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博士論文要旨
論文題目:公教育における宗教の多様性と対話―オランダとベルギーのイスラーム教育をめぐる比較研究―
著者:見原 礼子 (MIHARA, Reiko)
博士号取得年月日:2007年7月30日
1.本論文の課題と比較研究の枠組み
2004年にフランスで施行された、いわゆる「宗教シンボル禁止法」は、公教育の領域から宗教性を排除することに対する、フランスの頑強な決意を改めて内外に示すものであった。フランス第三共和制の時代に、学校では道徳・市民教育が宗教教育に取って代わり、教室に掲げられていたイエスの十字架は撤去された。共和主義勢力は、それまで教会が君臨し続けてきた道徳や倫理という土壌において、ついに自らの居場所を獲得したのである。こうして確立されたのが、フランス公教育における非宗教性(ライシテ)原理であった。旧植民地からの移民として、あるいは外国人労働者として、20世紀後半にヨーロッパ各地へと移住したムスリムは、21世紀に入った現在、すでに第三・第四世代を迎えつつある。ムスリムたちは、居住国の国民/市民として、その国の国家原理や公教育の原理に従うことになる。フランス公教育の場合、宗教シンボルと見なされるスカーフを脱ぐことは、フランス国民/市民たる基礎条件として提示される。
他方、近年、西欧諸国ではイスラームフォビアの高まりがEU機関等によって報告されている。ムスリムであることが視覚的に識別できる場合、とりわけスカーフを着用した女性は、暴力や攻撃の対象になりやすいというEU諸国共通の傾向も明らかにされている。では、スカーフに対して罵声を浴びせる行為と、公教育でスカーフ着用を禁止する措置の間には連関性があるのか――論理のうえでは、この問いに対する答えは否である。前者がスカーフに対する嫌悪感や不快感といった感情的なものであるのに対して、後者は公的領域あるいは公教育における非宗教性(ライシテ)という確固とした原理によるものであるからだ。
しかし、ここで西欧諸国全体の文脈に立ち戻ってみるとき、フランスほど厳格に教育と宗教を分ける原理を採用する国は他にないという事実が確認される。そのなかでも、フランスの公教育制度が確立されるのとほぼ同時期、これとは対照的な教育構造が形成された国があった。北の近隣国ベルギーとオランダである。フランスが公立学校を発展させ、宗教教育の廃止や十字架の撤去を進めていたとき、これら二カ国の教育の領域において、宗派立の学校や宗教教育はむしろ公的財源に支えられつつさらなる発展を遂げていたのであった。
現在の公教育の状況に目を向けてみると、この二カ国は、西欧諸国の公的教育機関のなかでも、最も大規模に組織化されたイスラーム教育が導入された国となっている。ここで言う「イスラーム教育」とは、原則として①信仰的な性質をもったイスラームに関する教育、②ムスリムによって教授される教育のことを指す(Kees Wagtendonk 1991: 155)。イスラームという信仰にかかわる教育や規範が、公的財源に支えられて公教育に導入されるという、いわばフランスとは対照的な措置が設けられることは、いったいいかなる意味をもつのだろうか。この問いは大きく二つの状況に対して向けられる。一つはムスリムを受け入れる公教育制度、またそれを支える思想や社会に対してどのような意味作用をもたらすのかという点であり、もう一つは教育を受けるムスリム自身あるいはその家庭やコミュニティに対してどのような影響を及ぼすのかという点である。
本論文では、オランダとベルギーに導入されたイスラーム教育を分析対象とし、この問いをめぐる比較考察をおこなった。二カ国の比較研究という手法を取った理由は、イスラーム教育の主要な実施形態が両国間で異なるという事実に着目したからである。すなわち、オランダでは結果的にイスラーム学校という独立した学校空間でのイスラーム教育を保障したのに対し、ベルギーでは公立学校に包含されている宗教教育の一科目としてのイスラーム教育を保障したのであった。そこで、イスラーム教育が公的教育機関に導入されることの諸作用を総体的・相対的に検証するために、本論文では上の研究課題に対して、具体的に次の二つの視角から接近して比較考察を試みた。第一に、両国において実施されているイスラーム教育を比較したとき、それが各々の社会や教育を受けるムスリム自身に対してもたらす作用にどのような相違が見られるのか。そして第二に、イスラーム教育環境の相違があるとしてもなお、両者において何らかの共通項が見出しうるのだとしたら、そこにはいったいいかなる論点が置かれているのか。イスラーム教育がもたらす作用にかかわる一連の分析から、両国におけるイスラームに対する包摂と排除の論理を浮き彫りにさせ、それが今後いかなる方向へと進んでいくのかを展望することを最終的な課題とした。
2.本論文のアプローチと概要
本論文は二部立てで構成されている。まず第一部では、公教育における宗教の位置取りをめぐる諸相を近代教育の成立期までさかのぼって概観した。上述の課題を扱ううえでこの分析作業が必要である理由は主に次の点にある。
オランダとベルギーにおいても、他の西欧諸国と同様、教育の非宗教化プロジェクトが急激に推し進められたのは、19世紀のナショナリズムの高揚によってであった。そのときに繰り広げられた宗教の位置取りをめぐる政治闘争においては、大きく二つの勢力による対立構図が形成されていた。一方の側には、宗教性の保持を支持する宗教勢力やその関連政治組織があった。そのもう一方の側には、かつて教会が実施していたカテキズム中心の教育を打破し、近代国家の国民たる人間を育成するための教育機関を創設する必要性を主張していた、自由主義勢力や社会主義勢力を中心としたグループがいた。この闘争は宗教勢力が自由主義勢力に対して、事実上「勝利」を収めたことによって一旦終結を見せた。こうして、両国の近代公教育制度は、キリスト教勢力のきわめて強い影響下で基礎づけられて発展していったのである。
このような経緯から、公教育は宗教に対してもともと「敏感」な性質を有している。確かに、学校闘争の後、政党は幾度となく再編されてきた。しかし、公教育における宗教教育の要/不要に関する限り、原則として当時の立場は貫かれている。したがって、イスラーム教育や信仰的規範の導入にかかわる可否が問われるということは、公教育の存立原理そのものを再び揺さぶるほど大きな論争を巻き起こす出来事なのである。そこで、本課題を遂行するにあたっても、現代のイスラーム教育導入をめぐる過程のみならず、より広範な歴史軸を取った考察を加える必要がある。つまり、公教育の成立過程において宗教(教育)がいかに扱われ、またどのような経緯によって現在の教育制度の中に位置づけられることになったのかを歴史的にふりかえるという作業が不可欠となる。加えて、この過程において、様々な政治的アクターがどのような構図のもとに争ったのか、それがいかなる流れを汲んで現在の政治勢力へと引き継がれているかを跡づけることも必要である。
ただし史的考察を進めるうえでは、両国の公教育において決定した宗教(教育)の位置取りを静態的で固定的な制度のみから捉えるのでは十分でない。道徳や倫理との関連で、既存のキリスト教や教会が果たす機能が急激に退化し始めたという社会の世俗化傾向を踏まえる必要があるのだ。世俗化の急速な進行は、公的教育機関においてムスリムの存在が顕在化した時期とほぼ時を同じくしている。新たな宗教グループであるムスリムがイスラーム教育を組織化する過程と、こうした既存社会の世俗化が同時並行的に進むということのコントラストを把握することもまた、イスラーム教育が導入されることの社会的作用を読み解くうえで重要となるのである。第一部に含まれる第1章、第2章、第3章では、以上に設定した課題を中心的視座に置き、具体的に以下のことを論述した。
第1章では、フランスの公教育制度における宗教(教育)の位置取りの歴史的変遷について扱った。オランダとベルギーとは対照的な経緯を経験したケースを参照しておくことによって、両国の公教育制度に宗教(教育)が位置づけられることになった経緯を、より先鋭に描き出すためである。本章ではまず、教育の究極目的がキリスト者に向けられたものから、人間という個の確立を目指すものへと変容していった過程を略説し、この流れが最も急進的に推し進められるきっかけとなったのが、フランス革命と人民主権の確立であったことを確認した。これらの基本的な事項を踏まえたうえで、フランスにおける教育の非宗教化プロセスの大筋を概観した。また、これに対抗するための手立てを講じた教皇庁の行動や対応も並行してふりかえった。さらに、フランス公教育の原理となった非宗教的な道徳教育がどのような責務を負い、またそれが現代においていかなる意味を帯びているのかを論じた。
第2章では、オランダの公教育史において宗教がどのように位置づいたのかを詳説した。オランダでは、1850年代から1870年代までは自由主義勢力の全盛時代が続くことになるが、そのもとで進められた教育の非宗教化に対して危機意識を募らせたのが、一方で厳格なカルヴィニストであった復興派とそれに連なるARP(反革命党)であり、他方で長い間不利な社会的地位に置かれていたカトリックグループであった。カトリックグループは当初、自由主義勢力を支持することによって、信仰の自由を確保することを希望していた。しかし、自由主義勢力の進める非宗教化は、次第にカトリックグループが求めていた信仰の自由のありかたとは異なることが明らかになった。こうしてカトリックの信徒らは、カルヴィニストとの連携を組むという歴史的な選択を取り、両陣営は自由主義勢力に対抗する有力な勢力へと成長していった。ここに、オランダの学校闘争が本格的に展開されることになるのである。
本章では、こうした公教育史およびそれにかかわる社会運動の流れを追ったのち、この闘争の終結によってオランダの公教育がどのように制度化されたのかを関連法規などから検討した。その根幹にあるのは、現在の憲法第23条にある規定である。この条項の存在によってオランダでは、公立学校と私立学校が同等の公的財源を受ける公教育構造が設けられているのであった。この点を確認したうえで、20世紀初頭に構築されたこの構造が、世俗化の進行によってどのような機能変容を遂げているのかという点について考察を加えた。それは一方で、キリスト教系の学校のみならず、ヒンドゥー教やユダヤ教といった少数派の学校も設立されるにいたった結果、学校が宗教的に多元化したことが挙げられる。イスラーム学校は、それを象徴する最も大きな出来事であった。しかし他方において、キリスト教徒の人口比率は軒並み減少傾向にあり、学校選択の基準においても、宗教はもはや大きな意味をなさなくなっているという傾向が見られる。
第3章では、ベルギーの公教育史において宗教がどのように位置づいたのかを論述した。ベルギーにおいても、オランダと同時期に、類似したアクターによって学校闘争が繰り広げられた。またこの国で展開された闘争もオランダと同様、結果的に宗教勢力が「勝利」した。ただし、いくつかの点では異なる様相を呈していた。主なものとしては、第一に、宗教陣営の構成員が異なっていた。オランダの宗教陣営がカルヴァン派とカトリックの連立によって構成されていたのに対して、ベルギーのそれはカトリック単独によるものであった。第二に、闘争の終結時期の相違である。オランダの学校闘争は1917年の憲法改定をもって終止符が打たれたとされているが、ベルギーのそれは第二次世界大戦後に再び展開され、1958年に「学校憲章」という合意文書が交わされたことによってようやく終結したのであった。
この章では、こうしたオランダとの類似点や相違点も意識しながら、ベルギーにおける学校闘争の争点とその経緯を明らかにした。そのうえで、闘争を終結させた学校憲章で合意されていた内容を具体的に検証した。この内容の一部は、のちに憲法の条項にも加えられた。具体的には、現在のベルギー憲法第24条において、「義務教育の終了まで公認宗教の教育および非宗派的モラル教育の選択を提供する」ことが明記されている。公認宗教とは19世紀以来、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教とされてきた。それに非宗派的モラル教育が並列されているのである。この分析を踏まえて、現代におけるベルギーの公立学校が、実際にどのような宗教的多元性を体現しているのかについても概説した。そこでは、イスラームと正教会が20世紀後半になって公認宗教に加わったことで、宗教の多元化がさらに進んだという点をつけ加えた。他方それに対して、ベルギーでもまた教会離れが進み、世俗化が顕著に進んでいることも指摘した。
以上の第一部で扱った公教育における宗教性の位置取りをめぐる諸相を踏まえて、続く第二部の第4章、第5章、第6章では、イスラーム教育の参入をめぐる比較考察をおこなった。この部におけるアプローチ方法の独自性は次の二点にある。
まず、イスラーム教育の社会的作用を捉えるためには、それにかかわって生じている多様な現象や論争を抽出する必要がある。そこでこれらを読み解くために、両国の新聞や雑誌あるいはテレビ特集などのマスメディアを継続的に数多く参照した。マスメディアを多く参照した理由は、一般の多くの読者や視聴者を擁するこれらの情報を批判的・客観的に眺めることによって、イスラーム教育やムスリムの学びのありかたにかかわる諸課題が社会でどのように意識化されてきたのかを明らかにするためである。これらのマスメディアを、情報のリソースとしてのみならず、世論形成に重要な影響を与える一つの社会事象としても扱うことで、実際の社会動向を反映させた立体的な分析を目指した。
また第二に、イスラーム教育の教育的作用を多面的に把握するために、実際の教育現場に赴き調査をおこなった。調査とは具体的に、学校ならびに教育関連機関への訪問調査、宗教教育教員研修への参加、教師・子ども・親・政治家へのインタビューおよび質問票の提示などである。また、調査において入手した様々な資料も、第二部における中心的な分析材料として用いた。具体的には、スクールガイド、教科書、カリキュラム、学校運営方針、教員研修で用いられたレジュメなどを活用した。
第4章ではオランダのイスラーム学校を扱った。イスラーム学校の設立に向けた取り組みが始まったのは、ムスリム移民コミュニティの間で1970年代から持ち上がっていた学校教育にかかわる問題意識がきっかけであった。ムスリム女生徒の着用するスカーフに対するいじめや無理解は、親が抱えていた不安や不満の一つであった。こうした問題意識は、ムスリム移民が暮らす地区のモスクなどで交わされた会話によって共有され、徐々に自らが主体となった学校の設立を目指す運動体としてまとまりを見せていった。運動体を誘導する重要な役割を果たしたのが、それぞれのモスクが基盤としているイスラーム組織であった。イスラーム組織は移民の出身国や民族などによって多様であり、組織間の相互交流は必ずしも活発ではなかったため、当初は異なる運動体が並存した状況にあった。だが単独の民族や国籍で構成されていた運動体は、イスラームという宗教を基盤としていないと見なされ、学校の設立が認可されないという問題にぶつかった。そこで運動体は次第に国籍や民族を超えた協力関係を密にしていき、いよいよ1988年に初のイスラーム学校が設立されるにいたったのであった。それ以降、設立運動はオランダ全国に広がっていった。本章では、設立運動にかかわった人びとの声を交えながら、この運動の背景とプロセスを追った。次いで、13校のイスラーム学校において実施した調査とそこで得た資料を中心にして、イスラーム学校における教育内容の特徴を詳しく分析した。また、親の学校参画を支える制度にも着目した。
これらの分析を踏まえて、オランダの政界や社会全体に視点を移し、イスラーム学校がどのようなまなざしで捉えられてきたのかを検証した。そこから明らかになったのは、イスラーム学校が設立されてから今現在にいたるまで、「分離」した教育空間でムスリムの子どもたちが学ぶことに対する問題点が指摘され続けてきたという事実である。これに加えて、9・11後は一部のイスラーム学校における教育活動の「民主性」が問われるという事態も招いた。こうした状況の変化にともない、オランダでは近年、憲法第23条の再検討あるいは改定の是非をめぐる議論が巻き起こっている。展開された議論においては、公立学校に一本化した構造は「魅力的でない」とされ、基本的には現在の公教育構造が保持される方向性が打ち出されてはいる。しかし、学校の基盤となる思想を次第に宗教から教育哲学へと移行するといった案なども示されている。またこの案の説得性は、社会の世俗化によって、既存のキリスト教教育やキリスト教系の学校の存在意義が問われているという事実にも支えられている。
第5章では、ベルギーの公立学校に導入されたイスラーム教育を考察対象とした。本章ではまず、イスラーム教育がムスリム移民の帰国を想定したものから、1980年代半ば以降、諸状況や政府の認識が変容するなかで、ベルギーの公教育としての性質を次第にともなうようになるプロセスを明らかにした。具体的には、宗教教育の実施にかかわる業務を担当するイスラーム代表組織が、どのような経緯から設立されたのかをふりかえった。オランダと同様、ベルギーにおいてもイスラーム組織間の交流は当初それほど積極的に展開されていたわけではなかった。イスラーム教育の制度化という共通の目的に向かって進められた代表組織の創設は、結果的に各イスラーム組織を一つのまとまりへと集結させることになったのである。これら一連のプロセスを踏まえて、次に現地調査をもとにしながら、ベルギーの公立学校におけるイスラーム教育の内容と特徴を掘り下げて分析した。
続いて、ベルギーの公立学校における宗教教育をめぐって近年提起されてきた意見と、それを契機として生まれてきた試みを取り上げた。提起された意見とは、世俗化と宗教の多様化が進んでいるという近況を受けて、教室の壁を隔てた宗教教育ではなく、宗教事象を扱う統一的な教育へと徐々に移行すべきというものである。ただしこれを進めていくにあたっては、憲法第24条ならびに関連法規に抵触する恐れがある。また、既存の宗教教育関係者たちは、この意見に対して反対の意を表し、あくまでも各々の信仰をもとにした教育やそのカリキュラムを保持しつつ、授業における宗教間対話を進めていくためのガイドラインを作成したのであった。一連の分析から、ベルギーにおける宗教教育が信仰的な性質を有していることを改めて確認したところで、これにかかわって生じているイスラーム的規範に対する二重基準の問題について指摘した。二重基準とはすなわち、イスラーム的規範が、一方ではイスラーム教育の実施というかたちで保持され、他方ではスカーフ着用の禁止によって排除されているという矛盾のことである。
以上の各国別の分析を踏まえて、第6章では比較考察を進めた。まず、両国で発展した強力なキリスト教民主主義勢力の理念に注目し、この政治勢力が公教育において守ってきた信仰に基づく教育とその特徴を確認した。キリスト教の政治勢力によって導かれた公教育制度が確立したという事実はすなわち、国民教育の場としての学校に宗教的な要素が入り込むことを意味する。これは、宗教的アイデンティティが、オランダあるいはベルギーの国民像の一要素として構成されうるということでもあるのだ。こうした両国の公教育における共通点を確認したのち、今度は両国のイスラーム教育が異なる実施条件において用意されたことの制度的理由を明らかにした。つまるところ、オランダでイスラーム学校が発展したのは、学校の開設が承認された場合に必要となる校舎や設備などが提供されるという、学校設置に対して広く開かれた制度が、憲法第23条と関連法規に支えられて存在していたからであった。他方、ベルギーでイスラーム教育が体系的に実施されるにいたった理由は、1959年の教育憲章での合意事項およびそれが憲法第24条に加えられたことで、公認された宗教・非宗派的モラル教育が選択必修科目として設定されているためであった。
オランダのイスラーム学校には、信仰のためのイスラーム教育を支える要素が豊富に盛り込まれている。礼拝の時間やスペースの設置、イスラームの性的倫理性の意味や役割の共有などを備えた空間を創造し、安定した教育空間を確保することによって、イスラーム学校は子どもたちの自己形成のための支援機能を果たそうとしているのである。他方、多様性を包括する公立学校という場で実施されるベルギーのイスラーム教育は、他の宗教・思想グループと場を共有する機会が日常的に設けられるという特質を有している。
こうしたそれぞれの特質からは、次のような共通した論争点が導かれるのであった。イスラーム教育が公的教育機関のどのような場で、またいかなる性質をもって展開されるべきであるのか。本章ではこの問いをめぐってさらに比較分析を進め、近年の議論では両国とも、宗教の多様性に対して、「分離」ではなく「混合」した学びの空間を創出することがますます目指される傾向にあるという事実を確認した。こうして試みられている試験的な「混合」プログラムについて検討した結果、宗教の多元的な状況を最も有意義に発揮しうる/していくべきであるのが、倫理と道徳という領域であることを明らかにした。また、それが展開される場としては、完全な「混合」でもなく、かといって完全な「分離」でもない、そのいずれの特質をも併せもった空間の構築が求められるという結論を提示した。後者については、しばしば社会で争点となるイスラーム的規範をめぐる摩擦が公教育の場に持ち込まれたとき、それに対して手立てを講じる組織や場も確保しておくことの重要性が、いくつかの事例から提起されたからである。
最後に第6章では、これまでの議論とは少し視点をずらし、イスラーム教育やムスリムを直接的に排除しようとする主張を取り上げた。これらの論理は、近年、反イスラーム的な政策を最大のスローガンの一つとして展開し、結果的に支持を高めている極右政党の主張内容を解読することで明らかになった。ここに立ち現れる言説は、植民地主義の時代に携えられていたイスラームフォビアの亡霊と重なりを見せる。過去に西欧にとって「他者」であり「文明化」の対象であったイスラームに対して抱かれていた嫌悪感が、現在も出口を見つけることなく漂流していること。そしてまさにその西欧の領域内に、今やイスラームが一大宗教として確固たる存在感を呈していること。この二点から、EUの領域がイスラームフォビアの主戦場となっていることの深刻さを提起した。
結論
本論文を通じて明らかにしてきたのは、両国の国民/市民像がムスリムを包摂したかたちで多様化・多元化されるという、イスラーム教育の導入がもたらす社会的作用であった。またイスラーム教育は、ムスリムであることを人間形成の過程において積極的に意識化し、「私はムスリムである」という表明を自ら肯定的におこないうる状況を、公的領域としての学校で作り出すという教育的作用も果たしていた。フランスではこれを「共同体主義」として批判している。「共同体主義」の危険を回避するという目的は、あの「宗教シンボル禁止法」を正当化する根拠の一つにもなったのであった。
しかし今のところ、当のオランダとベルギーでは、公的領域や公的教育機関における宗教的な多元性を保持し、またそこに参入したイスラームを排除することなく、宗教間の対話を試みようとしている。この模索からは、両国の宗教多元性が「共同体主義」の文脈に回収されることなく、希望のある多文化社会の一形態として示される萌芽を見出すことができる。ただし、それは完全に楽観的な可能性として示されているわけではない。19世紀に啓蒙化や文明化の思想、さらにはそれを支えた反イスラーム感情のもとに構成されたムスリム女性のスカーフをめぐる言説が、現在の両国の公教育においても現れることを想起するとき、イスラームフォビアの亡霊が漂っているのは、極右勢力やポピュリストの思想の内にとどまらないのではないかという疑問が生じるからだ。信仰に基づく教育やそれによって発達させうる宗教アイデンティティを保持することが広く認められてきたはずの両国において、スカーフの着用がしばしば問題となるという事実は、冒頭で並置した二つの行為――スカーフに対して街中で罵声を浴びせる行為と、公教育でスカーフ着用を禁止する措置の連関性を再び問うよう促すのである。西欧諸国におけるイスラームフォビアあるいはまた反セミティズムといった宗教差別の根源と構造をさらに掘り下げて検証していくことは、両国の公教育において今まさに芽生えようとしている宗教間対話という試みの限界を検討するうえで、大きな課題として提起されている。