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博士論文要旨

論文題目:「情報」の経路としてのネイション―カナダ西岸先住民サーニッチにおける民族誌的「情報」と「現実」―
著者:渥美 一弥 (ATSUMI, Kazuya)
博士号取得年月日:2007年3月23日

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 本論は、序章を含めて9章からなる。本論の理論的前提は第一章で述べる。第二章以降がその理論的前提で述べた「情報」の具体例と個人がどのようにそれらの「情報」を結びつけてアイデンティティの主張をする可能性があるか例示していくことにする。各章のより具体的な内容は以下である。

 第一章では、まずアイデンティティについて理論的な変遷にふれる。そして、サーニッチのアイデンティティを記述するのに従来の意味での「文化」や「伝統」という語の限界について検討する。その議論を基に「文化」ではなく「情報」(および民族誌的「情報」)という語を本論で用いる意味を提示する。「文化」を「情報」という視点から捉えたあとに、それらとアイデンティティの問題を考えていくことにする。それは「情報」がある集団を作り出し、その集団に社会的位置づけをあたえることにも作用しているからである。ここでまず認識しておかなければならないことは、「文化」と「アイデンティティ」という概念自体が西洋の制度の中にあるということである。これは、これらの語の現時点における限界を示している。それらは多様なローカルな状況に対応しきれなくなっている。
 そして、ここで理解できることは、現代はこのような「情報」があふれた時代であり、その「情報」は、発信者の手から離れたとたんに発信者のコントロールからもはなれ、その「情報」を手に入れた受信者が再び新たなかたちをつくりあげていくという一連のプロセスが存在することである。我々はいままで「文化」をすでに構築済みの「結果」として認識している自明性を疑わなかった。そして、「何々人の『文化』は、しかじかである」と言ってしまうことが出来た。しかし、今や、その「文化」の動態性が指摘されて久しい。かといって、その動態性をどのように認識していくのかはっきり提示できずにいるのが現状である。それゆえ、本論文が試みるのは、「文化」を「結果」として固定的に捉えないために、「情報」という語を用いて、その現象の生成・流通の過程を把握することなのである。
 第二章では、サーニッチの「現実」として本論が提示するものの背景について検討する。ここでまずサーニッチの「歴史」の概略をヨーロッパ人との接触以降に限定して口頭伝承から提示する。次に現在のサーニッチの学校で学ぶ生徒たちに書いてもらった「夢」を原点として、サーニッチの人々の間に流通する博物館の「情報」やポトラッチという慣習に関する「情報」を提示しながら、現在の長老たちが同じように「夢」という語を用いるとどのような範囲の状況までその語からイメージされるのか、子供たちの「夢」と歴史を経た人々の「夢」という語に対するイメージの変化を提示する。その次に、現在起こっている問題とそれぞれの人々が自分で結び合わせていこうとしている民族誌的「情報」について具体例を挙げる。
 第三章では、サーニッチに流通する民族誌的「情報」の具体例として、センチョッセンによる月の名、地名、個人名をサーニッチの学校の生徒が使うテキストを参考にして、それらの現在における意味について検討する。本論で言うヴァーチャルな状況も含めた「現実」というものを創りあげていくプロセスに過去と結びつく民族誌的情報としての月の名、地名、個人名の意味を考える。
 第四章では、「死」に関する儀礼について、その民族誌的情報を提示する。長老による民族誌的情報から得た死を扱う作法を若者たちに伝えていく実践を通して、サーニッチの未来を担う若者がどのようにユーロカナディアン支配の「現実」を超え、センチョッセンを通じて、ヴァーチャルな「現実」として過去と結びつこうとしているのか検討する。
 第五章ではそれまで(民族誌的と呼んできた)「情報」と一定の「人口集団」としての意識との関係について考察する。サーニッチの祖先が行っていた漁法に「リーフネット」と呼ばれるものがある。この漁法に関する(部外者から見た場合の)民族誌的「情報」に用いられる時制の問題をとりあげ、集団に対する「想い」が如何に形成されるか検討する。それは、「民族」という「想い」といってもいいような感情に対する喚起である。しかしながら、それらの「想い」というのは、やはり別の形をとる「情報」の流通の仕方によって形成されていくと言うのが本論の視点である。それでは、どのように「想い」が創られていくのかと言うと、その「情報」を伝える文の時制にかかわってくるというのが本論の主張となる。そこで、サーニッチの人々のサケに関する語りやリーフネットに関する説明の「時制」に焦点を当て、彼らの集団内における語りと外部に対する語りの違いをふまえながら、現地の人々が民族誌的「情報」を「実体」として捉える状況、言い換えれば「情報」をある「感情」に結びつけるプロセスは、いかにして生まれるのかサーニッチのサケ漁に関する語りをその一例として検討する。そして、本章以降でそれまで部外者の立場で民族誌的と呼んできた「情報」の一部をサーニッチの人々の側からみると別の呼び方が必要になることを検討し、民族史的「情報」という概念を提示する。
 第六章では、サーニッチがスウェット・ロッジという他地域の北米先住民の慣習に関する民族史的「情報」をどのように受容し、アレンジし、構成していくのかを見ていく。民族史的「情報」という視点から捉えなおすと、それまで「地域固有の文化」と「他地域の文化」と呼んできた個別意識が希薄になり様々な異種混交が始まるプロセスが見えてくる。現在サーニッチの間で行われているスウェット・ロッジは1970年代にカナダ内陸の先住民からサーニッチの二人の人物が「情報」として輸入してきたものである。しかし、それは現在、サーニッチを舞台として近隣に住む先住民やユーロカナディアンの人々の間に定着している。つまり、すでにこの「情報」が「民族史的情報」として捉えられうる状況があるのである。ここでは、筆者の実際に参加したスウェット・ロッジを中心に紹介し、その現在の意味(サーニッチのアイデンティティとの関係において)を考える。
 第七章では、サーニッチの人々がそのアイデンティティのよりどころとするセンチョッセンという彼らの母語を、インターネットを用いて学ぶことができるようにする意図で創られたホーム・ページの完成までを記述する。1999年以降、サーニッチではホーム・ページ作成の作業が進んでいる様子を述べながら具体的な事例を紹介する。ホーム・ページ作成には、それを発案した若きリーダー達と彼らに協力するヨーロッパ系カナダ人のコンピューター教師たち、そしてホーム・ページにサーニッチの言語を残そうと協力する長老たちや年長の女性達の存在がある。現代の情報発信源であるホーム・ページは一体どのような意味を持っているのであろうか。「情報」の送り手としてのホーム・ページ制作者達と、彼らの送り出す「情報」から母語を学ぶことが期待されているサーニッチの若者たち、そして、ホーム・ページを見ることになると考えられる多くのカナダ人たちにとって、サーニッチのホーム・ページから得られる「情報」とは、どのような意味を持っているのか考察する。
 そして、最後の第八章ではサーニッチを含むコースト・セイリッシュの美術を北米大陸北西沿岸先住民の美術の特徴と比較しながら、美術作品を生み出すことと、それをユーロカナディアン社会で交渉していく二人の芸術家の事例を通じて、サーニッチの人々と美術を媒介としたユーロカナディアン社会との関係を考察する。各個人を通して見た、サーニッチの美術に関する「情報」の創造とその流通を見ていくことにより、サーニッチが先住民の「人口集団」として構築されていくプロセスを見ていく。
 たとえば、サーニッチでトーテム・ポールの彫刻家Cは、ボランティアとして、毎年10名前後のサーニッチの若者に「伝統的」彫刻を教えている。なかには、トーテム・ポールを建てる「伝統」がない地域からの若者も学びに来る。彼らはヴィクトリア市内のみやげ物店に並べられるような作品を作ることもあるが、地元に戻り観光客向けのトーテム・ポールを製作する場合もある。そして、元来トーテム・ポールを作った地域でもない観光地にもトーテム・ポールが並べられることになる。Cは、今でもツァートリップというサーニッチの指定居留地に生活しながら先住民の彫刻家として「コースト・セイリッシュの美術」復興に努めている。Cの例は、一人の人間が自らの「伝統」を博物館の「情報」から独力で学び取ったものが、やがて人から人へと日常生活の中で伝えられて、それが「他の文化圏」へも広がっていくことがあることを教えてくれる。
以上、本論は、「文化」という固定的なニュアンスから逃れるのにもがいている語を、その構成要素を「情報」と呼び、捉えなおすことで、その動態性や異種混淆性といった、元来「文化」という語では脚注をつけて提示することしかできなかった状況:「文化」構築のプロセスを表現可能にすることを目指している。この「情報」をつなぎ合わせ、新たに創造していく作業から浮かび上がってくるのはあくまで「個人」である。その個人は、「地域集団」や「人口集団」という概念を通じて自己認識していく。そのときに個人が拠り所とするのが個々の「情報」だということを、各章を通じて明らかしていく。

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