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博士論文要旨

論文題目:ローレンツ・フォン・シュタインの思想形成過程―前期シュタインの法学・社会学・国家学―
著者:柴田 隆行 (SHIBATA, Takayuki)
博士号取得年月日:2006年10月11日

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 本論文の考察対象人物は、ローレンツ・フォン・シュタイン(Lorenz von Stein, 1815­90)である。
 ドイツならびにオーストリアでは、シュタインは「忘れられた国家学者」として長く闇に葬られていたが、「国家学」という学問領域自体が学界から姿を消しつつあった1970年代になってようやく、フーバーやベッケンフェルデ、ブラージウス、パンコーケらにより、現在の民主主義やとりわけ社会国家の先駆者として見直されるようになった。24の論文を集めた本格的な総合的シュタイン研究書が現れ、シュタインの思想形成過程に関する詳細な研究ならびに資料の掘り起こしも始まった。1972年には、ウィーンで散逸のおそれのあったシュタインの遺稿ならびに蔵書がキールに移され、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州立図書館で保管・公開されることになったほか、1980年にはキール大学にローレンツ・フォン・シュタイン行政学研究所が設立された。
 わが国では、シュタインは一般に、明治期に伊藤博文ら大勢の国家官僚や学者に憲法や行政学等を教えた人物として知られる。シュタインに関する日本語文献目録を作成してみると、その半数以上が日本憲政史に関わる文献であることがわかる。社会思想史研究者のあいだでは、シュタインは、フランスの社会主義と共産主義ならびにプロレタリアートの概念をドイツで初めて学問的に紹介した人物として知られるが、そうした活動も含めたシュタインの業績全体に関する本格的な研究はまだ存在しない。
 本論文は、ドイツならびにオーストリアでの新たな研究状況に対応しつつ、シュタインの全業績のうち、彼が前半生を送った北ドイツの港町キールでのさまざまな活動を、その社会思想史的背景から明らかにした。
 全体を4部に分け、第一部ではシュタインの思想形成史を、第二部では社会主義と共産主義の概念史と、それに対するシュタイン独自の思想を、第三部では先行する社会思想史上の諸学説からの影響関係を、そして第四部ではシュタインの後半期への学問的発展の可能性を、それぞれ取り上げた。その際、シュタインの著作を細かく解読することに努めると同時に、多くの本邦未公開の文献を可能なかぎり参照して、理解の裏づけを試みた。そして、この研究をとおして、シュタインが新たに独自に提示した、〈社会〉の学としての国家学の現代における有効性を問い、社会と国家が複雑に絡み合う現代世界の今後の展望を得ることをめざした。
 以下、もう少し詳しくその概要を示しておきたい。
 第一部では、シュタインが学んだキール大学法学部を中心に内容を構成し、法学部の歴史とそこでの講義内容、学習成果、さらにシュタインの教員としての活動、ならびに彼の政治活動について論述した。
 シュタインがキール大学で法学を学んだ時代は、法学史的には、いわゆる法典論争を経て、哲学的法学と歴史法学、イデアリスムスと実証主義、ゲルマニステンとロマニステン等がせめぎ合っていた時代である。社会思想史的には、いわゆる三月前期と総称される時代であり、ナポレオン占領後の解放戦争のなかで目覚めたナショナリズムと密接に結びついた、自由と独立と統一を求める活発な運動がおこなわれた変動の時代であった。このような時代にさまざまな思想や学問を学ぶなかで、シュタインにとって最初にみずからのものとしてかたちを得たのが比較法学であった。これにもとづいて、あるいは逆に、彼の比較法学の基礎として、シュタインの生涯変わらぬゲルマン主義的ヨーロッパ統合構想が生まれた。こうしたシュタインの修業時代に、彼の活動を決定する2つの大きな〝事件〟が起きた。1つは、社会主義と共産主義という思想運動およびそれを産み出す新たな〈社会〉という概念との出会いである。〈社会〉の概念と、シュタインが〈社会の学〉と呼ぶ社会主義との出会いは、ヘーゲルの市民社会概念やサヴィニーの歴史法学的法源研究からの必然的な結果ではあるが、これがシュタインの学問体系に生涯変わらぬインパクトを与えた。もう1つは、いわゆる「シュレスヴィヒ・ホルシュタイン問題」である。シュタインがこれに積極的に関わったのは、キール大学の恩師ファルクやダールマンの影響によるが、シュタインはこの問題をたんにナショナル・リベラルの問題としてではなく、インターナショナルの問題として捉え、またこの運動の真の解決はインターナショナルなヨーロッパ統合によるしかないと晩年にいたるまで考えた。しかし、彼の構想は、とりわけプロイセン主導の政治力学によって押しつぶされた。
 第二部では、いま述べた社会主義と共産主義について、まずは現在でも両者を混同して理解されている傾向が一般にあることを勘案して、そのちがいを当時の思想家たちの発言をもとに明確にすることを試みた。とりわけ、社会主義と共産主義についての理解がその後一面的に固定化されることになる、マルクスとエンゲルスによる『共産党宣言』よりも以前に書かれた文献を調べ、その概念史の再構成を試みた。その結果、ドイツに初めて社会主義と共産主義をその発生の背景を含めて学問的に明らかにしたと評されるシュタインの業績の意義が浮き彫りになったと思われる。すなわち、社会主義と共産主義のちがいについて言えば、この両者を最初から明確に区別して理解し主張していたのはエンゲルスとシュタインだけであったこと、そしてエンゲルスはそれをあくまでも運動主体として捉えたのに対して、シュタインはそれを独自の人格態概念と所有論にもとづいて捉えていたことが明らかになった。そこで、第二部の後半では、シュタインの人格態概念と、その活動態である労働概念を解明し、これによってシュタインの社会主義と共産主義理解の学問的基礎を鮮明にしえたと思われる。
 第三部は、シュタインの遺稿である、学習ノートと、蔵書への書き込みの解読を試みた成果として、シュタインが、先行する社会思想史家から何をどのように学んだかについて解明した。いまのところ実現できたのは、アリストテレス、ルソー、アダム・スミス、ギゾー、そしてカント・フィヒテ・ヘーゲルについてだけである。取り上げるべきと思われる重要人物として、さらにボダン、モンテスキュー、リスト、ツァハリエがいるが、手書き文書、しかも自家用のメモ書きを読み解くのは容易ではなく、しかも取り上げられる対象について最低限の知識が求められるため、今回すべてを調査することはできなかった。だが、これまでに取り上げたギゾーやアリストテレス等の研究だけでも、先行思想家たちからシュタインが何をどのように学んだかについてかなり多くを知ることができた。それぞれ一言でいえば、ギゾーからはその文明概念を、アリストテレスからは実践的な国家学を、ルソーからは平等原理を、アダム・スミスからは国民経済学の基礎と体系構想そのものを、そしてカントからは人格態概念を、フィヒテからは個別的人格態を、ヘーゲルからは普遍的人格態を、それぞれシュタインは学びとったと思われる。
 第四部では、シュタインが、パリで〈社会〉概念に目覚めながらも、社会が産み出す問題を〈社会の学〉としての社会主義や社会革命によっては解決できないと考えるようになり、〈社会〉という視点をそのままにその問題を解決する方途を国家に求めた経過とその具体的な内容の一端を明らかにした。ただし、それは、シュタインが法学から社会学へ、そして最後には国家学へ向かったことを単純に意味するものではない。というのも、シュタインはキールで法学を学び始めた当初から、国家学体系の構築をめざしていたからである。変わったのは国家学の土台であり、それは法学から社会学への変化であった。その結果、新たにシュタインに見えてきたのが行政学であるが、それは主としてウィーンへ移ってからのことであるので、本論文ではシュタインの今後の方向を示すにとどめた。
 最後に、キール時代のシュタインの活動と研究業績を対象としてきたわれわれは、本論文を締め括るにあたり、シュタインのこの前半生での活動が現在のわれわれに示しているものは何かについて、一定の考察を試みた。それを一言でいえば、1つは、グローバル化時代と言われる現代世界での〈国家〉学の意味についてである。〈社会学としての国家学〉がシュタインの国家学であるが、それが行政学として実用に移されるならば、内政に終始するだけで、外交・国際問題がそこから欠落することになりかねない。だが、現代世界は、内政と外交を区別して捉えることができない時代に来ている。したがって、シュタインの国家学体系にとって国際問題がどのような扱いになっているかはこれから重要な課題となるであろう。もう1つは、「社会国家」といわれる国家体制における自治と国家干渉の問題である。シュタイン国家学の最大の弱点はここにあるように思われる。こうした問題を最終章で取り上げた。

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