上の地位を理解し、それを適切なやり方で取り込みながら自分たちの実践を組織しなければならない。こうした点で双方にとって、そこでなされるべき実践課題や達成目標や行為規範の配分をあらかじめ共有しておく必要があるのだ。

2.まとめと今後の課題

本論は、教育諸概念の実践の論理を検討し教育実践の評価と設計に資するための視角と方針を明らかにすることを目的としていた。本論の知見をここで簡潔にまとめておこう。 
私たちは様々な実践に参加し社会的場面を成り立たせている。そこでは、共同作業を成り立たせ、実践上の資源を組織しながら実践を文脈づけていく相互行為上の能力と行為の規範的基準の適用としての相互行為上の知識が必要とされていた。そして、教示作業や学習の検証作業、主体的な学びを尊重する教育的関わりでは、こうした実践のあり方を配慮した設計がなされていることがわかった。
まず、行為の達成としての学習においては、熟練者(学習を支援する権利・義務を持った教師などの人物)は初学者(学習を遂行する権利・義務を持つ生徒などの)の行為を組織するなかで行為の規範的基準を提示していくことが求められ、初学者はそうした規範的基準の適用として行為を達成することを求められていた。
次に、教示作業においては、熟練者には初学者が実践を組み立てるにあたって必要な資源を判断し、それを初学者が実践上で適用することを前提として実践上で設計することを求められていた。初学者はそこで教示された実践上の資源としての知識の地位を、設計の仕方において知ることになり、それを実践上で利用するにあたってはそうした教示知識だけでなく相互行為上の能力と知識が求められていた。
さらに、主体的な学びを尊重する教育的関わりにおいては、あくまで初学者が実践の主体であるゆえに、熟練者はその実践に必要とされる実践上の資源としての知識を実践のなかで有徴化し、また、その実践の組織に必要な、規範的基準としての知識の適用を促すように会話の連鎖構造を使い、初学者の行為の流れを実践の内側から組織していた。
これらからわかるのは、教育実践とは熟練者の場面の理解と実践を設計する能力に負っているのであり、初学者は熟練者とのやりとりを手がかりにしながら、そうした熟練者の場面の理解とともにそこで焦点化された行為や知識の地位を学ぶことになる。ここから得られる示唆は、初学者が学習していくうえでの実践への理解と熟練者の存在の必要性であり、このことを教育実践者の役割に置き換えれば、学習する行為や教える知識を形作る文脈化における教師による実践の設計の重要さである。
こうしたことは、実践家にとっては経験的に知られていることと思われる。だが、従来の知識の伝達モデルにおいては見逃されている論点であるがゆえに、教育実践の合理化や効率化の流れの中で軽視されかねない事柄である。例えば、近年のeラーニングの普及において、私たちは機械との相互行為によって「学習」が可能であるとみなしている。だがコンピューターが提示した「教示知識」を「学習」するにあたっては、その画面に書かれた内容を「読む」以上の作業と能力・知識が必要である。まず必要なのは、そこで「学習」する教示知識を自らの実践の文脈上に位置づける作業だ。そして、そこでの教示知識を自らの実践を組み立てていくための資源とすることであり、そのためには、それを用いるための相互行為上の能力と知識を必要とする。そうであれば、教育の目的に照らして、熟練者は初学者との関わりの中でこうした点を補う必要があるだろう。このように、本論で明らかにした視角を用いて、教育実践を評価し、設計することが可能になるように思われる。
さて、本論の研究で課題として残された点を確認しておこう。本論は教育諸概念の実践上の性格を明らかにするにあたって、事例を参照しながら実践のあり方に即して考察していくことを目指した。さらにこれらの個々の概念の考察に関して、社会学、教育学、心理学などの各分野における議論との接続や位置づけ、意義についてこれからも考えていきたい。これは今後の大きな課題である。
また本論では、教育実践の諸作業を明らかにする視角と方針を、教示作業を例として考察した。今後は本論の成果をもとにして、教示作業以外の諸作業についても明らかにしたい。教師による教示知識の実践上の文脈化という観点からみたときに、教示作業の前提として教師が設計する諸作業(教師と生徒の行為役割の設定、経験の共有・想起による教示対象の共有、などなど)は多様にありうる。教示作業を支えているこれらの作業のあり方を考察することによって、現代の教師の教育実践の困難さを教育実践上の規範や資源の配分という観点から明らかにすることができると思われる。
さらに本論は、教育を第一の目的としない現場の実践を、教育的観点から考察した研究例とする位置づけ方もできる。例えば、第3章、4章の場面における行為規範の配分と相互行為上の能力と知識の関係についての考察は、保育士の子どもへの関わり方が子どもの相互行為上の能力と知識のあり方を方向づけていたとみなすこともできる。こうした観点からみれば、教育を第一の実践課題としない現場の実践において、教育的な関わりや効果を考察する研究の展開の可能性がありうる。作業を通じてなんらかの実践能力を向上させようとする現場の実践家にとっては、本研究の研究視角と方針によって、現場の人たちの互いの関係や作業方法がもつ教育的効果を検討することができるだろう。
上記の知見と今後の課題を踏まえながら、本論では、教育諸概念の実践の論理を明らかにすることによって、教育実践の評価と設計に資する視角と方針を提示できたと考えている。                 
       

このページの一番上へ