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博士論文要旨

論文題目:近代ドイツ社会調査史研究―経験的社会学の生成と脈動―
著者:村上 文司 (MURAKAMI, Bunji)
博士号取得年月日:2006年4月12日

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本論文の課題と構成
本論文の課題は、1848年から1933年にかけて、ドイツのアカデミズムの内外でおこなわれた多種多様な社会調査の展開を個々の調査やその周辺で生じる種々の出来事に関与した同時代人の社会的営為に即して叙述し、主としてアカデミズムの外側でおこなわれた実践的・実務的な社会調査が当時のアカデミズムの世界に浸透しそこで受容されていく様相、そしてそこから生成していく経験的社会学の軌跡を探求するところにある。社会調査に関心をもつ同時代人たちは、その目的・課題・方法や組織化をめぐって活発な論議をくりひろげ、個々の調査をめぐる彼らの交流やその周辺で生じる種々の出来事は、学問的な社会調査の進展に錯綜した経過をもたらし、経験的社会学の生成に対しても多大の影響をおよぼした。近代ドイツの社会調査の歴史については内外の関心が乏しく、わが国でおこなわれたドイツの社会学史に関する研究においてもまったく視野の外におかれてきた。本論文においては、経験的研究の伝統が「希薄」だとするドイツの学問風土についての通俗的な認識をしりぞけ、近代ドイツにも社会調査のダイナミックな展開から経験的社会学の生成へとつながる独自の「通路」があったことを明らかにする。
本論文は、「序章」と「終章」を含めて全部で14の章からなる。社会調査史研究の視点を提示した「序章」につづく本論文の各章は、次の3つの部分で構成される。
 第1に、本論文の「第1章」、「第2章」では、1848年前後から1890年にかけておこなわれた主要な社会調査をとりあげ、学問的な社会調査の萌芽を探求した。実践的な社会改良的調査や実務的な統計調査は帝国統一以前にアカデミズムの外側で揺籃し、ビスマルク時代に入って「組織化」された。また、ビスマルク時代には「現地調査」(フィールドワーク)がアカデミズムの世界に徐々に浸透し、社会調査の方法をめぐる論議も開始された。
 第2に、「第3章」から「第10章」にいたる各章では、1890年から1914年にかけておこなわれた主要な社会調査とその周辺に生じた種々の出来事をとりあげ、ヴィルヘルム時代にアカデミズムの内外で隆盛した多様な社会調査から徐々に経験的社会学が生成していく活発な展開があったことを明らかにした。この時期の社会調査の展開については、個々の調査をめぐる同時代人たちの活発な「交流」に注目した「第3章」から「第6章」と、この時代の学問的な社会調査がたどる錯綜した経過に注目した「第7章」から「第10章」の2つに分けて論述した。前者においては、この時代のアカデミズムの内外に出現した実践的な社会調査の新試行や新興諸科学と結びつく学問的な社会調査について叙述し、同時代人たちが個々の調査をめぐってアカデミズムの内外でくりひろげた活発な交流があったことを明らかにした。また、後者においては、学問的な社会調査の錯綜する経過について、アカデミズムの内外にまたがる多彩な調査活動を展開したM.ヴェーバーの社会的営為に注目しつつ論述し、彼の積極果敢な調査活動がドイツの経験的社会学の生成に対して重要な役割をはたしたことを明らかにした。
第3に、「第11章」、「第12章」では、1918年から1933年にかけておこなわれた主要な社会調査をとりあげ、ヴィルヘルム時代に隆盛した社会調査の諸潮流はワイマール時代にも引き継がれたばかりでなく、この時代にはまた新たな社会調査がアカデミズムの内外に出現し、社会調査をもって社会学を基礎づける経験的社会学の確立にむけた活動に新たな展開があったことを明らかにした。そこで最後に「終章」では、本論文で明らかにした社会調査と社会学のあいだに活発な交流があったことを示す主な出来事をふりかえりつつ経験的社会学がたどった軌跡を考察した。

本論文の内容
 「序章 社会調査史研究の視点」では、調査家の「社会的営為」に即した「出来事史」という本論文で採用した歴史叙述の視点を提示し、近代ドイツの社会調査史に関する先行研究の検討を踏まえて本論文の課題と構成を明示した。
 「第1章 帝国統一以前の社会調査」では、近代ドイツにおける社会調査の起源を探求し、1848年の「三月革命」直前におこなわれたR.ウィルヒョーの流行病調査、A.v.レンゲルケによる農業労働調査やザクセン州の工業労働調査といった労働者状態に関する政府系の調査、ジャーナリストの経験をもつW.H.リールの民族学的調査、統計局の設立による官庁統計の整備といった出来事をとりあげ、この時期が社会調査の「揺籃期」であったことを明らかにした。「第2章 ビスマルク時代の社会調査」では、実務的な統計調査や実践的な社会改良的調査がこの時期に設立された「帝室統計局」や「社会政策学会」によって「組織化」されていく様子を叙述し、内閣官房の工業労働調査やT.v.d.ゴルツの農業労働調査を例にしてこの時期の社会調査が帝国全土を視野におく大規模なものであったことを明らかにした。また、政府官僚H.ティールによる農村高利貸し調査に対するG.シュナッパー-アルントの批判をとりあげ調査方法をめぐる同時代人たちの論議が開始されたこと、後者の手になるタウナス丘の5つの村落社会を対象にした地域調査などをとりあげて「現地調査」が当時の大学の社会科学ゼミナールに浸透し、そこで活躍する若手の国民経済学者や統計学者によって学問的な営為として受容されつつあったことを明らかにした。
「第3章 農業労働調査とM.ヴェーバー」では、ヴィルヘルム時代に入った直後に「社会政策学会」と「福音社会会議」が実施した2つの農業労働調査をとりあげ、農業雇用主や彼らの利益代表組織との共同作業としておこなわれた前者の調査をめぐってアカデミズムの内外に巻き起こった活発な方法論議や教会の連合体との共同作業としておこなわれた後者の調査で試みられた調査方法の改善について、2つの調査と深いかかわりをもったM.ヴェーバーの調査活動に注目して叙述した。福音社会会議の農業労働調査は、アカデミズムの内外で活躍したM.ヴェーバーと神学徒P.ゲーレが共同作業をくりひろげた調査である。この調査で直接当事者から信頼できる資料を獲得することを重視したM.ヴェーバーは調査方法の改善に着手したばかりでなく、この会議の調査資料をのちに若手研究者の学位論文作成のために用立てた。社会調査は、M.ヴェーバーにとって、当初から同時代の社会的現実に接近する有効な社会研究の方法だったばかりでなく、若手研究者の育成にも役立つ学問的な活動そのものだったのである。「第4章 実践的な社会調査の新展開」では、当時の高揚する社会改良運動を背景にしてアカデミズムの外側でおこなわれたE.アッベのツアイス光学工場での労働時間短縮実験、P.ゲーレの参与観察や労働者の自伝出版、福音派の牧師ワーグナーの道徳状態に関する調査、図書館員W.ホフマンの貸出記録を利用した労働者心理学に関する調査をとりあげ、内容的にも方法的にも独創的なこれらの調査はこの時代に出現した実践的な社会調査の新試行であるが、これらの調査をめぐる同時代人たちのアカデミズムの内外にまたがる活発な交流があったことを明らかにした。「第5章 学問的な社会調査の新展開」では、アカデミズムの世界でおこなわれた投票行動や高等教育に関する統計を利用した社会研究、反改良主義者R.エーレンベルクの工場労働者の世代間比較、進化論の流行と結びついたエリート研究、精神医学分野でH.W.グルーレが試みた非行少年調査をとりあげ、社会政策学会の周辺に、優生学や衛生学、民族学や精神医学、精神病理学といった新興諸科学と結びつく「経験科学」の確立に向けたさらに広範囲な学問的な社会調査の複数の潮流があったことを明らかにした。また同章では、大学後継者問題をめぐるF.オイレンブルクとL.ブレンターノの対立や社会改良主義と反改良主義の対立、教職の自由をめぐるR.エーレンベルクとM.ヴェーバーの不協和音や遺伝問題をめぐる社会進化論者と精神病理学者の対立など、個々の調査の周辺で生じた不幸な出来事にも立ち入って論述した。これらはいずれも、この時代の社会調査の学問的な受容や経験科学の行く方に影響をおよぼ重要な事柄だったのである。「第6章 A.レーフェンシュタインのアンケート」では、アカデミズムの世界から注目を浴びたこの画期的な社会心理学的調査をめぐって彼とM.ヴェーバーの間に活発な交流があったがことを明らかにした。M.ヴェーバーは、A.レーフェンシュタインが苦労して回収した5200にのぼる資料を「学問的な軌道」にのせるという観点からその加工と分析方法に関して積極的に助言し、専門家との共同作業を提案した。A.レーフェンシュタインのアンケートは、アカデミズムの世界と強い接触をもった興味深い調査であるが、アカデミズムの内外にまたがる両者の交流は、M.ヴェーバーの提案を彼が拒否したために不幸な結末に至ったのである。
「第7章 M.ヴェーバーの精神物理学研究」では、M.ヴェーバーの長大な「精神物理学」論文を彼の「社会調査論」を展開したものとして位置づけてその解読に着手した。M.ヴェーバーはこの論文で、E.クレペリンとその学派の実験心理学的研究をはじめ、工業労働に関連する当時の統計家や生理学者、人類学者や医師たちの調査報告や遺伝問題に関連する神経病医や精神医学上の文献を多数とりあげて論評し、同時に自身がヴェストファーレンの織物工場で試みた現地調査のモノグラフを組み込んで、工業労働の特定諸条件の研究領域で自然諸科学と社会科学の学際的な共同研究の可能性を追求した。学問的な社会調査における学際的な共同作業が可能であるとするM.ヴェーバーの意見は、同時期に彼が執筆した社会政策学会の工業労働調査のための「作業説明書」におり込まれた。「第8章 社会政策学会の工業労働調査」では、ヴェーバー兄弟の活躍もあって、この調査は従来の学会調査が有していた社会改良的・実践的な性格からみれば社会科学的・説明的であり、若手国民経済学者が労働者を直接対象とする現地調査に着手した学問的調査であったこと、そして個別企業の現地調査に着手した若手研究者は敵対的な労使関係を背景とする厳しい調査環境に直面しつつも、ベルナイスの模範的な試みもあって質問紙の配布や回収である程度の成功をおさめたことを明らかにした。しかし、M.ヴェーバーが提案した自然諸科学との学際的な共同研究はこの調査を指導したK.ビュッヒャーやH.ヘルクナーの反対にあい実現しなかったばかりでなく、この調査でR.ケンプやR.ヴァッテロスが執筆した異色モノグラフのように、若手研究者の一部にはヴェーバー兄弟の調査プランに反対する根強い反発があったのである。「第9章 社会政策学会の討議」では、社会政策学会の工業労働調査の成果をめぐる学会討議の模様をとりあげ、若手研究者がデータに施した加工をめぐるM.ヴェーバーと確率論を導入した統計学を主張するL.v.ボルトケビッツの激しい論争を紹介しつつ、社会政策学会を舞台にした学者たちの共同作業を阻害する学問間、学派間の深刻な境界争いがあったことを明らかにした。「第10章 社会学会の設立と新聞調査」では、「ドイツ社会学会」の誕生が学問的な社会調査を革新するM.ヴェーバーの積極果敢な活動と結びついたことを明らかにした。この学会の設立時に暫定的な運営委員長に就任したM.ヴェーバーは学会活動の中心に社会調査を据えた独自の学会設立構想を携えて会員募集にのりだし、社会学の名を冠したこの学会にふさわしい調査のテーマを提案した。また、M.ヴェーバーは自身が構想した新聞調査の実現にむけて、調査の課題や方法を明示した「覚書」を執筆したばかりでなく、実務家と専門家が相互に協力する斬新な当事者参加型の委員会を立ち上げ、共同研究者となる実務家の海外滞在費への援助を含む必要な財源の確保にも奔走した。新聞調査は、M.ヴェーバーが直面した新聞訴訟に発展する不幸な出来事や彼の学会退会によって未完に終わるが、ドイツ社会学会の誕生は、学問的な社会調査の革新にむけた積極果敢なM.ヴェーバーの活動と結びつく「経験的社会学」の確立構想を内包する画期的な出来事だったのである。
 「第11章 ワイマール時代の社会調査」では、国家の経済状態に関する政府のアンケートやホワイトカラー問題をあつかった職員組合の調査など新たな課題に挑戦する実践的・実務的な社会調査、医学や精神医学、心理学や教育学の分野でおこなわれた新たな調査技法の開発を含む数多くの学問的な社会調査、またドイツの各大学に急速に広がった新聞学の講座や研究所でおこなわれた新聞調査をとりあげ、多種多様な社会調査がワイマール時代のアカデミズムの内外に広範囲に根付いていく多面的な展開があったことを明らかにした。「第12章 社会学と社会調査の交流」では、シュレヒスビッヒ・ホルシュタイン地方の犯罪や自殺、道徳に関する経験的モノグラフを執筆し、G.v.マイヤーの社会統計学と激しく論争しつつ構想した「社会誌学」を実現するために研究所の設立を政府に誓願し続けたF.テンニースの調査活動、「現地調査」を導入したゼミナールを開設して多くの学生を指導したL.v.ヴィーゼの調査活動、ケルン大学社会科学研究所やフランクフルト大学社会研究所がおこなった社会調査をとりあげ、ワイマール時代にも社会調査と社会学が互いに交流する新たな展開があったことを明らかにした。これらの出来事は、ナチズムの台頭で壊滅的な打撃をうけるが、社会調査をもって社会学を基礎づける「経験的社会学」の確立に向けた社会学者たちの活動はワイマール時代にも持続していたのである。
 最後に「終章 経験的社会学の脈動」では、以上のような論述をふまえて、近代ドイツにおける社会調査のダイナミックな展開と交錯しながら生成していく「経験的社会学」の軌跡を考察した。同時代の複雑な社会的現実が提起する問題に社会調査をもってアプローチする「経験的社会学」は、実践的なものから学問的なものに至る多種多様な社会調査がアカデミズムの内外に広範囲に根付いていくダイナミックな展開から徐々に生成してくるのであが、この時代の学問的な社会調査が直面した錯綜する経過や当時の社会学の未熟な状態は、その展開にも多大の影響をおよぼした。ドイツの経験的社会学は、学問的な社会調査が直面した困難、すなわち調査環境や調査の組織化・共同化を阻害する種々の「障壁」、社会学の未熟な状態や時代状況の急激な変化にも翻弄されて紆余曲折する。しかしながら、社会調査と社会学の交流は一進一退する両者の断続的な展開に翻弄されつつも、経験的社会学は「脈動」しながらワイマール時代にも引き継がれていたのである。

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