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博士論文要旨

論文題目:近世ハプスブルク君主国における諸身分と国家形成―下オーストリアの事例を中心に―
著者:岩﨑 周一 (IWASAKI, Shuichi)
博士号取得年月日:2007年3月23日

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 今日、近世ハプスブルク君主国を対象とする研究においては、三十年戦争と対抗宗教改革によるボヘミア・オーストリア貴族層の構造変化とトルコの脅威を背景として、17世紀後半以降王権と教会・大貴族との間にある種のパートナー関係が成立したとするR・J・W・エヴァンズの見解が広く受容されている。その結果、1620年のビーラー・ホラの戦いにおける勝利を転機として、ハプスブルク家はある程度の妥協は強いられたものの、中世以来成立していた諸身分との間の「二元主義」的関係を徐々に打破し、時間をかけつつ「絶対主義」的体制を確立していったとする見方が主流となるに至った。こうした中で諸身分、とりわけその中核を成していた貴族層は王権によって徐々に「馴致」されていったと見なされることとなった。
しかし実際のところ、主として租税提供をめぐる意見交換を通し、諸身分は君主との間で対立と協働を繰り返しながら、国家運営に引き続き大きく関与していた。近世において絶え間なく戦争を経験し続けたハプスブルク君主国にとって、諸身分の協力は依然として不可欠であった。王権の側もこうした事情をよくわきまえており、根底にひそむ中央集権的・絶対主義的志向を抑制し、時には諸身分(とりわけ貴族身分)の権力を保持しようとさえした。また、国家行政の中枢にあった人々の多くは貴族出身であったが、彼らはそこで決して自己ないし出身地域の利害ばかりを考慮したのではなかった。彼らは時として中央集権的・絶対主義的政策の先導者でさえあったのである。
こうした事情を踏まえると、中世はもとより近世においても、ハプスブルク君主国における諸身分は「地域に根ざした中間的自立権力」であった一方、「中央における国家運営の担い手」でもあったと言えるだろう。このような場合、「中央」と「地方」、この2つにおける諸状況が相俟ってはじめて諸身分の利害が構成されると考えられる。したがってどちらか一方だけに注目して諸身分勢力の伸張ないし減退を論じることを避け、諸身分が有した上記2つの特質を複合的に把握し、その内部の差異・多様性に十分に配慮しつつ、内在的に検討する作業が必要となろう。このような問題関心に基づき、筆者は近世ハプスブルク君主国における国家形成に、諸身分がいかなる自意識及び国家観を抱いて参与したのかという問題を、下オーストリアを主たる例として明らかにすることを本論文における課題とし、Verfassungs-Gesellschaftsgeschichteを、地域史の次元で実現することを目標とした。
第1章では研究対象となる領邦下オーストリアLand Niederösterreichの特質について、地誌・社会経済的支配構造・沿革の3点から考察した。近世において下オーストリアは、君主国の「中核もしくは中心」たる存在であった。その内部は4つの地区 Viertel およびドナウ川流域に分けられ、それぞれ独特の風土的特色を有する地域空間を形成していた。本論文の検討対象期間に人口は顕著な増加を見せ、産業活動もワイン産業の長期的衰退と林業の重要性の増大といった変化を伴いつつも、総体的に安定した状態を保った。社会経済的支配構造について見ると、領主による直接経営が少なからぬ重要性を有しており、貴族・聖職者は所領経営に大いに心を砕き、王権に依存する必要をもたないほどに財をなした。土地支配関係においては基本的にグルントヘルシャフト寄りの中間地域とみるのが妥当であるが、17世紀には賦役労働が量的に強化され、厳しい負担を平民層に課した。また中間的権力層の自立性は草創期から一貫して維持されており、その内部には絶えず高度な流動性がみられたが、諸身分はその自立性を強固に保持し続けた。
第2章においては、近世下オーストリアの社会構造を、宮廷と中央行政、教会、貴族、都市、農村という5つのカテゴリーを通して分析した。ハプスブルク君主国の宮廷は種々雑多な諸地域・諸領邦をハプスブルク家のもとに統合する唯一最大の結節点となり、帝国中から、さらにはヨーロッパ中から有為の人材を惹きつける「引力」を発する、極めてコスモポリタン的な色彩を有する場となった。そして領邦首都たるウィーンが17世紀後半以降事実上の「帝国首都」となったことは、下オーストリアに「中央」としての性格を付与し、王権および君主国との独特な結びつきをもたらすこととなった。
また「宗派化」の時代を経て、教会はもはや単なる司牧の場ではなくなった。王権は「再カトリック化」を極めて強力に推進し、カトリック信仰を国家統合の鎹として活用した。イエズス会による厳格なカトリック教育に支えられて育まれた敬神の意識は、やがて「神に選ばれたる王家」という王朝意識と結びついて、17世紀の後半に「ピエタース・アウストリアカ」と呼ばれる独特の信仰理念となって結実した。
貴族層にとっては、三十年戦争終結後に国家形成のイニシアティヴを握った王権とどのような関係を取り結び、「中央」との関係をいかなる形で構築するかということが重要な課題となった。もとより、一口に貴族といってもその内実は極めて多様であり、本論文ではペトル・マチャの試みに依拠して「新諸侯」「宮廷参与貴族」「領邦貴族」「低位貴族」「外来貴族」の5つに分類し検討したが、そこで共通してみられたのは、社会的安定と自立性の両立を目標として、最良のバランスを追求する貴族層の姿であった。総体的にみて、ハプスブルク君主国の貴族は王権に対し、社会的・経済的・政治的にかなりの程度自立性を保持することに成功した。
一方、手工業・商業都市から居城都市へという近世ドイツにおける都市発展の傾向と軌を一にしながらも、自立的都市文化の形成が遅々として進まなかったため、近世のハプスブルク君主国における都市をめぐる状況は活発というには程遠かった。こうした都市の弱体化は、君主権力の都市への進出・貫徹を容易にした。そして都市の側も、むしろ王権と結びつくことにより、自らの勢力の拡大と領主層への対抗を図った。
農村においては、自由農民はほとんど存在しなかったものの、いわゆる隷農制からはすでに脱却しており、多くの農民がいずれかの領主に服属し、貸与された土地を耕作して生活していた。一定の自由ないし自治は認められていたとはいえ、その生活環境は一般に厳しく、とりわけ17世紀以降は賦役労働の量的拡大、租税の増額、新税の導入、影響活動への領主の干渉などによって悪化した。農民は領主側の様々な圧力や搾取に対し、成功・不成功を重ねながら、『判告集』に拠りながら「古き慣習」の尊重を訴え、村落共同体を基盤として粘り強く抵抗した。
第3章においては、いわゆる「英雄の時代」、すなわち第2次ウィーン包囲(1683年)からオーストリア継承戦争勃発(1740年)に至るまでの時期のハプスブルク君主国における君主と諸身分の関係を、下オーストリアの領邦議会における両者の折衝を通して検討した。下オーストリアにおいて領邦議会と評議会は今日の議院内閣制における議院と内閣のような関係を形成し、領邦行政の中核として名実共に機能し続けた。領邦議会への出席に関しては、積極的に出席する少数者のグループと、ほとんど出席しない圧倒的多数のグループとにかなりの程度明瞭に分極化し、参加するメンバーもかなりの程度固定されていた。しかし重要な場合には大多数の諸身分資格保持者が参集し、彼らが根底においては諸身分としてのアイデンティティを保持し続けていることを証明した。
近世のハプスブルク君主国においては、君主がおこなう諸活動のための租税提供をめぐる問題が依然として領邦議会の最大の議題であり続けた。「平和なき近世」にあって、租税提供における一回性の原則は事実上放棄されたが、臣民の自由意志に基づく提供という原則は堅固に維持され、最終的な拠出額は各領邦の議会における諸身分との交渉を経て決定された。そして王権はこの諸身分との個別折衝において、絶えず厳しい妥協を強いられた。
下オーストリアにおける君主と諸身分の関係は、17世紀末を頂点としておおよそ1712年に至るまで、緊張に満ちた対決的なものとなった。しかし13年のカール6世から20年の国事詔書認可に至るまでの融和的な相互接近の時期を経て、協調・協働的な関係へと移行した。33年以降の相次ぐ戦争、そしてそれに伴う重い負担にもかかわらず、君主と下オーストリアの諸身分の間に構築されたこの関係は崩れることはなく、むしろより強固なものとなったと言いうる。この時期を通して徐々に両者の間で様々な形で相互依存が進み、利害の共通性が高まったことにより、諸身分を成す人々は、君主国の安寧と自身及び領邦のそれとを重ね合わせる思考を、徐々に君主と共有するようになっていった。
また、下オーストリアにおいて諸身分を構成する4身分団体中最も重要であったヘレン身分(高位貴族)の部会においても、その家門的構成は領邦議会と同様に寡頭的であり、積極的に参加する者とそうでない者の2つに分極化していた。また、その担い手となる貴族家門は16・17世紀のそれから大きく顔ぶれを変えており、かつて諸身分の活動を主導した家門の一部には、おおよそ1700年頃を境として、宮廷および中央行政にその活動の重心をシフトする傾向が現れ始めた。
第4章では、オーストリア継承戦争期のハプスブルク君主国の諸身分の動向を、主として下オーストリアを通して検討した。この戦争によってハプスブルク君主国が時に国家解体の危機に直面しながらもシュレージエンを失ったのみで終戦とすることができたのは、当時の国力がかなりの程度強靭であったことを物語るものであろう。こうした「成果」を挙げる上で大きな意味をもったのが、王権と諸身分の協働であった。下オーストリアをはじめ、ハプスブルク君主国の諸身分は、紆余曲折があったもののハプスブルク家と協働する道を選択し、これは原則としてオーストリア継承戦争の期間中一貫して継続した。君主と諸身分の利害を強く接近させることにより、オーストリア継承戦争はハプスブルク君主国における「全体国家Gesamtstaat」形成の流れを、結果として促進したように思われる。
オーストリア継承戦争の後、女帝マリア・テレジアは大規模な国政改革に着手した。通説では、この改革によって諸身分はその意義を本質的に失ったとされるが、この改革の主眼である増税案をめぐる議論および審議を分析すれば、王権と諸身分の見解は基本的に一致しており、それ故にこそ改革が実現しえたことが明らかである。ハプスブルク君主国における1748・49年の国政改革(租税改革)は、同時代人たちの多くが考えていたような「革命的」なものではなかった。この国政改革は、プロイセンという新たな脅威の台頭により、王権と諸身分の相補的・相互依存的関係が持続的に不可欠となった時代の所産であったように思われる。

以上に述べた一連の状況が生じた背景には、君主あるいは諸身分のいずれかが勢力を減退させたからではなく、この時期を通して徐々に両者の間で様々な形で相互依存が進み、利害の共通性が高まったことがあるように思われる。そもそも、「諸身分の領邦意識と君主およびその国家形成能力に対する彼らの高い評価は、特にオーストリア諸領邦において決して相互に排他的なものではなかった」。同様に、国家権力と領主権力も、必ずしも対立し合うものではなかった。君主が諸身分との協働を必要としたように、諸身分の側も自らの権益を守るため、ハプスブルク君主国を必要とした。ビーラー・ホラ以降、君主は国家形成のイニシアティヴを握ったが、諸身分との協働なくして国家運営は立ち行かなかった。こうした状況を背景として、王権と諸身分は「身分制的諸領邦の君主制的連合体」の維持を暗黙の前提として、協働的な関係を構築していたように思われる。
こうした中でこれまで見てきたように、諸身分を成す人々は君主国の安寧と自身および領邦の安寧を重ね合わせる思考を、徐々に君主と共有するようになっていった。その象徴的な例は、諸身分が41年の領邦議会声明において下オーストリアが蒙った被害について言及した後、「それでも重要なのは領邦の問題と、極めて脅かされている君主国の安寧・安全」と述べたことであろう。同様の思想は、1720年の「国事詔書」認可の際に諸身分の側から自発的に発された「世襲兄弟領化」提案にもみることができる。ここでは諸領邦の自立性に対する強い意識と一種の「王朝敬愛心Dynastischer Patriotismus」とが、矛盾なく共存していた。またこれとほぼ時を同じくして、領邦庁舎をはじめとする下オーストリア各地の公共建築物や修道院に、バロック様式によるハプスブルク家の世界支配を称揚する内容の内装が多く施されるようになったことも、偶然ではないように思われる。
君主国の安寧と自身および領邦のそれとを重ね合わせる思考は、租税交渉における諸身分の姿勢にも容易に見て取ることができる。納得できない負担の要請には徹底して抵抗を示しつつも、正当と見なした負担の提供には応じていることは、その典型的な現れの1つであろう。また、租税の提供は領邦が安定した状況にある時に限るという条項が租税協定には常にあり、実際下オーストリアは安定したとは到底言えない状況にしばしば陥ったにもかかわらず、諸身分は協定で取り決められた額の提供は、一度として拒まなかった。紛糾は常に「協定に沿わないrezesswidrig」要請に関して生じたのである。
こうした背景が存在したからこそ、下オーストリアの諸身分は危難の時期にあってかなりの程度同一の危機意識を君主と共有し、王権との間に形成されつつあった利益共同体の強度を一段と強めることができた。そしてオーストリア継承戦争という共通経験を経た後には、「中央」のためばかりでなく、領邦の安寧を保持する上でも、戦時・平時を問わず強力な常備軍が不可欠であるという認識を、王権と共有することが可能となった。特権・自由を旧来のまま維持し続けることは、もはや自らの利益自体にもそぐわなくなっていたことを、1748年の時点では諸身分の側もまた認識していたのであった。
このような形での君主と諸身分の協働は、この後の七年戦争および革命フランスとの戦争においても見られた。七年戦争の勃発によって財政危機に見舞われたことで、マリア・テレジアはふたたび48年以前の慣習に立ち戻って諸身分に不定期かつ不定量の援助を要請せざるを得なくなり、これによって諸身分の勢力は強化された。18世紀を通じて国家が危機に直面するたび、君主は常に諸身分の協力を必要とし、諸身分もハプスブルク君主国の安寧と自身および領邦の安寧を重ね合わせる思考を、君主と共有し続けたのであった。
もとより、この流れが決して不可逆的なものではなく、時々の状況や両者の力関係、そして何より利害の共通性の濃淡によって、衝突と接近、対立と協働の間を絶えず双方向的に流動するものであったことには留意しなければならない。この対立と協働の並存関係は、空間及び意識レベルにおける分立志向と統合志向、換言すれば「領邦分立主義Partikularismus」と「全体国家意識Gesamtstaatsidee」の並存状況に置き換えられよう。諸身分はこうした事情をよく理解しており、王権との協働的関係に問題が生じた場合の対抗手段を保持することに固執した。諸身分が一見「馴致」されたかに見えるほど王権に対し協力的であったのは、時に応じて多少の食い違いはあれ、あくまで両者の志向が根本において一致していたためであり、かつ王権がいわゆるLandständische Verfassungを尊重し続け、諸身分の特権を侵害するような行為を極力避けたことによるように思われる。これに関して興味深いのが、「ツィンツェンドルフ家文書」の「小報告」における以下の記述である。「(この領邦の)家臣および臣民Vasallen und Unterthanenは、王家に対して確固たる忠誠心と敬愛を抱き、それをあらゆる機会に納得しうる形で示してきた。これは今次の戦争(七年戦争)においても本物であると示されており、誰もが持てる力をなしうる限り発揮している。諸身分のこの特筆に価する恭順に対して温和な感謝状によって報い、不可能事を強制せず、彼らが勇敢さと献身の念を保持し続けるよう仕向けるか否かは、政府側の才知一つにかかっている」。
そして、ここである種予言的に記されていたように、上述の諸条件、とりわけ王権が諸身分を尊重するという「才知Klugheit」を失えば、王権と諸身分の協調は成り立たなくなる。その実例を我々はヨーゼフ2世の単独統治期(1780-90年)、とりわけその末期と死の直後における諸領邦の諸身分の行動に見ることが出来よう。ヨーゼフの後を継いで即位したレーオポルト2世は、次のように述べている。「新しい税制が極めてひどいものであり、領邦を害していることは分かっている。だが領邦に対してよりひどい害悪をもたらしているのは、諸身分がその国制から放り出されていることだ」。筆者には、ハプスブルク君主国は18世紀を通して危機を迎えるたび、その克服のために不可欠であり続けた諸身分の協力を確保するため、「身分制諸領邦の君主制的連合体」という構成原理に立ち返っていたように思われる。もっともこれについてはより広範で詳細な研究の積み重ねが必要であり、ここでは展望として提示するに留めておこう。
まとめると、近世下オーストリアにおける王権と諸身分は、中近世の間に衝突と妥協を繰り返しつつも徐々に対立的な関係から融和的な相互接近の時期を経て、おおよそ1710年頃から協働的な関係を築くに至った。オーストリア継承戦争における国家解体の危機も、両者は利害の一致に基づくこの関係を深めることで乗り切った。こうした王権と諸身分の関係は、総じて他の諸王国・諸領邦においても見て取れる。1748・49年の国政改革はこうした背景のもとに実現したのであり、これによってハプスブルク君主国は近世ヨーロッパの新たな政治状況に対応しようとしたのであった。

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