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博士論文要旨

論文題目:近世日本の国家思想と「牧民之書」
著者:小川 和也 (OGAWA, Kazunari)
博士号取得年月日:2007年11月27日

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 1 国家思想について

 近世国家の思想とは何か。
 「国家」とは何よりもまず、国家権力機構を指す概念である。したがって、国家思想とは国家権力の思想を意味する。近世日本の幕藩制国家においては公儀権力、治者である領主層の思想がそれにあたる。
 しかし、国家は自然発生するものではない。国家が統治する領域には、被治者である民衆が存在する。国家思想は治者の力によって一方的に作り出されるのではなく、被治者の同意を得る必要がある。国家は紛争解決の最終的手段 ultima ratio たる「暴力」を独占する。兵農分離を前提に成立した近世国家も、武力を独占したのは幕藩権力である。だが、赤裸々な暴力の行使による支配は、永続性をもちえない。つまり、国家の安定的な支配には、暴力に替わる統治関係の確立が不可欠である。
 石井紫郎は、われわれが国家に支配されながら、国家を利用するような関係を「国家生活 Staatsleben」と呼んでいる。国家が「生活」と関係するとすれば、その思想も高尚で難解なものではなく、民衆が身近に感じられるもののはずである。従来の思想史では、近世社会や民衆の動向から離れて、伊藤仁斎・荻生徂徠・本居宣長など、「頂点的思想家」の思想を国家思想と同定し、そのテキスト分析を通じて国家思想が語られることが多かった。思想家のテキストがどれほど独創性が高くとも、社会的な広がりをもつものでなければ、国家思想と呼ぶことはできない。
 国家思想の中心は、治者がいかに被治者に支配関係・統治関係を認めさせるかという点、つまり、統治権力の正統性 legitimacy にある。農業生産、すなわち、石高制に基礎を置く近世国家においては、民衆、とりわけ農民層にその国家の正統性を認めさせる必要が存在した。そして、その正統性は、治者が被治者に一方的に押しつけて成立するものではなく、例え最小限度であっても、被治者の側が能動性・自発性をもって認めるものでなければ統治原理として機能しない。
 国家思想は領主層と民衆の思想をそれぞれ別個に考察するのでは充分ではなく、両者の関係性のなかで考察されなければならない。近世国家思想は、領主と民衆がせめぎ合い、妥協するダイナミックな統治関係のなかにこそ立ち現れる。いったい、近世国家の正統性は、どのような歴史過程のなかで生み出され、定着していったのだろうか。
 本論考は、まさにその領主と民衆が直接する農政・民政という場を対象とする。具体的には、『牧民忠告』という書物の訳註書と、その関連書『牧民後判』『牧民心鑑』などの書物の成立過程を追う。

  2 なぜ、「牧民之書」なのか

 国家史研究は近世歴史学の中心テーマである。70年代は国家史の時期といわれ、近世歴史学の基幹をなしていた。ところが、思想史研究においては、その国家思想が何であるかを問う研究はあまり存在しなかった。また、国家の支配層である領主思想を本格的に研究したものも数少ない。それは、戦後における近世思想史の研究史に由来している。
 戦後の思想史研究は、1952年に刊行された丸山眞男の『日本政治思想史研究』から出発した。丸山の学説は、近世国家・社会の思想を朱子学と同定し、朱子学的思惟=封建的思惟の解体過程のなかに「近代的思惟」の萌芽を読み取ろうとするものであった。その後、尾藤正英が儒学の「外来思想」性を強調し、「幕藩体制」と朱子学との「不適合」性を主張する。以後、近世思想史は、「頂点的思想家」の研究による適合性をめぐる議論が主流となる。これに対して、安丸良夫は丸山ら「近代化」論者が研究対象としたのは、「支配階級の改良分子」であり、民衆の主体形成が問題とされていない点を批判し、民衆思想研究という分野を切り開いた。
 近世思想史のアクターを、領主・思想家・民衆と三つの要素にわけるならば、思想家と民衆に関する研究は多数存在する。しかし、近年まで、領主思想に関する研究は、あまりなされていなかったのが実情である。つまり、国家思想研究の遅れは、領主思想研究の立ち遅れと関連している。
 領主思想がそのまま国家思想なのではなく、民衆との支配‐被支配関係のなかで形成される。70年代に、まさにこの点を問うた画期的な国家思想研究が存在する。それは深谷克己、宮澤誠一らによる「幕藩制イデオロギー」論である。宮澤はその問題意識を「従来のように、儒学者等の思想を分析するだけにとどめず、支配・被支配の両階級の意識を実際に規定し、またその内容を構成している、社会的規模にまで拡大された支配イデオロギーの追求でなければならない」と説明している。そして、国家の正統性は「仁政イデオロギー」によって供給されるとする。
 だが、どのようにして一つの観念が社会的規模に広がりをもち、社会通念化・政治常識化したことを実証することが可能なのか。従来のテキストを素材とした思想史では、思想の影響力・広がりを実証することが最大の難問であった。若尾政希が取り上げたのは、『太平記評判秘伝理尽鈔』という書物である。この書物は、17世紀半ばに刊行され、さらに、「太平記読み」というオーラル・メディアによって、領主層と民衆を覆うように急速に広がり、近世前期に社会常識を形成するという。この研究手法は、書物を史料として活用する「書物研究」と呼ばれる方法である。
 書物は人々の思想形成に大きな影響を与える。近世の人々は書物を読むこと、すなわち、読書によって思想を形成することが可能となった。ある人物を取り巻く書物は、先人や同時代人たちの過去の営為あるいは労働の結果が具体的に現れたものである。それは、その人物の思想形成の前提となる歴史的条件そのものである。書物研究により近世思想史は、思想形成過程を実証的に追求し、歴史のなかに位置づける道が飛躍的に開けた。
 そこで、本論考では、近世前期から幕末までを通じて、『牧民忠告』という書物の訳註書を取り上げ、その成立過程と展開過程を中心に国家思想を探る。
 『牧民忠告』は中国で成立した民政書である。本論考では漢籍自体ではなく、関連書を中心に扱う。関連書とは『牧民忠告』の訳註書、また、『牧民忠告』の類書『牧民後判』、『牧民心鑑』とその訳註書などを指している。これらの書物は、幕末に「牧民之書」と呼ばれる。
 「牧民之書」は、北は青森から南は九州まで全国的に広く普及している書物である。国家思想は「社会的規模」の広がりのなかで捉えなければならない以上、普及度は考察対象の前提となるだろう。だが、普及した書物はたくさんある。
 書名に冠された「牧民」とは、「民」を「やしな牧」うという意味である。領主層はこの書物を手に民政に取り組んだ。近世国家の正統性を示す「仁政イデオロギー」とは、本来、領主が民衆の生産活動に依拠しているにもかかわらず、民衆の主観では、逆に領主から夫食貸などの「御救」を受けることによってのみ、百姓として成立しているという逆立ちした意識、つまり、「転倒した意識の体系」を指している。「牧民之書」は、その書名に現れているように、現実には民衆の年貢に依拠して国家経営を行っている領主が、逆に民衆を「やしな牧」っているという為政者の側の「転倒した意識」を反映した書物である。筆者は、この書物がどのように成立し、伝播したのかを探ることで、「仁政」思想の成立過程と普及に新たな光を投げかけることができるのではないかと考えている。
 民衆と向かい合った領主層の最前線に立つのは、民政官吏である。「牧民之書」は、あるべき民政官吏の像を示し、「仁政」の実践を求める。この民政官吏の思想こそ、領主‐民衆間の関係意識のあり方を最もよく反映し、また、国家思想を解明する鍵といえるのではないか。

 3 本論の構成と概要

 序章では、いまなぜ近世国家思想を論じるのか、筆者の問題意識と研究史を整理する。そして、書物研究の意義、また、なぜ、「牧民之書」を用いて国家思想を考察するのか、など問題提起をおこなう。
 序章以下の構成は、第一章~終章まで六章である。配列は、近世前期から幕末に至るまで、各章が対象とする時期順に並べたが、内容からは大きく三つに分かれる。
 第一章と第二章では、将軍家、あるいは、幕府権力と一体性の強い領主と「牧民之書」の関係を探っている。幕政と藩政がどのように関連するのか。また、領主と思想家の交流から書物が成立する点を細かく追ってみた。
 第三章は元禄期の『牧民忠告』の訳註書と、『牧民忠告』の朝鮮本が与えた影響を探り、「牧民之書」の刊行の意義を概観したものである。
 第四章・第五章・終章は、藩という枠組み、藩の自律性・「国家」性に焦点を合わせている。「牧民之書」が藩板として出された点を重視し、書物から、近世中後期の各藩の藩政改革を捉え、藩に基づく「国家」意識を明らかにする。
 各章の概要は以下の通りである。
 第一章は、拙稿「近世前期・『牧民後判』の成立と「仁政」思想の確立─伊勢桑名藩主・松平定綱を事例に」(『書物・出版と社会変容』第一号 二〇〇六)を改稿・加筆したものである。対象となる時期は、近世初期・一七世前半の寛永~慶安期。この章では『牧民後判』の成立過程を追う。『牧民後判』は、慶安二年(一六四九)に成立した書物で、著者は、一門大名とも譜代大名ともいわれる、伊勢桑名藩主・松平定綱である。島原の乱以降、幕藩制国家を襲った危機は寛永の大飢饉であった。この書物が寛永大飢饉と、いかに関係するのか、『牧民後判』の成立過程の考察を通じて、定綱の領主思想・意識を探り、近世初期にどのように「仁政」思想が確立するのかを明らかにする。
 さらに、『牧民後判』は天明期に『牧民後判国字解』という註釈書を生む。『牧民後判国字解』は定綱の子孫・松平定信の家臣によって著されたものである。この註釈書は『牧民後判』の執筆者・定綱の意図を超えて、独自な展開をみせる。作者の意図とは離れて、書物がもつそれ自体の運命を辿る。
 第二章は、大老・堀田正俊の思想と『牧民忠告』の関係をテーマとしたものである。考察の中心となるのは、延宝七年(一六七九)に成立した林鵞峰の『牧民忠告諺解』と「天和の治」の関係。対象とする時期は、一七世紀後半、近世前期の寛文~貞享期である。
 五代将軍・徳川綱吉の初政「天和の治」の幕開けを告げるのは延宝八年(一六八〇)に出された「民は国之本」に始まる条目とされている。それは綱吉政権の政治姿勢を表明したものとして、通史的研究のなかで必ずといってよいほど取り上げられる著名な条目である。だが、この条目の思想的意義を本格的に解明した研究はほとんど存在しない。二章では、この条目と鵞峰の『牧民忠告諺解』がどのように関連するのかを探る。合わせて、「民は国之本」条目を発布した正俊の将軍像と「天和の治」の関連を明らかにする。「明君録」の一つといえる正俊の『ようげんろく颺言録』の諸本を比較し、大老・正俊の領主思想を探る。なお、本章は『書物・出版と社会変容』(第三号、二〇〇七)に掲載予定である。
 第三章は、元禄期になって始めて刊行された『牧民忠告』の訳註書の内容と、日本における『牧民忠告』の受容において、朝鮮本が果たした役割を考える。
 朝鮮本とは、朝鮮半島の密陽で開板された『牧民忠告』を意味している。これとは別に、中国大陸で開板された『三事忠告』『為政忠告』という書物がある。現在、『牧民忠告』の研究、あるいは、現代語訳は『三事忠告』『為政忠告』のなかの『牧民忠告』を原本にしており、朝鮮本はその存在すら知られていないようである。だが、近世の日本で大きな役割を果たしたのは朝鮮本『牧民忠告』であった。
 元禄期の訳註書も朝鮮本を原本にしている。また、元禄期の訳註書には、訳註を超えて訳註者自身の思想が反映した部分が多々あり、そこには手厳しい為政者批判が含まれている。この元禄本を読み解くことで、訳註者の思想を探る。
 第四章は、拙稿「天明期越後長岡藩の藩政改革と農書─読書による藩家老の政治構想」(『歴史評論』六六四、二〇〇五)を改稿・加筆したものである。対象となる時期は宝暦~寛政期である。
 天明期に、長岡藩の家老・山本老迂斎は「勝手方本取」という藩政改革の指揮官に任命される。このとき、長岡藩の財政は窮乏状態にあり、その打開策として老迂斎が目を付けたのは、奥州一関藩の藩医・建部清庵が著した『民間備荒録』という書物であった。『民間備荒録』は宮崎安貞の『農業全書』の影響をうけ、農作物を商品生産として捉える農書の側面と、饑餓対策の救荒書の側面が存在する。これまで農書は小農自立のための書物とされ、著者も読者も農民とされてきたが、領主にも読者が存在した。老迂斎は、『民間備荒録』の抜き書きを作り『救荒余談』と名付けた。この書物は老迂斎の藩政改革構想の核となるべきものであったが、このとき、天明の大飢饉が始まる。饑饉の最中、老迂斎が、地方官吏のために、自ら『牧民忠告』に訳註を施したのが『和語牧民忠告』であった。天明期の長岡藩の藩政改革の特徴は、藩家老の読書によって着想され、また、書物を配布・出版することで推進されていった点にある。四章では藩家老が藩政改革を構想した抜き書き『救荒余談』に注目し、いわば「ばっしょ抜書の思想」とでもいうべきものを考えてみた。
 第五章は、拙稿「牧民官の時代─近世中後期における『牧民忠告』の展開と領主思想」(『一橋論叢』一三四‐四、二〇〇五)を改稿・加筆したものである。
 対象となる時期は天明期から幕末であるが、論考の中心は、天明期の尾張藩の藩政改革である。四章の長岡藩の『和語牧民忠告』の開板と全く同じ天明六年(一七八六)に、尾張藩でも『牧民忠告』の訳註書『牧民忠告解』がつくられている。これは単なる偶然ではない。著者は藩士・樋口好古であるが、この訳註・開板は尾張藩の天明期藩政改革の中核にいた参政・人見璣邑の指示によるものであった。さらに、この訳註書は、尾張藩の藩政改革の柱の一つ、代官がじかた地方に常駐する「所付代官制」と密接に関係している。
 天明期の尾張藩主は、徳川宗睦である。尾張藩には宗睦の「明君録」として、『御冥加普請之記并図』という書物が存在する。これは民衆によって著されたものである。近年、「明君録」を史料とする研究が始まっている。「明君録」とは、「期待される君主(領主)像」を描いたもので、虚実ないまぜのフィクション物語性を帯び、また、「民衆の声」が潜在するとされる。民衆と向かい合ったときの「明君像」は、民衆に対して慈悲深く、父母の如く振る舞う、「仁政」思想の人格的凝縮として描かれる場合が多い。若尾政希は、近世前期の政治思想は楠木正成という「明君像」を通じて叙述されていたが、近世中期、享保期以降、池田光政などの実在の藩主が「明君」化されるようになるとし、この現象を「明君像の自立」と呼んでいる。
 藩主・宗睦が『御冥加普請之記并図』によって「明君」化されるのと並行して、『牧民忠告解』が藩板として刊行される。これはどのような意味を持つのか。『牧民忠告解』の成立過程を明らかにすることで、六二万石の大藩尾張の「国家」意識を明らかにする。
 終章は、幕末に板行された『牧民心鑑』の訳註書について論述したものである。嘉永六年(一八五三)、江戸と大坂で『牧民心鑑』の訳註書『牧民心鑑訳解』と『牧民心鑑解』が開板される。『牧民心鑑訳解』の著者は漢学者・長井旌峨、『牧民心鑑解』の著者は京都町奉行与力の平塚飄斎である。長井の『牧民心鑑訳解』成立には奥州中村藩の藩権力が関与し、この書物は中村藩の藩政改革、特に報徳仕法と密接な関係をもっていた。一方、飄斎の『牧民心鑑解』成立の背景には、京都の漢詩文のネットワークが存在した。両書の成立過程と幕末という時代状況とが、どのように関係するのかを探る。
 また、終章は、本論考全体のエピローグも兼ねている。そこで、蛇足ながら、近代以降の「牧民之書」の展開を大まかに展望している。明治維新後の廃藩置県と「牧民之書」の関係、明治期の『牧民忠告解』の写本、また、太平洋戦争開戦前後に相次いで出版される「牧民之書」などについて簡単な考察を加えてみた。
 以上のように、本論考は「牧民之書」という書物の背景に存在する人的関係や成立過程を明らかにすることを通じて、近世国家思想を叙述することを狙ったものである。

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