博士論文一覧

博士論文要旨

論文題目:環境学と平和学の関係についての一考察
著者:戸田 清 (TODA, Kiyoshi)
博士号取得年月日:2006年4月12日

→審査要旨へ

1.本論文の問題意識

 本論文は、地球環境危機、新自由主義的グローバル化のもとでの南北格差・貧富の格差の拡大、そして浪費的文明の継続と抵抗抑圧のための新保守主義的な軍国主義化にみられるような、資本主義世界システムの危機の時代において、ガルトゥング平和学の視点から現代の特徴的な諸問題を考察し、環境学と平和学の連携のための基礎的な視座を提示することを目的としている。
 本論文は、世界システム論をベースとした歴史認識を前提としており、現代を、16世紀に始まる資本主義世界システムが、20世紀に成立する「アメリカ的生活様式」(人類全体に普及できず、22世紀の世代に継承できないという点で、普遍性を欠いている)を「模範」とする世界社会として爛熟し、自然と人間の関係、人間と人間の関係の危機のもとにあると考える。
 15~16世紀の新大陸侵攻(インカ、アステカ征服)に始まる「ヨーロッパの膨張」は、17世紀科学革命、18世紀産業革命を経て、ヨーロッパ文明(米国やカナダも含む)の近代世界システムにおける優位が確立される。そして、20世紀に米国で大衆消費社会(大量採取、大量生産、大量消費、大量廃棄の「アメリカ的生活様式」)が成立する。他方、ヨーロッパ文明は17~18世紀の市民革命を経て封建社会から近代民主主義社会へ移行し、20世紀には男女普通選挙権が一般化して、「大衆民主主義」の時代となる。
ケインズ主義的福祉国家の財政危機と石油ショックを経て、西側世界は、1970年代から、「ピノチェット(チリ)・サッチャー・レーガン・中曽根」に代表される「新自由主義の時代」に入る。第三世界では1982年のメキシコ債務危機を皮切りに累積債務の時代に入る。ソ連型社会主義の崩壊を経て「新自由主義的グローバル化」の時代になり、世界銀行・国際通貨基金・世界貿易機関も、「米国を盟主とする集合的帝国主義」が第三世界を管理する機構としての性格を強めた。
19世紀~20世紀の民族主義運動と社会主義運動に代表される反システム運動は、近代世界システム(資本主義世界経済)の構造を変えることができなかった。反システム運動の挑戦を退けた近代世界システム(米国を盟主とする集合的帝国主義のヘゲモニー下にある)は、内部の困難を克服できないことによって、5世紀の歴史をもつ史的システム自体の危機に至っている。石油文明(核文明を含む)が持続可能でないことによる「自然と人間の関係の危機」(環境および資源問題)であり、「アメリカ的生活様式」が文字通り普及すれば数個の地球が必要となることからくる「南北格差の危機」(貧困問題)であり、民主主義と豊かな社会の普遍性を主張しながら、豊かな社会(大衆消費社会)は持続不可能で現世代にも普及できないため不平等を維持するため地球規模の民主主義も導入できないことによる「正統性の危機」である。環境破壊も南北格差も構造的暴力であり、資源消費格差(浪費と貧困の共存)を維持するために構造的暴力(先進国主導の国際機関による第三世界の支配)だけでなく、直接的暴力の発動(イラク侵攻に見られるような武力行使)までが「必要」となる。「新自由主義的グローバル化」に対置されるものとして、スーザン・ジョージのいう「グローバル正義」が求められており、環境正義(受益と受苦の公平および民主的な意思決定)もその不可欠の一環である。
以上のことから、自然と人間の関係および人間と人間の関係の両面から見て「公正で持続可能な社会」の構築のために、環境学および平和学の視点からの考察を総合することが不可欠となる。そのための課題の一端を解明することが本論文の課題であり、問題意識である。
なお本論文は、戸田清『環境学と平和学』(新泉社,2003年)から、死刑、冤罪、テロなどの章節を除き、新たな視点を加えて、再構成したものである。なお、同書の図表すべてを本論文の末尾に資料として収録した。

2. 本論文の各章の要旨

「第1章 はじめに」では、本論文の問題意識について述べた。エジプト出身のサミール・アミンが言うように、資本主義は当初から帝国主義的であり、①重商主義(新大陸征服)、②産業資本主義(アジア・アフリカの分割)、③米国を盟主とする集合的帝国主義(新植民地主義)、に大きく時代区分される。②の時代に確立された石炭文明は、③の時代に石油文明として爛熟し、その構成要素として核文明を内包するに至った。いわゆるアメリカ的生活様式が世界に普及すれば、「5個の地球が必要」と言われるほどの資源浪費的性格であり、また地球環境危機を招いている。先進国の浪費(第三世界の貧困と表裏の関係)を維持するために武力行使まで発動される。自然破壊的で不平等な社会を自然調和的で公平な社会へと変革するための諸条件を、環境学と平和学の視点から探究すべきであるというのが、本論文の問題意識である。
「第2章 理論的前提」では、本論文の理論的な前提であるウォーラーステインの「世界システム論」とガルトゥングの「平和学」について説明した。
ガルトゥングは1969年に「直接的暴力と構造的暴力」の概念を提唱し、1980年代に「文化的暴力」を付け加えた。暴力とは、生命健康などが人為的に制約されることである。戦争や殺人のような直接的暴力においては、加害の意思をもった行為によって生命や健康が侵害される。差別、不平等、飢餓、抑圧、環境破壊のような構造的暴力においては、必ずしも加害の意思がなくても(未必の故意のような場合は少なくないが)、社会の構造(利益優先の制度化など)によって生命や健康などが制約される。文化的暴力とは、直接的暴力や構造的暴力を正当化する言説などを言う。資源消費の南北格差にみられるような受益の不公平は、発展途上国の人々、特に最貧国の貧困層の福祉の実現可能性を妨げるものであるから、「構造的暴力」である。先進国の生活様式を地球全体に普及すれば、エコロジカル・フットプリント分析などが示唆するように「数個の地球」が必要になる。資源消費の南北格差を日常的に維持するのは経済力の格差であるが、「力を用いてでも不平等を維持する必要がある」というジョージ・ケナンの主張(1948年)に示唆されるように、要所において「直接的暴力」の発動、典型的には軍事力の行使が必要になる。ユナイテッド・フルーツの利権を守るための中米軍事介入などにみられるように、これは独占資本の海外投資や利益を守るという形で行われることが多い。こうした「直接的暴力」と「構造的暴力」を正当化したり放置したりするために動員される言説などは「文化的暴力」である。
植民地支配という構造的暴力を成立させたのは直接的暴力であり、今日の新植民地主義を維持するためにも要所において直接的暴力が発動される。植民地支配の時代(16世紀~20世紀前半)の先進国は「列強帝国主義」として「帝国主義間戦争」に至ることも多かったが、新植民地主義の時代(20世紀後半以降)においては、「米国を盟主とする階層をなした帝国主義」、「集合的帝国主義」という特徴があり、世界銀行、IMF、WTO、G7サミット、三極委員会などにみられるように「帝国主義間協力」が支配的である。
世界システム論は近代世界システム(資本主義世界経済と国家間システム)を分析単位とするものであり、16世紀に始まる近代世界システムは、20世紀末からシステムの危機(次の史的システムへの移行の時期)に入ったと考えられる。次の史的システムが抑圧的なものとなるか、解放的なものとなるかは未決定であり、21世紀前半の人々の行動に大きく左右される。環境破壊と戦争の時代(近代世界システム)から環境保全と平和の時代(次のあるべき史的システム)への移行戦略を考える際に、世界システム論の枠組みが有益である。
「第3章 環境正義」では、グローバル正義の重要な構成要素である環境正義について説明した。環境正義には実体的側面と手続き的側面がある。実体的側面は、goods(環境資源の利用による受益)とbads(環境汚染、自然破壊による受苦)の公平な分配をはかることである。受苦は生物的弱者、社会的弱者に集中する傾向がある。受益はもちろん、短期的なものではなく、長期的(持続可能)なものでなければならない。受益の不公平の典型は、「世界人口の2割を占める先進国が世界消費の8割を占める」といわれる南北格差(8章)の問題である。米欧日には「大量採取、大量生産、大量消費、大量廃棄」の「大量浪費社会」)が形成されており、これは20世紀初頭以来の「アメリカ的生活様式」(5章)を模範としている。他方、発展途上国には大量貧困・飢餓がみられる。もちろん先進国にも「米国のブラジル化」「米国の第三世界化」に代表されるような貧困があり、途上国の支配階層は浪費をしている。手続き的側面は、goodsとbadsの公平な分配をはかるための意思決定への市民参加、情報公開と説明責任、世界システムの民主化などである。
「第4章 環境社会学と平和」では、環境社会学に平和学の視点を明示的に組み込む必要性について検討する。また、ギデンズの「近代社会の4つの制度特性」(資本主義、産業主義、暴力、監視)は、現代社会の認識として適切であるが、集合的帝国主義に対する歯止めにならなかったことを指摘した。
「第5章 アメリカ的生活様式」では、近代世界システムにおける自然と人間の関係の危機をもたらした生活様式について述べた。18世紀英国産業革命がもたらした石炭文明は、20世紀初頭の米国における大衆消費社会の成立によって石油文明へと移行した。20世紀後半には、石油文明の重要な構成要素として核文明が加わる。「原子力は石油の缶詰」であるから、核文明は石油文明にとって代わる次の段階ではなく、あくまで石油文明の構成要素である。環境正義の受益における不公平の典型は、「世界人口の2割を占める先進国が世界消費の8割を占める」といわれる南北格差の問題である。米欧日には「大量採取、大量生産、大量消費、大量廃棄」の「大量浪費社会」)が形成されており、これは20世紀初頭以来の「アメリカ的生活様式」を模範としている。あわせて、石油文明の黄昏を示唆する「石油ピーク」について言及した。
「第6章 直接的暴力・構造的暴力・文化的暴力」では、先述したガルトゥングの直接的暴力・構造的暴力・文化的暴力の概念を再度整理した。あわせて、いわゆるデモクラティック・ピース論が長期的には妥当であるが、短期的には文化的暴力(「民主化のための戦争」の口実)として機能することを指摘した。あわせて、構造的暴力としての二重基準について検討した。
「第7章 構造的暴力としての環境破壊・資源浪費」では、資源環境問題が構造的暴力として把握されることについて論じた。資源消費の南北格差にみられるような受益の不公平は、発展途上国の人々、特に最貧国の貧困層の福祉の実現可能性を妨げるものであるから、「構造的暴力」である。先進国の生活様式を地球全体に普及すれば、「エコロジカル・フットプリント分析」などが示唆するように「数個の地球」が必要になる。すなわち、世界中が平均的日本人並みの浪費をすると2.4個の地球が、平均的な米国人並みの浪費をすると5.3個の地球が「必要」になると試算されている。「エコロジカル・フットプリント分析」を紹介し、また「環境経済学」と「生態経済学」を比較した。さらに、農薬の大量使用および農薬の軍事利用の関連が現代社会の暴力を考えるうえで重要との観点から、「ベトナム枯葉作戦」について検討した。
「第8章 南北問題と資源環境問題」では、資本主義500年の歴史をふまえて、資源消費、環境負荷、保健指標などの面における南北格差について検討した。世界銀行・IMFは大口出資国である先進国の意向に左右され、累積債務国に勧告(事実上強制)される「構造調整プログラム(SAP)」は、発展途上国に失業率上昇、医療制度の衰退、乳幼児死亡率の上昇、一次産品の過剰輸出による環境破壊などをもたらしてきた。WTO体制のもとでは食品の安全基準はWHO・FAOの合同食品規格委員会(コーデックス委員会)の勧告が尊重される。米欧日の多国籍企業の意向が反映され、安全基準が緩和される。先進国支配、とりわけ大企業と強国の政府の利益が大きな位置を占めることになる。年間一人あたりの穀物消費は米国人が800キロ、イタリア人は400キロ、中国人は300キロ、インド人は200キロである。これは家畜の餌としての間接消費が多いからである。豊かな20%(約12億人)は世界の紙消費の8割以上、自動車保有の9割近くを占めている。いわゆる「医薬品アパルトヘイト」も、構造的暴力の一例であろう。発展途上国の患者にとって有用な薬が、採算がとれないという理由で製造や開発を中止される(熱帯感染症)。高価な新薬が、購買力の乏しい途上国の患者には使われない(エイズなど)。「購買力の裏付け」のないニーズが軽視される典型的な事例である。エイズ患者・HIV感染者は発展途上国に集中しており、世界で年間約300万人死亡するがその多くは途上国の人々である。先進国では三剤併用療法で死亡率が低下したが、高価なため途上国ではなかなか受けられない。
「第9章 水俣病および石綿問題と構造的暴力」では、水俣病および石綿問題を構造的暴力の視点から考察した。2004年の水俣病関西訴訟最高裁判決は事件史の流れからみて画期的なものであるが、1957年以降食品衛生法を適用せず汚染を放置した行政の行為が結果的に是認された。同判決で水俣病認定の52年(1977年)判断条件が間接的に批判され、日本精神神経学会は1998年以来、同条件が科学的に誤りであると指摘しているが、行政は同条件の見直しをしないとしている。これは被害者救済および予防的環境政策を妨げるものであり、構造的暴力である。石綿が職業癌の原因であることは遅くとも1950年代以降明らかであり、職業病にとどまらず公害病でもあること(工場周辺住民に健康影響をもたらすこと)は遅くとも1960年代以降明らかであった。にもかかわらず行政(特に日本の行政)の対応が遅れたことは構造的暴力である。
「第10章 麻薬問題と煙草問題」では、構造的暴力としての麻薬問題および煙草問題を論じた。麻薬の販売は利益が目的であるが、消費者の生命健康影響を承知のうえで行われる未必の故意であるから、構造的暴力と言える。喫煙関連疾患の生じる蓋然性が高い(肺癌、喉頭癌などでは相対危険度が非喫煙者の5倍以上、また肺癌への喫煙の寄与危険度は男性で7割以上)ことを承知のうえで販売促進活動を行っているので、「未必の故意」であるといえる。市民団体は、煙草会社を「もうひとつの死の商人」と呼んでいる。また、アヘン戦争以来の英国、中国侵略を行った日本、麻薬により秘密工作資金の捻出などに走った米国に見られるような、国家の麻薬利用も構造的暴力である。煙草はニコチン依存症をもたらすものであり、広義の麻薬である(ヘロイン、コカインなどが狭義の麻薬)。煙草の販売は利益が目的であるが、喫煙関連疾患による死亡が世界で年間500万人と推定されるなど、多大な生命健康影響を承知のうえで行われる未必の故意であるから、構造的暴力と言える。また、日本財務省や米国通商代表部に見られるような国家による煙草産業支援も構造的暴力である。
「第11章 遺伝子組み換え作物」では、生命工学の商業化における構造的暴力の側面が重要であることについて論じた。遺伝子組み換え作物(GMO)は、その有効性(世界の食糧問題の解決に役立つか?)、必要性(仮に有効性があるとしても、他に選択肢があるならば、必要とは言えない)、安全性(生態系への影響を含む)において、未解決の課題をかかえている。民間企業による遺伝子組み換え作物(GMO)の利用は除草剤耐性作物および害虫抵抗性作物に著しく偏っている。除草剤耐性作物は、農薬の使用量は減るとしても(増える場合もある)、残留量は増えるものである。各国の行政が残留基準を緩和(日本では大豆のグリホサートを6ppmから20ppmへ)したことも、残留量の増加に対応したものである。また自社の除草剤への抵抗性を付与するものであるから、除草剤と除草剤抵抗性作物をセットで販売することによって企業の売り上げを増進する。害虫抵抗性作物も、有効性(耐性害虫にどう対処するかなど)や安全性に未解決の問題をかかえている。またカナダのシュマイザー裁判などに見られるように、GMOの花粉が風や昆虫によって近隣の畑に飛散して非組み換え作物と自然交配したような「不可抗力」の場合まで、その農民を知的財産権侵害で提訴する方針を企業はとっている。この知的財産権侵害の主張が法廷でも認められるなど、司法制度でも大企業に不当に有利となっている。現在のGMOの開発利用のあり方は、構造的暴力の要素をはらんでいるといえる。
「第12章 ジェンダーと医療」では、ジェンダーにかかわる医療において構造的暴力の側面が重要であることについて論じた。ヨーロッパでは16世紀まで「分娩いす」が用いられていたが、17世紀フランスのルイ14世の宮廷で、現代西洋医学で多数を占める「仰臥位方式」が導入された。導入の動機は医学的な理由によるものでなく、ルイ14世が「覗き見」をしやすくするためであった。これは「重力にさからってうむ」ものであり、妊婦にとっても不便なものであり、医学的合理性についても一部の産科医から疑問の声があげられている。現代の産科医療では、妊婦の都合ではなく病院側の都合によって、正月、クリスマス、夜間の分娩が回避される傾向が強く、そのために陣痛促進剤が使用されることが多い。医薬品の「医学的適応」でなく「社会的適応」である。陣痛促進剤は個人差が大きく薬害が起こりやすい薬であり、妊婦や胎児への悪影響が観察された事例は少なくない。このような「乱用」は望ましくない。避妊用ピルの認可は米国で1960年、日本は1999年で、多くの国ではそのあいだに認可されている。米国では認可に先立って、プエルトリコで大規模な人体実験が行われた。また、では不妊手術も乱用された。このような事例には、構造的暴力の要素が含まれていることは否定できない。
「第13章 国家・国際機関と構造的暴力」では、国家や国際機関がもたらす構造的暴力について論じた。湾岸危機(1990年)からイラク戦争(2003年)までのあいだ、国連のイラク経済制裁が行われた。医薬品・医療器具不足、栄養不良などにより100万人以上が制裁の影響で死亡したとユニセフやイラク保健省によって推定されており、その半分以上は子どもである。劣化ウラン汚染も健康悪化に寄与したと思われる。ユニセフの衛生統計を見ても、この期間にエジプト、イラン、日本などほとんどの国で乳幼児死亡率が減少しているのに、イラクでは増加しているのは、制裁の影響である。国連すなわち各国政府はイラクの子どもたちへの加害を意図したわけではないが、結果的に子どもをはじめ多くの国民の生命健康が害されており、それはかなり初期から予想できるものであった。構造的暴力の要素が大きいといえる。
「構造調整プログラム(SAP)」は累積債務国への政策勧告である。勧告を受けた多くの国で、乳幼児死亡率の増加、感染症の増加、輸出促進による資源の乱開発や自然破壊などが見られており、健康、環境、福祉の面での悪影響が指摘されている。世界社会フォーラムの場などで市民団体や研究者がそうした観点から批判しており、構造的暴力の要素が大きいといえる。
「第14章 民間企業と構造的暴力」では、軍需産業、煙草産業、農薬産業、インド・ボパール事件、医薬品産業、食品産業、水道民営化などを構造的暴力の事例あるいは、構造的暴力の要素を含む事例として検討した。軍需産業は戦争の工業化(殺人の工業化)の物質的基盤を営利目的で提供している。米国の化学企業ユニオン・カーバイドのインド子会社で1984年に起こったボパール事故は史上最悪の産業災害で、2万人以上の死亡をもたらした。米本国の工場に比べて安全管理が杜撰だったためである。医薬品産業では1970年代に、先進国では適応を医学的に正当なものに限定しているが発展途上国では濫用を促すとともに副作用情報の提供は不十分であるという多国籍企業の販売政策が批判された。世界銀行などの新自由主義政策のもとで1990年代からすすめられている「水道の民営化」は特にフィリピンなど発展途上国の貧困層を水道料金値上げで直撃し、衛生管理の不備は先進国でも起こっている。
「第15章 核(原子力)の軍事利用と民事利用」では、核の軍事利用と民事利用の交錯的関係について論じた。軍事や戦争の不在を平和と等値できないので、「平和利用」でなく「民事利用」とした。また旧ソ連の原発のような国営部門も重要なので「商業利用」という表現は用いなかった。ここでいう「民事利用」とはすなわち「非軍事利用」のことである。原子力潜水艦の応用として原発をつくるなど、軍事利用と民事利用の密接な関係を検討した。また、そもそも日本の原発導入は、第五福竜丸事件の補償を要求しない(見舞金で我慢する)、米国の核実験に反対しない、などを代償として行われたものである。核の軍事利用と民事利用の共通の出発点はウラン鉱山であるが、核開発の各段階のなかでウラン鉱山は放射線被曝がとくに多い労働現場のひとつである。世界で「プルトニウム大量利用政策」をとっているのは核兵器保有国と日本だけであり、危険性の問題だけでなく、日本は潜在的核武装能力保持の意図を海外では疑われている。
「第16章 環境学と平和学」では、環境学と平和学の連携について論じた。米国の「対テロ戦争」や「京都議定書離脱」にみられるように、米国を盟主とする集合的帝国主義は、環境や平和に対する脅威となっている。環境学と平和学の連携の必要性は、次のようなことによって示唆される。
① 戦争は最大の環境破壊(環境汚染、自然破壊)である。原爆投下、ベトナム枯葉作戦、絨毯爆撃、劣化ウラン兵器などがその典型である。
② 先進国の大量浪費社会、南北格差という構造的暴力を維持するために軍事介入がなされる。
③ 先進国の大企業の投資や利益を守るために軍事介入がなされる。
④ 軍事占領によって資源の不公平分配がなされる。イスラエルとパレスチナの水問題はその典型である。
⑤ 乏しくなっていく資源をめぐる武力紛争が発展途上国間や内戦という形でも起こりうる。
⑥ 戦争がないときでも軍事基地、車両、航空機、艦船などが日常的に環境汚染をもたらす。軍用車両、航空機、艦船は燃費が悪いので資源浪費を加速する。
⑦ 有害物質規制などで軍事利用と民事利用の二重基準がある。発癌物質プロピレンオキサイドを例にとれば、民事利用では排出を厳しく規制されるが、燃料気化爆弾としての大量排出は許容される。劣化ウランなども同様である。
⑧ 軍事利用の民事転用(原子力潜水艦から原発へなど)や民事利用の軍事転用(枯葉作戦での農薬利用など)が大きな役割を果たしている。ビキニ被爆者を「人柱」として原発技術は導入された。
⑨ 科学者技術者、研究資金などが軍事に動員され、環境や福祉への資源配分が少なくなる。
「第17章 暴力の文化と平和の文化」では、ギデンズの「近代社会の4つの制度特性」の観点から現代社会の特徴とあるべき変革の方向を整理した。あわせて、大量消費による豊かさを志向する「開発主義」から、自然生態系のなかでの人間社会の維持再生産を基本とする「サブシステンス志向(横山正樹らの言う「平和パラダイム」)への転換について考察した。さらに、暴力の文化と平和の文化を考える基本資料のひとつとしての「暴力についてのセビリヤ声明」を紹介した。 
「第18章 民主主義と権威主義」では、環境学と平和学の視点から反システム運動の要件を考えるうえでの論点のひとつとして、「民主主義と権威主義」について検討した。あわせて、「民主主義と権威主義」の二項対比よりもむしろ「デモクラシー、プルトクラシー、オートクラシー」の三項対比に改めて注目する必要性について論じた。
「第19章 「環境破壊と戦争の世紀」から「環境保全と平和の世紀」へ」では、史的システムの危機(次の史的システムへの転換)の時代において、新たなる「抑圧的システム」ではなく、「より公平なシステム」を求める「グローバル正義運動」について簡潔に論じた。
「第20章 おわりに」では、今後の課題と展望について述べた。

3.まとめと今後の課題

20世紀の石油文明は浪費と貧困が並存する「戦争と環境破壊の世紀」を作り出したが、これが21世紀初頭において「末期症状」を呈していると言える。「石油ピーク」と「地球環境危機」は浪費的石油文明の終焉を示唆しており、浪費文明を維持するための「予防戦争」さえ発動されるに至った。史的システムの転換と分岐(次の史的システムは未決定であり、複数の選択肢がある)の時代において、「平和と環境保全への世紀」を構築するために、ガルトゥング平和学および世界システム論の基礎として、環境学と平和学の視点からのアプローチが不可欠である。本論文では、そのための予備的な検討を行った。
今後の課題としては、
1) 長年の課題である煙草問題を麻薬問題との比較研究を通じて深める
2) 水俣病などを事例とした「環境問題の社会学」を科学史、平和学の視点を取り入れながら本論文の9章の延長で深めていく。
3) 持続可能な社会における食料とエネルギーなどの問題を事例とした「環境共存の社会学」を深めていく
4) ガルトゥング平和学および世界システム論(特にウォーラーステインとテイラー)の視点からの総合的な理論的考察を深めていく
5) 本論文でとりあげたその他の諸課題をさらに追究する
などがあげられる。

このページの一番上へ