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博士論文要旨

論文題目:戦時下の日中映画交渉―その史的展開をめぐって
著者:晏 妮 (YAN, Ni)
博士号取得年月日:2007年6月25日

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1.本論文の目的と論述の方法

 本論文が考察の対象として設定した時間は、1920年代後半から戦争終結の1945年に至るまでのおよそ二十年間に渡る。時期的には、日中両国の映画はともに欧米映画、とりわけアメリカ映画の影響を受けつつ、サイレント期からトーキー期に渡り、ナショナルシネマとして形作られていく最中であった。不幸にも日中戦争と遭遇したが、日中映画はまさにこの時期において、ともにサブ・カルチャーから文化、メディアの中心を占める存在にまで成長し、戦時イデオロギーを表象する視覚的装置として重宝がられた。前線であろうと、銃後であろうと、占領区であろうと、非占領区であろうと、映画は政治、思想を伝達する武器として、もしくは文化的弾丸として期待され、またその期待に応えられるような役割も果たした。戦争を挟んで対立していた日本と中国において、映画のあり方はこのように酷似しており、ナショナルシネマの成立はどちらも戦争期と重なっていた。
戦時下の日中映画に関して、国別の映画史研究、あるいはテーマ別の映画研究によって、すでに多くの優れた研究成果が生まれた。本論文はこれらの先行研究のテーマを受け継ぐ一方で、異なる時空間の捉え方をしてみた。つまり、中国と日本、または中国における占領区と非占領区を一つの空間として見なし、それを日中戦争が勃発する前から日本の敗戦に至るまでの時間軸とリンクさせて論考を進める方法、より簡潔に言えば、映画史の時間を戦争というコンテクストの時間と交差させつつ、空間を縦横に捉えることによって、戦時下の日中映画を検証しなおす意識に基づいて書かれた。
そうした時空間の方法論に基づいて、本論文は映画製作、輸出、輸入など、個々の事例を取り上げ、過去の研究で言及された事例に対して再考を加え、言及されなかった事例を明らかにし、日中映画がどのように相互に絡み合い、占領と反占領、日中提携と抗日といった複雑な政治情勢に巻き込まれつつも、二つに分けることの出来ない映画史の時間と空間を共有するようにいたる経緯を考証した。
エドワード・W・サイードは『文化と帝国主義』の中で、抵抗文化の諸テーマを論じる時に、次のように語っている。

抵抗を、帝国主義に対するたんなる反応ととらえるのではなく、人間の歴史を構想するオルターナティヴな方法とみなす考え方である。とりわけ留意すべきは、このオルターナティヴな再構想が、文化間の境界を越えることなくして、礎を築けないことだ。

サイードの提示した理論をそのまま踏襲するつもりはないが、彼の理論的枠組みと方法論は示唆に富んでいる。日中戦争下で、侵略側と被侵略側を挟んで発生した映画交渉はそもそも、侵略側によって文化的に統合された下で展開されるのを余儀なくされたが、戦争が終らない限り、抵抗と対立というテーマも生き続ける。それゆえ、この時期の作品はたとえ、表面的には協力と融和の素振りを見せる時があったとしても、それはあくまでも、被侵略側の屈折した抵抗を表現したものにすぎず、テクストの深層に反抗の叫びを潜ませている場合がしばしばあると考える。したがって、本論文はそうした映画史の細部や、あるいは映画テクストとそれをめぐる言説に絞って検証を行った。
本論文は中国映画に関して、主に占領区で展開された映画製作、配給、受容をめぐる様々な事例を中心に論述した。1937年以後、非占領区の映画もこの空間の一隅を占めるべきだという意味で、一章を設けて論述こそしなかったものの、占領区映画との関連部分を摘出して間接的に論及した。このような論述法を行ったのは、第一に、一部の先行研究のように、占領区と非占領区を別々に考証し、片方を称揚し、片方をネガティブに捉えるような二分法を解体するためである。第二に、空間の分割法は政治的分割を意味し、占領区と非占領区をしばしば対比的に考察するために、戦時下、ナショナリズムが映画に投影した多種多様な形態を悉く拾い上げることが出来なくなり、ナショナルシネマの概念を単純化させてしまうからである。もし、この時期の一部の作品に漢奸映画のレッテルを貼り、中国映画史の記述から乱暴に削除するような研究に異議を唱えようとするならば、こうした二項対立的な空間論に対する清算から始めなければならず、占領区を遮断されたエリアとしてではなく、非占領区と連鎖的に反応する場所として捉えるべきだと考えたからである。
この部分に関して、本論文が多くの映画テクストとそれをめぐる資料を使って立証しようとしたのは、占領区映画は非占領区とはジャンルの違い、表象の差異、表現手法の相違があり、時には復古に走り、時代に遡行したように見えるものの、基本的に非協力の精神を一貫させており、決して「対日協力」の映画を作らなかったという事実である。
また、本論文は同じ理由により、戦時下、大陸を表象するために製作された日本映画に対しても横断的に捉えてみた。これまで日本に限定して行われた一部の先行研究が使用した分析の枠組みではなく、戦時下の日本映画を中国と連鎖的に反応しあい、作用し合う空間として見なさなければならないと考え、特に中国におけるその受容が大陸映画の製作にどのように影響を及ぼしたかという問題に絞って論を進めた。
 この部分に関して、筆者が立証しようとしたのは、日本国内の大陸映画の製作と中国における映画会社との政策上の差異であり、またこれらの差異が日中の映画合作と日本映画の進出にも大いに作用したという事実である。

2.本論文の構成

本論文は、本文194頁、付録資料6頁、主要参考文献7頁からなり、以下の各章から構成されている。

第一章 序論
1.問題の所在
2.先行研究について
3.分析の対象と方法
4.論文の構成と使用する資史料

第二章  日本における中国映画言説の生成と変遷
第一節 発端期 ―満洲事変以前
第二節 形成期 ―日中戦争期
第三節  成熟期 ―太平洋戦争期

第三章  大陸映画の様相と対中映画政策
第一節 日本国内における大陸映画
第二節 占領区における大陸映画 ―華北を中心に
第三節  占領区における大陸映画 ―上海を中心に

第四章 占領区における日本映画の進出
第一節 上海における日本映画の進出
第二節 華北における日本映画の進出
第三節 日本映画の受容の実態

第五章 中国映画の輸入と受容
第一節 『椿姫』の輸入をめぐって
第二節 『木蘭従軍』の輸入と受容
第三節 『西遊記 鉄扇姫の巻』の受容
第四節 中国女優の受容にみる戦時下のジェンダー

終章 結論と今後の研究展望
1.映画史の時空間とその多義性
2.各章の要約と結論
3.本研究の総括と今後の展望
4.後記
付録資料
主要参考文献

3.各章の要約

序章にあたる第一章では、問題の所在を明らかにするために、諸先行研究の成果および問題点を整理し、本論文のテーマの設定と分析の対象を説明した上で、述べてきた問題意識をもって、筆者の解析しようとする問題点を次のように提示した。
一つは非対称的関係下で、被占領側にとって、抵抗か協力かという究極の選択以外、生きるために、映画製作、配給などを続けるために、また占領区の民衆に娯楽を提供するために、非協力あるいは協力という名のもとでの抵抗が存在したのかという点である。いま一つは、占領側の実行した映画工作が如何なるものであり、はたしてそれが一枚岩だったのかという点である。
以上の二つの問題点を軸に据えて、本論文は以下の各章において、戦時下の日中映画が絡み合い、影響しあいながら、進展していった経緯を明らかにするつもりだと説明しようとする。
第二章においては、日本における中国映画言説の生成と変遷を、時系列に検証した。第一節は発端期にあたる満洲事変以前の言説を考証の対象にしている。日本では、中国映画言説の発生は、最初に映画館に関する記述に始まり、やがて文化人が書いた上海滞在記において中国映画論が散見されるようになり、続いてプロレタリア映画の連帯運動やあるいは上海への映画ビジネスのブームの中でも、中国映画に関する様々な記述が散りばめられている。これらの言説は体裁的にも内容的にも多種多様だったが、そのほとんどが中国映画を単なる鑑賞対象として論じるものではなかった。筆者はこれらの言説を大正時代から始まった上海への趣味、ツーリズムとの関連性と結び付けて分析し、日本における中国映画言説がその発端期から、多重的視線が交じり合って、様々な分野を横断する性質をもっていたと指摘する。
第二節においては、1930年代半ばから、中国映画を論じ始める代表的な人物の言説をとりあげて論述を進めていく。本格的に中国映画批評という領域を開拓したのは、プロレタリア映画の視点から中国映画を論じる岩崎昶と中国映画愛好家の矢原礼三郎の二人である。岩崎は1935年に訪中後、日本における中国映画批評の草分けの連載文章、「中国電影印象記」を書き残している。それに対して、1936年から批評を書き始めた矢原は、中国映画を網羅的に論じ、その記事が量的にも岩崎のそれを凌いでいる。
岩崎と矢原に代表されるように、1937年まで、中国映画批評はほとんど個人的嗜好による作為であったが、廬溝橋事件や第二次上海事変以後、それまで中国映画にほとんど無関心だった人々は急に中国映画に関心をもつようになる。岩崎らに続いて、筆者は元来フランス映画専門家の二人、内田岐三雄と飯島正の言説をそれぞれ取り上げる。似たようなキャリアをもち、同じ旅行を通して、中国映画を論じ始める二人の文章から、岩崎や矢原と異なる眼差しが見受けられる。中国映画に対する指導性を強調する内田と中国との距離感をどう縮めるかと戸惑う飯島。この二人は日中戦争期における日本知識人の二つのタイプを代表していると考える。
筆者は四人の人物の言説を取り上げることによって、次のことを論証しようとする。つまり、日中戦争期に展開した中国映画論が1920年代の視座を部分的に引き継ぐ一方で、次第に拡大されていく戦争の暗影に染められていくということである。個人的嗜好から始まった岩崎昶や矢原礼三郎の中国映画批評とは対照的に、内田岐三雄と飯島正の言説には、すでに半ば公的な姿勢が混じっていた。こうして、前者と後者の言論を比較し、戦時下、国家意思が次第に中国映画言説に参入していく経緯を浮かび上がらせる。
第三節は第二節の内容を踏まえて、川喜多長政をはじめ、1939年に設立された中華電影股份有限公司(略称、中華電影)に身を置いた筈見恒夫、辻久一、清水晶ら四人の言説を考察の対象にしている。太平洋戦争に突入する直前から敗戦にいたるまでのこの時期において、国策映画会社の設立、日本国内における大陸映画の大量製作に促されるように、中国映画言説のブームは到来したと言える。内田と飯島の二人と比べれば、川喜多らの論述には、明らかに「大東亜共栄圏」の理念を推進していくための要素が多く見受けられる。開戦が言論統制を一層厳しく取り締まるようになる中で、時代の暗影は当然のように彼らの言論に著しく投影した。しかし、もう一方では、まさに越境的性質を持つ映画会社に身を置いたからこそ、岩崎、矢原、内田、飯島たちがフォローできなかった中国映画製作の実態、あるいは映画観客と映画との連鎖的関係、あるいは映画館に関する情報などを彼らは知り尽くし、中国映画の存在を日本国内に一層大きくアピールしたと指摘している。
かくして、旅行手記や随筆などから出発した中国映画言説は、1930年代後半の日中戦争期を経て、太平洋戦争期に入ると、見聞記、印象談からすでに完全に脱皮し、中国映画を一つの研究対象として扱う、体系的言説として確立されつつあり、戦時における日本映画言説の重要な一部分になっていく。そして、より重要なのは、この言説が展開していくのにつれて、日本映画の内部に浸入し、戦時日本映画の政策制定と史的展開を左右するほどの重要な要素となり、また中国映画の製作に日本人が参与し、両国映画に絡み合わせる理論的根拠となったのである。
中国映画言説を検証した第二章に続き、第三章は中国と中国人を映画表象にした大陸映画を考察の対象にしている。本章では、日本国内における大陸映画の製作と受容、中国現地に設立された「華北電影股份有限公司」(略称、華北電影)と中華電影における大陸映画製作に焦点をあてて論を進める。
前者を取り上げた第一節において、筆者はまず大陸映画の概念を整理した上で、多くの映画テクストに言及しつつ、戦争映画、女性映画、開拓映画、恋愛映画などのジャンルを横断して作られた大陸映画の全貌を概観する。そして、日本映画のメロドラマの系譜を受け継いだ大陸メロドラマが観客の歓迎と評論家の批判を同時に招いた実態に着眼し、それらの事例を明らかにするとともに、このような言説の二重性を生み出す戦時思想との関連性へと議論を拡げていく。続いて、こうした二重性がどのように大陸映画製作の内部で様々なジレンマを引き起こしたかと考証した。
しかし、大陸映画の内包したジレンマの影響は、日本国内にとどまらなかった。大陸メロドラマが中国においても、両義的に受容されることから分かるように、日中両国において先後して起こった様々な矛盾した事態は、日本国内の製作を撹乱しつつ、大陸映画製作の方針修正を促しただけでなく、その後の日本映画進出にも影響を及んでいく。結局、そうしたジレンマが解決されないうちに、太平洋戦争の開戦になり、大陸映画製作も次第に「大東亜映画」の文脈に回収されていくと論じる。
第二節と第三節は、それぞれ日本の占領地になった中国の華北地域と上海で製作された大陸映画を議論する。日本国内と違って、占領区域において発生したその製作と受容には、占領側と被占領側の両方が関わっていた。華北部分に関しては、先行研究がほとんどなかったし、上海部分に言及した先行研究にも具体的作品への考察が少なかった。したがって、この二節では、筆者は当時の日中双方の資料を使用し、大陸映画製作の全貌を概観した上で、具体的な作品とそれをめぐる言説に対する解析に重点をおいた。
ある意味では、占領側の工作、被占領側の対応が互いに絡み合いながら、葛藤し、それによって生まれたある種の緊張感は、映画製作と配給を左右する大きな力となった。前節で検証したように、日本国内の大陸映画製作において、製作側と受容側のすれ違い、政策と映画現場の不一致などの矛盾が終始生じ続けていたからには、中国での大陸映画の製作は、複雑な政治背景に取り込まれることが避けられなかっただけに、より多くの矛盾を孕んでいたことになる。これを実証するために、この二節において、筆者はとりわけ映画製作の過程に表れた日中双方の齟齬、思惑のズレを浮かび上がらせるように努めた。
作品考察の対象は、華北で製作された初の日中合作映画『東洋平和の道』(東和商事合資会社、鈴木重吉、1938)と、上海で製作された『博愛』(中聯、卜万蒼、馬徐維邦、張善琨、楊小仲等、1942)、『万世流芳』(中聯、卜万蒼・張善琨等、1943)と『狼火が上海に揚る』(中国語題名、『春江遺恨』)(華影、稲垣浩・岳楓、1944)の四本である。前者はその後中華電影の代表者になった川喜多長政の製作によるものであったため、中華電影の監視下に製作された後者の三本とあわせて考えれば、これらの作品における関連性と連続性を無視できない。したがって、特に第三節において、まず、孤島期の中国映画情勢と中華電影の設立をそれぞれ概観した上で、太平洋戦争の開戦前、孤島で頑強に「借古諷今」(古に借りて今を諷刺する)形式によって抗日映画を製作し続けていた中国映画製作体制と設立されたばかりの中華電影との対峙図を示しておいた。そして、開戦後、日本の租界占領に伴って、孤島が消失し、中国映画の残留組が抗日映画を製作できる基盤を失ったばかりでなく、中華電影監視下の中華聯合製片股份公司(略称、中聯)に吸収されるのを余儀なくされた経過を追跡した。   
だが、その後、中聯製作の作品から抗日メッセージが消えたものの、親日の内容も見当たらなかった。筆者はそれを指摘した上で、先行研究で「間接国策映画」と言われた『博愛』と『万世流芳』をとりあげ、作品と言説に内包する多義性を浮かび上がらせる。これは先行研究の定説を転覆するためではなく、ただ一元的に検証されてきた映画史を読み直すためである。
引続いて中華電影が設立して以来、最初で最後の日中合作映画『狼火が上海に揚る』をとりあげる。筆者は焦点をあてたのは、この作品の製作中、日中映画人の間に生じた様々に異なる思惑である。これを通して、中国側の非協力としての抵抗の姿をあぶり出すとともに、日本国内と中華電影側、川喜多長政本人との政策上の差異をも明らかにした。
第四章は第三章の内容を部分的に引き継いで、日本映画の中国への進出を考察している。戦時下、日本映画の中国への進出に関して、拙論を除いて、まだ先行研究のない分野であるため、筆者は実態を浮かび上がらせつつ、論述していく。
第一節と第二節では、それぞれ日本映画の華北への進出と上海への進出の実相を対象にしている。太平洋戦争の開戦まで、中国の全域において、日本映画は在留日本人のために、専門館でしか上映されなかった。その全面的進出が実現されたのは、開戦後であった。つまり、日本映画の進出は占領区の人心を獲得し、日本の戦時文化政策の一環であったと指摘している。
ただ、第三章でもすこしふれたが、日本映画の進出に際して、華北と上海とでは、関係者はまるで異なる対応をしていた。もともと映画地盤の弱い華北において、華北電影側が映画館の増設、通俗メロドラマの輸入などによって、進出を推し進めていくのに対して、上海において、中華電影側は米英経営の洋画館の接収、日本映画専門館の開設とともに、中国映画体制を吸収する仕事と同時に遂行しなければならなかった。しかし、こうした異なった進出政策をとっていくうちに、両区域において、ともに中国人がストレートな国策映画を見ようとしない現状に直面することになる。そこで、遂行者たちは、どちらも進出方針を見直し、国策色の薄い作品を主軸に据えて、仕事を続けなければならなくなった実態を明らかにした。
第五章は日本映画の進出と同時に行われた中国映画の日本への輸入を考察している。第一章で述べた中国映画言説の展開に見られるように、特に太平洋戦争期において、中国映画をめぐる言説は膨大化する傾向にあった。しかし、その言説が次第に日本映画言説の一部になったこととはうらはらに、日本における中国映画の作品の不在という現象は続いた。饒舌な中国映画言説と作品の不在という不均衡の事態に関係者が一様に焦っていたが、交戦状態の中での映画輸入のビジネスは必然に戦争政治に巻き込まれる。それを体現したのは、開戦前に輸入された『椿姫』(光明影業公司、李萍倩、1938)であった。
日中の間に『椿姫』の輸入をめぐって激しい政治応酬を引き起こしたにもかかわらず、当作品は輸入され、現在の「支那」を読むためのテクストとして受容された。ただ『椿姫』の公開は作品の不在により、空転してきた中国映画言説の空虚さを緩和したものの、外国文芸作品のリメイクのため、映画を通して、中国、特に上海の映画事情を知ろうとする中国映画論者を逆に困惑させてしまったと指摘している。
太平洋戦争開戦後、二本目の輸入作品になる『木蘭従軍』(新華影業公司、卜万蒼、1939)が日本で公開される。第二節においては、筆者はこの父になり代わっての娘の従軍をテーマにする古典の映画化から、製作背景や上海と重慶においてそれぞれ抗日と親日と解釈された、その相反する受容の実態に至るまでの実相を明らかにした。筆者はこの史実をふまえて、『木蘭従軍』を読み解き、当作品をめぐる一連の騒動が中国における抗日ナショナリズムを表す表裏一体の現象だと解釈している。
続いて、このように一大センセーションを巻き起こした当作品は、日本に輸入される際、どのように解読されていたのかと議論を展開していく。多くの言説はこの作品をめぐる騒動を知りながら、中国の言説界で強調された抗日愛国の中の抗日を退け、曖昧な愛国だけを突出することで、『木蘭従軍』を「大東亜映画」のエンターテイメントとして、傀儡政権下の「新支那」の作品として読み直した実態を明らかにした。
しかし、それでも『木蘭従軍』が日本の映画興行業界で初めて中国映画の名前を刻み込んだその成功により、三本目の作品、長編アニメ『西遊記 鉄扇姫の巻』(略称、『西遊記』、中国語題名、『鉄扇公主』)(中国聯合影業公司、万籟鳴・万古蟾、1941)の輸入が実現される。『木蘭従軍』と同様に、「借古諷今」によって、抗日の意思を暗喩する『西遊記』は、ディズニーのアニメに対抗するような東洋アニメ、あるいは「大東亜共栄圏」の成果として喧伝され、まだ長編アニメのない日本映画界に多大な刺激を与えた。さらに、それまで言説でいくら騒がれてもたえず日本映画の下位において語られてきた中国映画の位置を『西遊記』が転覆し、日本映画の学ぶべき対象として見なされたことをも明らかにした。
本章の最後の一節では、これまで議論してきた言説の中に顕著に現れた中国女優の受容を問題にしている。これは第三章で論じた大陸映画の女性表象とも深く関連するものであると指摘している。
具体的には、『東洋平和の道』に主演した白光、『木蘭従軍』に主演した陳雲裳、そして、日本側が第二の李香蘭という意図によって発掘した汪洋ら三人の女優に絞って、論を進める。言説界において、彼女たちに注がれていた視線には、映画と現実でともに中国の娘を演じ続けた李香蘭へのそれと同質的な要素もあれば、異なる要素もあった。彼女たちは映画での役柄と同じように、言説界においてもクローズ・アップされていたが、その「声」が奪われたり、あるいは人形のように扱われたりされていた。戦時のイデオロギーが必要とするのは、彼女たちの身体であり、親日のふりを見せるその顔であった。他方、彼女たちへの扱い方と対照的なのは、中国男優の身体と顔の不在である。これもまた、大陸映画表象における中国男性の不在という特徴と見事なまでに一致している。つまり、戦時下のエスニシティ、ジェンダーとナショナリティはこのように錯綜して、女優の身体に刻印されていると主張している。
結論にあたる終章では、第一章で述べた問題意識をふまえて、本論文の内容を論理的に整理し、不足な点を反省した上で、さらなる展開をしていくべき部分もあわせて検討した。

4.本研究の総括と今後の展望

本論文は日中映画交渉をめぐる映画言説、映画製作、映画輸出、映画輸入の様相を、時系列に検証し、その実態の解明に努めた一方で、筆者があらかじめ構想した思想文化史の一側面をなす映画のあり方と戦時思想の展開との関連性も究明するように論考を進めた。その論理的流れは次の通りである。
第一章の序論に続き、第二章で論じた中国映画をめぐる言説の生成、形成、変化、第三章で考察した日本国内と中国国内における大陸映画の発生と変貌、第四章で論及した日本映画進出の経緯、第五章で取り上げた戦時下の三本の輸入映画などを、もし個別的にのみ見れば、関連性の薄い個々の点に過ぎなかったかもしれない。だが、筆者はこれらの点を意図的に交錯させ、複数の線にし、日中両国、または占領区と非占領区に跨って広がった戦時下の日中映画の共有する史的空間として浮かび上がらせる。
言い換えれば、本論文は言説に始まった日中映画交渉が戦争の変化にともなって、製作、配給、さらに輸出、輸入分野に浸透していく道筋を辿ってみた。つまり、日中映画交渉は言説が映画製作を誘導し、輸出、輸入の配給が映画市場の活況をもたらして映画製作を刺激し、映画製作がまた言説を再生産するという循環的ダイナミズムによって展開されていた。これらを体系的かつ総合的に整理するために、本論文の各章はそれぞれ独自に展開されたものであると同時に、互いに関連しつつ、重なり合うものとして書かれている。そして、最終的に論文の主旨に収斂させていき、一貫した論旨によって論考を進めていくように留意したつもりである。
本論文は日中映画交渉の一つの側面を考察したが、戦時下の日中映画というテーマを完成させるにはまだ程遠い。この研究をいかに引き続き展開していくべきかについて、今後の研究構想と課題を述べておこう。
 まず、孤島期映画、占領下映画の全貌に対して、通史的検証を補うべきであろう。殊に占領下の映画テクスト、日本における受容など、空白の領域に対する研究を続けるつもりである。
 次に、非占領区で製作された映画の研究である。この分野には、中国語による先行研究が多かったが、筆者が行なおうとするのは、これらの映画が日本でどのように語られていたかというテーマである。資料的にはある程度準備があるため、孤島期映画、占領期映画の日本受容とあわせて、戦時下日本における中国映画の受容史をまとめることが出来るだろうと思う。
 さらに、満映に関する考察は日中両国、特に日本において、先行研究が最も多く出された分野ながら、むろん日中映画交渉というテーマを最終的に完成させるには、満映への詳細な考証が不可欠だと自覚している。
 戦後における日中映画交渉史の展開も次の研究テーマの一つである。侵略、占領の下で繰り広げられた日中映画交渉は戦争の終結とともに唐突に終ってしまったが、そこには戦時思想が色濃く刻印され、日中映画が初めて密接に交流した比較映画史の一頁でもあった。それが戦後にどのような形で止揚されていったのかを検証する必要が出てくる。いずれにしても、戦後映画の研究を行う際に、やはり戦時下の映画を抜きにしては語れないのである。

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