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博士論文要旨

論文題目:17世紀初頭(1600-25)イギリス東インド会社のアジア進出
著者:野村 正 (NOMURA, Tadashi)
博士号取得年月日:2007年3月23日

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1. 研究の目的
 この論文は17世紀の第1・四半世紀、アジアを舞台として当時のヨーロッパの有力3カ国が演じた角逐と勢力浸透の様相を、主としてイギリス東インド会社の動きを軸として俯瞰し分析しようとする。
 既に独立国となった南アジアと東南アジアの幾つかの国々に、今日なお「宗主国」と呼ばれるヨーロッパの特定国の名が対置されることがある。一方が「宗主国」とも呼ばれ、他方が「植民地」とも呼ばれたそれらの国々の間の関係は、大航海時代の後を受けた16-17世紀に始まり、第2次世界大戦が終わるまで継続した。四百年の歴史の重みは大きい。それらのアジアの国々では、旧「宗主国」が四百年の間に築き、あとに残した残影が、行政組織や文化施設の名称、教育制度や生活習慣などに、今日でもなお抵抗感もなく残されていることが少なくない。
 そこで言われる「宗主国」と「受容国」の組み合わせとは、おおまかに言えば、「イギリスとインド」、「オランダとインドネシア」であり、「ポルトガルとゴア、マカオ」という組み合わせだった。それらの組み合わせは「進出国」の立場から言えば「勢力地図」ということになるが、その「勢力地図」は17世紀冒頭の僅か四半世紀の間に出来上り、その後の3カ国のヨーロッパ本国における消長に左程影響されることなく第2次大戦の終結に至るまで維持されてきた。
 この17世紀初頭の四半世紀の間に出来上がったヨーロッパとアジアの関係が、いままでに取り上げられなかった訳ではないが、それはヨーロッパ個別国のアジア進出史の冒頭で、ごく簡単に触れられるに過ぎなかった。この論文が取り上げる期間は四半世紀という短い期間であり、また軸足をイギリス東インド会社に置くものではあるが、視野を極力アジアの全域に拡げ、ヨーロッパ3国の角逐を総合的に捉えることを試みた。そのような視座に立てば、個別の組み合わせの観察とは次元を異にした全体像が見えるのではないか、それを探り求めたいというのが本論文の狙いである。

1. 論文の構成
  この論文は序章と本文に分け、本文は第一部と第二部の構成とする。夫々の構成は次の通りとなる。
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序章:時代背景と史料・先行研究
   第一節:イギリス毛織物業の発展と東インド会社
   第二節:初期東インド会社の史料と先行研究
第一部
 第一章:会社設立と国王特許状
   第一節:会社設立まで
   第二節:出資者の増加とその構成変化
   第三節:特許状の内容
 第二章:「個別航海」期(1601-13年)の航海運営
   第一節:第1期(1601-07年、第1-3次船隊)
   第二節:第2期(1608-10年、第4-6次船隊)
   第三節:第3期(1611-13年、第7-12次船隊)
 第三章:「ジョイント・ストック」期(1614-25年)の航海運営
   第一節:中間期における政策修正
   第二節:第4期(1614-19年)
   第三節:第5期(1620-25年)
第二部:
 第四章:事業の運営と収益――初期東インド会社の場合
   第一節:トマス・マンの商品モデル
   第二節:マン・モデルと実像の齟齬
   第三節:配当金支払動向
 第五章:主要進出先の商館活動
   第一節;平戸(日本)商館
   第二節:バンタム(インドネシア)商館
   第三節:スーラット(インド)商館
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3.各章の主要論点
 序章の第一節ではイギリス毛織物業と毛織物商人の生成発展の事情を歴史的背景に遡って捉えた。当時のイギリス毛織物工業のおかれた状況がどのようなものだったか、東インド会社の設立と初期の事業運営とどのような関連性をもっていたのかを知るためである。        
 周知のように、イギリスの羊毛・毛織物業は中世以来の伝統的産業であり、イギリス経済の大黒柱ともいうべき地位を占めてきた。ロンドンを拠点とする毛織物商人は国内市場の中心的存在であったばかりでなく、ハンザ、イタリアの商人に伍して早くからヨーロッパ全域への輸出を試みた。その輸出関税収入を宮廷財政の重要な財源とする王室も、毛織物輸出の促進のためには格別の考慮を払った。
 ところが16世紀半ばに至って、イギリス産毛織物の輸出は停滞期に入る。差当ってはロンドン市場からハンザ商人、イタリア商人を排除することによって苦境は切り抜けた。しかし停滞が続けば商人グループ間の争いも顕在化する。新たな対策が必要だった。そこで求められたのは新市場の開拓だった。幸い喜望峰を迂回するアジアへの航路がポルトガルによって開かれた。熱帯地域は無理としても、中国、日本は毛織物の有望な市場である。帰り荷として胡椒、香料、できれば生糸、絹を持ち帰れば多額の収益が期待できる。海峡を隔てたオランダが既に先行した。時流に遅れれば不利になる。焦燥に駆られた毛織物商人たちは、1599年9月「東インドへの交易を試みる商人の仲間組合」、すなわち「東インド会社」の設立をエリザベス女王に願い出た。ポルトガルの反発を恐れた女王エリザベスは1年間の猶予期間を設け、1600年の最終日に会社設立を裁可した。
 序章第二節では、17世紀初頭のイギリス東インド会社にかかわる史料の保存状況を説明する。17世紀の第1・四半世紀は史料のバックボーンともいうべき会社役員会議事録の逸失が最も激しい時期である。会社設立後150年が過ぎた18世紀半ば、史料の整理保存が始められたとき、既に総月数300ヶ月のうち111か月分(37%)の議事録が失われていた。残された史料(手書き)がフィルムに収められ、その要約がState Papers(公文書集)の一部に収録されて公刊されたとき、更に次の150年が過ぎていた。
 当時の東インド会社では在外商館の館員、航海中の船隊幹部に報告書あるいは航海日誌の作成を義務付けていた。それらの文書も主要部分が保存され、その要約がState Papersに収録された。一時期(1602-17年)の商館報告書、一部特定人物の日誌(トマス・ロー卿の『ムガル駐在記』、ジョン・セーリスの『日本渡航記』など)についてはその全文が編集され公刊された。同時代の文献(例えばトマス・マンの著書)も復刻再刊された。これらの史料、文献を利用した研究が発表され始めたのは、第二次世界大戦が終了して史料の公開が始められた時期、すなわち近々40-50年前からのことである。(幸いなことに、これらの公刊史料、文献はすべて一橋大学付属図書館に収蔵されている。)
 第一部は章を三分して、会社設立から1625年に至る航海運営の状況を概観する。
 まず第一章では、会社設立に当り、商人グループ間の思惑が交錯した模様を説明する。一言で毛織物商人といっても、それは多数のグループに分れていた。1年の待機期間の間に出資者の顔ぶれは大幅に変わった。染色仕上げまでの工程を手がける組合の主導の下に、当時マーチャント・アドヴェンチャラーと呼ばれた白地織物輸出商組合が合流し、出資者の層は厚くなった。それでも会社の資本力は、「オランダ東インド会社」のそれに比して極めて小規模だった。
 第二章では該当期間の前半、1613年までの航海の模様を説明する。この期間は会社内部では「個別航海(separate voyages)」期と呼ばれた試行錯誤の時期に当り、インドネシアの西端バンタムまでの航海を主軸として運営された。文字通り成功と失敗の落差の激しい時期だった。12回に及ぶ航海は原則として航海ごとに出資金が募られ、航海ごとに収益が計算されて配当が実施された。航海の成否の分れ目が航海中の自然条件によって左右されるのは、時代を考えればやむを得ぬことだった。しかし自然条件に劣らず成否を分けたのは、船隊を指揮する司令官の資質と能力だった。彼らはキャプテンという畏敬の念を込めた敬称をつけて呼ばれて、航海中の船隊を指揮し、寄港地に着けば携行した国王親書を現地の代表者、部族王に手渡し、会社を代表して交渉に当る権限を兼ね備えていた。航海術の専門家として、遠距離航海の始まった当時のイギリス社会では最上層階層への至近距離にある職能集団だった。それだけにまた本社にあって会社の経営を牛耳る大商人にとっては警戒すべき存在だった。多数のキャプテンが航海中に病を得て死亡した。また日本の平戸商館を開設したジョン・セーリスを含め、成果を挙げた幾人かのキャプテンが帰国後、私貿易を理由として会社から排除された。
 この「個別航海」の13年間に£485,000の出資金が投入され、28隻(10,500トン)の船が送り出され、うち6隻(2,500トン)が海難で失われた。この論文で1-3期に分類した航海は、第1期、第3期が成功、第2期は出港した7隻(2,800トン)のうち4隻(2,100トン)を失うという悲惨な航海に終った。
 第一部第三章は対象とする四半世紀の後半、1614-25年の航海事情を概観する。1614年以降の12年間は、総称して社内で「ジョイント・ストック(Joint-Stock)」期と呼ばれる。社外専門家の意見も取り入れ、出資金の募集と利益計算が、1航海単位から数年通算へと変更された。事業成果の計算制度が変更されたばかりでなく、併せて会社組織も変革され、会社は積極経営策に転じた。いわば中期計画の立案であり実施でもあった。とりあえず1614-17年に出港する船舶を対象として、船隊の最終帰港が予想される1619年までを計算期間として「第1次ジョイント・ストック」が実施された。
 「ジョイント・ストック」に併行して進められた積極策としては、まず海外の商館網が強化され、派遣船舶の増強が挙げられる。商館網の強化は1610年以降、すなわち「個別航海」期の第3期から着手されたが、従来ポルトガルのゴア艦隊を怖れて寄港を逡巡し、失敗を重ねたインド西岸(スーラット)を初めとして、インド東岸(マスリパタムなど)、インドシナ周辺(パタニ、シャム)、更には最終目的であった日本への進出が試みられた。
 派遣船舶の増強は1614年以降実施に移された。社有造船設備が増設されて社内建造が進められ、「個別航海」期には年平均派遣船舶数が3-4隻であったものが、1614年以降は一躍7-9隻に増強され、そのうちの小型老朽船を中心に、船腹の40%前後がバンタム商館管轄下に入り地域間交易(port to port trade)に配備された。
 ところが造船設備、船隊の拡充は進められたものの、海外商館が望むヒト、モノ、カネの充実は遅々として進まなかった。というよりは殆ど実現しなかった。まず海外商館の権限強化のために採用が決定をみた総支配人には、スミス総裁の信頼厚いウィリアム・キーリングが指名され、1615年2月にロンドンを出港しスーラット経由バンタムに向かったが、1617年5月には病気を理由として――実際には本人が望んだ夫人同伴の赴任を会社が拒絶したために――帰国し、その後任には現地の商館長ジョン・ジョーダンが就任した。
 イギリスの海外商館が求めたものは、売れるイギリス商品(モノ)であり、正貨(カネ)だった。先ず問題の商品は毛織物だった。新規に開設した商館から本社に届けられる第一報は、スーラットでも平戸でも「イギリス製毛織物への需要は旺盛だ」という朗報だった。ところが1-2年後に上層階級の購入が一巡すると、需要は急速に冷え込んだ。例えば当時の日本では、衣料素材としては高級品としての絹と、日常一般衣料として綿織物が普及しており、毛織物は即座には衣料素材には使用されなかった。そのことは日本に10年以上にわたり在住したウィリアム・アダムズが十分に承知しており、平戸商館開設前にバンタム商館に書き送ったが、その声はロンドンまでは届かなかった。平戸商館開設の初期に輸入された毛織物は、敷物、馬の鞍、鎧の包装などに使われ、衣料用には使われなかった。本社では毛織物が正貨に代る支払手段となることを期待したが、行く先々で毛織物を対価とする物々交換は拒否された。動乱の日本でもインドでも鉛はよく売れた。
 正貨の不足は更に深刻だった。3年余に及ぶ市場開拓の任務を果し、1614年11月、帰国の途に就くために船荷を求めてバンタムに立ち寄ったJames号(第9次航海)は、手持ち現金の不足を理由として積荷の供与を拒否された。幸い商館長ジョーダンの配慮で積荷は確保されたが、それはバンタム商館の資金負担によって実施されたはずだった。また1617年2月平戸からバンタムへ帰路に就くAdvice号に便乗してバンタムに到着した平戸商館員ウィッカムは、この地域の中心的役割を果すべきバンタム商館の商品在庫が枯渇している様子を眼にして驚いている。会社創設以来16年間に亘り、変ることのなかった正貨持ち出しの制限、「1航海当り£30,000以内とする」という条項は、1617年に至って漸く£60,000に増枠された。増額された正貨は船荷の確保には役立とうが、商館に蓄積された既往債務を解消するまでには至らなかっただろう。
 バンタム商館長ジョーダンにとって、商館の起死回生策はモルッカ海域にイギリス独自の拠点を築き、高収益商品である香料の入手ルートを確立することだった。バンダ諸島の西端ルン島の住民はかねてからオランダに反抗し、イギリスの援助を求めていたところから、ジョーダンはこの島を拠点とすることを考え、1614-17年の間に3度にわたり航海を強行した。しかしながらその都度オランダの守備隊によって退けられ、3度目に派遣した2隻は捕獲される結果となった。以後オランダはモルッカ海域を航海するイギリス船をすべて拿捕することを宣言し、1618年には更に2隻のイギリス船を拿捕した。
 商館長ジョーダンの問題は、現地でのオランダとの抗争の解決を、本国同士の交渉で解決することを依頼しておきながら、その返答を待ちかねて、自身は次のより過激な行動を起す点にあった。本国間交渉がえてして長期にわたり、かつその結果の通知に長期間を要した事情が加わり、現地の焦燥感を増幅させる結果となった。1618年初め本国を出発した船隊は、職業軍人としてオランダ、西インドでの勤務経験のあるデール卿が司令官となって年末にはバンタムに到着した。同地には前年の1617年ロンドンを出港し、インド経由で同地に回航した数隻の船隊が停泊していたが、両者は合流し十数隻の船隊となってジャワ海域でオランダ船隊と交戦した。両者は勢力がほぼ伯仲し、2‐3か月の間に3度戦ったが決着がつかなかった。海戦のあと、イギリス船隊の主力は帰国に備え、分散して船荷の仕入を始めたが、追撃したオランダ船により5隻が捕獲され、司令官のデール卿はマスリパタムで病死、商館長のジョーダンはパタニでオランダ船と交戦中に死亡した。
 この間に1619年5月、本国では英蘭平和条約が締結され、両国は和解のうえ、①双方4‐5隻の船舶を拠出して平戸を母港とし、東シナ海海域(マニラ、マカオ間)を航行するオランダ船、スペイン船、中国のジャンク船から積荷を略取のうえ英蘭両国で折半する、また②オランダはモルッカ海域の香料の1/3をイギリスに売り渡すという内容の協定が成立した。協定成立の報は1620年4月に現地に伝えられ、海戦に生き残った1617年船隊の司令官マーティン・プリンがバタヴィア(現在のジャカルタ)でオランダのクーン総督と面会し、協定実施の細目を取り決めた。
 協定はオランダ、イギリス平等な立場で運営されることとなっていたが、事実はオランダ主導の下に運営された。イギリス船はオランダ船の海上略奪に加担することとなった。その代償の一部としてオランダから売り渡される香料の価格は割高だった。指導者ジョーダンを失った商館内部の空気は秩序を失い、本社宛に送られる報告書にはオランダに対する怨嗟の声とともに、館員相互の中傷、誹謗の言葉が多くなった。人々は商館の将来に不安を抱いて帰国を急いだ。敗戦国のような空気が商館に溢れた。
 英蘭平和条約の有効期間は10年とされていたが、実際には2年で打ち切りとなった。追い討ちをかけるように、1623年1月モルッカ海域(アンボイナ)のイギリス商館員20名がオランダ守備兵に殺傷される事件が発生した。砦を攻撃するという計画が発覚したというのがその理由だった。事件は半年後にバンタムに、1年後に本社に伝えられた。両国の関係は再び険悪化した。イギリス本国では政治的社会的に大きく取り上げられた。会社は国を通じて、オランダ側の陳謝と賠償を要求したが、賠償と呼ばれるに値するものは払われなかった。この時以降イギリスはバンタム以遠地域の商館を閉鎖し活動を停止した。
 論文の第二部ではこの時期の会社の実情を極力計数を用いて分析し(第四章)、またそれを商館活動の実態を通じて捉える(第五章)ことを試みる。
 実のところ、17世紀初期の東インド会社の計数的把握は非常に困難である。業務、会計に関する史料が全く残っていないからである。そこで第四章ではまず同時代の経済学者トマス・マンの2冊の著書と、会社史料の中に散見される断片的な数値を利用して会社事業の実態を商品(モノ)の面から捉えた。マンは1615年以来この会社の役員に選任されているが、1621年にその主著の一つ(A Discourse of Tradeと略称される)を発表し、イギリスの東インド貿易の明るい将来展望を描いた。その時点ではまだ十分には実現していない香料、絹など高収益商品の輸入を織り込み、それが高い収益を保証することを示したうえで、「この計画は最近の英蘭平和条約の締結、あるいはペルシャ貿易の可能性の高まりにより、実現性の高い計画となった」と自信のほどを見せている。マンの計画では商品別の仕入れ価格、販売価格などは現実の数値以内に抑えられており、その意味では堅実な計画数値だったといえよう。しかしながら、このマンのモデルでは「英蘭条約が条件通りに実行されず、ペルシャ貿易も早急には実現できない」という事態を想定していなかった。香料は予想通りには入手されず、また毛織物を対価として大量の生糸、絹を入手するというペルシャ貿易も予想通りには進まなかった。1623年以降、会社は最悪の状況を迎えたが、その時のシナリオは描かれてはいない。
 次に第四章第三節で会社の「配当金支払動向」を分析した。1613-18年に会社は100-300%の高率現物配当と、50%以下の低率現金配当を株主の選択に委ねるという変則の株主配当を実施した。この高率現物配当は、かつて「東インド会社が初期の段階から暴利を得ていた」ことの証拠として指摘された事実である。この論文ではK.N.チョードリーが1965年に発表した著書も援用し、この高率配当が実は胡椒の国内価格を維持するための輸出促進策であったと考えられることを立証した。1613年以降の数年間、出港船は順調に帰港した。持ち帰った胡椒は国内需要を遥かに上回った。国内の販売価格を維持するためには、国内需要を上回る胡椒を輸出することが必要だった筈だ。余剰分は無償で(株主配当として)商人に引き渡され輸出されたのだろう。国内需要を上回る胡椒の数量と、高率(100%以上)で配当された金額に見合う胡椒の数量が一致する。一般株主(非商人株主)には50%以下(年率換算10%程度)の現金配当が実施された。当時ヨーロッパでの胡椒需要が活況を呈したことも幸いした。
 第五章では主要な商館として、平戸、バンタム、スーラットの3商館を取り上げ、夫々の特色と問題点を考察した。平戸商館は10年(1613-24年)の短い歴史を経て閉鎖された。当初日本は毛織物の有望市場と見られ、毛織物を対価として正貨の入手が期待された市場だった。従来その早期閉鎖の理由として、1616年以降幕府がとった鎖国政策が大きく取り上げられがちであった。その理由も否定できないが、より大きくは毛織物の商品性と市場性を過大視した会社の誤算が根本にあった。またバンタム商館が機能を低下させれば、平戸商館のみ存続できない運命にあった筈である。社内では商館長のリチャード・コックスが、日本経由で中国絹を輸入する計画に失敗して招いた数千ポンドの損失の責任を問われたことも商館閉鎖の一つの理由とされた。
 スーラット商館はポルトガルの牽制を受け、またイギリス自身のアプローチの誤りから開設が遅れたが、偶然のように、ムガル皇帝からの呼び掛けで貿易取引が始まった。幸い比較的早い段階で、藍(indigo)という独自の商品仕入ルートを捉え、また綿織物をスマトラで胡椒と交換する3国間貿易の途を開いたことが、緩慢ながら着実な商館活動の出発を可能とした。1615-19年、ムガル宮廷に大使として駐在したトマス・ロー卿が果した役割も無視しがたい。ロー卿は商館の業務には容喙しないことを赴任の条件とされていたが、商館の立地、ペルシャ貿易の開始、紅海貿易の再試行などについては独自の意見を商館に伝えており、先を急ぎがちな商館員の動きを牽制し、着実な歩みを取らせたことは積極的に評価されて良かろう。赴任期間の最終段階で、会社から付託を受けたムガル皇帝との正式協定の締結を急ぎ、イギリス商館の武装化の可否をめぐって、皇子フッラム(次代皇帝シャー・ジャハーン)と激論を交わした。その事実をイギリス帝国主義の萌芽と見る立場もあるが(オム・プラカシュ)、議論の根底には両者の間の信頼感があった事実をどのように評価すべきか、検討に値しよう。
 バンタム商館の様子については第三章でとりあげたので、この章ではオランダとイギリスの本国間の3回に及ぶ交渉過程を追った。イギリス本国、特に国王の対オランダ政策の基本的立場と商館の切迫感に大きな懸隔があったが、中間に立つロンドン本社がそれを埋めることが出来なかったというのが実情であろう。概してイギリス東インド会社の場合、本社と商館の間には十分な意思疎通が欠けていたようだ。書簡や報告書では埋めきれないギャップがあった。本社と商館の間に人事交流のあったオランダ社に比較して、イギリス社の負の特色だったといえよう。
 ところで香料貿易をめぐるオランダとイギリスの本国同士の2国間交渉は前後3回開催された。当時両国の間には東インド貿易のほかに、北海海域での漁業権の問題が懸案となっていた。後者については、イギリスが独占権を主張してオランダの参入を阻止しようとし、東インド貿易での両国の立場とは逆の立場にあった。
 第一回の交渉(1611-13年)と第二回の交渉(1614-16年)はともに、双方が夫々の独占権を主張して物別れに終った。東インド貿易に関するオランダ側の主張は、イギリスがオランダと協力して、スペイン、ポルトガルと戦う意思があるならば、オランダはイギリスのモルッカ貿易参入を認めようというものだったが、イギリスとしてはスペインに敵対できないという理由でこのオランダ提案を拒否した。
 第三回の交渉(1618-19年)は、前述の通り1617年モルッカ海域で発生したオランダによるイギリス船拿捕に抗議したことから始まった。会議は議題を東インド貿易に絞って開かれ、1619年5月に条約は批准された。その内容はほぼオランダ側の従来の主張に沿ったものだった。条約の締結は宮廷でもロンドン本社でも歓迎され、トマス・マンはその決定を織り込んで、明るい将来計画を描いたが、事実はその通りには進展しなかった。連合船隊の運営は2年間で打ち切られ、それに追い討ちをかけるようにアンボイナでイギリス商館員が殺傷される事件が起きた。この事件を契機としてイギリスの東インド貿易の主流は、第1・四半世紀の終りにはバンタムからスーラットへと移行した。

4.インドへの道(要約) 
 以上に述べた17世紀第1・四半世紀の出来事は、要約すれば次のようなことになろう。
まず歴史は偶発的な事件を契機として急展開することが多い。バンタムでは総支配人に就任した1615年船隊のキーリング司令官が赴任後早々に帰国し、そのあと総支配人となったジョーダンがモルッカ海域への航海を強行したことが急展開の契機となった。出港したイギリス船がオランダに拿捕され、問題の解決がロンドンに委ねられたが、現地情勢の的確な認識を欠いた宮廷と本社が一見平等に見える平和条約に調印した。現地で劣位に立つイギリスが優位に立つオランダに協力するという協約は、両者の優劣の格差を確定し更に拡大した。ではバンタム以東での両国の優劣はどうして生じたのか。それはイギリス産毛織物の換金性に対する過信と、イギリス東インド会社に課せられた持ち出し正貨の制限が招いたのではないだろうか。第3次船隊のキーリングが毛織物と香料の交換を提案して拒否され、半ばを正貨で支払うことによりそれを解決した。モルッカ海域の住民が求めるコメを予め準備する方策は、数年後に採用され始めたが、その時既にオランダの優位は確立されていた。根幹のバンタム商館が動揺を始めると、周辺の商館が踏みとどまることはできない。平戸商館も、幕府の鎖国政策と商館の業績悪化を理由として閉鎖され、オランダ商館のみが長崎に踏みとどまった。
 イギリスのインド市場参入は、ムガル帝国の主導のもとで実現に向かった。インド洋におけるポルトガル海軍の専横に対抗する勢力を求めたムガル皇帝の眼には、イギリス近海で無敵艦隊撃破の実績を持つイギリスが有力な候補と映ったのであろう。アーメダヴァド総督に、ベスト司令官との仮協定締結(1612年)を許した。とは言うものの、誇り高い皇帝自らが商業にかかわる事柄に勅書を交付する必要を認めなかった。皇帝の勅書は得られないままに、1614年スーラットに到着したドウントン船隊の商人が、首都アグラに向かう途上、染色材料「藍(indigo)」の産地に立ち寄り、大量の藍を仕入れて船隊の1隻に積み込み本国に向かわせた。事実上、交易が勅書に先行したのだ。
 皇帝の勅書を求めて1615年スーラットに上陸した青年大使トマス・ロー卿は、以後4年間ムガル宮廷に伺候した。ロー卿は出発に当り、インド滞在中商館の業務に容喙しないことを誓約したものの、商館の立地、ペルシャとの交易などについて、自身の見解を商館に伝えた。本来の使命である皇帝の勅書入手は1618年に至っても果されなかった。宮廷の有力者の助言もあり、帰国直前のトマス・ロー卿に対しグジャラート総督を兼ねる皇子(のちのシャー・ジャハーン皇帝)の総督令が与えられた。会談は「商館の武装化」をめぐって意見の一致を見なかったが、両者の間にはある種の信頼感が醸成されたようだ。ロー卿の駐在はスーラット商館の初期の活動にも何がしかの抑制効果を与えたようである。遅速ながら着実な歩みが始められた。この時期、スーラットで仕入れられた綿織物は、ヨーロッパではリネンとして使われ始めたが、大部分はスマトラで胡椒と交換されるルートが敷かれたようだ。イギリスとインドの四百年に及ぶ関係は、第1・四半世紀の後半の初め、ムガル皇帝の呼び掛けを契機として開始されたが、バンタム以東の海域から退いたイギリスにとっては選択の余地のない足場として残されたのである。

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