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博士論文要旨

論文題目:成人教育と社会変革―スウェーデン型生涯学習社会の形成過程―
著者:太田 美幸 (OTA, Miyuki)
博士号取得年月日:2007年3月14日

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生涯教育・生涯学習の理念は、1965年に開催されたユネスコ成人教育推進会議でポール・ラングランが生涯教育論を提唱したことによって世界的に注目を集めることとなった。変化の激しい現代社会に適応するために人々は生涯学び続けなければならず、教育体系は全生涯にわたる学習のプロセスを反映させたものとして再編成されねばならないというラングランの提案は、近代教育制度に本質的な変化を迫るものであった。そのための具体的方策として注目されたリカレント教育論は、近代教育が前提としてきたフロントエンドモデルを根底から見直し、子どもだけでなく成人をも対象とする教育制度を構築しようとするものである。これは換言すれば、旧来ほとんどがノンフォーマルな形で展開してきた成人の教育・学習活動を、フォーマルな教育制度にも組み入れつつ発展させようとするものである。現在、多くの社会がこうした生涯教育の理念を政策に取り入れ、「生涯学習体系」を構築し「生涯学習社会」となることを目指している。
1970年代から1980年代にかけてさかんに議論された学習社会論においては、生涯にわたって教育・学習を継続することを可能にする学習社会構築の重要性とそのための戦略が論じられた。しかしながら学習社会論は、生涯を通じて継続される教育・学習が行政への依存を深め、「学習社会」化が教育を通じた管理・統制の強化につながることを懸念する批判的見解に対して有効な反論をなしえず、議論は停滞したまま現在に至っている。こうした批判は、人々の教育・学習活動の既存社会に対する自律性を問うものである。学習社会論の閉塞状況を打破し「生涯学習社会」の具体的なありようを描くためには、人々の教育・学習活動の既存社会に対する自律性とはいかにして生じるものなのか、そこにはいかなるせめぎあいがあるのかが問われなければならない。学習社会論は、学習社会構築の重要性とそのための戦略を論じることを脱して、「生涯学習社会とはいかなる社会なのか」を探ることを重要な課題とすべきではなかろうか。
人々が歴史的に展開してきた生涯にわたる教育・学習活動は、現実の生活において人々が対峙している様々な課題を解決するために生み出されたものである。人々は様々な生活課題に向き合うなかで固有の学習様式を生み出し、それによって課題を克服し、ときには社会に対する働きかけをおこなってきた。行政依存の陥穽におちいらずに人々の多様な学習要求にこたえうる「生涯学習社会」を構想するには、近代教育制度の枠組みを超えて、人々の教育・学習活動の現実を捉えなければならない。とりわけ、フォーマルな学校教育の枠におさまらない人々を対象としてきた成人の教育・学習活動には、学校教育では対応しきれない近代社会の多様な要求が反映されてきたと考えられる。人々の学習の志向の多様性を捉えなおし、ノンフォーマルな教育・学習活動が社会に対してどのような働きかけをおこなっているかに着目する必要があるだろう。
こうした観点にたてば、さしあたり「生涯学習社会」を「複数の機能を併せ持ちながら歴史的に形成されてきた種々の教育・学習活動が、社会構造を規定する一要素となっている社会」と定義することができるだろう。成人の教育・学習活動が、社会構造に対していかなる機能を果たしてきたか、現在いかなる機能を果たしているか、今後いかなる機能が期待されているかによって、「生涯学習社会」の内実が規定されることになる。もっとも、それぞれの社会の文脈に応じてそれぞれの「生涯学習社会」が形成されるのであって、各社会において「生涯学習社会」が一様な内実をもって現れるわけではない。それでも、「生涯学習社会」と呼ばれる社会状況の多様なありようを明らかにし、それらを類型化し、そこにみられる特質を抽出することによって、「生涯学習社会」がもつ一般的な構造を理解することはできるだろう。そのために必要な作業は、生涯学習が普及しているいくつかの社会を事例として成人教育の社会的機能に関する史的研究をおこない、それを比較検討することである。つまり、機能分析的な観点にもとづく比較成人教育史研究を、生涯学習社会論の主要な研究方法として位置づけることが可能ではないかと思われるのである。

本論文は、以上のような課題意識にもとづく事例研究として、スウェーデンにおける成人教育・民衆教育の歴史的展開を分析するものである。スウェーデンは、成人の学習参加が顕著であること、成人教育機関の充実とともに有給教育休暇の保障、各種修学援助など、成人の学習活動を支える制度が豊かに整備されていることなどから、生涯学習先進国として各国からモデルの一つとされ注目を集めてきた。しかしながら本論文の問題関心にとって興味深いのは、先進的な成人教育政策と、階級闘争・文化闘争のなかで形成・組織化された民衆教育とが、相互に影響しあいながら共存していることである。学習サークルや民衆大学において展開される民衆教育は、人々にとって最も身近な学習の場としてスウェーデン社会に深く根を下ろしている。スウェーデンの生涯学習状況を考察する際、人々の日常的な学習活動が19世紀末以降の民衆運動を通じて形成された社会観・学習観によって支えられてきたこと、民衆教育の中心的位置を占める学習サークルが民衆の主体的社会参加を促す機能を果たしてきたこと、民衆教育は反体制的なものとみなされ警戒されながらも学習サークルという学習形態の効率性が重視され、民主主義実現にむけた社会の歩みのなかで性格を変容させながら徐々にその意義を社会全体に認めさせてきたことは看過できない。またその背景として、民衆運動を通じて形成されたアソシエーション民主主義の体制や、コーポラティズム化の進展とともに政府と民衆運動の強固な影響関係が構築されてきたことも重要である。
近代教育制度に組みこまれた成人教育と、近代教育制度からはみ出た人々のなかから生じた民衆教育は、社会的・政治的・経済的諸要因とどのように絡まりあってきたのか。成人教育・民衆教育における文化伝達とはどのようなものなのか。結果としてスウェーデンの生涯学習社会はどのような構造を持つに至ったのか。民衆自身による知識の再発見・再構築、民衆自身による文化創造の契機はいかに日常生活に組み込まれうるのか。本論文は、これらの問いをもとに従来の学習社会論においては捉えられることのなかった「生涯学習社会」像のオルタナティヴを描くことを目指し、以下の三つの作業をおこなった。

第一に、スウェーデンにおいて広く民衆を対象とする教育が生じ変容していく過程を分析するための準備作業として、歴史学の先行研究に学びながら19世紀末までの社会状況とそこでの教育のありようを確認した。第1章では、20世紀初頭以降に進展する民衆教育の組織化の歴史的前提を確認するために、身分制社会が解体するとともに産業化・都市化がすすんだスウェーデンの社会状況を概観し、スウェーデンの近代化過程と国民教育制度の成り立ち、そこで伝達された「正統的」文化の内実とそれを組み替えようとする教育改革の過程を確認するとともに、近代化過程において生じた自由教会運動、禁酒運動、労働運動などの諸運動を概観することによって、民衆教育運動の生成の背景を明らかにした。
第2章では、そのなかで展開されたノンフォーマルな教育活動に焦点を当てた。広く民衆を対象とする教育活動は、旧来の特権層に代わって興隆した中間階級の主導によって、いくつかの思想潮流のもとで初期民衆教育運動として編成されていく。初期民衆教育運動は、アカデミズムの旧態に反発する学生、従来の有力者の特権を切り崩そうとする都市中間階級、「祖国愛」の復興を目指す人々、あるいは工業化にともなう新たな生活様式への対応を迫られる下層中間階級や労働者が、「教養」をめぐって多様な政治的文化的運動を展開するなかで形をなしていった。19世紀半ばに台頭した自由主義者らによって古典重視の非実用的な教育制度の改革が主張されたのと並行して、1880年代には文学者や学生団体が中心となって勃興した文化急進主義運動において実用的で合理的な科学的知識が称揚された。労働者に対する啓蒙活動は、文化急進主義運動と連動した形で、主に自由主義的諸運動において展開された。その後、1890年代に活発化した社会民主主義運動によって労働者の組織化が急速に進展すると、労働者啓蒙の仕事は社会民主主義労働運動に引き継がれていく。また、19世紀半ばのナショナリズムの高揚、民族意識の高まりは、自由主義的な啓蒙への熱意と結びついて農村地域における民衆大学運動を牽引した。民衆大学運動は、1865年の議会改革ののち下院の主導権を握り官僚や都市中間階級の敵対勢力となっていた富裕農民の政治的見解とも結びつき、農民の政治勢力拡大の手段としても推進されることとなる。他方、禁酒の推進を通じて社会改良を目指した禁酒運動の主要な活動は、飲酒の弊害についての啓発と規範意識の涵養であった。そのための教育活動の整備がすすむなかで、オスカル・ウールソンによって集団的読書を核とする学習サークルの活動が体系化され推進されるようになる。ウールソンの学習サークル構想の中核にあった「自己教育」の理念は、読書と議論を通じて知識と経験の幅を広げ、日常生活における問題解決能力を身につけること、それによって民衆の日常生活を改善し社会のありようをもつくりかえていくことを目指すものであった。学習サークルの普及にともなって、こうした理念が民衆教育運動を特徴づけていくこととなる。

続く第二の作業として、19世紀末までにいくつかの思想潮流のもとで編成された民衆教育が、20世紀初頭以降に民衆運動のもとで組織化されていく過程を明らかにした。第3章では、のちの民衆教育の核となる学習協会設立の経緯を中心に、民衆教育運動が互いに交錯しつつ拡大していく過程を分析した。初期の社会民主主義運動の指導者たちは労働者に対する教育活動を効率的におこないうるものとして民衆大学や学習サークルの形態に着目し、20世紀初頭以降、労働運動のさらなる発展のためにこれらを組織化して全国展開することを目指すようになる。他方、農村においては農業の近代化をいかにしてすすめるかが課題となっており、20世紀初頭には、農業の近代化がもたらす農村社会の諸問題を農民青年の職業意識や郷土愛に働きかけることを通じて克服しようとする動きと、農村下層民の階級意識の醸成を背景とした政治運動が活発化した。いずれもやがて農民青年の政治教育を課題として認識するようになり、独自の教育活動を組織することを模索して、学習協会の設立を通じて民衆教育事業に乗り出しはじめる。こうした動きと連動して、民衆大学運動も民衆運動諸団体とのつながりを深め、その性格を変容させつつ再編されていくこととなった。20世紀前半のこうした民衆教育の組織化は、民衆運動の推進と一体化したラディカル・アクション学習の体系化として捉えることができる。各運動体は自らの運動理念を反映させて学習協会あるいは民衆大学を設立し、それらを運動推進の手段として位置づけた。運動メンバーは学習サークルへの参加や民衆大学での学習を通じて運動への意識を高め、議論の手法や組織の運営方法など、運動の担い手として必要な技術を身につけていったのである。
しかし、20世紀前半の民衆教育運動を運動の側面からのみ理解するならば、組織化された民衆教育が少しずつ性格を変容させながらも現在まで継続しえていることの主たる要因を見逃すことになる。1911年に男子普通選挙権が、1919年に女性参政権が実現したことによって民衆運動の当初の目標は一応の達成をみており、この時期の民衆運動は激しい闘争を展開していたわけではなかった。運動体内部のイデオロギー的統率はゆるやかで、教育・学習活動も運動への動員と直接的に結びつくものではなかった点に注意しておく必要がある。そのゆるやかさこそ、この種の教育・学習活動が拡大し定着した要因であり、以後のスウェーデン民衆教育の展開を規定したのではないかと考えられる。第4章ではこうした仮説を念頭に置きつつ、民衆教育の組織化の意図は実際の民衆の学習活動にどのように浸透していたのか、なぜ民衆教育が人々の生活に深く根付くにいたったのかを検討した。
20世紀前半には民衆運動の諸団体によって学習協会が次々と組織されたものの、規模の面でいえば当時の民衆教育の主流は啓蒙的な講義活動であった。都市部における啓蒙活動や農村地域の民衆大学は、都市労働者や農村民衆に市民的教養を伝達し、当時まだ十分には整備されていなかった学校教育を実質的に補完するものとして機能していた。こうした側面は、1960年代以降の成人教育政策において民衆教育実践の蓄積が大いに評価され活用されたことにあらわれている。しかしながら、民衆に対する市民的教養の伝達は、そこでとられる方法によっては、支配的文化の一方的な伝達を回避し対抗的文化をつくりあげる可能性を内包している。民衆教育が「自己教育」を通じておこなわれることによって、資源としての市民的教養は学習者自身の必要と関心に応じて摂取・利用され、それによって民衆文化がつくりだされることとなる。「自己教育」を通じておこなわれる民衆教育には、こうした文化創造の回路が潜在的に組み込まれているものと考えられる。それゆえ、20世紀を通じて民衆運動の諸団体による民衆教育の組織化がすすみ、多くの人々が学習サークルなどへの参加を果たしたということは、民衆が民衆自身の文化を紡ぎ出し、それを対抗文化に育て上げていくプロセスでもあったと解釈できる。民衆教育の実践には社会の調和と安定への志向と社会変革への志向がともに含まれていたが、両者は民衆教育運動が展開するにつれて次第に融合し、民衆教育全般に織り込まれるに至った。
加えて、民衆運動の諸団体や民衆教育組織が提供する学習の場が、運動への参加の有無に関わらず多くの人々に開かれていたことも、きわめて重要な意味を持っていた。民衆運動団体や民衆教育組織が開講する学習活動への参加、あるいは演劇やダンス、遠足などといった活動への参加は、農民や労働者にとって、日々の生活の苦しさを紛らわせる貴重な娯楽の機会であると同時に、地域社会における社交生活を充実させるものでもあった。学習活動や娯楽的活動を通じて形成されたのは、運動理念への共鳴というよりはむしろ、生活の一部を共有する仲間との連帯感であり、それが地域コミュニティにおける集合的アイデンティティ、地域に根差した生活文化の形成につながった。つまり、民衆教育の活動はコミュニティにおける社会的紐帯を形成するものとして機能したのである。

20世紀半ば以降は、民衆教育は民衆運動から相対的に自律した展開をみせるようになる。民衆教育が人々の生活に浸透していくのと並行して、人々の階級意識は希薄化し、教育・学習活動はもはや闘争のための手段として位置づけられることはなくなった。国からの財政支援を得た民衆教育の活動は、公教育と手を携えて多様な学習目的を含みこむものとなっていく。このことによる民衆教育の性格変容についての検討が、本論文でおこなった第三の作業である。
第5章では、20世紀後半の成人教育政策の展開とそこでの民衆教育の位置づけについて確認した。1960年代に始動した成人教育政策は、第二次世界大戦後の急激な経済成長を背景とする労働力育成の課題、1962年の抜本的な義務教育改革後の世代間の教育格差の是正を主たる目的としていた。前者については高等教育機関への社会人入学枠の設置、後者については民衆教育の組織的基盤を活用した低学歴層へのアウトリーチ活動の促進などが具体的な施策として導入された。一連の教育改革の過程で明らかになったのは、民衆教育が公的な教育制度における欠落を補完するものとして機能してきたことである。1960-70年代の成人教育改革は、民衆教育が従来から果たしてきたこうした機能を公的な教育制度の枠内に位置づけるものであったといってよい。ただし、改革後、公的な成人教育と民衆教育との境界は様々な議論を経てなお曖昧なまま現在に至っている。民衆教育が制度化されたことによってその「公共性」をめぐる議論も喚起されたが、概して否定的な論調が多い。
第6章では、民衆教育の「公共性」をめぐる近年の議論を整理しながら、近代教育制度とは異なる民衆教育固有の機能について考察したうえで、「新しい社会運動」の具体例に即して運動と民衆教育との現代的な関係を探った。1960年代後半に西欧諸国ではじまった「新しい社会運動」は、階級的視点に立ち経済的な問題を中心的な争点としてきた旧来の社会運動とは異なり、政治、経済、文化など様々な領域における問題にかかわっている。端的に言えばある価値観と他の価値観との対立構造をめぐる運動であり、かつてのように階級やイデオロギー対立に限定されるものではない。こうした運動に民衆教育がどのようにかかわっているのかを具体的に明らかにすることによって、現代社会における政治的争点に対して民衆教育がどのように機能するのかを検討した。
環境運動団体における民衆教育組織の利用のありようからは、民衆教育組織の公開性や柔軟性が小規模の運動団体の活動を実質的に支援するものとなっていることが示された。民衆教育組織が自由な学習の場を広く提供することによって、ローカルな問題に取り組む小規模なグループが草の根的な運動をおこすことが可能になっている。また、現代的な運動学校の事例として取り上げた女性運動・女性民衆大学の教育実践は、民衆教育の組織と制度が運動の活性化に貢献していることをさらに顕著に示すものであった。運動と連動した教育機関がつくられることによって、運動に直接かかわる活動家の育成だけでなく、運動にコミットしていない人々の意識が喚起されることもある。運動の理念が教育理念に反映されることによって、運動体内部にとどまらない幅広い人々への呼びかけが可能になる。こうした民衆教育の可能性は、自らの社会的文化的状況を変革していくために新たな学習協会の立ち上げを目指して活動をはじめた移民の組織にも垣間見ることができる。文化を伝達・共有し再構築していくことは社会集団の連帯にとって不可欠であり、マイノリティが自らの文化を基盤として展開する学習運動は文化をめぐる政治運動である。文化的支配-被支配構造の認識と集団的差異の承認は現実に存在する不平等と抑圧状況を解消していくための戦略として求められ、教育・学習の場は知識の伝達・再生産だけでなく、集団的アイデンティティの形成と対抗的ヘゲモニーの創造に深くかかわっていく。こうした事例は、不利な立場に置かれてきた人々による社会的・文化的平等のための運動が、現代スウェーデンにおいても民衆教育の基盤のうえに展開されうることを示している。民衆教育を核とするこうした動態を、スウェーデン型「生涯学習社会」の特質として把握することができるだろう。

論文冒頭での検討に立ち戻ると、ある社会における成人教育の発展のありようを、成人の教育・学習活動に政治、経済、階級、文化やそれらを背景として成立している学校教育制度などの諸要因がどのように影響を与えているか、そこに公権力との関係がどのように反映されているかをみることによって理解するならば、「生涯学習社会」の具体的なありようは、その社会における「公的な成人教育」と「民衆的な成人教育」とのバランスによって描き出されるものとなる。人々の教育・学習活動が「公的な成人教育」に偏っておこなわれるとすれば、そうした「生涯学習社会」では、成人教育は選抜と序列化の機能を強めていくだろう。教育制度の再編によって「何度でもやり直しのきく社会」が真に実現するとすれば、それは一部の人々の生活の改善につながるだろう。しかし、この場合の「やり直し」とは、学校で伝達される知識や価値体系を受け入れることによって達成される社会上昇にほかならない。こうした社会上昇の可能性を模索して構想される「生涯学習社会」では、教育・学習活動にそれとは異なる目的を設定する人々は排除されかねない。このような見通しこそ、かつての学習社会論がはまりこんだ陥穽であった。それを回避するためには、近代教育制度を相対化するような学習、すなわち「民衆的な成人教育」にも目を向けて「生涯学習社会」が構想されなければならない。
本論文で分析してきたスウェーデンの場合、「公的な成人教育」の拡充は民衆教育の機能の一部が移転されるというかたちですすんだ。こうした歴史的変遷の結果として、「公的な成人教育」が拡充するなかでも「民衆的な成人教育」が勢力を失わない構造が形成されたと考えられる。さらに、人々の学習を支えてきたのは、学ぶことによって自らが対峙する生活課題の根源を理解し、それを社会的な問題と結びつけ、その変革をめざす思想、学習観である。こうした思想が人々を積極的に学習活動に向かわせ、成人教育制度の拡充をもたらした。こうした思想を欠いた成人教育制度のもとでは、人々の学習が行政依存的なものに偏っていく傾向をくいとめることはむずかしい。
「全体社会が知識伝達をとおして民衆を統制する」メカニズムを、民衆自身が知識の再発見と再構築を実現することによって「民衆の側から全体社会に影響を及ぼす」メカニズムに転換しようとする民衆教育は、きわめて政治的な活動である。近代教育制度に相対するものとして、<学校教育の文法>とは異なるやり方でおこなわれる文化伝達、あるいは文化創造の活動に注目するとき、「生涯学習社会」は多様な文化がヘゲモニーを争う場、「文化の政治」がせめぎあう場として立ち現れてくるのである。

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