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博士論文要旨

論文題目:近世大名家における権力編成と「御家」意識
著者:佐藤 宏之 (SATO, Hiroyuki)
博士号取得年月日:2007年7月11日

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1.本論文の目的と構成

 本研究は、近世大名家が有する「御家」をいかに存続させ続けるかという課題に対して、どのように大名家が対処していくのかあきらかにすることを目的としている。大名家に関しては古くから研究が行われてきているが、それは藩制(藩政)史研究とほぼ同義に、ひと括りにして論じられる傾向があった。しかし、大名家が藩政に対してもつ課題と、大名家自体がもつ課題には差があり、ひと括りに論じることができるようなものではなく、切り離して考えてみる必要があるのではないか。
 それでは大名家自体がもつ課題とはなにか。近世大名家は、常に大名改易、養子問題、主君「押込」、家中騒動・・・といった御家断絶の危機を有していた。このような危機に対しては、個々に研究が進展しているが、総じて、幕府と藩、あるいは藩内部の関係性にのみ注目していたため、政治(史)的観点からの検討が中心であったといえる。すなわち、それぞれの過程については、詳細な研究が進展しつつも、それがその後の大名家の存続に、いかなる影響を与えたのか、その規定性にまで言及した研究は少ないといえる。
 近年、大名家を改易後、あるいは再興後まで見通して検討する視角が提起され、必ずしも改易=永久的断絶ではなく、御家再興のシステムや意識の検討が行われてきた。すなわち、藩としては断絶するものの、大名家としては必ずしも断絶しているわけではなく、再び藩として立藩する可能性を有していたのである。これらの研究は、大名家を「家」の連続という視角から捉えなおそうという試みであったといえよう。それによって、それぞれの大名家が、その時々に直面する課題を浮かび上がらせることに成功したといえる。しかし、個々の大名家が、江戸時代を通じて、どのような課題に直面していたのかという、その通時的な把握が課題として残ったままである。そこで、本論文では、大名家が有する課題である、「御家」をいかに存続させ続けるか、御家断絶の危機に、いかに対応したのか、通時的に把握することを試み、近世社会にある「御家」意識に言及したい。
 その近世国家は、身分制を採用することで、およそ260年という安定した統治をなしえたが、その過程で、「幕藩官僚制」と呼ばれる行政・裁判・財政などさまざまな分野で一定の職務を分掌する機構が作り上げられてきたことも指摘されている。支配の合理化の過程で、さまざまな組織・機構が整備されてくるのである。しかし、江戸時代を通じて、法制化・機構化・官僚制化の一直線で見通していけばよいかというと、そのむつかしさは「御家」であることがいつまでもつきまとう点である。
そこで、本論文では、擬制化された「御家」意識に包摂された支配秩序と、公的支配を司る国家機関としての将軍・幕府の統治機能が各大名に分有され、そこから編成された官僚制的秩序の二つの相対立する秩序の構造的矛盾の発現過程にも着目したい。その解明は、近代を準備した種子がいかに蓄積されてきたのかということにつながる。それは江戸時代を通じて蓄えられてきた近代的要素がそのまま現実の近代になったというのではない。佐々木潤之介は「近世に芽生えていた近代(本来的近代)と現実に実現した近代(歴史的近代)とは違いがあり」、「近代を理解するためには、その現実の歴史的近代のみならず、本来的近代、あるいは歴史的近代にはうけつがれないで消えてしまった、可能性としての近代の側面をも理解しなくてはならない」と指摘する。藩政改革を成功させ、絶対主義化した西南雄藩が明治維新の原動力となったという事実は言うまでもないが、それぞれの藩がそれぞれの方法で「本来的近代」化にむけて自己運動・自己改革を行っていたのであり、その過程は無視し得ないであろう。それによって、「日本的社会の確立」の問題に迫ることができると考える。

(1)「藩」・大名研究の課題
 「藩」・大名研究は、「藩」・大名それ自体の研究から武家社会や史料学など多様な展開を見せてきた。それらは以下の3点にまとめることができる。
 第一に、近年の近世大名家および武家社会に関する研究は、大きく二つの見解に分かれる。その一つは、近世武士の「官僚」としての性格を高く評価する研究(幕藩官僚制論)であり、いま一つは、近世武士の「領主」としての性格を高く評価する研究(近世領主制論)である。もっとも、これは二者択一の論争ではなく、近世武士に「官僚と領主の二面性」があることは、どちらの立場も前提にしており、問題は、そのどちらの側面を強調するかという違いになっているのが現状である。むしろ、近世武士には、官僚としての側面と領主としての側面の両面が、矛盾・相剋を内包しながらも併存し、互いに共存していることにこそ、近世武家社会の特質があるとみたほうが妥当ではなかろうか。
 以上のような「領主と官僚の二面性」という問題は、先述のとおり、近世武士だけではなく、幕府と大名家の関係においても指摘することができる。したがって、問題は、それがどのような形態で発現しているのかという点にあるだろう。したがって、「藩」という言葉は、「守護する」という意味で将軍の指揮権に服するという面と、「国家」という大名の支配の私権的性格を有するという面の二つの側面をもつことに加え、それを使用する研究者の問題意識・分析視角を示す言葉でもあるといえるのである。
 第二に、従来、藩政史研究、大名家研究が取り上げてきた分析の対象は、大藩の旧族大名、織豊取立大名に集中する傾向にあり、徳川取立大名の特質についてあまり論じられてこなかった。したがって、階層的には、外様国持大名に、時期的には、幕藩権力の形成・確立期や、西南雄藩が台頭し、幕藩権力の解体期とされる幕末期に偏ることとなり、藩政改革を成功させた藩が明治維新の原動力になったとする。このような研究対象の偏りを指摘する研究は古くからあり、まったく別の過程を経て成立した藩=譜代藩の研究の必要性が提起されている。しかしながら、「藩」研究の第1期を批判的に検討した第2期においても、とりあげられた岡山藩・尾張藩・佐賀藩・松代藩などは大藩の旧族大名であり、先の提起を受けた研究が十分に進展されたとはいいがたい。外様大名の多くは、関が原の戦い以前は、徳川氏と対等もしくは対抗する位置にあり、古い伝統的なものをいかにして幕藩制的なものへ変化させていくかという課題をもっていた。藩領域に若干の移動があるものの江戸時代を通じてほぼ同じ藩領域を支配していたため、時代が下るにつれて、大名家と藩領民のあいだに領国意識が生まれ、「藩国家」を形成していた。それとは対照的に、譜代藩は、幕府あるいは将軍によって創出された藩としての性格をもつため、立藩当初から、いかなる藩を創りあげるかという創造の課題をもっていた。このように藩の成立には、戦国大名から近世大名へ、徳川氏の家中から近世大名へという二つのコースがあり、この二つのコースを十分に視野に入れた分析が、いまもなお必要なのである。
 第三には、権力論の重要性を指摘したい。藤井讓治は、1980年代半ば以降の研究状況を、「支配・被支配といった観点から政治や社会を捉えることを、意識的にか無意識かは別に、避けるようになり、・・・「権力」が見えなくなってきているように思われる」、「歴史を描く場合、「権力」を視野の外においていいのだろうか」と権力論の重要性を指摘し、高野信治も「藩」という場で生起した事象・動きも特定のテーマによって分断されていると、「藩」という枠組みの重要性を指摘している。第2期の研究を総括した『歴史評論』(第676号、2006年8月号)の特集「『藩』からみた日本近世」においても、「藩」と他の社会集団相互の関係性が重視されているが、それはあくまでも「藩」という地域論であり、藩権力側の分析が欠如しているという課題もある。いまこそ「藩」とはなにか、その存在意義が問われなければならない。

(2)「藩」・大名研究の展望
 1 「藩」研究の展望
 そこで「藩」研究の課題を、2点提示したい。
 第一には、「藩地域と入れ替わる大名家」という視角である。ある藩地域には、江戸時代を通じて、さまざまな大名家が入れ替わって入部する。ここでいう藩地域は加減する場合もあるが、この藩地域と大名家は、どのような「藩世界」を形成するのだろうか。
 第二には、「移動する大名家」という視角である。江戸時代を通して、ある大名家がひとつの地域に存在し続けることは、外様大名を除いて、むしろ稀であったのであり、「移動する大名家」のほうが、むしろ一般的であったといえる。
 この両者を検討するさい、「藩」という枠組みよりも、大名家を分析対象とするほうが有効であろう。この視角によって、研究素材の中心となるのは家門・譜代大名となる。それは、先に課題であげた譜代大名の研究蓄積にもつながる。ただし、外様・譜代といった単なる類型化論へ落とし込むつもりはない。そのためにも地域社会との接合を今後の課題としておきたい。

 2 大名家研究の展望
 また、大名家が有する、いかに「御家」を存続させるか、という課題に対して、二つの分析視角を提示したい。
 第一に、「近世国家の一組織・一機関として機能する大名家」という視角である。それは、ひとつの大名改易に伴って多くの大名家が連動する姿をあきらかにすることである。このような動きは、ひとつの大名の改易を見ていただけでは分からない。近世国家として対処している姿が浮かび上がってくる。さらに、第四章において検討するように、改易後の領知を收公するにために、譜代・外様を問わず、多くの大名家が動員されるのである。このような視角によって、近世国家をトータルに把握することが可能となり、幕藩権力編成の問題に新たな視野が拓けるのではないだろうか。
 第二に、「近世国家に対抗する大名家」という視角である。江戸時代における、将軍と大名家の関係は、将軍権威に対する大名側の一方的な恭順ではなかった。大名家は、御家断絶の危機を回避するために、親族大名と連携したり、その由緒を主張したり、親族大名との比較によって「対抗」していくのである。また、大名家には、江戸城同席や縁戚関係を中心とした、多くのつきあいがあった。こうした視角は今後も深められるべき論点であり、幕府政治に対して行った、連帯した大名家側の対応・動向を、大名と大名の関係性という視角から分析していく方法もまた、近世国家をトータルに把握する視角といえよう。
 この両者によって、近世社会における、将軍と大名家の強力なタテの関係(垂直軸)と、大名同士のヨコの関係(水平軸)が交差する様子をあきらかにできると考えている。

2.本論文の分析課題と構成

(1)分析課題
 第一の課題は、繰り返し述べてきたように、大名家が御家存続の危機に、いかに対応したのかをあきらかにすることである。本論文で分析対象とする、この越後松平家・津山松平家の歴史を振り返ってみると、家中騒動(越後騒動)・再興・無嗣逝去…、と常に時代の変わり目に養子問題が浮上している。すなわち、「家」をいかに存続させるかという課題が、常に存在していたのである。そのさい、大名家は、どのように権力編成を行っていたのか、家臣団の編成面と、その過程で現れる「御家」意識にに注目する。
 第二の課題は、大名改易を単に体制的に確立していく幕藩制国家を政治史的に段階づける手段として、改易を実行しうる幕府における権力の集中性・専制性という視角から解放し、改易となった大名家を取り巻く社会的関係、改易後の大名家のあり方を、総合的に把握した大名改易論を構築することである。
 第三には、「御家」の思想と合理化への思考の構造的矛盾から発生した越後騒動が「御為派」・「逆意派」の対立によって引き起こされた騒動であるという認識がいつ形成されたのか。越後騒動に関する書物・「越後騒動物」を研究の俎上にあげ、①その意識の形成に果たした物語の形成過程、②物語の流布と民衆の受容のあり方を検討し、江戸時代全体を通じて、③越後騒動の歴史的位置を民衆とのかかわりのなかで捉えることである。
 このように、①御家断絶の危機への対応、②大名改易論の再構築、③「御家騒動物」を媒介として広まる「御家」意識のありようという、三つの課題について留意しながら、論を進めていくことにする。
 ここで問題となるのが、越後松平家・津山松平家という、ひとつの大名家を取りあげただけで、近世国家全体の問題へと普遍化することが可能かということである。個別の大名を扱ったさい、その独自の個性(特殊性)と他藩との比較による一般化というジレンマが、いつまでもついてまわる。だからといって、多くの大名家を、さらに言えば540藩を分析すれば、近世国家の総合化が図れるとは到底思えない。総花的な個別研究では、近世国家の総体的な把握は困難なのである。そのためにも大名家がもつ「典型」をつかまえる作業をしなければならない。大名家の多様性を念頭に置き、従来特殊例外とされてきたような問題を、近世の国家や社会に位置づける作業が重要なのである。それは、個別事実のなかにいかに「普遍」の視角・視点を見出し、その意味を考えるかということである。その「普遍」の視角・視点として、本論文では、近世大名家が有する「御家」をいかに存続させるかという課題を設定したのである。
(2)全体の構成
 それでは、上述の課題に迫るため、以下の論文構成を用意する。
 
序章―「藩」・大名研究の成果と課題―
第1章 越後騒動とはなにか―分限帳の分析から―
第2章 近世「大名預」と「御家」・大名親族集団―越後騒動を事例に―
  補論1 近世「預」考―『徳川実紀』における数量的考察―
第3章 大名改易における藩領処理―城引き渡し時の文書作成―
  補論2 大名家文書の史料論―史料論における「公文書」研究の展望―
第4章 在番大名の支配構造―越後高田在番時代を素材に―
第5章 大名家家臣団の再編成とその構造
第6章 近世大名の無嗣逝去と藩の対応―五万石の減知と山中一揆―
第7章 第一一代将軍徳川家斉の子女縁組と大名
  補論3 大名家を継ぐ―松代藩の家中騒動と養子相続―
第8章 一九世紀の政権交代と武家官位
第9章 ふたたび、越後騒動とはなにか―「御代始」の改易から教訓へ―
  補論4 近世書物の史料論
終章

 第1章では、家中騒動(越後騒動)を、家臣団の構成的展開を追跡する作業から分析し、藩の支配体制および家臣団内部の性格の変化に着目する。さらに、越後高田藩改易から美作津山藩再興にいたる過程を分析することを通して、綱吉政権の性格の変化を検討する。それによって、越後騒動が、藩主にとって血縁関係にとらわれない支配機構への転換を目指す「御一門払い」の要素を含んでいたこと、5代将軍徳川綱吉による越後騒動の親裁、津山松平家としての創出が、大名の「家」の自律性を否定し、新たに国家経営を担う機関として創出したものと意義づけた。
 第2章では、幕府裁決によって決定した「大名預」を素材に、従来概説的にしか論じられてこなかった「大名預」の実態を確定し、「大名預」となった家臣を取り巻く環境や社会的関係、すなわち、大名親族集団の果たした役割を検討する。それによって、「大名預」は、紛争解決の手段・調停機能、大名家の救済としての性格と、刑罰としての性格を有するものと位置づけられる。それは、単に幕府によるタテの支配型秩序の現れではなく、大名および大名親族集団のヨコのつながりによって形作られる秩序によって実現される行為であった。そして、預け人の門地や系譜によって藩の対応が異なることはなく、先例や他の大名からの情報によって確定することをあきらかとなった。
 なお、補論1では、江戸時代を通じてみられる「預」という行為全体を、『徳川実紀』・『続徳川実紀』をもとに180の事例を検討したものである。これによって、親族に預けられた預け人の場合、のちに赦免され、役職を与えられる事例が多いことから、親族に預けられた家は、のちに御家復活の可能性を有していたとの仮説を提示した。
 第3章では、大名改易・転封に伴う大名家家産のありよう、大名改易にはどのような手順が必要とされるのか、引き渡し・請け取りの対象となる大名の「家産」はどのように扱われたのだろうか、という三つの課題を家産の文書化を通して検討する。それによって、藩領内(私)の幕府の所有物(公)の顕在化、文書処理の技術と環境の存在、幕府へ権力の一極集中という集権性をあきらかにする。さらに、家産が文書化されることによって家産の分散・分配が行われており、そこで作成された文書が「公文書」としての機能していた姿があきらかとなった。
 なお、補論2では、近年の史料学・アーカイブズ学の進展のなかで、大名(藩)を対象とした史料(論)に関する研究を、その作成者(作成場所)、目的、機能などから類型化を行う。そして、第3章で検討したように、「公文書」という概念を用いた史料論の可能性を提起する。
 第4章では、大名改易後の藩領を、幕府はどのように処理していくのか、それにかかわった在番大名の機能を検討する。これは、あるひとつの事柄にかかわる大名家の動きに注目し、大名家がいわば近世国家の一組織として機能している側面をあきらかにした。
 第5章では、新規に創出された大名家が、どのように家臣団を整備・確立したのか、その編成原理・構造・特質等を検討する。他の越前松平系の一門大名に家臣の割愛を依願・実現させることで「御家」の救済が図られ、これによって徳川将軍家の権力を支える徳川一門の「御家」の維持が図られた。また、この家臣団は、譜代・古参・新参といった新たな「家」編成の論理によって構成される一方、配置転換ルートの形成・職の専門化・旧藩主の家臣の登用などによって家臣団を構成し、合理的に支配を行っていたことをあきらかにした。
 第6章では、近世大名の無嗣逝去とそれに伴う藩の対応を、こうした藩権力の弱体化を突いて起こった山中一揆との関係性を重視して検討した。これによって、5万石の減封で存続した大名家は、家臣数の削減、組織の改編で対応することになる。また、山中一揆を起こした農民の意識に着目し、一揆記録などの社会的機能やそこからみえる社会的意識の検討の必要性を提起する。
 第7章では、徳川家斉の子女縁組先と縁組を認めた大名家の関係を検討する。この縁組みは、藩の財政圧迫したり、家格の上昇や所領高の増加を願い出て成功させる藩がいたり、その後の大名家のありかたや権力構造などに大きな影響を与える。将軍家の血の流入によって、幕府からの経済的援助、官位の優遇、五万石の加増といった恩恵を蒙る一方で、これまで均衡を保ってきた大名間の秩序が崩れため、家門・越前家認識の確認などが行われるようになった。
 なお、補論3では、松代藩真田家における養子相続の実現過程を、幕末の政治状況と関連させつつ検討する。これは、養子の問題を切り口に、藩主・家臣の相互関係の特質とその変化、全国的な政治動向が藩政に与えた規定性などに迫ろうとしたものである。
 第8章では、武家官位をめぐる将軍と大名、天皇と大名の関係がもつ政治的な意味・機能を問い直すため、大政奉還前後の武家官位叙任を検討し、ひとつの大名家の時期的段階差をあきらかにする。これによって、大名家の自他(自己)認識の形成に寄与する大名の家格において官位がもつ意味を検討する。これは、幕末維新史研究の幕府対薩長同盟という図式からの脱却を目指したものである。
 第9章では、「越後騒動物」の書物が、当時の社会に広く受容され、読み継がれていったことの歴史的な意味とはなにかという課題に対し、書物の伝来事情と系統の書誌学的検討、書物の世界と読者の関係性から検討を行い、越後騒動の歴史的位置とはなにか、あきらかにする。「越後騒動物」は、娯楽読み物として読み継がれる一方で、「家」を永続させるための教訓書とても読まれ、それによって、越後騒動が、「御代始」の改易から、人びとにとって教訓とすべき騒動と認識されるようになった。
 なお、補論4では、近年の史料論のなかで、奥行きの深化が見られる書物を史料とする歴史研究を概観し、書物が社会でいかに機能したのか、それを取り結ぶ社会構造と社会変動を解明することの重要性を提起する。
 そして、最後に終章では、以上9章にわたってあきらかにした事実に照らし合わせて、序章で掲げた課題に照らし合わせてまとめておく。
 近世大名は、その出自によって、御三家、徳川一門(家門)、譜代、外様に区分するのが基本的な類別方法といえる。しかし、所領高、官位、殿席などによっても類別され、その類別方法は多岐にわたる。そのため、近世大名は実に多様な視点によって類型化されることになる。そこで、本論文では、以上のように類別される、どの大名家にとっても普遍的な課題であろう、御家断絶の危機をいかに回避するか、という問題を取りあげ、九章にわたって検討してきた。
 大名家にとって、御家断絶の危機とはいかなる状況か。それは、継嗣問題、家中騒動、主君「押込」等であり、その最たるものが大名改易であるといえる。御家断絶の危機に直面した越後松平家・津山松平家は、大名親族集団による「御家」の救済や、「越前松平家」という家筋を背景とした働きかけを行い、さらに他の大名との比較によって回避しようとしていた。以上のように、継嗣問題は、御家断絶の危機であるが、一方で、その危機は、大名家の存立基盤を整える契機でもあったといえる。
 そして、この危機に対して、どのような権力編成を行っていたのか。各時代における分限帳により、家臣団の石高別構成の変遷をたどり、その比較検討を行った。
 また、大名家のは幕府の強力なタテの支配型秩序を回避する、「対抗する大名家」という姿と、あるひとつの事柄にかかわる大名家の動きに注目し、大名家がいわば「近世国家の一組織として機能」している側面をあきらかにし、近世国家をトータルに把握するための方法論としての、大名改易論を提起した。
 さらに、公的な世界を形成するのは、「公文書」だけではなく、「御家騒動物」という書物が、①今日どこにどのようなかたちで伝存しているのか、②どのような記録世界を、どのような読者が、どう享受したのだろうかという2点から考察を加えた。これによって、「御家」存続を意図し、「御家」を永続させるための教訓書として読まれた「越後騒動物」が、広く流布されることで、「御家」存続という社会通念を形成するようになり、書物もまた、公の形成に寄与すると位置づけた。
 以上の分析により、江戸時代とは、大名家のみならず、民衆にとっても、いかに「御家」を存続させるかという課題が共有された社会であると結論づけるものである。

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