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博士論文要旨

論文題目:周作人と日本文化
著者:趙 京華 (ZHAO, Jing Hua)
博士号取得年月日:1998年5月27日

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 本論文は、近代中国の大知識人、高名な知日派作家である周作人の日本文化との関係を考察するものである。1906年日本に留学してから、終戦、対敵協力の罪で中国政府に裁かれた1945年を経て、日本古典の翻訳に最後の力を尽くした晩年に至るその一生を通じ、日本文化の紹介と研究に努め、日中両国の文学交流に大いに貢献した周作人は、青年時代から日本の様々な思想・知識、感情の影響を受け、日本文化に対して卓越した理解を示した。一方、中国の「近代」という激しい歴史的転換期に身を置き、近代化と固有文化、西洋文明と東洋文明、思想革命と伝統復興などの矛盾に直面しながら、自らの文化思想の発展・変化を経験した。この文化思想の発展・変化と彼の日本からの影響受容やその独自な日本文化観とは何らかの直接的また間接的な関係があるのではないか、と筆者は考えている。本論文が周作人の日本文化との関係を実証的に検討しながら考察しようとするのは、こうした問題である。
 本論文の構成は以下のとおりである。

序章
第一章 周作人と柳田国男
   ――周作人の民俗考察と柳田国男の民俗学思想――
 一、柳田との結縁の初め
 二、中国民俗学の創始における周作人の役割
 三、民俗考察の展開と柳田学説の本格的摂取
 四、関係の深さと限界
第二章 周作人と柳田国男(その二)
   ――固有信仰を中心とする民俗学――
 一、周作人の民俗理論における二つの外来要素
 二、周作人の「道教支配説」とその考察の展開
 三、固有信仰を中心とする民俗学
第三章 周作人と柳田国男(その三)
   ――東洋的思考様式と伝統の知恵――
 一、固有信仰から民族主体への探索とその民衆観
 二、「無生老母的信息」と『先祖の話』
 三、歴史意識と「学問救世」の東洋的伝統
第四章 周作人と永井荷風・谷崎潤一郎
   ――反俗的独立主義・文明批評・伝統回帰――
 一、革命時代の非革命的自由知識人としての周作人
 二、反俗的独立主義・文明批評・伝統回帰
 三、国情と個人の境遇――共通性のなかの異質性
第五章 日本文化観の形成
   ――汎アジア主義、大正時代の東洋学との関わり――
 一、対日感情と明治末年の素朴なアジア主義
 二、日本文化観と大正時代における東洋学の系譜
終章

 次に、各章ごとに内容の要旨を述べる。



序 章
 序章では、本論文の導入と問題設定の意味で周作人の日本文化受容と彼の生涯における文化思想の発展・変化との関連を概観し、論文の構造を説明する。まず、「日本文化」という概念の定義。一般的通説によれば、日本文化は土着的な文化伝統、中国やインドの影響をうけて形成された伝統、明治以来の西洋文明を取り入れて作られた伝統、という三つのレベルに分けられる。そして周作人の日本文化への関心は主として、前の二つの方面、すなわちいわゆる東洋的な日本であり、そこから観察した結果、彼は日本民族における自然の愛好と豊かな芸術的感受性と人情美と、いう三大美点を発見し、近代の日本はいくら西洋化されても、その基本的な文化精神と究極の運命観には東アジア儒教文化圏の他民族と共通する「東亜性」がある、という認識に達していた。こうした日本文化に対する認識は、近代日本の様々な社会思想や学術・文学の思潮に接しながら、しだいに深められたものである。本論文では、学術、文学の方面における関係がもっとも深いと見られる柳田国男と、永井荷風、谷崎潤一郎を、また社会潮流としての汎アジア主義や、それに関連して大正時代から発展してきた日本、東洋の古典に関する学問的研究、いわゆる東洋学の系譜に属する芳賀矢一、津田左右吉、和辻哲郎らを取り上げて実証的な考察を行う。

 次に、周作人が柳田の民俗学、荷風・潤一郎の文学、そして津田らの文化史学の影響と刺激を受けた時期(二十年代から三十年代の中期まで)は、ちょうど彼の中国固有文化に対する認識の転換期と重なっている、ということに注目する。幼い頃から伝統の教養を身につけた周は、青年時代に反清排満の復古的な民族主義に熱中したり、そうかと思えば「五四」時期には世界主義に憧れて伝統の全面的批判を主張したりした。しかし、二、三十年代の間に、彼は伝統の全面的な改造、西洋文化の全面的導入という「五四」時期の急進的な立場から、原始儒家思想とその価値を再認識し、固有文化の再生ないし復興という漸進的な主張に至る思想転換を迎えた。こうした対固有文化の思想転換は日本からのさまざまな影響受容とのあいだに、単に偶然に時期が重なっているのではなく、内面的な関連性があることを提起すると同時に、その関連性を明らかにするのが本論文の最重要な課題であることを指摘する。




第一章 周作人と柳田国男
――周作人の民俗考察と柳田国男の民俗学思想――


 第一章では、周作人の生涯にわたる民俗学的活動を三つの段階に分けて整理し、その各段階における柳田民俗学の摂取・受容過程を検討したうえで、その受容関係ならびに思想・精神的な共感関係の深さと限界とを包括的に説明する。
 第一は、日本留学からいわゆる「五四」新文化運動の前夜にかけての時期における、周作人の柳田民俗学への関心を概観する。固有伝統や国民性の改造のため世界の新興学説を摂取しようと志した周は、はじめに西洋の文化人類学やフレーザーの民俗学などに目を向けた。日本本土に誕生したばかりの柳田民俗学、いわゆる初期郷土研究に注目したのは、すでに留学を終え、帰国直前(1911年)のことであった。にもかかわらず、柳田民俗学の意味、とくに『遠野物語』の日本民俗学史上の価値を、彼はよく認識していたようである。ここで晩年の回想録によって周の柳田に対する最初の関心と影響受容を描く。周作人の民俗学は終始、二つの外来的影響を受けているが、早期には進化論や文明批評の性格をもつ西洋民俗学からの理論的な影響が大きく、後期には実際上の研究方法や東洋伝統への関心という思想感情の面において柳田学説の影響が強かった。そして柳田の日本人の宗教観にかかわる民間信仰の研究は、最初から周作人の関心を惹いた。

 第二は、「五四」新文化運動時期に、中国民俗学の誕生に大いに貢献した周作人の活動とその理論提唱を概観する。その時期に西洋の民俗学理論が中国に流行っていたが、周を通じて日本民俗学の方法も中国に浸透した。柳田が主張した、言葉から入ってゆく民俗信仰の調査・研究方法はその一例である。周作人が柳田に代表される郷土研究を意識的に紹介するのは三十年代以後のことだが、第三には主として、その紹介の功績や彼自身の柳田民俗学の本格的な摂取を概略的に説明する。

 第四は、周、柳田の関係を締め括ると同時に、その限界を指摘する。その関係はおもに、三つの方面にあると考えられる。柳田の主張した民族伝来の言葉、名物や習俗、祭礼などから庶民の固有信仰を探求しようとする民俗学理念が、周作人に学問上の直接的な影響を与えたことがその一つ。「学問救世」の思想志向をもって、民族の悩みを解明し、従来の生活秩序を大切にする一方、西洋から押し付けられた近代化の挑戦を迎えるため、新たに民族の歴史主体を探し出そうとする意識は、周作人に大きな共感を喚起したことがその二。そして両氏の間で歴史や社会改造に関する認識がかなり共通していたことがその三、つまり歴史の変動は緩慢に進行するものであるから、その連続性を重視すべきで、急進主義的な社会改造は不可能だ、という歴史観である。一方、両者の間に存在した密接な関係と共通性を認めるとともに、その相違点をも指摘する。まず中国知識人の意識には、貴族主義的な傾向が強く、周作人もその例外ではなかったがゆえに、平民に理解を持ち、柳田の庶民感情に同感を示しながら、結局、柳田のように庶民と完全に一体化する思想境涯には達しなかった、ということ。それから実践上の生き方とも思考様式についてである。柳田は日本列島のくまなき民俗の旅を経て、学問・人生を完成させるという体験的な精神性格を持っていたが、周作人は生涯民俗の旅をほとんどすることなく、結局、「肘掛椅子」の民俗学愛好者に終っている。




第二章 周作人と柳田国男(その二)
――固有信仰を中心とする民俗学――


 第二章では、周作人の民俗理論における二つの外来的要素を具体的に観察し、彼の民俗考察の中核となる「道教支配説」を分析するとともに、民俗学という学問の範囲でいかに柳田の影響を受けながら、固有信仰を中心としたその民俗考察を展開したかを論じる。
 第一は、西洋の民俗学思想と、柳田に代表された日本民俗学とに関して、方法、理念、目的など諸方面の相違点を比べ、そのうえで、周作人は両方の影響をどのように受けたか、という問題を解明する。西洋民俗学のもっとも基本的な特徴に関しては、方法論としての比較、進化論の法則、普遍主義的な思考様式という三点が挙げられる。それに対して、柳田は西洋の影響を受容しながら、日本人の独自な発想をもって、民族の内部から対象を観察する態度を取り、西洋と異なる民俗学理念を持った。彼は「一国民俗学」を樹立する志向をもって、西洋の比較研究の方法を意識的に避けているようである。それから日本の民俗習慣から人類の一般的な発展法則を見出し、進化論的歴史の段階説を説明づけることは困難だと考えていた柳田は、国民の眼前に横たわる実際の悩みの解消を民俗学の中心課題としたのである。また西洋式の普遍主義的思考様式に対して、とくにその中に潜在しているヨーロッパ中心主義の傾向に、柳田は抵抗する態度を取ったのである。

 二、三十年代の間に、周作人の文化思想には大きな転換があった。「五四」時代には彼は伝統批判や西洋文化の全面的導入を主張し、西洋の民俗学思想、とくにフレーザーの学説に強い関心を示した。しかし二十年代の後半になると、「五四」時代の急進的な思想態度を反省した結果、彼は近代化の変革は新しい文化の創出でありまた固有伝統の復興でもある、という認識に達したのと同時に、伝統文化に対する態度も変化した。その時、彼は柳田民俗学にあらためて関心を寄せた。民衆の伝統生活や習俗信仰に深い関心と理解を抱き、野蛮か文明かという批判の態度を取るのではなく、民族の自己反省を民俗学の最大の役割としている柳田民俗学は、周作人に重要な啓示を与え、深い共感を引き起こした。それはおそらく同じ東アジアの国でその置かれた状況が似ていたところから、共通の認識を持つに至ったのであろう。

 第二は、周作人の民俗考察の中核となる「道教支配説」とその研究の展開を述べる。研究過程において彼には道教に対する批判から同情、理解への態度転換があった。それに関しては、柳田の固有信仰を中心にして民衆の過去の歴史を把握する方法論が、周作人の態度転換に大きな刺激を与えたのではないかと、筆者は考えている。

 第三は、二人の固有信仰に関する探求における多くの共通点と、周作人の柳田受容とを概略的にまとめる。まず、国家宗教とする国民信仰に熱中するのではなく、民間習俗、儀礼から過去の歴史に記録されなかった庶民の精神生活史に目を向け、「常民」(柳田語)「凡人」(周作人語)の固有信仰を民俗学の中心課題とみなしたこと、などは二人の民俗学理念におけるもっとも共通したところである。そして周作人の中国民間の道教信仰に関する考察とその思想態度の転換は柳田からの受容に多くを負っているが、要するに、両氏の歴史観や平民思想、とくに民俗学の趣味から発した民衆の伝統生活の詩趣を愛惜する感情が共通しているからであろう。




第三章 周作人と柳田国男(その三)
――東洋的思考様式と伝統の知恵――


 周作人と柳田国男はともに、民俗学の視野から民衆の固有信仰を探究し続け、その信仰の主体である庶民の生活伝承、感情心理に誠実な同情と理解を抱いていた。こういう思想傾向はおそらく、彼らが持つ歴史発展観や近代化およびその民族主体に対する認識と関わっているし、また伝統的儒家思想から受け継いだ歴史意識と「学問済世」の志向とも関連しているだろう、という筆者の考えにもとづいて、第三章では、両氏の民俗学的傑作「無生老母的信息」と『先祖の話』を比較しながら、近代化認識、歴史観および東洋的伝統の継承に関して二人の共通点を検討する。
 第一は、急進主義者のロマンティックな近代化論や歴史観と異なる両氏の社会変動論と平民史観を述べたうえで、その共通するところを次のようにまとめている。まず、彼らは歴史の連続性、とくに民族文化の特殊性を重く見ていた。近代化の当面の急務は伝統の改造ではなく、伝統の再認識および民族の自己反省がより重要であると、二人は考えていた。次に、両氏とも歴史の発展や社会変動の主因が平民大衆の動きである、という素朴な平民史観を持っている。だが、それはマルクス主義の人民史観とは違って、彼らが強調した民衆の歴史主体性は、人民の革命精神ではなく歴史変動を緩慢に左右する平民大衆の自然的な力である。それから平民の生活世界とその感情、精神信仰に対して、やや理想主義的、また古い東洋的な民本思想に近い愛情を抱くこと、また近代化の発展によって伝統の詩趣が失われたことを憂慮し、平民の喜怒哀楽に深く共感していたことは、二人のもっとも共通した思想意識だったようである。

 第二は、両氏の戦争中に書かれた民俗学の代表作「無生老母的信息」と『先祖の話』に関しての比較分析であり、それを通して次の部分に引き渡していくのである。

 第三はおもに、両氏の歴史意識や「学問済世」の志向に見られる東洋的な知恵、ことに儒家思想との継承関係を論じる。左翼思想家の「進歩主義」史観やロマンティックな思考様式に対立する態度を取っていた両氏は、社会・歴史の急速的な変革と進歩の可能性を信じておらず、歴史の連続性を重視し、その中に「千年にわたってなお守るべきもの」(柳田語)があると、考えていた。柳田が江戸中期以来の儒教から受け継いだ「経世済民」や「学問救世」の思想と、周作人が重視していた明代の「実学」精神とはその共通の源流が儒学にあり、歴史の尊重と現実の重視とはその儒家思想の要素である。歴史の経験を通して今日の情勢を知り、過去の史実を鏡として目前の社会改革に参与する、というのは東洋の知識人の生き方であり、東洋の伝統知恵でもあると、いえよう。周作人と柳田国男はともに、こうした東洋の伝統思想を自然と受け継ぎながら、中国、また日本における近代の社会変革に参与していた。




第四章 周作人と永井荷風・谷崎潤一郎
――反俗的独立主義・文明批評・伝統回帰――


 第四章では、反俗独立主義的な思想、芸術の性格、反明治国家の文明批評、そして「東洋人の悲哀」式の情緒が示すとおりの伝統回帰の傾向、という三つの観点から周作人の荷風・潤一郎受容やその共感関係を検討する。それによって周作人の日本文学者との深い関係を概観する。
 第一は、三十年代の代表作を細心に解読することによって、周作人のこの時期における基本的な思想状況を分析し、荷風・潤一郎に影響を受け、共感を覚える感覚や意識の基礎を明らかにする。そこでタイトルの「革命時代の非革命的自由知識人」が示すように、独立的思考と専業精神に基づき、国家の政治イデオロギーの枠外で社会改造に参与する近代的な自由知識人意識の樹立は周作人の思想活動の中核となる。そして「伝統無くして世界は無い」という認識による伝統文化の価値やその特殊性への重視と、強い連帯感情を込めた独自の日本文化観に、周作人の三十年代の思想的特徴を見出す。

 第二は、まず周作人の荷風・潤一郎文学に接触し、その影響をうけ、また深く共感した過程を二段階に分けて観る。1910年ごろから二十年代の後期までを第一段階とする。この段階で周作人は両氏の初期作品を熟読し、その文学における思想・芸術の特徴を正しく把握していたが、その着目したところはおもに、日本の新しい文芸の流れや文学史上の価値判断にあり、両氏に対して個人的な関心を格別持っていないようである。そして『冬の蠅』、『摂陽随筆』などを代表作とする両氏の中年以後の文学に深い興味をあらためて示した、1935年から晩年までの時期を第二段階とする。これは、周作人が荷風・潤一郎からさまざまな影響を受け、強く共感した時期である。

 そこで周作人の荷風・潤一郎文学に関する評論、また彼の作品に現れてきた両氏と共通するところを比べて考察した結果、次のような結論に達している。知識人の超政治、超党派の自由を追い求める三十年代の周作人が、両氏の思想・文学に対してまず注目したのは反俗的、独立主義的な思想・芸術の性格、いわば欧米流の積極的な個人主義と江戸時代の戯作者の専制政治に対する消極的な反抗精神である。そして反俗的独立精神から生み出された両氏の文明批評、つまり「反明治国家」と呼ばれる、文明開化の贋物性への批判傾向は、かつて「五四」啓蒙運動に参与し、旧道徳や近代政治の専制、人間の個性疎外などに厳しい批評を行った周作人が、もう一つの関心を示したところである。さらに文明開化への抗議から江戸文化・風俗への憧れを経て、しだいに固有伝統に傾斜していく両氏の運命観、いわゆる選択を許されぬ民族の歴史と伝統によって形成された「東洋人の悲哀」的情緒は、同じく固有性への意識的な回帰をはかった周作人がもっとも強く共感したものであった。

 第三は、異文化の影響関係や思想史・文学史の比較研究には、共通性を重視するとともに、その異質性を見逃すわけにはいかない、という方法論にもとづき、周作人と荷風・潤一郎との間に存在する相違点に関して次の三点を指摘する。1、日中両国の国情の違いによって周作人が両氏の文明批評に感化されたのは近代化批判それ自体より、むしろ背後にある反俗的な独立主義の精神だった、ということ。2、三人の伝統に対する態度および伝統返りの手法はそれぞれ若干の違いがあったこと。3、文化的背景や個人的教養の違いによる三人の女性観はまったく対蹠的であること。




第五章 日本文化観の形成
――汎アジア主義・大正時代の東洋学との関わり――


 第五章では、本論文の締めくくりとして、以上の各章に行われた具体的考察のうえで、さらに研究の視野を近代日本の社会思潮、とくに明治末年以来の汎アジア主義や東洋回帰の流れなどの方面に広げて、周作人の日本関係および日本文化観の形成についてさらに深く、より包括的な考察を試みる。明治四十余年の文明開化を経て、近代化の成功や日露・日清両戦争の勝利に伴い、日本人は民族の自信力に支えられながら、西洋文明の全面的導入を続ける一方、土着文化に目を向けはじめ、いわゆるナショナリズムの自覚が生まれた。そして汎アジア的な連帯感情や東洋文明への郷愁が一般社会に広がり、古典復興を目指す学術上の「東洋学」も大正時代に現れてきた。柳田国男の民俗学、永井荷風・谷崎潤一郎の「反近代」の思想傾向をもつ文学は、いずれもこうした社会思潮の流れから生まれたものであろう。このような観点から、筆者は以下の二つの課題を検討する。
 第一は、周作人の日本文化観を支えている対日感情と明治末年の素朴なアジア主義思潮との関係について。まず、近代日本のアジア主義を三つの発展段階に分けて、一般的風潮としての汎アジア的感情と、イデオロギーとしての大アジア主義や「東亜協同体論」などを区別する。そして周作人が留学時期に受けた汎アジア主義の影響は主として、第一段階の思想というよりは時代潮流か雰囲気としてあった日本人のアジア隣国同士との連帯感情であることを指摘する。それから、大正時代以後、大アジア主義者や大陸浪人が初期アジア主義の理想と背き離れ、「軍国主義によるアジア侵略の先兵」となったことや、朝鮮併合、大陸侵略の事実に直面した周作人は、失望と「悲哀」を痛感した。だが彼の対日連帯感情や日本文化への愛着は全くなくなったわけではなく、三十年代でさらに日本文学者のいう「東洋人の悲哀」から、アジアは一つの文化共同体で究極の運命が一致する、という認識に達した。これについて述べた後、以下の結論を下す。すなわち、汎アジア的感情の受容は周作人の日本認識における最初の感情的な基盤となったこと。そしてアジア主義の変質に伴って、彼の対日感情は大いに幻滅させられたが、荷風・潤一郎らの「反近代」思想や伝統帰りに含まれる東洋情緒の刺激を受け、自らの対日連帯感情を維持しながらその日本文化観を最終的に確立したこと。

 第二は、周作人の「日本研究」と大正時代の東洋学との関わりについてである。まず「大正時代の東洋学」について解説する。それは明治中期以来の汎アジア主義や西洋崇拝の反動としての東洋文明への回帰、という思想的な流れに沿って発展してきた日本、東洋の古典に関する学術思潮を指している。この東洋学は「古典復興」の志向をもって大正時代に入ってから次第に盛んになったもので、学問研究における方法論は福沢諭吉らが代表する西洋志向の学問思想と同じく、欧米近代から摂取したのであるが、その志は近代的な方法で日本を含む東洋の歴史・文化を新たに統合・復興し、西洋学と肩を並べる東洋学を打ちたてようとするところにあった。近代化されていく急激な歴史変動の時代に消滅しつつある固有文明の価値を評価し、これまで民族の生存を支えてきた文明要素を再確認するのはこの系譜に属する学者に共通した思想傾向であり、津田左右吉、内藤湖南、和辻哲郎らはその代表的存在である。

 周作人の「日本研究」を二つの時期に分けて観察した結果、二十年代の第一時期において彼が上述の学者の著作から重大な影響と啓示を受け、自らの日本文化観や対伝統の態度転換を深めたことは明らかである。そこで芳賀(矢一)、津田、和辻の三人を具体的な例にして実証的に考察し、周作人が『国民性十論』『神代史の研究』『日本古代文化』などから、当時の日本古典に関する最高の研究成果を吸収しながら、日本文化の三大美点――自然の愛好、芸術的感受性、人情美、という認識を形成していった跡を窺う。そして本論文の前章に述べた柳田、荷風・潤一郎も視野に入れて、この東洋学および近代日本の東洋回帰や伝統復興の時代思潮と、周作人の二十年代における思想転換、特に近代化の変革は新しい文化の創出であれば、伝統文化の復興でもあるという認識との関係を再検討する。




終 章
 終章はこれまで論じてきた課題、その問題点と最終結論をまとめて再確認する。まず、周作人はどうして民俗学、文学、文化史学にわたる幅広い規模で、同時代の日本文化と深く関係するようになったか、を探る。周の置かれていた時代は中国「四千年以来のかつてなかった大変局」とも「中国のルネッサンス」とも言われた時代である。彼はこうした時代に輩出した多くの近代的な知識人の中でも、中国の伝統的な文化、学問はもとより、ギリシャ古典、西洋思想、日本文化、各国の文学思潮から文化人類学、民俗学、宗教思想史、心理学、婦人と児童に関する理論など、近代的な学説にまで詳しく、思想、学識ともに傑出した人物とされている。それはまさに、日本文化と幅広く関係するようになったゆえんである。

 こうした多面的な学識、趣味を彼は「雑学」と自称するが、しかしその意義を自ら最終的に「現代人類の知識に基づいて中国固有の思想を調整する」と明言した一言に、実は彼の生涯を貫く思想的な関心の焦点が集約されているのである。この観点から本論文を要約すれば、結論は次のとおりである。

 二、三十年代の間に、固有文化に関して、周作人は大きな思想転換を迎えた。それはつまり、伝統を全面的に改造し、西洋文化を全面的に導入しようとする急進的な立場から、原始儒家思想を再認識し、固有文化の革命ならぬ再生ないし復興の漸進的な主張に至る転換である。この思想転換とほぼ平行している時期に、彼は大正時代以来の古典復興や、東洋文明への回帰、といった日本の文化思潮に注目した。彼は二十年代には、日本文化への関心から芳賀、津田、和辻らの著作を真剣に熟読し、日本の古典文化に関する知識を深めたばかりか、固有文化に対する態度や認識の方式においても潜在的な影響を受け取って、自らの思想転換をいっそう加速させた。一方、二十年代後半以来、民俗学の関心から、柳田の郷土研究に興味を示した。柳田が固有信仰を民俗学の中心課題として、それによって過去の民族精神史の把握を目指したことや、また近代に向かう社会変革の中で歴史の連続性を重く見て、変革の急務はひたすら伝統を改造するのではなく、民間伝統を大切にしようと主張したことに同感しながら、中国固有文化への関心を一段と深めていった。そして三十年代の半ばころ、荷風と潤一郎の文明批評に注意を引かれ、近代日本への両氏の批判や、固有性に立ち返りながら失われた文化を追慕する、いわゆる「東洋人の悲哀」の心情に強く共感した。周作人はこうした日本からの影響を受けたことによって、伝統批判から固有性重視への思想転換を確実なものとしながら、「現代人類の知識に基づいて中国固有の思想を調整する」という信念に到達した。

 上述の結論によって、周作人の二十年代以来の思想転換を単に政治的な落伍とみなしてきた従来の通説を見直すべきこと、周の江戸文化理解や日中文化比較論を今後の研究課題としたいことを、終章の最後に付記する。

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