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博士論文要旨

論文題目:幕藩制社会と闇斎学:元禄・享保期仙台藩を素材として
著者:李 喜馥 (LEE, Hee Bok)
博士号取得年月日:1998年7月29日

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 本稿は近世日本社会における朱子学の受容とその役割は何であったのか、という素朴な関心から出発したものである。この問題に関してはすでに先行研究の蓄積がある。先行研究を読んでいくうちに二つの通説があることに気づいた。その一つが体制教学としての朱子学、そしてもう一つが近世日本社会との不適合により変容せざるを得ずに転向した朱子学であった。両説ともそれなりの説得力がある。この両説は、互いに相反する論理のように受けとられがちである。ところが両説は非常に共通点をもっている。それはいずれも朱子学を仮想の論敵として想定していることである。まず前者をみると、体制教学であったが、しかしそれは保守化する体制維持のために寄与したと捉える視点である。後者は本来の朱子学が日本社会に不適合的であったので、体制に随順し、保守化していったという捉え方である。そしてともに保守化した朱子学を批判した古学に、自己主張の最たる根拠をおいている。
 ところが近世日本の政治社会に即していえば、儒者が政治的主導権を発揮していたのかと問えば、それは無に等しいというのが正答であろう。それにもかかわらず、戦後長い間、官学説をはじめとして、支配思想として位置づけられてきたのはなぜか。この問題を深めるために第一章で研究整理を行った。その結果研究史に引用された多くは、近世日本の儒者らの理論的言説であることに気づいた。つまり実態とは必ずしも結びつかないところで議論が進んでいたのである。そこで近世日本の政治社会に即して検討してみたのが、第二章「仙台藩の政治思想と儒教」である。そこで私が確認したのは、そもそも儒者は政治を言わない、いやむしろ言えないのが現状であったというのが正しい。仙台藩の場合、政治指南を勤めたのは儒者でなく、禅僧たちであった。禅僧たちは儒者の排仏論をねじ伏せ、自己の正統性をも主張した。この仙台藩のように近世日本思想界に大きな影響力を持っていた禅僧たちをどう位置づけるかは大きな課題であろう。少なくとも禅僧の動向を視野に入れて、近世日本儒学思想を見直しする必要があるのではなかろうか。そして最後に、第三章「闇斎学と仙台藩」において、闇斎学(派)が仙台で普及することができた、その原動力は探ってみた。仙台藩の闇斎学派は先行研究で指摘しているように保守的な性格を帯びていた。けれとも、思想が保守か革新かを判断する以前に、彼らが直面していた現実社会を的確に認識するのが、まず必要な手続であろう。禅僧たちが政治指南を勤める仙台藩、そして仙台藩領内でどの人間よりも格式高い寺院の存在を認めた藩主らの政治思想の前に儒者が無力を感じるのは自然ではなかろうか。

 以上のような論点に基づいて、本稿では<幕藩制社会と闇斎学 -元禄・享保期仙台藩を素材として->というテ-マで近世日本社会ににおける朱子学の位置と役割を検討してみた。その構成は以下の通りである。

序にかえて
第一章 儒学の変容と諸教一致
 はじめに
 第一節 幕藩体制の教学と日本的な儒学の成立
 第二節 幕藩体制の国制と文化の特質 -「日本的社会」の成立-
 第三節 思想発展の法則と普遍・特殊性
 第四節 日本儒教の成立と闇斎学
 第五節 諸教一致 -日本的儒学の限界-
 小括
第二章 仙台藩の政治思想と儒教
 第一節 思想体制における三教 - 黒住真の研究を通じて-
  *儒学の変容
  *思想体制における三教共有
  *仙台藩の三教共用
 第二節 綱村藩政における儒学
  *綱村の儒学関心と大島良設
  *祠堂と近世日本
  *稲葉正則の助言と儒学
  *幡桃院と『儒仏合論』
  *儒書講釈の再開と将軍綱吉の文教奨励との関係
 第三節 綱村藩政と仏教
  *綱村『自記』と仏教
  *仙台藩の寺院建立と綱村隠居論の台頭
  *綱村と鉄牛
  *大年寺住持と泰嶺・高泉
  *綱村の儒学尊信との関連
 第四節 『成宗遺書』と三教共用
  *神道関心の芽生え
  *神代より伝統をもつ伊達家
  *成宗の政治思想
   綱村への影響
  *中世への復帰の意味
  *儒者と神道
 第五節 吉村の三教共用と儒学観
  *財政再建と儒学
  *儒学認識をめぐる相異
  *仙台藩の学問所の設立
  *寺院の序列化
  *吉村の遺言と『成宗遺書』
  *通俗化された三教一致論
 小括
第三章 闇斎学と仙台藩
 第一節 闇斎学派研究の現在 - 田尻祐一郎の研究を通じて-
  1、はじめに
  2、多様な闇斎学派の思想
  3、儒学の日本化
  4、近世日本の「神国」論
  5、おわりに
 第二節 排仏論から神儒一致へ - 闇斎学を手がかりとして-
  1、はじめに
  2、闇斎学の成立と排仏論
   *『闢異』の成立と背景
   *『闢異』における排仏論
   *闇斎学の展開と排仏論
  3、闇斎学の限界と再構成
   *闇斎学の限界
   *闇斎学の再構成
  4、おわりに
 第三節 幕藩制と朱子学 - 遊佐木斎と室鳩巣の書簡往来を通じて-
  *儒学の盛況
  *幕藩制と儒学
  *仙台藩の遊佐木斎
 第四節 仙台の闇斎学派
  1、佐久間洞岩の著作と思想
   *『仙府秘録』
   *『東奥儒生説』
  2、学問所の設立と闇斎学派
 小括
結語

 以上のような構成に準じて、各章別の内容を簡単にまとめてみる。まず、第一章では、近世日本の儒学思想に関する先行研究をとくに儒学の変容と諸教一致に注目しながら検討してみた。

 周知のように、徳川幕府の成立とともに朱子学は受容され、急速に普及されていった。十七世紀の日本における儒者はほとんど朱子学を習得することによって成長したと言っても過言ではない。朱子学の普及は、陽明学や古学、そして折衷学の登場を促し、やがて近世日本儒学界は多様な展開を見せた。この多様に展開された近世日本儒学は、近代以降の多様な儒学思想史研究の前提となり、近現代の日本社会を説明する理論としてしばしば登場してくる。戦前の闇斎学や戦後の古学は、その最たる例である。ところで、この二つの例は形容詞がつく。それは、「日本的な儒学」や「日本の儒教」といった形容句であった。それほど特色がある学派という意味であろう。闇斎学と古学に付された形容詞「日本的」がもつ意味を検討したのが第一章である。但しここでは、「日本的」という言葉の概念を追求するのではなく、儒学思想の研究者が「日本的」と付した時、その言葉がもつ意味は何かを儒学史や儒学関連の研究のなかで把握することに限定し、またその対象著作も本論の行論に必要な範囲で取捨選択する方法をとった。この方法は儒学研究の関心が時代によって変わる対象だけでなく、その時代ごとに当時の研究者が近世日本儒学に何を求めていたのかを明らかにすることができると思われる。検討概要は記せば、以下のようである。

 第一に、戦後日本儒学思想史の研究における通説、「朱子学から古学へ」という論理の展開から「日本的儒学」が成立するという説を検討し、そこにおける朱子学と古学の位置づけを確認した。第二に、「日本的社会」と儒学の関係を検討した。日本的儒学の成立は日本的社会=幕藩体制に大きく規定されたと評価されるが、その幕藩体制の特徴と、それを理論づけた儒学を検証した。第三に、日本的儒学や日本的社会が儒学と関連して論じられる際、つねに日本特殊性に帰結される傾向を否めないが、近世日本の儒学には、普遍性と特殊性があったのかどうか。この問題を徂徠学と闇斎学に対する先行研究を素材としながら検討した。第四に、戦前、「日本的儒学」と称された闇斎学の神儒兼学の実態を分析するとともに、戦後に行われた朱子学批判、とりわけ闇斎学批判が疑似化された闇斎学論であることを分析した。第五に、戦後日本思想史研究を賑わせた儒学研究が限界を露出するなかで、諸教一致論、とくに近世初期における禅僧らの役割の再評価が提唱されるまでの過程を追ってみた。

 こうした検討の結果をまとめると次のようである。まず第一に、発展段階史観の適用である。栗田氏の「国民文化」から丸山氏の「近代化論」、そして尾藤氏「日本特殊論」として捉えることができる。まず栗田説を単純化して言えば、・仏教の克服による儒者の独立、・官学の朱子学、・儒学の日本化=儒者の中国儒学からの独立、・儒者が神道を重んじる神儒一致ないし神儒兼学、・国体思想の萌芽ということになる。そして、国体思想は近代以降に完成されるが、それを準備したのが江戸時代に学問の主流を占めていた儒者たちであった。なお古学は・儒学の日本化に位置づけられている。これに対し、丸山氏はの研究は、・の仏教の克服と・官学説を認めた上に、・から・への展開から、古学から近代的思惟、かつ世界史的な普遍思想を発見した。それに対置されたのが・と・であるが、彼がとった方法は・と・を主な検証すべきものとみなし、そこから江戸時代に世界史的普遍思想の萌芽を発見したのである。尾藤氏は、その論敵において、丸山氏と同じく・と・であったが、しかし、その方法は・を否定して・を強調する方向で進まれた。したがって彼の・の強調は、丸山氏のいう普遍的思想ではなく、日本社会の特殊性を説明してくれる古学という評価につながる。

 第二に、この発展段階説によって捉えられた近世日本の朱子学は常に克服、または否定すべきものとして論じられている。まず丸山氏の朱子学=体制的思惟=封建的思想から徂徠学=反体制思惟=近代的思想へという図式である。一方尾藤氏は「朱子学の挫折と近世日本社会の特殊」や「朱子学の非普遍性と徂徠学の特殊性」という図式である。丸山・尾藤両氏の図式を、近世日本社会における朱子学の役割は何であったのかという視点からみれば、近世初期社会の安定化・保守化に一定の役割を果たしたという共通認識である。そのうえ、朱子学を批判して登場してきた古学に高い評価を与えている。丸山氏の「近代的思惟」、尾藤氏の「日本的儒学」という意味づけがその例である。そこから提出された理論には普遍主義に立つ理想論=課題と外来思想の日本的受容・変容=方法・結果という貴重な論点がある。丸山・尾藤両氏の提出した課題と方法を整合して近世日本儒学史を壮大に描いた源氏の「実学史観」がある。そして、外来思想の受容の際、本来の思想を変容させる最たる要因であった幕藩体制社会を「日本的社会」と命名した水林彪氏の研究がある。けれども、源・水林両氏の研究において、自己主張の最大の根拠として古学を措定している点では前二者と同類であるが、比較史から得た彼らの結論も注目できよう。

 第三に、闇斎学と古学に即して整理すると、栗田氏から尾藤氏へ展開された論理の中には「日本儒教」から「日本的儒教」へという特殊から特殊への移行があった。まず、山崎闇斎の神儒兼学を、闇斎の朱子学に対する情熱と日本主義とを合わせた結果として捉えた栗田氏は、儒者が神道を学ぶことを神道の隆盛と見做した。この神道の隆盛は国民の自覚の発露であり、国体観念の旺盛な国民文化こそ、明治維新後の近代日本の国家形成を準備したものであった。国体思想の確立は「日本儒教の成立」を意味するが、その意味で山崎闇斎は先駆者である。そこには神道と結びついた日本的な特殊性の強調があった。これに対し、普遍史的な立場をとる丸山氏は、闇斎の朱子学に対する情熱を大きく捉え、敬虔な朱子学者として、闇斎を評価した。この評価には古学が登場する前段階として位置づけられている。この両者ともことなる見解を示したのが尾藤氏である。

 栗田・丸山氏らによって、官学かつ学問の宗主として評価された朱子学は、日本社会の特殊性のため、挫折を余儀なくされ、朱子本来の思想から逸脱した道学的、停滞する権力体制に奉仕するの維持に奉仕するだけの学問となる。この朱子学を批判して、かつ現実的認識から特殊な近世日本社会を的確にとらえた古学が登場し、この古学思想は、国学・水戸学を経て、やがて近代天皇制国家の形成に貢献し、近代以降の資本主義社会にも有効性をもつ思想である。つまり日本社会の近世から現代まで有効性をもつ思想として古学が位置づけられている、換言すれば、栗田が朱子学から発展して、万世一系の神道観念を取り入れた国体思想が「日本の儒教」であるのに対し、尾藤氏は朱子学を批判して思想の独立を遂げた古学こそ、「日本的儒教」であるという捉え方の相違を確認することができる。

 以上の研究から近世日本儒学の多様さや、その上また多様な可能性を抽出することができることを確認した。そして「日本の儒教」「日本的儒教」という評価が示すように、研究者の主観的な判断に左右され、必ずしも近世日本社会に即して事実を明らかにしたこととは直接に結びつかないことを確認した。このような課題について尾藤氏は、近世日本社会と外来思想の朱子学との不適合性を論じする際、その最たる根拠として兵農分離や日本人の心情を上げているが、しかしもう一方では、不適合性があったにもかかわらす、近世日本社会の歴史と共に朱子学は普及していったのはなぜかという問題をも提起している。 この課題を朱子学者に即して、かつ当時代政治社会の動向と関わらせて論じることによって、近世初期に儒者たちが挫折せざるを得なかった、その背景を解明するとともに、儒者らの言説がどう変化していったのかを検討してみたのが次章と第三章である。


 第二章では、元禄・享保期仙台藩の政治思想における儒教の位置を諸思想の動向を踏まえながら検討してみた。このような関心から注目される最近の研究として黒住真氏のの研究がある。黒住氏の研究は、仙台藩の政治思想を理解しようとする時、いくつか重要な論点を提示しているので、まとめてみよう。

(1) 儒学の変容
 尾藤氏による丸山学説の批判、すなわち朱子学的思惟様式と幕藩体制の原理とは適合的ではないとする問題提起の影響は大きい。儒学(宋学)の日本的受容における修正・変容の形態や特徴に関する研究の進展がはかられており、朱子学をはじめ儒学と幕藩制の関する研究もいっそう進んでいる。その到達を示す最近の成果の一つとして、中国・朝鮮との比較の観点から黒住真氏の研究がある。黒住氏は、中国・朝鮮における儒学官僚層の体制的再生産のシステムおよび国家的な礼楽制度の確立に比して、日本ではこの点は何れも未成熟であるという体制的な特徴を指摘し、その特徴がむしろ近世日本における儒学者の多様な存在形態と諸学派・諸研究の展開の要因となり、儒学が特権化せず市井の受容層への普及がみられ、民衆を含む諸種のレベルの主体形成と結合していく傾向が顕著にみられたという。そのうえ、主体性形成における思惟の特徴として、中国・朝鮮の宋学(宋明理学)では修養によって自己の内に自律的な「絶対主体」を形成し、天が自己に宿り、天や聖人に自己同一化(人はみな堯舜となりうるべし)する形で主体化が行われたのに対して、近世日本では天は人格的な上位全体者として人を囲繞し意味づける超越的存在であり、そうした存在として自己に宿り、天や聖人を奉上する形で自己主体化が行われるという特徴が指摘できるとする。したがって、中国・朝鮮の宋学においては自己の内の観念的価値の修練の達成のうちに道や理があるのに対して、近世日本では、問われている道や理は、天の意志に沿う形での人称的な働きのうちにあるという特徴が帯びるとする。そして、近世日本の儒学の思惟において重要な位置を占める超越的な人格的上位全体者としての天という特徴は、戦国期における天道思想を一つの前提として宋学の日本的受容がはかられ、戦国期的な天・天道が天人合一論に基づく倫理性・道徳性を付与されて定型化された結果であるという。このような天道思想と儒教の捉え方から、近世日本の儒学の思惟構造が、その受容の前提となった既存のの意識形態の基層の上に変容されて構築されたという視点を、比較史の観点を入れながら明確化していく。

 黒住氏の研究において、前述した尾藤氏の「役の体系」論、水林氏の日本的社会論の影響ををうかがうことは容易であるが、より注目されることは、水林・尾藤両氏の研究より一歩進み、東アジア世界の中における比較を徹底し、その結果を中世の伝統に結び付けたことである。この論理構造は、徂徠学の評価と密接な関係があろう。近世政治思想における朱子学の「非特権性」や「徂徠に流れ込む儒教には、朱子学の『理』の衝撃に対する真摯な問い直しがあり、朱子学の理はその批判の緊張のうちにそこにむしろ生きていたのである。・・・・しかし、朱子学批判が潮を引く時、本来の朱子学には宿っていたであろうし古学がまた持っていた批判的なイデアリズムも、また失われたのである。儒教思想の汎化とともに、思想はいわば横すべりし、古学の問いは近世において結局は流産」したという近世儒学の捉え方をふまえた論理構造だからである。つまり近世日本儒学における批判精神、思想の生命力の喪失を徂徠学の衰退から読み取ろうとする見方である。したがって、徂徠学を流産させた要因は何か、が解決すべき課題となる。この課題の答えとして論じられたのが、儒学の変容による近世日本儒学の思惟構造であり、徂徠も考えていた「棲み分け」すなわちその思想体制における諸教の社会的役割に注目する。

(2) 諸教一致=三教共有
 神儒仏それぞれのイデオロギ-的機能の役割・位置について黒住氏は、中国・朝鮮においては、儒学が学界=官界において体制化しているのみならず、国家の礼楽や家々(宗族)の礼・祭などにいたる信仰的なものの諸般にわたって力を発揮していたのに対して、日本では、すでに長い伝統をもつ神仏の信仰が深く根を張っていたことに規定されて、儒学は結局、神仏による祭祀や信仰を前提にして、非宗教的な意味での学問・処世・治世の道を本領として、世に提供する役に位置づいたと性格づける。近世初期においては、一般の神仏習合状況を基層に、ある程度開かれた社会においては、神は慶事(生・吉・慶・善)、仏事は弔事(死・凶・弔・悪)を主に受け持つ一種の「棲み分け」が進展しており、儒学は自らの宗教性を確立し得ないゆえに、既に近世初頭からある神道の領域をあてにこれを外護し倫理や政治を供給する役割を果たすという神儒習合の状況が進展したとする。排仏論にみられるような儒学・仏教間のヘゲモニ-争いも寺壇制度による仏教祭祀の定着や儒学の地位の安定化により終息すると、相互の「棲み分け」と統合が進展し、近世中期には神儒仏習合の姿=「思想体制における近世的『統一』」が完成したとみる。

 思想体制における神儒仏の三教共有という論理は後続研究で跡づけられる。まず一つは、東アジアにおいて支配的な規範の一つであった儒教について、「それが社会においてどんな位置を占めていたか、どんな規範の性質をおびていたか」という問題を近世日本の教学システムの問題とからめて問うた黒住氏は、・武士政権が文治官僚的性格を近世中期ごろに強めたこと、・儒学の展開において綱吉の代に儒学が社会性を帯びたこと(完成形態は明治二三年の「教育勅語」)、・思想体制において神仏に儒学が後から参与する形で形成された三教体制は三教が棲み分けられた形態において調和的に落ち着かせたこと、・社会体制における近世日本儒学が権力外部性を引きずっており、とうてい体制的中心部としての位置を確立することができなかったこと、・社会倫理としての儒学の特徴が(たとえば天)強力な理想主義・原理主義になっていかずに、従うべき、自分を包む上位の全体的な威力として感じられていたことなどを論じている。

 このように思想体制における三教共有と、その中の儒学の位置を確認した上に、近世日本仏教の再評価を促す。すなわち「朱子学(儒学)について、その中心性を相対化するするとともに、いたずらに否定するのでもなく、これに(限定された)役割をみとめ、近世思想史をそれと他の諸思想との関連形態において描いていく、そうした方向に研究が移行している」と指摘し、近世思想史研究は儒学をもふくんで諸思想・諸宗教の複合構造として幕藩制イデオロギ-の全体的な構造を捉えるべきだと提起する。そして仏教について、「不安定で荒ぶる可能性のある霊魂への働きかけがある。寺壇制は、仏教のそうした働きによって当時の共同体の基本単位であるイエを基盤に人々の霊魂の帰属を安定化しようと」した社会的有効性を積極的に評価する。また、仏教にもとづいて積極的な社会倫理を説いた鈴木正三の例のように、仏教がただ近世社会の霊的外護者であるのみならず、その積極的な形成者であったことを論証した。

 近世日本儒学を研究する祭、仏教や神道など諸宗教・諸思想をふくめた総括的な研究の必要性は、その指摘のとおりであろうが、この到達点が中国・朝鮮との比較から得られたことに注目する必要がある。さきに挙げた「儒教の日本化をめぐって」の結びのところで氏は、江戸儒学は、思想の分散的な連絡構造においては生産的であったが、対象および自己自身への批判的な問いを結局回避していた。この「日本化」過程は、文化の折衷構造のうちに惰性的傾向としてあったもの」とし、「儒教批判は現代批判だとも言える」と結んだのである。「儒教の批判」の儒教が近世の古学か、朱子学か、その他の儒学か不明確なところであるが、徂徠学でないことは確かである。というのは、黒住氏がとらえた徂徠学は自発性・主体性を存分に生かそうとするものであったからである。残るもの、すなわち朱子学を批判することこそ、自己批判を回避する現代日本人への批判となるという考え方であろう。黒住氏が体制イデオロギ-としての朱子学説にもっとも批判的な立場であることは諸論文で確認できるが、体制の中心部に位置することができなかった近世朱子学を批判する、その意義が不透明となる。そこから近世儒学を思想体制として捉え直そうという方向に転換を促し、この際方法論として借用されたのが東アジア各国との比較史ではなかろうか。

 以上、黒住氏の研究を整理してきたが、問題の焦点を絞るために、より単純化して次の問題に繋ぎたい。まず第一に、儒学を論じる際、外来思想の日本的受容・変容という捉え方が重んじられ、中世から連続する日本的特徴を抽出したが、なぜ儒学が近世以降本格的に受容・普及されたのか、その社会的背景が疎かにされている。その結果、中世以来の天道思想から『本左録』、そして徂徠学に連続される特徴が強調されている。けれども、その特徴が、近世日本の政治思想ともっとも近い関係を持っていた禅宗をはじめ諸仏教の思想、そして近世初期もっとも普及されていた儒学(朱子学)とかけ離れたところで論証された近世日本の特徴であることが確認できよう。第二に、近世思想体制は神仏儒習合の三教共有の体制である。これは中世以来の伝統思想である(宣教師が見た)神・仏に儒教が加わり、三教体制は「棲み分け」の形態が近世中期には形成する。しかし儒教は体制的中心部を確立できずに、儒者らの説く社会倫理の特徴は理想論ではなく、上位全体者に奉仕する随順的なものであったとし、なぜ近世日本の儒者が理想論を展開できなかったのかという問題提起に止まっている。第三に、近世日本の思想体制の特徴は中国・朝鮮との比較研究を通じて、一層顕著となるが、これを逆説的にいえば、中国・朝鮮との相違によって保証される特徴である。けれども、この研究傾向は、近世日本の他の思想を研究素材としても、十分に主張しうるものである。前章で検討した栗田氏の「国民文化」論や源氏の「実学史観」は顕著な例である。したがって、神仏儒習合の近世思想体制という特徴が近世日本社会の中でどの様な形態を帯び、かつ機能し得たのかという問題を具体化する必要があろう。とくに神仏儒の三教の関係を「棲み分け」また「調和的に落ち着いた」とする捉え方は、おそらく政治思想としての「思想統合」を意味するものと思われる。しかし、その政治思想は、政治家の主観的な政治方針によって、十分変形しうるものであるし、またその三教の思想体制を維持する主体があるはずであり、その主体を明らかにしなければならない。以上、研究動向と問題関心を黒住氏の諸論文を通じて述べてきたが、ここに出された問題を、元禄・享保期の仙台藩の政治思想に即して検討することを本章の目的とする。

(3)仙台藩の三教共用と儒学
 仙台藩は、陸奥宮城郡仙台におかれた藩である。天正十九年(一五九一)藩祖伊達政宗が玉造郡岩出山城に入封後、慶長八年(一六〇三)仙台に移り、徳川時代二七〇年間を通じて、仙台藩と呼ばれる領国であった。仙台藩は表高六二万石で、加賀の前田百万石・薩摩の島津七七万石に次いで全国三位の大藩である。藩主伊達氏は中世以来の伝統大名である。藩祖政宗によって基礎が確立された仙台藩は、二代忠宗の藩政期には支配機構や諸制度の整備が行われ、また新田開発やその他の産業をおこし、藩財政は安定して平和な時代であった。三代藩主綱宗は、万治元年(一六五八)忠宗の死去により、襲封して藩政に臨んだが、万治三年遊里の出入などの不行跡が原因で幕府より逼塞を命じられ、二一才で隠居した。綱宗の逼塞により、家督を相続したのが二才の実子亀千代である。亀千代はのち元服して綱基と改名した。綱基は延宝三年十七才のとき仙台に初入国して親政を行うようになるが、この人物が本論における検討対象である伊達綱村(改名は延宝五年:一六七七)である。綱村が親政を始めるまで、仙台藩の藩政は、一門である伊達宗勝と田村宗良が後見となり、幕府から国目付が派遣されて藩政を監督していた。この後見政治の時期に起こったのが、伊達騒動で有名な寛文事件である。寛文事件とは、寛文十一年、伊達宗勝が仕切る後見政治に対して、国元の一門や家臣らが失政を訴え、大老酒井忠清の屋敷で評定中に殺傷に及んだ事件である。また後見政治期には幼君綱村の毒殺陰謀があったという説もあり、大老酒井忠清によって実際の藩政が行われたともいわれている。綱村の襲封から親政まで仙台藩の政治状況は藩政時代を通じてもっとも揺れ動いた時期であった。

 さて、綱村の藩政は、十七才の延宝三年から元禄十六年致仕するまで、二八年に及ぶが、その間、藩主へ権力の集中をはかり、儒教を奨励し、禅宗に帰依して仏教を中興し、伊達家の祖先の歴史を明らかにするため修史事業を起こすなど、多様な政策を積極的に推進した。けれども、積極的な政策の推進は財政難を招き、藩政の末期には、伊達家の蔵元を続けた阿形屋が伊達家への貸金が取れなくなって破産する状況であった。財政難の理由としては、諸社寺建立、幕府より命じられた日光東照宮普請、江戸屋敷建築、および領内土木工事などがあげられが、基本的には、この時代における商品貨幣経済の発展による厖大な消費生活がもたらした伊達家および家中の窮乏であった。綱村時代の窮迫した財政難および解決策は、次の藩主の代まで仙台藩の最大の課題として残された。

 伊達綱村、初期の儒教尊信から仏教尊崇へ転心し、さらに神道をも重んじた、いわゆる神仏儒の三教を兼備した政治思想の持ち主であった。晩年彼は政治における三教共用思想を遺言として残した。そこで綱村は、儒・仏・神いずれにも片寄ってはならぬと堅く戒めている。ややもすれば儒教に傾いて仏教を軽視したり、仏教にとられて儒教を敬遠する風を避け、名儒名僧を抱えておくことが肝要であることを教えている。まさに黒住氏のいう「思想体制における近世的『統一』」としての神仏儒習合の姿である。但し、綱村個人の思想というより政治における三教の有効性を説いたものである。したがって、三教一致または三教習合というより、藩政において三教を共に用いるべきであるとの意味である。綱村の三教共用思想が綱村藩政初期から吉村の藩政においてどう展開していったのか。この課題を解明することを通じて近世日本社会を理解し、上記の黒住氏のいう近世日本思想の特徴の意味を考えてみた。検討方法においては、儒学・仏教・神道を分離して検討し、それぞれの特徴と関連を明らかにし、そして綱村によって統一された三教共用思想が吉村にどう受けとめられていたのかを検討した。

 その検討の結果をまとめて論点だけをあげてみれば、次のようである。

 まず第一に、親政初期の綱村は、儒書を熱心に学び、儒学を尊信した藩主であった。祠堂の建立がその象徴である。けれども、幕府より指南役を命じられた、稲葉正則が掲げた公儀によって牽制される。これは徳川幕府が外様大名に対する統制といえるものであるが、そのなかで儒学尊信や実践を抑制したということは、近世儒学史を論じようとする時、注目すべきことであろう。そして幕府と密接な関係をもつ禅宗界の動きも見逃すことはできない。綱村が結果的には禅宗へ転心することになり、綱村個人の思想転向として評価されてきたが、綱村が禅宗に関心を見せはじめた時、素早く儒学に対する優位・有効性を主張する『儒仏合論』を送りつけた禅宗界の対応も重要な論点となるだろう。

 第二に、綱村の仏教尊崇の意味である。綱村が禅宗に求めたのは宗教的な安心感というよりも、常に政治的な助言者を求めた事実である。理想的な師範を禅僧らに求めつづけたのは注目に値する。『儒仏合論』の例が示すように、近世日本社会における禅僧らの高い知的水準は、儒学尊信を牽制された綱村にとっては藩政を主体的に行うにあたり、必要不可欠と思われ続けたといえる。禅宗側が綱村の期待にどれほど答えたのかは定かではない。綱村が藩主の位を保持できずに、多くの仏事を興すことによって隠居せざるを得なかったことは、それを示すものであろう。けれども、綱村と鉄牛の問答から明らかであるように、綱村が大年寺を建立し、その開堂にあたり、「新民」または「福民豊国」を問うたことは、彼が禅僧に何を求めたのかを示す。このような仏教にかける綱村の情熱が多くの寺院建立に至らしめたと考えられる。なお重要なことは稲葉正則・正通父子と鉄牛と綱村との関係である。正則が綱村の儒教尊信と奨励、また実践を牽制したことや、綱村の隠居論が台頭した時、稲葉家の政治師範鉄牛が大年寺を開山したこと、正通が隠居沙汰になった綱村を擁護し、その後に見離したとき、綱村の隠居が決まったことは、近世日本の大大名伊達綱村でも藩主として主体性をもつことができなかったことを示すものであろう。

 第三に、藩主の主体性が確立できない政治界状況が常に綱村をして理想的な師範を求める契機となったといえるが、もう一つの契機があった。それは伊達家十二代成宗が残したいわゆる『成宗遺書』であった。成宗遺書は執政者にとって政治師範が如何に重要であるかを説いたものであり、理想的な師範像を呈した先祖の教えであった。この遺書こそ綱村にして絶え間なく理想的な師範を求めつづける要因となったのである。さらにこの遺書はもう二つの重要な意味をもつ。一つは、伊達家の系譜を神代より裏づけたことである。それによって、綱村の神道への関心が芽生えたのである。成宗遺書の拝見にあたり綱村は七日間沐浴斎戒して神道講釈を受けるが、その後の動向から、当時仙台では神道を思想として体系的に講釈する神道家がいなかったことが確認できる。しかも綱村は儒員田辺希賢に神道を学ばせ、元禄年間の儒書講釈の以前に、希賢より神代巻の講釈を受けたことは特筆してよい重要な点であろう。もう一つであるが、成宗遺書が提示した師範像である。それによれば、師範の資格として、仁愛深く神仏の奥義に達し、儒学の深い知識をも兼備した人物があげられている。つまり器量も、宗教的にも、教養的にも勝れた、万能の理想的な師範像である。これに近い師範として綱村は見つけたのが禅僧らである。綱村が仏教転心以後、つねに禅僧らを尊崇し、晩年吉村への遺言においても、香国和尚を師範として推薦したのはその現れである。ここに綱村の三教共用が説かれたのである。

 第四に、綱村の三教共用が次代の吉村にどうあらわれていたのかを検討したのが、最後の「吉村の三教共用と儒教」である。その結果、吉村の政治思想には三教共用という姿勢は見出すことはできなかった。その顕著な例が吉村の儒学・儒者観である。吉村藩政期にはほとんど財政難の克服に、彼の精力が費やされたといえるほど、新しい再建策が次々と出された。その財政難の克服のため、失策と新政策の考究の繰り返しのなかで、儒学のもつ社会的有効性を主張する学校建設案が登場してきたことが確認できる。けれども吉村の儒学・儒者観や学校建設に対する認識は否定的なものであった。しかし藩主の儒者・儒学・学校建設に対する否定的な認識は、仙台藩主吉村の個人の特殊的な認識ではなく、享保初年の諸大名の認識であった。吉村が岡山藩の場合をあげ、学校建設に反対したのはその顕著な例である。ようやく財政難の克服に成功した元文元年に仙台では、学問所が設立されるが、吉村の姿勢は消極的なものであった。

 仙台藩の仏教界の動向をみると、そこでは、近世日本社会を決定づけたと評しうる大きな出来ことがあった。それは寺院序列化である。元文二年吉村が定めた「於国元諸寺院等会釈之事」によれば、十七箇寺が仙台藩の最高家格である一門衆よりも上位に位置づけられている。つまり仙台藩領内において、藩主吉村が最優先的に尊重すべき対象が、一門や家臣らではなく、寺院であることを定めたのである。ちなみにいえば、儒者は田邉家(召出格)の以外は平士以下であり、神社も同様である。しかし、吉村は「神を崇ミ、儒を信ジテ、仏ヲ廃給ハ」なかったという評価もある。思想体制論としては三教共用を堅持していたことになる。けれども、その中味は、仏神儒という序列化であったといえよう。


 続いて、第三章では、闇斎学(派)研究における現在の動向を把握し、闇斎学が仙台藩に普及して行くその背景を、山崎闇斎と仙台藩の闇斎学派の著作や動向から検討してみた。前章でみたように、晩年の綱村は闇斎学に対して否定的な見方をもっていた。それにもかかわらず、仙台では闇斎学が普及され、さらに学派を形成するに至り、学問所の設立にあたっては、儒学指南として藩教育の中心的な位置を占めるようになったが、その背景と原動力は何であったのかという問題を立ててみた。この課題を解明するにあたり、まず戦後の闇斎学(派)研究における難問といわれた論点を整理してみた。

 周知の通り、・闇斎学ないし闇斎学派研究は、朱子学の日本化・尊王論の系譜・国体思想・日本的イデオロギ-といった、その学統に対する評価が示したように、近代主義かつ発展史観に立ち、特に国家論に帰結する研究が主流であった。たしかに闇斎学派から抽出された国家論は、近代天皇を中心とした近代国家の形成期において、その有効性を持ち得た側面があることは否定できない。しかし、発展段階説の立場で捉え過ぎたため、闇斎や闇斎学派が直面していた近世日本社会との接点が欠ける評価となり、終戦と共に批判にさらされる。

 ・戦後、丸山・尾藤両氏による古学研究の勃興と、それに対蹠されて論じられた朱子学の評価と密接な関係がある。両氏によって描かれた、近代的な思想としての古学と停滞の象徴として朱子学、日本的な儒学としての古学と、日本社会と不適合的な朱子学という評価が、近世日本社会のなかで、朱子学の正統的な継承者を自任していた闇斎学・闇斎学派の研究を遠ざけたといえよう。

 ・最大の要因であるが、神道兼学の評価にかかわる問題がある。周知の通り、闇斎は朱子学を信奉しながら神道を修め、垂加神道を立てた。朱子学と神代巻の教えが妙契に一致するという神儒一致の思想は、彼の死後門弟による多様な思想展開を準備したことになるが、闇斎学派の思想を高める潤滑剤ともなった。しかし先行研究において、この神儒一致思想は、本来・本質主義という観点から見たとき、互いに相容れない、並行し得ない思想であることが明らかにされた。同時に、そこでは朱子学と神道、中国と日本、普遍主義と自国主義といった枠組みが設定され、後者の側面における闇斎学派像が導き出された。

 ところが、本来互いに異質な思想が一致ないし習合させる思惟様式を近世日本思想界に即して見ると、それは闇斎・闇斎学派をはじめとする儒学者に限るものではない。東照神君思想の基盤思想である天台神道、崇伝・沢庵・白隠らの仏教者の神道言説、祖先崇拝に取り組んだ近世日本仏教、後期水戸学、平田国学、さらに伝統と文明の体験者として象徴された近代天皇像といった例などは本来異質である筈の二つ以上の思想がからみ合い、さらに当該社会における有効な方法として用いられたのである。このような歴史的事実を考え合わせると、垂加神道における神儒一致思想が、ただ単に国家論に還元することにとどまらず、その思想を生み出した社会的背景が問題となる。すなわち近世日本社会のあり方が問われなければならない。またその闇斎学派の思想が同社会のなかでどういう社会的機能を持ち得たかを明らかにしなければならない。

 以上の問題関心をもって闇斎学派に接近しようとするとき、まず注目に値する先行研究として田尻祐一郎氏の諸論文がある。田尻氏の闇斎学派研究は、戦前から戦後にかけて行われた闇斎学研究の成果の継承とともに、残された課題をも引き受ける形で行われた。徂徠学研究から近世日本思想史研究をはじめその研究素材を闇斎学派に移した氏は、ここ十年来、闇斎学派の思想究明に積極的に取り組んできた。その研究領域は、崎門三傑と呼ばれる佐藤直方・浅見絅斎らは勿論、神儒兼学派の跡部良顕・若林強斎ら中心とし、石門心学・西川如見・司馬江漢にまでおよぶ。このような幅広い氏の研究を簡略に整理すると、・多様な闇斎学派の思想展開を論証し、・儒学の日本化の過程を追求し、・近世日本社会における「神国」観念の実態を論証した、とくに・の闇斎学派に見られる「儒学の日本化」が寛文期(一六六〇年代)以降に確立された近世日本社会=幕藩制に大きく規定されていたと指摘し、また・では、「神国」を語ることによって自己主張の正統性を獲得して行こうとする思考が近世日本社会にはより広い分野の人々にみられるという。この指摘はこれまで先行研究で見られた闇斎学や闇斎学派に対する厳しい評価への問い直しを促す田尻氏の業績といえよう。但し、田尻氏の研究においては、朱熹が体系化した本来の朱子学が近世日本社会に受容・普及される際、日本的社会に規定されて挫折・変容されたという捉える傾向が強く、と同時に闇斎学派の垂加神道の実態の究明に傾いた感じを拭えない。跡部良顕や若林強斎に関する研究から確認することができるが、そこでは朱子学の日本化=神道的な朱子学解釈というところに朱子学の変容を看取っているように思われる。したがって、闇斎の没後、闇斎学派によって、近世日本を通じて再生産を繰り返した朱子学=山崎闇斎という道学的な道統認識がもつ意味に対する明確な展望が見えないように思われる。また日本的社会の確立と、それによる朱子学の挫折・変容という田尻氏の捉え方から、第一章でみた尾藤・水林氏らの影響をうかがうことができるが、第二章でみたように朱子学と不適合な社会を創り上げた人々、換言して、日本的と言われる近世日本社会を作り上げた主体があったことを捨象しているように思われる。このような捉え方は、尾藤・水林・黒住氏の研究にもいえることであるが、そこに共通していることは「主体不在の日本的社会の形成・確立」という性格が強いのは否定できないことであろう。この主体不在の「日本的社会」と比較され、そこから導き出された朱子学の挫折・変容という捉え方がどれほど実態を正確に掴めるのか、私の最大の疑問である。この問題は黒住・田尻氏の研究においても十分に解明されていないように思われる。というのは、両氏の諸論において、朱子学が変容せざる得ない必然性(特殊な日本社会)を論証した際、中国・朝鮮社会を、しかももっとも理想的に完結された社会像を画一的に引用されたことはその顕れである。

 以上の田尻氏の研究成果と課題をを踏まえながら、日本でもっとも純正かつ敬虔な朱子者と評価された山崎闇斎の朱子学=闇斎学と、その闇斎学の継承者であることを自負した仙台の闇斎学派を検討してみたのが第三章の第二節以下である。

 まず、敬虔な朱子学者と評価された山崎闇斎がなぜ神道を兼学しなければならなかったのか、その神儒兼学の問題を当該社会との関連で論じてみたのが第二節である。そして闇斎の神儒兼学の態度は、仙台藩の闇斎学派である遊佐木斎・佐久間洞岩の思想に受け継がれ、木斎が藩主綱村の諮問に答えた例のように、そのまま具体化されたことが確認できる。仙台藩の闇斎学派の神儒兼学を朱子学に即してみたのが第三節「幕藩制と朱子学」と第四節「仙台藩の闇斎学派」である。

 その結果、まず第一に、戦後の日本思想史上、闇斎学ないし闇斎学派の研究にあたり、もっとも難問だとされていた神儒兼学の問題が田尻氏に研究によって、闇斎学に限るものではなく、近世日本社会ではより普遍的なものであったことを確認した。  第二に、闇斎学の神儒兼学の意味をどう捉えるべきかを検討してみたのが第二節である。排仏論から神儒一致ないし神儒習合思想形態を帯びながら習合することを止揚した闇斎の意図は何のかという問題点を確認した。闇斎は晩年京都で後学の育成に専念したが、朱子学の「敬斎箴」を講義しながら人倫道徳の側面から排仏論を述べ、「神代巻」を講義しながら現実社会社会において有効性をもっていた神仏習合説から神仏分離をはかる闇斎学の学問形態を確認することができる。その神儒兼学の姿勢は中年時代に形成されていた。そこから闇斎の説く神儒兼学の意味が現実社会における仏教の隆盛を批判する思想的イデオロギ-であったことをも確認した。

 第三に、しかし闇斎の思想的イデオロギ-には現実問題からはじめ、朱子学の説く理想社会を仏教の受容以前に求めるだけでなく、未来世界を展望した特徴がある。つまり単純な神代への回帰ではなく、神代を語ることによって現実社会をより理想的に捉えたことである。この闇斎学の特徴が仙台藩の闇斎学派にも見られる。それは遊佐木斎が室鳩巣と交わした書簡往来から確認することができる。朱子学と幕藩制との間における乖離を嘆きながらも、儒学の隆盛や儒学先駆者らを高く評価する木斎の現実認識には、中国社会や明代朱子学を理想的にとらえる鳩巣と比較から明らかになった。

 第四に、さらに木斎の門下佐久間洞岩がまとめた仙台儒学史において、闇斎学の特徴は顕著となる。仙台藩主や藩政を厳しく批判しながらも、前代藩主綱村の藩政期には可能性があったという捉え方は現実を踏まえた上での立論であろう。このような闇斎学派が特徴が、吉村が否定かつ悲観的にみる学校建設案を実現させたのだとおもわれる。そこにおける思考様式は理想を捨てずに、まず、できることから、ということになろう。前章で確認したように、仙台藩主の政治思想と闇斎学の理念とは乖離があった。それにもかかわらす、仙台藩の学問所が開講された時、指南役を独占したのは、現実と理想をわきまえた闇斎学派の現実認識がものを言った結果であろう。


 以上のように本稿は、第一章で戦後、日本思想史研究における近世日本朱子学の評価を確かめことからはじめ、第二章で近世中期仙台藩における朱子学の実態を検討し、第三章で仙台藩の闇斎学派の形成過程を究明しようと試みたものである。けれども、本稿で検討で明らかになったように、享保年間までに限っていえば、仙台藩における朱子学の実態を掴めることはできなかった。仙台藩の検討を通して確認したことは、元禄・享保期における仙台藩の藩主の政治思想と朱子学との間には乖離があったということである。藩主の政治思想は禅宗や真言宗などの仏教思想に依拠するところが多く、また仙台藩の儒員が公の場で儒学に依拠しながら自己思想の正当性を主張し始めたのは、近世日本を通してもっとも繁栄を謳歌した元禄時代も過ぎ、財政難に苦しむ藩政の再建策が試行された享保時代を待たなければならない。芦東山・高橋玉斎らの建学案はそれを象徴するものであるが、それ以前に宿老・奉行遠藤守信が主張した儒学のもつ社会的有効性を特記しておかなければならない。つまり東山や玉斎が建学の意見を提出することが出来たのは、享保時代における仙台藩の政治社会が儒学の有効性を認めざるを得ない状況であったのである。仙台藩の学問所ができた元文元年は、古学者荻生徂徠が亡くなってから九年目にあたる。以下、本論文の検討で得られた論点を記せば次のようになる。

 まず、第一に、体制教学としての朱子学の問題である。この説は丸山氏によって戦後一般化されたが、尾藤氏の批判によって修正されてきた。けれども尾藤氏の説は体制教学説を否定するに止まり、近世日本幕藩体制の政治思想を提示するまでには至らず、体制としての主軸思想が不透明である。仙台藩では、綱村親政の初期、大島良設の登用の例が示すように儒学が体制思想の中心部となる可能性は存在したが、それが幕府(稲葉正則)の牽制によって挫折した。そして、政治思想の提供者は、朱子学(儒学者)ではなく、稲葉正則をはじめ幕閣と禅僧らの豊富な知識であった。

 第二に、黒住氏によって提唱された思想体制としての神仏儒の三教共有思想は、その類似思想の三教共用思想がたしかに仙台藩主の政治思想として存在していた。四代藩主綱村の遺言で確認することができる。けれども、綱村の藩政期や次代の吉村の藩政における三教共用思想は名目化し、実際には、禅僧らが政治指南として主導権を握り、吉村の藩政末期、元文二年には仏教寺院の序列化が定められ、以後時代とともに序列は細分化していったことが確認できる。

 第三に、体制教学として朱子学説が修正された後、朱子学をどう評価すべきかの問題である。戦後、日本思想史研究において、常に批判されつづけた朱子学が近世日本社会のなかでどういう位置を占めていたのか、確認する必要があろう。第二章で検討してきたように、近世日本思想界でもっとも朱子学を理解したと評価される山崎闇斎の排仏書『闢異』に対する反駁書『儒仏合論』が禅僧によって仙台藩に届けられたこと、また闇斎の垂加神道が仙台藩主綱村に把握され、否定されたことは注目に値する。つまり仙台藩における闇斎学は政治体制の中心部から斥けられていった。闇斎学派が近世日本の個別の領主に歓迎されなかったことは、仙台藩に限らず、むしろ闇斎学派のなかで、藩儒としてその職を全うした儒者は、仙台藩に仕えた遊佐木斎がもっとも特殊な例である。

 第四に、それにも関わらすに闇斎学は仙台に普及され、学派を形成し、かつ学問所ができたとき、学問所の指南役を独占したことは、闇斎学の意義を問い直す必要があろう。また享保期の仙台藩に学問所建設案が台頭し、やがて学問所ができたその社会的背景を遠藤守信と吉村との間に交わされた書簡を通じて確かめたのは本稿の大きな成果であろう。この仙台藩の例が近世日本社会のなかで、どれほど普遍・妥当性をもつものであったのかをも問うべきであろう。

 第五に、仙台藩における領主綱村の神道への関心と儒者の神道兼学の問題である。仙台藩における最高位の儒員田辺希賢と遊佐木斎・桑名松雲・佐久間洞岩、そして田辺希文らの儒者が神儒兼学をしていたことである。先行研究で垂加神道の紹介者として松雲や木斎の名がしばしば挙げられるが、彼らの神道勉学の契機を与えたのが藩主綱村であったこと、また享保期仙台藩における神道の勉学者が一門・一族・一家をはじめ、大老・奉行衆をふくめた上層身分の人々であったことを遊佐木斎の神道門人から確認することができる。つまり仙台藩に上層身分の人々の間に神道関心が高まり、垂加神道が仙台へ普及する基盤が形成されていたのである。この事実は木斎の朱子学の門人が農民・浪人身分であったことと対蹠するものである。享保期の仙台藩の儒員中、大島家と田辺家以外の遊佐木斎、高橋玉斎、芦東山は農民出身であり、桑名松雲、佐久間洞岩、遊佐運蔵らは浪人かそれに近い身分である。

 以上が本論文の結論である。本論文を通じて得られた結果と本論で取り上げた先行研究との関係を再吟味することを今後の課題としたい。

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