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博士論文要旨

論文題目:財閥と帝国主義-三井物産と中国
著者:坂本 雅子 (SAKAMOTO, Masako)
博士号取得年月日:2006年4月12日

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序論
(一)本書の対象
 本書は、戦前の三井物産の中国進出を、商品輸出、資本輸出、軍事侵略との関連で解明したものである。その目的は、日本の侵略政策や帝国主義的対外進出が、大資本の活動とどのような関係があったかについて解明することにある。
なぜ三井物産を中心にとりあげるかは、同社が日本の総輸出高の五分の一近くを独占すると共に、対中国貿易を中心的に担った巨大商社であったこと、資本輸出においても民間資本のなかでは群を抜いて多額・多様の借款を中国に供与したこと、軍事的な侵略においても兵站活動や占領地の物資移動を担い、戦争と占領地統治に不可欠の存在であったこと、などによるものである。すなわち、日本の侵略政策や戦争と大資本の関連を、商品輸出・資本輸出を軸に据えつつ、戦争への直接的関与も含めて明らかにする素材として、同社は最適と考えられるからである。加えて同社は戦前最大の財閥・三井財閥の中心企業であり、長く日本最大の私企業でもあった。
また、なぜ、他のアジア諸国ではなく中国に焦点を当てたかについては、日本の貿易と資本輸出において、中国は圧倒的な比重を占めるとともに、明治以降、第二次大戦末までの日本の対外政策において、一貫して主たる進出・侵略の対象国として、位置づけられていたからである。
本書の叙述は、三井物産の活動の分析が大きな部分を占めるが、しかし、本書の目的は三井物産の経営史を叙述することではない。戦争・侵略の本質と原因を、商品輸出・資本輸出・その他の企業の営為、そして資本主義そのものとのかかわりで明らかにするために、三井物産という群を抜く活動をした企業を代表・象徴させることにより、実証分析と論理の結合を意図したものである。
(二)研究史上の論点と本書の視角
本項では、なぜ、従来の研究史で財閥-大資本と日本の対外進出・侵略政策との関連が明確に解明されてこなかったかを明らかにし、それに対する筆者の論点を提示した。
 ①帝国主義と独占成立の時期をめぐって
原因の第一にあげられるのが、帝国主義を独占形成と一体のものとしてとらえたレーニンの規定が、「日本帝国主義」研究に及ぼした影響である。すなわち、レーニンは「帝国主義とは資本の独占的段階である」とした。しかし日本の場合、独占の成立は第一次大戦後と考えざるをえないが、すでにそれ以前に日清・日露戦争をはじめ積極的なアジア進出・侵略をおこなっていた。このため「日本帝国主義」研究では、対外進出・侵略の原因を、資本の要求や論理からは十分には導き出せず、それ以外の、たとえば天皇制国家権力の絶対主義的性格やそれに伴う軍部の独自性、世界史的な帝国主義段階への突入等々により説明されざるを得ぬこととなった。
本項で筆者は、レーニンの説を前提として独占形成と帝国主義的対外進出・侵略を関連づけようとする議論の立て方は、不毛であると研究史を批判した。何故なら、まず、レーニン自身が独占形成と帝国主義の成立の時期をあいまいにしているからである。レーニンは帝国主義の時代を20世紀に入ってからとし、独占の成立も、20世紀以降とはっきりと明記した。彼は帝国主義の時代を単なる植民地獲得衝動の高揚の時代としてとらえたのではなく、独占成立後における植民地”再分割”競争の時代―列国対立の時代と捉えたからである。同時にレーニンは、列国による植民地”再分割”競争の原因を植民地獲得衝動と捉えた。但し彼は、19世紀の最後の四半世紀(列国の植民地獲得が最も高揚する時期)の植民地獲得衝動と、「帝国主義」段階の植民地再分割衝動が、どう質的に異なるかを明確にしなかった。このため両者の境界はあいまいになり、両者を区別する意味がなくなってしまった。そして、このことと不可分なのだが、レーニン自身が帝国主義の時期について曖昧にし、20世紀以降といいながらも、箇所によって19世紀の最後の四半世紀も含めるという混乱に陥っている。結局、あとから成立したもの(=独占、この成立は20世紀に入ってからである)が、先行するもの(=植民地獲得衝動)の原因になるという論理構成となってしまった。つまり、独占体制の成立から帝国主義を説明しようとするレーニンの方法は誤っていると考えざるをえないのである。
筆者はこうしたことを指摘した上で、帝国主義的対外膨張の衝動は、産業革命の成熟による商品の市場獲得・確保の必要性から生まれたものであり、それは、資本主義の全時代の対外進出・侵略の衝動を貫くものであるとした。
②帝国主義と資本輸出に関連して
 財閥と帝国主義について、充分に解明されてこなかった研究史上の問題点として第二にあげられるのは、資本輸出の問題である。これは第一の論点とも不可分にかかわっている。独占段階における過剰資本の発生こそが、資本輸出を必然化し、資本輸出こそ国家の帝国主義的政策をより強力に呼び起こす-というのがレーニンの主張であると、従来、解釈されてきた。ところが、日本の資本輸出の実態を見ると、国家資本が主導して行った軍事的・政治的な借款がほとんどであり、民間の独占形成と不可分のかかわりを持つものではなかったというのが、これまでの研究史の常識であった。これが日本の対外進出・侵略の特質規定にも影響を与えた。日本の資本輸出が、国家主導・政治的・軍事的・外資依存的であったということは、日本の帝国主義も同様の性格を持ったとの根拠ともなり、ここでも資本と対外進出・侵略政策との関係を明確にしようとする研究は十分には開花しなかった。
筆者はこの論点について、資本輸出(従来の議論で前提とされてきたように借款等間接資本輸出を念頭におく。直接投資については、別の枠組みで考えねばならない)が、独占形成に基づく過剰資本によってなされるという見解はとらず、商品の輸出・決済と不可分のもの、それを補完する国際金融の一環ととらえる。世界史的に見ても、資本輸出(借款などの間接投資)は産業資本の成熟に伴い急増する商品輸出の決済には不可欠のものであり、同時に市場圏拡大の衝動とも一体のものとして展開した。また列国の帝国主義的角逐の時代には、列国の資本輸出も政治性を強く帯び、勢力圏拡大の手段としての傾向を強めた。
こうした視角を前提とした具体的な実証(財閥の借款供与に関する)については、一、二章に委ねるが、そこでの論点は以下のようなものである。財閥(三井物産)が多種・多様の資本輸出を現実に行なったこと、それは直接的な商品の輸出のためのものであったと同時に、市場圏拡大のためでもあったこと、自ら対中国投資機関を設立し、その資金を利用して中国市場で欧米資本と商品輸出や市場圏獲得のために競争をしたこと、国家の謀略的・勢力圏拡大的借款供与政策と補完し合って活動した事等を実証し、欧米帝国主義との共通性を摘出した。
 ③国家権力論とのかかわりで
財閥と帝国主義・侵略政策の関係が充分に明らかにされてこなかった理由は、上記の経済史からの論点だけでなく、戦前の「日本帝国主義論」が、革命の戦略と一体のものとして論じられたことにも原因があったと考える。昭和初期に「三二年テーゼ」などで、当面する革命の性質がブルジョワ民主主義革命であると規定されたが、それをア・プリオリに前提として、当時の日本資本主義の「現状分析」が行われ、明治維新で成立したのは封建制の色濃い絶対主義、すなわちブルジョワ民主主義革命が必要な社会と規定された。この論理の倒錯の下に、日本資本主義の絶対主義的性格が強調された。日本の「帝国主義」も軍事的・半封建的な国家機構の特殊性に根拠が求められ、対外進出・侵略政策における財閥=大資本の役割の分析が等閑視されてしまった。
また、研究史上、財閥と侵略政策の関係の解明が不十分だった別の理由としては、極東国際軍事裁判(東京裁判)の判決に代表される戦後の「二元論」的な歴史観(「穏健派」=昭和天皇・財界人・親英米的官僚等と「極端な軍国主義者」に二分し、後者に戦争責任を集中させる)が果たした役割も大きい。江口圭一氏の1980年代以降の論理も、二元論的歴史観の到達点である。
こうした論理に対する筆者の批判点としては、まず、こうした論では財閥が明治以来、きわめて積極的にアジア・中国に進出したこと、とくに中国が日本資本主義と財閥にとって、いかに不可欠の存在であったかが論理に組み込まれていないこと指摘した。議論の前提として何よりもまず、財閥資本が明治以降、どのようにアジアに進出し、侵略政策とかかわっていったかを発掘・検討する必要があり、本書では、これを各章で実証する。
また、「二元論」的歴史観の経済的根拠となっている日本経済と財閥の二面性(英米への依存性とアジアへの侵略性)についても、二面性を強調する論者は、二面性と言いながらも、大資本の英米依存性を「一面的」に強調していること、また、日本資本主義と資本の「二面性」なるものも、1920年代にはどう変化していくのか、あきらかにする必要があることなども指摘した。この点については、とくに第五章で検討・実証した。また財閥がアジア進出・侵略と対英米協調の課題を、どちらか一方ではなく両者を常に追求し続けたことなども、主として第五章で、またその他の章でも明らにした。

以下、順に章を追って梗概を明らかにする。
第一章 明治期の三井物産の対中国進出
第二章 大正期の対中国借款と三井物産
両章では商品輸出市場としての中国が三井財閥と日本資本主義にとってどのような意味を有したか、資本輸出(借款供与)が商品輸出や国家による政治的・経済的介入とどのように関連していたか明らかにした。第一章では、明治期の三井物産による中国への進出と、それと一体となった借款供与について、第二章では第一次大戦中・後の三井物産の中国進出と対中国借款との関わりを論じた。両章での具体的な論点は以下のようなものである。(1)明治から大正期にかけて三井財閥が極めて積極的に中国に対する借款供与をおこなっていたことを、資料発掘によって明らかにする。(2)その借款は産業資本確立期の市場獲得要求にもとづいたものであり、重工業資本(軍工廠を含む)の製品の売込や支配市場圏そのものを形成・拡大するという列国帝国主義と共通の性格を持ったものであった。(3)借款供与はまた、中国市場をめぐる列国資本との苛烈な市場競争の中で起きたものであり、列国との商品輸出競争と不可分のものであった。(4)しかし、支配を強めることができた市場圏は、日露戦争の結果獲得した「満州」(以下「 」は略)市場だけであり、中国本部では大きな困難がつきまとった。(5)借款と一体となった対中国進出策は、第一次大戦期から1920年代にかけての列国相互の牽制と中国の政情不安定・民族的抵抗によって破綻していった。
具体的な論述としては、第一章・第一節でまず、日本資本主義にとっての中国市場の位置付けをおこなった。1873(明治6年)以降1945(昭和20)年までの日本の輸出を相手地域別に明らかにし、中国(含香港)が全輸出のほぼ、三分の一を占め、輸出相手国として第一位の年度も多かったこと、同市場では綿製品を中心とする産業革命後の工業製品が中心であり、それ故に日本資本主義の発展にとって格別に大きな意味を持ったことなどを概観した。また、中国市場が、日本資本主義全体にとって有した意義以上に、三井物産にとって大きな意義を有したこと、日露戦争の勝利による満鉄の獲得と、満州を支配圏におさめたことが、中国の市場としての価値を大きく高めたことなども指摘した。三井物産が対欧米輸出を開始した満州の大豆は、あたかもイギリスにとってのインドにおける綿花のように、現地の農民に購買力(日本からの綿糸布輸入に対する)をつけることによって市場としての満州の意義を飛躍的に高め、それは、ひいては中国全体の位置づけをも高めることとなったのである。
第一章・二節以下では、三井物産の中国への商品輸出と、それと不可分に結びついた借款(同社及び国家、その他機関による)供与について明らかにした。すなわち、三井物産は、列強の中国に対する利権獲得競争が始まるのと同時期に、国家政策と一体となって積極的に中国に進出した。その輸出商品は、日露戦争前では主として石炭・綿製品であり、日露戦争後は、武器や鉄道関連製品(レール、貨車、機関車、枕木など)などの、支払いが巨額におよぶ重工業製品も加わった。ここに中国への借款供与の必要が生まれ、また対中投資機関を三井自らが中心となって作った必然性があった。そして、こうした商品売込の目的は、直接的な商品販売そのものにとどまらず、経済的支配圏拡大と一体のものでもあった。たとえば鉄道関連用品の売込は、中国での鉄道利権獲得の運動と一体となっており、鉄道敷設権獲得競争に割り込もうとしたものであったし、武器輸出も、武器の売込を通じて中国の中央・地方の政権と結びつきを深め、利権獲得を有利に導こうという意図もあった。利権獲得の最終目標は、排他的勢力圏の獲得であった。明治末に中国で辛亥革命がおこり、政局がきわめて流動的となった時、三井物産は革命派と結びつき、彼らを援助することによって少ない資金で、包括的な利権を獲得しようとした。しかしこうした少額・小手先の借款供与では、それは不可能であり、かろうじて支配力を強めた市場圏は、国力を賭して武力で獲得した地域-満州だけであった。
また、こうした三井の行動は国家の政策と一体となって行われたが、それは従来評価されてきたような「国家に従属」し「国家の代理」として行なった活動いうより(むろん、そうした場合もあったが)、国家と連携をとりつつ、時には三井の行動を国家が事後的に承認し、それを政策に組み込むという形で展開されたものもあった。そして時には国家資本との相剋すらあった。
以上、第一章では、このように、明治期の国家の対中国進出政策と三井財閥の利害・行動との関連を明らかにした。
第二章では、第一節で、第一次世界大戦中から1920年代にかけての商品取扱いの動向を概観した。また大戦中の同社のきわめて積極的な対中国進出戦略について叙述すると共に、しかし一方では日本国内の資本との競合問題も浮上し、中国進出がもはや三井の独断場ではなくなっていったことも概観した。第二節では、第一次大戦中の列国の角逐と中国の政権の不安定化の中で、西原借款のごとく包括的かつ「投資基盤整備」的な、巨額の、したがって国家資金による借款が浮上せざるをえない必然性があったこと、また、中国での日米対立・角逐が前面に出てくることをまず明らかにした。そして、同時期の三井物産の、一見活発な対中国進出・投資とは裏腹に、その借款のほとんどが重工業製品の代金未回収に伴うものであり、対中国進出が困難な問題を抱え始めたことを明らかにした。第三節以下では、鉄道借款、通信借款、武器輸出をめぐる借款その他について、具体的に明らかにした。鉄道借款では、かなりの借款が成立するが、それは中国の政情不安定と支払いの悪さに起因するものであり、三井物産は第一次大戦末期にはすでに中国鉄道への商品販売に警戒的であったことを指摘した。また、通信借款では、三井以外の住友や古河などの活動も解明する中で、メーカーの商品輸出と借款供与の関連も指摘した。いずれにせよ、日本の対中国借款が、重工業品の輸出と借款供与という欧米の借款と共通の特質を持つこと実証した。そしてまた、商品輸出と借款供与という形での中国進出が、この時代に次第に不可能になっていく過程を明らかにした。
第三章 第一次大戦期の対ヨーロッパ資本輸出と武器輸出
本章は、第一次世界大戦中に、日本がヨーロッパ、とくにロシアに対して行った武器輸出について取り上げた。これは、この武器輸出が中国支配策と不可分のものであったこと、重工業製品の輸出とその決済にまつわる借款という意味で列国の資本輸出と共通の本質を持つものであること、武器輸出という従来ほとんど知られていないが、日本資本主義の特質を特徴的にあらわす事柄であることなどの理由から取り上げた。本章の主要な目的は、第一次大戦期の日本の資本輸出の本質を明らかにしようとするものである。第一次大戦期の対ヨーロッパ資本輸出は、従来過剰資輸出の典型とみなされてきたが、本章では、その多くが武器輸出に伴うものであったこと、つまり武器という重工業製品の輸出とそれに伴う決済と不可分の資本輸出であったことを明らかにし、第一次大戦期の資本輸出すら、過剰資本からの論理では十分には解明できないことを指摘した。なお、三井物産との関わりで言えば、この武器輸出は三井物産が泰平組合の一員として行ったものであること、軍工廠と三井物産とは軍需品の製造者とその海外輸出者として強い関係が、古くからあったこと等がある。
具体的論述としては、第一節では、武器輸出の概要とその量を明らかにした。武器輸出の実態は、貿易統計などには掲載されないために、今までは不明であったが、きわめて大量、多種であったことを論じた。
第二節では、武器輸出、とくに対露小銃輸出の政治・外交過程について分析した。すなわち、対露小銃輸出は、あまりに大量の輸出であったため、日本の軍工廠の製造能力をはるかに超えたものであったこと、このために予備役用のみならず現用の銃までも割譲して強行されたものであったこと、その背景には、山県有朋を中心とした元老の日露同盟構想―中国支配をめぐって日露が手を結び、英米に対抗しての攻守同盟を締結するという―があり、元老による国内政治への強力な介入と強引な活動の結果、強行されたものであったことなどを明らかにした。すなわち「武器」という日本の最大の重工業製品は、輸出品としてはあまりに政治性がつきまとわざるをえず、その「政治性」とは、中国支配策と不可分であったこと、それは第三節でも見るように「経営体」としての軍工廠にとっても大きな負担を課すものであったこと、などを含めて解明した。
第三節では、武器輸出にあたっての軍工廠の経営実態を、資料発掘のもとに明らかにした。第四節では、対ヨーロッパ債権の概要を当時の金融情勢とともに論じ、当時、物価上昇と通貨膨張があったが、金利(コールを始め短期の)は高止まり状態にあり、資金過剰とは言い難い状況にあったこと、巨額の入超・片為替状態の中でも、輸出振興策がとられたこと、政治的な要因が大きな圧力となって破格の武器輸出が強行されたことが、対ヨーロッパ(とくに対ロシア)資本輸出の主たる要因であったことなど解明した。すなわち、過剰資本による本格的な資本輸出と捉えられている第一次大戦期の資本輸出も、貿易の決済の一環として、まず位置づけられるべきものであったことを論証した。
 なお、一から三章は、研究史とその問題点の②と①に対応した筆者の見解の実証にあたるものである。
第四章 昭和初期対中国政策と経済界
第五章 三井財閥と田中内閣期の対外政策―対中国と対英米 
四章と五章では、満州事変にいたる中国への武力干渉・侵略の開始期において、経済界はいかなる中国政策を求めていたか、また、その中で三井財閥の意図はどこにあったかを検討した。同時に、従来の研究史で論じられてきたような日本資本主義の二面性とそこからくる財閥の英米への依存や、対外政策における財閥の対英米協調姿勢なるものの実態についても検討した。なお第四章と第五章は一連のものとして読まれるべきものであり、第四章は経済界全体の意向を対象とし、第五章は三井財閥により即した分析となっている。満州事変にいたる三井物産・三井財閥の独自の利害関係については第六章も合わせて読んで頂きたい。なお序論の問題意識との関係では、「研究史とその問題点」の、とくに③での筆者の見解を実証するものである。
なお、この第四章、第五章は、第一~三章とは分析の基軸と言うべきものに違いがある。すなわち、これら両章は三井物産の経営とぴたりと照応させた分析ではなく、中国の民族運動や日本の対外政策を分析の基軸にすえている。つまり本格的な軍事侵略を開始する時期については、単なる個別企業や商品輸出の利害からだけの分析では不十分である。それは「既得の市場圏擁護」や、ひいては「資本主義擁護」の課題が、それに抵抗する勢力と全面的に激突する時期であり、こうした時期に軍事的手段をいつ、どのような形で行使するかということは、きわめて政治的、軍事戦略・戦術的な次元の問題になるからである。従って両章も政治的・軍事的な側面の分析が不可欠となり、日本の政治・軍事戦略的側面と中国の民族運動の対抗を基軸を据えた上で、経済界全体の、そしてその後に三井財閥の対中国政策への意向を分析するという方法をとった。
第四章では、対中国政策のために結集した日華実業協会の1925年以降の声明や活動を取り上げ、同協会が中国の国民革命=北伐に対して徹底した対決姿勢をとり、政府に対して、武力行使を含む強力な抑圧政策を要求し続けた事実を明らかにした。その際一貫してイギリスとの共同による武力干渉を主張し続けたことは注目に値する。日華実業協会には在中国企業も多く結集していたから、手っ取り早くイギリスと提携して(イギリスは中国の民族運動で最も打撃を受けたため、武力干渉する可能性ももっとも高かった)、運動を弾圧することを望んだのである。そして、その主張をもっとも的確に体現したのは、関東軍であったことも興味深い。いずれにせよ、国民革命において中国共産党の勢力が強い時期にはとりわけ、日本の経済界は一致して、徹底して中国の民族運動に強硬姿勢で対抗することを主張し続けたのであった。
第五章では、三井財閥がどのような対中国政策を志向したのか、とりわけ国民革命から「満蒙の特殊権益」を守ることと対英米への配慮をどう両立させようとしていたかについて考察し、その両立が不可能になっていったのは何故かについても明らかにした。その際、一資本がこうした問題を発言することはほとんどないため、「軍部寄り」と一般的に思われている田中内閣の対中国政策と、三井財閥の意図との異同を探るという形で課題を設定した。分析は1927年秋に起きた満州へのアメリカ資本導入問題に焦点をあてた。なぜこの問題をとりあげたかと言えば、経済界の「二面性」にかんする通説―、すなわち日本資本主義にとっては英米からの外資導入がの死活問題であったがゆえに、日本は外交面でも英米への追随を余儀なくされたが、特に財閥は英米との協調を志向したため、対中国強硬策には消極的であったという論を検討したいためである。
第一節では、田中内閣成立時の三井財閥とのかかわりを検討し、「対中国強硬」「軍部寄り」「英米と対立的」と評される田中内閣が、その成立において三井財閥とさまざまな形でかかわっていたことを論証した。第二節・第三節では、満鉄への外資(アメリカ資本)導入をめぐる政治過程を検討し、それが日本の対英米追随外交を余儀なくさせ(そのために中国への強硬策を差し控えさせ)るような質のものであったかどうかを検証した。米国・モルガン財閥に満鉄社債を引きうけさせることは、三井財閥総帥・団琢磨にとっても元三井物産重役・満鉄社長・山本条太郎にとっても、田中首相にとっても、単に満鉄の資金調達という意義以上に、日本の対満州政策(国民革命から満州を切り離すという強硬策)を米国に支持させる、あるいは中立をとりつけるという観点から重視していたことを明らかにした。そして第四節では、満鉄の資金調達全体や日本の外資導入全体を概観するとともに、田中首相の英米への態度(米国重視)と、英米間の角逐(中国支配策と日本をめぐっての)を明らかにした。こうした中で外資導入問題(1927年段階における)は、自立した帝国主義国間の交渉や外交的駆け引きに属するものであり、日本資本主義の対英米従属を経済的に象徴するものと捉えるべきではないことを明らかにした。そしてまた対英協調と対米協調は別であり、この時期において「対英米協調」策と一括すべきではないこと、田中首相(日本政府)や三井財閥は、むしろ対米協調である事も指摘した。全体として、「二元的」歴史観のように、「対英米協調路線」と「対中国強硬路線」が対抗して存在し、それを人格的に体現したのが、一方は団琢磨のような財界人であり、もう一方が田中首相のような強硬派の政治家や軍人であったという認識は誤っていること、両者は権力中枢にあっては、常に一致して追求されたこと、またその両立を破綻させたものこそ、中国民族運動の力であったことを明らかにした。
 第六章 昭和初期の対満州軍閥政権・蒋介石政権と三井物産
 第七章 戦時下の三井物産
 1930年代に日本がなぜ中国への武力侵略を行ったかということは、何よりも第四章で論じた中国の国民革命の動向に規定されていたのだが、三井物産としては、満州の軍閥や蒋介石政権とどのような利害関係にあったのか、それは侵略政策とどうかかわっていたのかを検討したのが第六章である。また第七章では、戦時下の三井物産の活動を分析し、戦争において同社の果たした役割を明らかにした。両章では、昭和期の三井物産にとって満州、中国がいかなる経済的意義を有していたのか、それが満州の軍閥政権や国民政府の経済基盤と、どのように対立せざるをえなかったか、日中全面戦争下での三井物産の収益の基盤がどこにあったかを考え、 これによって満州事変や華北侵略、日中全面戦争という日本の侵略政策を、軍部の独走や天皇制国家権力の特殊性などの側面からではなく、資本の直接的な利害と経済的な側面からも捉えることを企図した。
まず第六章では、第二節で1920年代後半から満州で張作霖などの軍閥政権と三井物産の間には、大豆取引をめぐって軋轢が生じていたことを明らかにした。すなわち大豆取引は三井物産の満州での活動の中心であったが、1920年代後半になると、満州の軍閥政権(張作霖など)が不換紙幣の乱発を行い、不換紙幣貸与を媒介として現地の大豆穀物問屋を組織し、農民からの買い付けを独占し、あげくは輸出まで軍閥自身が行おうとした。張らは、こうして得た資金を軍閥間抗争や中国関内への進出のための軍事費に費やし、満州の治安はこのためにきわめて不安定となった。このように本節では張作霖・張学良政権と三井物産との経済的利害・対抗を明らかにするとともに、日本による満州直接支配を歓迎する意向を財閥も抱き始めていたことを論じた。第三節では、中国本土でも、蒋介石政権の関税引き上げ政策・民族産業保護策によって三井物産の商品輸出は大きな隘路に直面したこと、そうした状況下に日本軍によって組織された冀東密貿易は、蒋介石政権の財政基盤をゆるがすものであったが、この冀東密貿易に三井物産も参加していたことなどを論じ、軍事力による支配圏確保(中国支配)へと、財閥も傾斜を強めていく過程を明らかにした。
 第七章では日中戦争以後のアジアでの三井物産の商品取引、企業進出を明らかにし、同社が日本軍に代行して、中国を軸とする「大東亜共栄圏」の物資移動をにない、接収企業の経営を請け負い、中国農民からの食糧収奪の先頭に立ち、アヘン取引に加担し、侵略と占領地統治・兵站活動を支えたことを明らかにした。中国支店の比重は海外支店のうちでは圧倒的な比重(太平洋戦争開始後は85%以上)を占めたのみならず、国内取引を入れても総取引高の半分以上が中国支店のものであった。それほどに、日中戦争と中国の比重は三井物産にとっても大きなものとなり、また、巨額の利益を獲得する場となっていった。一方、日本軍にとっても三井物産なくしては、戦争(物資争奪戦)と占領地統治の遂行は不可能であり、その相互依存の仕組みを明らかにした。
 
以上、本書では、明治初頭以降、第二次世界大戦末までの三井物産と中国の関係を論じ、同社が一貫して、中国への帝国主義的進出に主体的に関与したこと、それは欧米列国資本と基本的に同質の利害に基づくものであったこと、その進出自体の中に中国国民との矛盾を激化させる要因を孕んでいたこと、三井財閥と三井物産は、欧米、とくに米国との協調を常に追求したが、同時に中国での権益確保のためには強硬策も辞さなかったこと、満州侵略や華北侵略は同社にとっても好ましいものであっただけでなく、関与すらあったこと、日中全面戦争以降には、物資争奪戦(アジアでの戦争は、物資確保戦そのものであったが)の中心となって活動し、戦争そのものを闘ったこと、などを明らかにした。 

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